ベッドは四本の柱で支えられた天蓋が付いていた。
半透明の白布がベールのように垂れ下がり、寝台の中の様子まで覗うことはできなかった。
紅閨こうけいを侵すつもりは毛頭ないとはいえ、開放的なヴィラにはなにしろ扉がなかった。

太陽の光をたっぷり取り込むために窓枠は大きく取られていたものの、生憎の悪天候により、朝のうちにもかかわらずねやは薄暗かった。
しかしそれでも寝台がへいとして感じられたのは、翠帳すいちょう越しの女の妙相シルエットがゆめ幻のようにうつくしかったためか。
この世のものならざる白い指がやおら薄いとばりを掻き分けて、すっと隙間から覗いた瞬間、目の当たりにしてしまった男は我知らずはっと息を呑んだほどだった。

なまえは寝乱れた黒髪を撫ですきながら寝ぼけまなこで「おはよう」と囁いた。
楚々とした容貌を眠たげにしょぼつかせるさまはひたすらにいとけなく、平生「金糸雀カナリア」として完璧に存する「大姐」の取り繕っていない姿態は、彼から言葉を奪うには十二分だった。
もしも彼女の「……あら、もうこんな時間?」と戸惑いも露わな独り言がなければ、神の啓示しるしか、悪魔の戯弄からかいかわからぬまま、魂を抜かれたかのようにぼんやりと立ち尽くしていたに違いない。
ふと嗅覚が捉えたのはかすかな煙草の香りだった。

「――っ、大姐、失礼しました、まだお休みだったとは知らず」
「ああ、気にしないで。いつもは起きている時間だものね。昨日、夜更ししちゃって……もう、こんな自堕落な生活に慣れちゃったらどうしよう」
「俺も同じこと思ってますよ。そろそろ撃鉄の起こし方どころか、怒鳴り方すら忘れちまいそうだ」
「あらあら」

くすくす笑いながら「せっかくだもの。もうすこし自堕落を楽しんでいるわ。声をかけるまで構わなくて結構よ」と言うなまえに従い、足早に階下へ降りた。
寝室にうっすら漂っていた煙草の香りのことは、すっかり脳裏から消え去っていた。

部下たちが連れ立ってヴィラから出ていった物音を聞くともなしに耳にして、なまえははっと息をついた。
言わずもがな「夜更し」など嘘だった。
途切れ途切れの浅い眠りのせいで意識が曖昧だった。
ぼんやりと外を眺めれば窓の向こうは相変わらずの天候である。
大粒の雨雫が熱帯のつららじみて軒から垂れ下がっている。
垂れ込めた陰鬱な雲はなんとなくひとの心を脅かすようで、雨の紗幕スクリーンの向こうで、射る雨粒が庭の木々の花をいまにも折らんと揺らしていた。

「……花の色が移り変わってしまいそう、こんなに長雨がふっていると……」

短時間とはいえ日々続く秋霖しゅうりんのせいだろうか、じんわりと熱っぽい頭痛がした。
いたずらに独りち、広いベッドから這い出た。
寝間着であるキャミソールワンピースの上に薄いガウンを羽織り、淡く眉をひそめた。
シーツをさらさらとなぞる衣擦れのやわらかい音が妙に耳に障った。
下りかけた寝台へまた戻り、行儀悪くごろりと寝転がった。
動いていないせいだろう、さっぱり空腹を覚えず、それよりも立ち上がる億劫さがまさった。
ベッドサイドの灰皿にすぐに火の消えたらしい煙草がほとんど長さを保ったまま落ちていて、苦笑した。

その横で、目に付くよう置いていたプラスチックフィルムの錠剤シートがそろそろ時間だと急かしている。
一日に一度、決まった時間に服用しているヒートシールされたごくちいさな錠は、二十一粒、整然と並んでいた。
無機質な銀色のプラスチックフィルムが放つのは、長閑な寝室で一際異質な輝きだった。
自然な流れで拾おうとしてふとなまえの手が止まった。
「飲まなきゃいけないかしら」と、くだらない自己憐憫が怠惰の顔をして囁いた――一体、なんのために・・・・・・? と。
十代の頃から欠かさず内服している薬はとっくに生活の一部、習慣と化していて、その意味も意義も今更考えることなどなかったというのに。

