(※『ハロウィンの花嫁』ネタバレ)




屋敷の一角、家の南側の森を眺められる父の書斎は、日当たりも良く、最も居心地の良い場所にしつらえてあったのに、主人が不在となって久しく、加えて人手が足りないものだから、逐年ほこりが分厚く積もる陋巷ろうこうに成り果ててしまった。
一日で片付けてしまうのは到底無理で、今日はこの部分を、明日はこちらを、と区画を決めて取り掛かっているものの、生活の大半を片付けだけに費やす訳にもいかない。
わたしだって薄々気付いている――この調子だと、たとえ片付けを終えたとしても、はじめの頃に着手したところはすっかり元通りになっているに違いないと。
いまの惨状を目の当たりにしたら、きれい好きの母はきっと卒倒してしまうだろう。
もし自分の家を新たに造るときには、もっと手入れのしやすい、こじんまりしたものを建てなきゃ。
わたしは至極真剣だったのに、それを聞いたドミトリーが「どうせ金持ちのお嬢さんが言う“こじんまり”って、寝室やバスルームは二つ以内でとか、そういうレベルのやつだろ」とひとの悪い顔で笑っていたのを覚えている。

わたしたちが直接顔を合わせることは稀だった。
素性も知れない老若男女が頻繁に出入りしては、親族と呼ばれるひとたちや、数少なくなってしまった使用人たちに怪しまれる、というのがその理由だった。
理路整然と説いたリーダーは、それでも極めて珍しく、きかんきな妹をなだめるように「この部屋なら人目に付かないだろう。私や、使いの者をここへ寄越すと約束する」とほこりだらけの父の書斎を指して言ってくれた。
余程、心細そうな顔していたのだろうか。
仕方がないことだったと思いたい。
もう既にそのとき、わたしが真っすぐに目を見たり、心からの思いを吐露できる相手は、エレニカをはじめ、「ナーダ・ウニチトージティ」のメンバーばかりになっていたから。

プラーミャと呼称される殺人鬼に父母を殺されたのは、わたしが十一年生を修了して、音楽院に入る直前のことだった。
両親の乗った車は、運転手もろとも業火に包まれた。
目撃した通行人曰く、一瞬で燃え上がったという車両からは、最早ひとの形を保っていない炭だけが寄越された。
葬儀を終えて、禿鷹のような親族共に家財道具や重世の貴金属などを奪われ、残されたのはひとりで住むには広すぎる屋敷と、「価値がない」と判断されたものたちばかり。
それにはわたし自身も含まれていた。
奴らにとって無価値だったもの――例えば父の年季が入ったミアシャムのパイプだったり、母自ら「手慰み程度のものだから」とへりくだっていた見事な素描画だったりは、幸いほとんど手付かずのまま残された。

世間知らずな「金持ちのお嬢さん」だったわたしは、両親が残してくれた会社の経営権だったり土地の所有権だったりを、言葉巧みに奪われた。
いろんなものを奪われ、かじられたチーズのように穴だらけになってしまったわたしに、それでも両親は生きるだけには困らない――いいや、「復讐」してあまりある貨財を遺してくれた。
そう、わたしには「選択肢」があったのだ。
すべてを忘れ、親族共の顔色を窺って細々と死んだようにながらえるか、あるいは、「彼ら」と共に死すら恐れず生きていくか。

プラーミャによる犠牲者は、両親のような大きな会社の経営者や政治家が多く含まれていた。
そのため、確固たる主義や思想、理念などによるものかと思えば、どんな利益を得られたのかすら判然としない、なにを目的としているのか不明瞭な事件も引き起こされていた。
プラーミャの目的が、単純に金銭だったなら容易だった。
大金を差し出し、依頼をするように見せかけて現場に現れた奴を確保すれば良いのだから。
しかしそんなわたしたちを嘲笑うように、奴は世界各地で殺人を重ねていった。
いまのところ、奴の爆破を阻止できたためしはない。
行動理念から理解、把握しなければ、後手にばかり回ってしまう。
奴の息の根を止めるには必要とはいえ、憎悪しているものを理解しようとする行為は、思いの外わたしたちを疲弊させた。

