(※『ハロウィンの花嫁』ネタバレ)




「結婚式は予定どおり行うこと。もし中止した場合、より多くの犠牲者が出ることになるだろう」――発信元を辿られぬよう、念入りに細工したメールを送信する。
やれやれ、パソコン仕事はこんなところか。
凝り固まった肩や背筋をほぐそうと、ぐっと伸びをする。
体重を受けてデスクチェアが、ぎぎ、と安っぽい音を立てて軋んだ。
どうせ近々、このチェアごと吹っ飛ばす予定のアジトだ。
今更わざわざ高価なものを準備するまでもなかったが、日がなじっと座っていると、付けられた値にはそれ相応のエフェクトがあるのだと痛感させられる。

立ち上がりながら、傍らのマグカップを覗き込む。
冷えたコーヒーは、淹れたてだったときとこれが本当に同じものかと疑いたくなるほど不味そうだ。
喉を水分が通る感覚のためだけに嚥下すると、果たして増した苦味と雑味に、思わず顔をしかめた。

主人は、ホテルの豪華なアフタヌーンティーでも楽しんでいる頃だろうか。
「いいなあ」とひとり呟いた。

――取り立てて必要ではないけれど、いないよりはマシ。
それがわたしである。
もう少し高望みしたいところではあったけれど、この程度のポジションを獲得するまでどれだけ大変だったことか。
当初、あのひとからの評価なんて「存在を認識してやる必要もない」レベルだったことを顧みれば、大した出世である。
しみじみと溜め息のひとつやふたつ吐いてしまうのも致し方ない。

今回の「仕事」――これは彼女自身の本分によるものであって、厳密にいえばビジネスではなかったが――、平身低頭して「わたしもどうかお連れください!」と押し切った手前、少しくらいはお役に立てるところを見せなければ。
なにしろ仕事の従前も後来も度外視して臨んだ、「復讐」だ。
彼女が顔や名前を変え、あまつさえわざわざあんなつまらない男の婚約者にまでなったのも、すべては邪魔者を排除するため。
そして、三年前の雪辱を果たすためだ。
三年前に負傷した際、多少の医療技術を持ち合わせ、その間の小間使いとして利用でき、そしていつでも殺せるから――と、気まぐれとはいえ採用してくださったのは、わたしにとって幸運だったと言わざるを得まい。

名にし負う孤高の「プラーミャ」は、度を超えた完璧主義でいらっしゃる。
行動原理はすべて独自の美学に則っている。
あのひとにとってなにより大事なのは、己れの矜持。
昼の雑居ビルでの爆破も、わたしが担ったのは爆弾の設置場所の選定だけだ。
あれだけ烏合の衆に満ち満ちた渋谷も、繁華街から少々離れれば、目撃者を消す労を取らずに済むような巷路こうじには事欠かない。
かつ、子どもの足で難なく辿り着ける範囲内で、とのご指定だったが――条件をクリアするのはさして難しくはなかった。
どの大都市にもこういう、入り組んだ路地裏や打ち捨てられた廃ビルは存在する。

とはいえ仮にわたしがおらずとも、おひとりで容易くすべてやってのけただろうが。
人気ひとけの多寡、消防署の位置、そしてその地域における通報から到着までのタイム――それら要素を綿密に勘案してこそ、完璧な爆破が成し遂げられる。
わたしは「プラーミャ」の爆弾には指一本ふれたこともなく、未だその構造を知り及ぶことすらできない。
しかしその端の端といえど関わることができる時点で、助手とまではいかないものの、重要なポジションであることに変わりはない。
なにしろ計画を知る人数を増やせば増やすだけ、リスクも跳ね上がるのは必定。
にもかかわらず、わたしがいまこうして計画に必要なメールを送っているのも――爆破のための段取りを担えているのも、つまり、そういうことだ。
必要に応じて、自らの顔や名前をも即座に捨てるひとだ。
もしも切り捨てられたら、年単位で行方をくらまされたとしても不思議ではない。
ハジャーイカと呼べば、大層不機嫌そうに「私は誰の主人にもなった覚えはないんだがね、なまえ」と吐き捨てられるものの、それでもおそばに置いてくださっているだけで、わたしの存在意義は自明である。