アタラクシアなんぞ馬鹿げた理想はあるいはこのような場所だったかもしれない。
ベッドの上にはなにもなく、なにもかもがあった。
目を閉じると重怠い微睡まどろみに引き寄せられ、徒消としょうの今生を肯定されているような気がした。






夕食の時間になってようやく姿を現した女主人へ、部下たちは体調が優れないのかと尋ねた。
しかし平素とちっとも変わらない笑顔で「気にしないで、そう珍しいことではないの。普段から――あちらでも似たような過ごし方をしているのよ」となまえ本人から言いくくめられ、彼らはそれ以上の追求を諦めた。
弁明の真偽を確かめるすべはなく、ただ頷くことしかできなかった。

――日が沈む。
生まれてこの方、日が沈まなかった日はないはずだが、薄明の佳景はまるで初めて目の当たりにしたかのような心地になるほど見事だった。
島に来て二週間近く経とうとしていたが、雨風に邪魔されない日没が初めてなのは事実ではあった。

赤道に近いせいで、ここ一帯では夕暮れ時という折はほんの一瞬だ。
太陽が傾くそのときまで真昼のように日照は強く、直後、スイッチを押したように夜に切り替わる。
須臾しゅゆの落陽に射られた海原は黄金こがねに輝き、昼過ぎのスコールが嘘のように凪いでいた。
鮮烈な斜陽はそれでも白昼よりはやや和らぎ、サンハットや日傘なしで心地良く感じられ、なまえはサンドレス一枚という軽装で外へ出た。

嵐の間どこにいたのだろうか、喞々しょくしょくとしきりに鳴く虫たちの間を縫い、ずっと室内から眺めるばかりだった庭を歩いた。
雨後、香りを濃くした土と草が心地好かった。
時期の遅いプルメリアの白い花がプールに落ちて水面みなもでゆらゆら揺れ、踊っているようだった。
やや急勾配の坂道を下り、プライベートビーチにひとり出たなまえは、渺々びょうびょうたる海に辿り着いた。
砂浜は打ち上げられた流木や漂着ゴミがいびつな線を描いており、うねる波の縁取りのようにも見えた。
そのラインより海洋側は穏やかな砂漣されんを刻んでいる。
打ち寄せられた瓦礫の線を超えたところで、おもむろに彼女は履いていたサムループ・サンダルを脱ぎ置いた。
湿って色を濃くした砂を素足で踏み締めた。
足の沈んだ砂浜は、表面は既に冷えていたものの、中はまだいくらか昼の余温ほとぼりが残っていた。

単調な徒波あだなみに誘われるように海へ足を踏み入れた。
ビーチはやや遠浅で、水はなまえのペディキュアの色まではっきり視認できるほど澄んでいた。
いまはなまえが独り占めしていたが、ホテルの開くハイ・シーズンには行楽客でいっぱいになるのだろう。
目を閉じて雑踏を想像してみたが、聞こえるのは穏やかな波の音ばかりとあって想像するのはすこし難しかった。

濡れた砂が重く素足に絡むものの、水は冷たく、気持ちがいい。
膝の辺りまで進んだところで、服が濡れないようにたくし上げた。
雨季だからと見くびらず、やはり水着を持参すべきだっただろうか――とはいえ飼い主が不在のところで肌を露わにするのは――だのなんだの、躊躇を捨てきれなかった。
いまは「別れて」いるのだからそんな思慮なんぞ不要だったにもかかわらずだ。
水に浸かっているのはほんの数十センチにもかかわらず、ともすれば足を取られそうになった。
それほど寄せては返す波の力は強かった。

夜が海へ流れ込んだ。
世界のすべてが息を凝らして、日が落ちる刹那を注視していた。
ワンピースの裾を握ったままぼんやり海と落日とを眺めていると、なまえは悲しくなってしまった――眼前の光景があまりにもうつくしかったものだから。