ラザレフ兄弟をはじめ、他のメンバーのように体術に優れているでもなく、銃の扱いに長けてもいないわたしは、金銭面での協力を願い出た。
両親の遺産を基に、名義だけの会社やその子会社を複数設立し、そこを隠れ蓑にして「ナーダ・ウニチトージティ」へ資金を流すことなら、わたしにもできたからだ。
どうやって生きていれば良いのかなにも分からなかったわたしに、「ナーダ・ウニチトージティ」は――エレニカたちは、真っ直ぐその地へ足を着けるような心地を与えてくれた。
両親が亡くなって以来、対岸の出来事のようにすべて流れていく世界で、はっきりと「いま生きている」ことを知らしめてくれたのは、エレニカたちだった。
彼らのためになにかしたいという思いが、わたしに力をくれた。
わたしにとって「ナーダ・ウニチトージティ」は、彼らを率いるエレニカは、生きる指針、あるいは理由といっても過言ではなかった。
なんのために生きるか、人生においてなにに価値を置くか、それらはわたし自身が決めることだ。
――家族を失い、遺されたものを奪われ、生まれて初めてわたしが自ら決めたのは、陰ながら「ナーダ・ウニチトージティ」の一員となることだった。

「どうしてエレニカはあんなに強くいられるのかしら」

いつだったか、そう呟いたとき、彼女の兄であるオレグが打ち明けてくれたことがある。
スポンサーとの定期連絡と銘打って、単純にわたしの顔を見にきてくれた折のことだった。
彼は屋敷に残っていた、安物のグラスを揺らしていた。
ウォトカをあおり、どこか遠いところを見晴みはるかすような眼差しで。
――ほこりっぽい父の書斎で相対していたからだろうか。
その横顔は、どうしてだろう、髪や目の色、年齢も、顔立ちだって(彼自身ちょっとだけ気にしているようだったけれど、オレグは初対面のどんなひとにも好かれるとは言い難い人相をしていた)まったく違うのに、少しだけ父を思い起こさせた。

「なまえ、あんたが思うほどエレニカは強くはないさ。家族を無くしたときは、そりゃ酷いもんだった。希望も失って、義弟や甥っ子の跡を追おうとしてた時期もある」

わたしはとても驚いた。
いまの彼女の姿からは、到底想像できなかったから。

「じゃあ、どうして……いまはあんなふうに、前を向けるの」
「“前”か……。あんたにゃあれがそう見えるのか」

は、とオレグは笑った。
いいや、本当に笑っていたのだろうか。
口は弧を描いていたけれど、それは到底「笑顔」とはいえないものだった。
割れやしないか心配になるほどグラスをきつく握り締め、オレグは空っぽの底を睨みつけた。

「そうだな。“強くいられる”――彼女を動かしているものがあるとすりゃ、それは怒りだ」
「怒り?」
「ああ。家族を奪われた怒り。どうして死ななきゃならなかったのか、理解できない怒り。殺人犯を捕まえるのに、本腰入れずにのうのうとのさばってやがる警察や、国への怒り。そして――家族のところにいられなかった自分への怒り。……それは、なまえ、あんたの目にはないものでもある」

婉曲的な表現に、わたしは首を傾げることしかできなかった。
彼がなにを言っているのか、理解できなかったから。
そんな愚かな――甘ったれたわたしを、オレグは笑って許してくれた。
けれど、いまなら分かる。
わたし自身すら気付いていなかった「甘え」を、オレグはきちんと見抜いていたのだ。
彼やエレニカが持ちうる、己れすら焼くような「怒り」を、わたしは持ち得ないということを。

「エレニカと、そう呼んでほしい。同志たちはそう呼ぶ。なまえ、あなたは同志だ」

真っ直ぐ射抜くような視線は、終生わたしの胸へうがたれた杭のようだった。
エレニカと初めて会ったのは、まだ両親の葬儀を終えたばかりの頃。
家族の思い出が詰まった家財道具や絵画、いろんな所有物や権利が、嵐のように巻き上げられていった直後のことだった。

やわらかそうなペールゴールデンロッドが揺れるさまは、まるで極寒の日々を破り、春が来たことを告げる朝日のよう。
エレニカは、そのティールの瞳より、先に目を引くのが痛ましい左目の火傷痕であることが不思議なほど、強い眼差しをしていた。
元は大層美しかっただろう白肌が、ぼこぼこと醜いおうとつを刻んでいるのが、まったく関係のないわたしですら惜しくなるほどだった。

父母が死に、わたしが当事者であるにもかかわらず、すべてが靄がかったように粛々と、淡々と過ぎてゆく日々のなかで、彼女のティールの瞳だけが鮮烈だった。
エレニカに見つめられて、わたしはようやく目が覚めたようにまばたきした。
そうして両親が死んだことをはっきりと理解して、訃報を受けてから初めて泣き崩れた。
そんなわたしに、彼女は安易な慰めも抱擁もくれなかったけれど、ただ無言で立ってくれていた。