「……そろそろ時間かな」

腕時計を見下ろし、ひとり呟く。
あとは納入させたハロウィンの飾り付け――ランタンのチェックを残すばかり。
奇しくも結婚式当日はハロウィン。
あのひとの、花嫁という「仮装」にはぴったりだったかもしれない。
爆弾の設置にお祭りの装飾物デコレーションを利用するとは、「プラーミャ」はなかなかの皮肉屋だ。

わたしは当日、ヘリコプターのパイロットを排除して入れ替わる。
そして、渋谷ヒカリエの屋上でお待ちの彼女を塔の天辺からお救いするのだ。
差し詰めわたしの仮装は操縦員か。
花嫁姿の彼女には到底釣り合わないけれど、プラーミャ最高の「仕事」を特等席で観覧できるのだから文句はこれっぽっちもない。

十月三十一日、忌々しい「ナーダ・ウニチトージティ」の奴らが――偽りの婚約者共々、炎に包まれるのを想像して、思わず唇が吊り上がる。
最後に見るのが、美しいあのひとの花嫁姿なのだから、あの愚昧な男には、心底光栄だと思ってほしいものだ。
ハニートラップなんて、まさかそこまですることはないと主張したが、聞き入れてもらえるはずもなかった。
言うまでもなく、こと爆破に関して手を抜くことなど皆無なひとだ。
それが最善だったんだろう。

「……あなたがそこまでする必要はないでしょう」
「はッ、あの男も、同じくらいの時期に右肩を負傷している。隠れ蓑に丁度良いだろうさ。なにより日本の警察に顔が利くんだ。使わない手はないだろう」

せいぜい良い夢を見させてやるさ、と嘲弄ちょうろうする姿はふるえるほどに酷薄で、思わず溜め息をついてしまうほどに美しかった。

それでもあんな唐変木にしなを作って寄り添う彼女を見た途端、わたしの胸の内に渦巻いたのは、耐え難い嫉妬の炎だった。
強い感情の昂りを火にたとえるように、ひとの情動は本来たぎるような炎である。
そしてその横溢おういつする情動を生み出すあのひとは、まるでわたしたちを造りたもう神様。

「……わたしの、炎」

ああ、なんて甘い響きだろう。
音で愛撫ができるなら、いまのわたしの声こそまさにそうだった。
恍惚にふるえる声でひとり呟けば、爛れんばかりの歓喜が血液のように体の隅々まで巡り、爪先まで炎を孕むよう。
燎原りょうげんの火を背負った、傲慢に吊り上がる薄い唇に、わたしは一目で恋に落ちた。
幼い頃、憎き家族を殺してくれた「プラーミャ」は、あれからずっとわたしの神様である。

「炎」の語に「わたしのмоё」と冠することを許されているのは、この世でただわたしひとりだけだ。
わたしの口が、わたしの声帯が、わたしの声が、「わたしの炎」と音をつくる喜びを、果たしてこの世界でどれだけの人間が知っているというのか。
あまねく自慢して知らしめたい気持ちと、たとい蠅一匹たりとも教えてやるものかと秘密にしていたい気持ちとが、相反して渦巻いて狂おしい心地すらする。
こんな愚かなことを考えているなんて露呈しようものなら、きっと心底馬鹿にした目で睨みつけられるのだろうけれど。
――もちろん、彼女が「моё」を許可してくれた訳ではなく、あまりのしつこさに辟易しただけだという事実は、この際、目をつぶろう。

――日本にも長くいた。
引退間際との噂を流したとはいえ、長期間、音信不通ともなれば別の厄介事が起こりかねないとあって、「プラーミャ」の代わりにクライアント等と連絡を取り合ったり、細々とした雑事を片付けたりするために、わたしはしばしば出入国していた。
しかしなんだかゴミゴミとした東京に長くいすぎたせいか、肺まで薄汚れてしまったような気がする。
さっさと肺腑の奥底まで凍らす空気になぶられ、氷片をひとつ浮かべたウォトカをあおりたい。

人間が燃焼する独特の臭気が待ち遠しい。
狭隘なくせに塵芥ちりあくたばかり大量にうごめく渋谷の街は、きっと見違えるほどさっぱりとした、光炎ひらめく更地となるだろう。
燃え盛る炎はすべてを無に帰す。
老いも若きも、善なるものも悪なるものも、平等に。

そしてわたしは、ご主人と遊覧飛行と洒落込もう。
地獄の釜が開いたさまを体現する地上は――上空で見る「пламя」は、きっと比類なく美しいに相違ない。


(2022.04.21)
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