うつくしいものを見て心を動かされたとき「あのひとにも見せたい」「あのひとと一緒に見たい」と思うのは罪だろうか。
好ましいと思ったものを、恋うるひとと共有したいと欲するのは、どこから湧いてくる情動なのだろうか?
いまこの瞬間・・・・・・、二度と戻らないうつくしい眺望を二度と戻らないいまのなまえと共にしてほしいと。
どれほどの日数が残されているか掻暮かいくれ見当も付かないが、残りの人生において、今日が――いまこの瞬間が、最も若齢じゃくれいであることを彼女は知っていた。

おのれの情動を共有したいと思う相手はなまえにはひとりしかいなかった。
彼にとってのそんな存在になりたいと望んでしまう途方もない強い欲をどうか捨て果てることができたならと、願わずにはいられない折節は一時いっときもなかった。

宵の口、いま主は誰となにかを共有しているだろうか。
たとえばそれは煙草の香りだったり、酒の味だったり、もしかしたら肌の熱だったりするかもしれない。
いまのところ・・・・・・最も彼のそばにいる女はなまえである。
「恋する者は、狂った者同様、頭が煮えたぎり、冷静な理性には理解しがたいありもしないものを想像する」――比較して順位づけするなど無意味だと、愚か極まりないと知っていた。
しかし理解はしていても、事実と感情は異なった。
否応なしに湧いてくる欲ばかりはどうにもならなかった。

恋という欲を思考や理性で御すことができたら、なんら苦労はなかった。
しかしながらなまえにとって恋心ほど手に負えないものはなかった。
彼の一挙手一投足に、舞い上がったり、落ち込んだり、一喜一憂している馬鹿な自分を、客観視するだけの理性が残っているのは不幸なことだろうか。
懸命に考えないように努めてみても、ふと気付くとまた張のことで思考を占めているおのれに気付いて苦笑する数は、とうに折る指が足りなかった。

苦しみも、悲しみも、彼相手だからこそ耐えられる――否、その苦患くげんすらをもいとおしく思えた。
あれはもう十年も前だったか、かつてそばにいたいと欲しつつも、取るに足らない凡百と自覚している彼女が、くだらない恋心にとつおいつ悩んでいた頃のことだ。
居場所がないように感じていたなまえを、飼い主たる男は臆面もなく「俺が選んだ女だろ」と笑い飛ばした。
自分のものを悪く言われて気分が良いわけがないだろうとさとされた過去は、思い返すとやや気恥ずかしいものが込み上がってくる。
あれは幼い子に言い聞かせる口調と眼差しだった。

そう、なまえをおとしめる者はそれがなまえ自身であったとしても、彼は許してくれないのだ。
これを幸福といわずしてなんとする?
「“張維新チャンウァイサンの女”である自分」をなまえはこの上なく大切にしていた。
彼女の生はそれゆえに価値あるものだった。
どんな人間も、おのれの命に価値を与えているものを捨てることはできない。

「Nitimur in vetitum semper cupimusque negata」――濁世、一度手に入れてしまえばひとは必ず飽きてしまう。
決して手に入らないものは憧憬を抱かせ、追い求める喜びと陶酔を与える。
それが人間だ。
しかしながらなまえはとうに張維新チャンウァイサンのものだった。
一日でも長く、好ましく思ってもらえるにはどうしたら良いのかと、いつ飽きられるだろうかとかつては怯えたものだった。
あと幾日経てば、張はなまえに飽きるだろうか、一年も保つだろうか、半年、ひと月、それとも明日? そう怯えていた遠い過去のなまえは、しかしその時間すらも惜しいという答えにおのずから辿り着いた。
――いつ訪れるかわからない暇乞いとまごいをくよくよ恐れるくらいならば、「わたしはここにいていいのかしら」とくだくだ悩むくらいならば、そばにいて恥じないようありたいと、「いまそばにいるのはわたしだ」と胸を張っていまこの瞬間を全力で生きよう、と。
誇り高い「金糸雀カナリア」はそうして月日を経てつくり上げられた。