彼女の役に立ちたいと思って、なにが悪いというのだろう。
しかし、そうして活動を続けてきた折、偶然、その場にいた警察官を殺めてしまう事故が起こった。
もちろん、計画にはその人物の殺害など含まれていなかった。
資金提供者であるわたしは詳細を知らされなかったけれど、プラーミャを追っている最中、ゆくりなく鉢合わせた警察官が銃を向けてきたのだという。
「撃たなきゃ俺たちが撃たれてた」。
グリゴーリーはそう言っていた。

不運――そう、不運だ。
わたしたちはあの卑劣な殺人者と違って、誰かを積極的に傷付けたり害したりする意思はない。
むしろこれ以上奴の被害者を出すまいと懸命に活動しているひとたちの集まりだ。
すべての原因は、わたしたちの人生を歪めてしまったプラーミャに他ならない。
奴こそが、諸悪の根源。
もし殺めてしまったそのひとに家族や大切なひとが遺されてしまったなら、わたしたち「ナーダ・ウニチトージティ」ではなく「プラーミャ」を恨んでほしい。
――そう、「わたし」ではなく。

そこまで考えが至ったとき、わたしは自分の愚かさと狡さに、なにかがひび割れるような心地がした。
暗い穴へ真っ逆さまに落ちてしまったかのように上下左右が分からなくなり、思わず膝を折った。
絨毯に手を着いて初めて、自分の体がふるえていることに気付いた。
わたしは決めたと思っていたけれど、なにも決めていなかった。
甘ったれたわたしは、なんの覚悟もなかったのだ。

怖かった。
恨まれるのが。
憎まれるのが。
「復讐」はわたしたちを繋いだ。
エレニカは、夫と息子を奪われた憎しみを、悲しみを、怒りを、果たすため。
わたしは、生きる理由のために。
復讐の連鎖という陳腐なフレーズは知っていたけれど、わたしたちのせいで、同じ思いをするひとが生じるとは考えたこともなかった。
――いいや、考えないように目を背けていただけなのだろうか。
怯えたわたしが、もしもこの復讐から下りたいと打ち明けたなら、きっと彼女は許してくれるだろう。
ほんの少し寂寥を含んだ目で、それでもきっぱりと「我々は無理強いはしない。なまえ、いままで世話になった」と。
脱落していった他のメンバーたちと同じように、敬意をもって。

それでもわたしはその甘さを露呈することを拒んだ。
安全な場所から、資金を供給し続けた。
こんな生半可な覚悟で、不純な動機で、「ナーダ・ウニチトージティ」に居続けるメンバーは、わたしひとりきりに違いない。
怖かった。
彼女たちから離れるのが。
彼女たちから不必要とされるのが。
彼女たちは――すべてなくしたと思ったわたしの、生きる理由だったから。

「……日本へ行くの?」
「ああ。このチャンスを逃すことはできない。このまま引退して行方をくらまされでもしたら、奴の喉元へ一生手が届かないかもしれない。オレグが入手した情報の確度は極めて高いんだ」
「そう……どうか、気を付けて。航空機の手配はこちらでするわ」

わたしの胸を刺し貫いた強い眼差しが、決然と頷く。
美しいティールの瞳。
その瞳が映しているのは、やはり「怒り」だった。

みんな無事に帰ってきてね、とは言えなかった。
エレニカもオレグも、ドミトリーたちも、セルゲイも、みんな、みんな、覚悟していた。
奴の息の根を止めるためには、どんな傷を負っても――どんな犠牲を払っても厭わないと。

ひとりきりになった父の書斎で、わたしは片付けをしていた。
古くて劣化してしまった書物を、処分依頼するためのスペースへ選り分ける。
貴重なものは寄付したりオークションに出したりすべきだっただろうが、その手間よりもわたしは焼却処分してしまうことを選んだ。

無事を祈るどころか、わたしには彼女の復讐を止める権利はない。
エレニカたちの復讐を、わたしは後押ししかしてこなかった。
むしろ金銭ばかりを供給して自分はのうのうと銃後に控えていることに、負い目すら感じていた。
こんなわたしが、彼らを――エレニカを救うなんて、おこがましいにも程がある。

もしエレニカの復讐を阻める、――彼女へ救いの手を差し伸べられるひとが現れたなら。
そのときはどうか、彼女を抱き締めてあげてほしい。


(2022.04.16)
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