張維新チャンウァイサンのそばで生きていきたいと欲してから、ずっとなまえはただ「いまこの瞬間」のために生きてきた。
価値のないものにいずれ成り下がる日がくるとしても、幸福を知ったいまはもうそれを知らない無垢な娘には戻れないのだから。
張の掌中で、なまえは朝な夕な幸福だった。
それでなくとも自分のようななんの利もない女を主人がそばに置いてくれるのは、奇跡などとありきたりな空言がぴったりなほど僥倖だった。
いつか飽きられようとも、だからこそ、そばにいられるいまを心からいとおしむ以上に大切なことはない――手を離されるその瞬間まではこの幸福を大事にしていたいと願っていた。

にもかかわらず半月ほど前、ふざけたレクリエーションの開催を告げられた節、なまえは危うく「わたしがいない間、他の誰もおそばに置かないで」なんぞ愚かな懇願をしてしまうところだった。
気を抜くと不安が鎌首をもたげた――もしもいまこの瞬間、なまえのいた場所に、張の隣に「他の誰か」が収まっていたらどうしよう、と。
なまえよりも「他の誰か」に飼い主が満足していないという保証はどこにもない。
しかし愚直に「離れたくない」「ずっとそばにいたい」などと癇癪を起こして、衝動的に責めなじる言葉をぶつけたとして、どうなるだろう。
言わなければ良かったと後々悔いるくらいなら、はじめから口にするべきでない。
一度吐いた言葉は取り消せない。
聞き分けのない幼な子と違ってなまえはそのことをきちんと知っていた。
つまり張維新チャンウァイサンの女として「して良いこと」と「してはいけないこと」について。
しかしそうやってつぐんだ言葉たちが胸のなかですこしずつ堆積していって、重みを増した肉体が徐々に砂底へ沈んでしまいそうだった。

袖が濡れるこいじに自ら下りる愚かしさ、あれやこれやとつまらない物思いに、徒波あだなみに撫でられながら耽っていると、駘蕩たいとうたる空の淵で、熟しきって潰れるように落陽がとうとう沈んだ。
日の光が目蓋に強く残った。
裏腹に波間は既に暗く、夜の海の顔をしていた。

「――大姐、」
「なあに、どうしたの」
「……体が冷えます。中へ」

みぎわに取り残されたサンダルの横で男が立っていた。
岸辺からの呼び声に、ゆっくりと一度だけまばたきをすると、大人しくなまえは首肯した。
ボーンドの男がそうして強面こわもてをしかめていると、一見して距離を取りたくなってしまうほどの凶相だった。

「……知ってますかね。入水はおすすめしません。さらうのがクソ大変なんだ」
「まあ、なんのこと? わたしは水着を持ってきていたら泳げたのになあって考えていたの」

この格好で水遊びするのはちょっとね、と笑いながら、なまえは濡れた足のままサンダルを履いた。
じゃりじゃりと纏わりつく砂が不快ではあったが、ヴィラまでの数十メートル程度のことだ。
そのままシャワーを浴びようかと彼女が考えていると、坂道を上がる折、ふいに砂に足を取られてよろけた。

「っ、すいません、大姐」
「謝らないで、ありがとう。ああ、びっくりした、結構すべるわね……」

ひとにふれるのは数週間ぶりだとどこか感慨深く思いながら、なまえは咄嗟に手を伸ばして助けてくれた部下の腕につかまった。
支えてくれる手は大きく、厚く、しっかりとしていたが、伝わってくるのはなによりも躊躇いがまさった。
緊張で硬くなっている部下の腕に苦笑を禁じえず、なまえはまるで気にしていない素ぶりで「内緒ね。わたしのためにも、あなたのためにも」と囁いた。

「ふふ、あなたもご苦労さま。本当は奥さまとこうしたかったわよね。いつかお連れしてさしあげて」
「いや……まあ、光栄です。寿命が縮みそうだが」
「まあ、そこは伸びる心地って言ってくれないの?」

児戯めいて拗ねてみせるなまえの軽口を笑ってかわし、男は注意深く足を運んだ。
妻帯者であることを直截に伝えたことはなかったはずだが、人選のときに加味されたのか否か、わざわざ尋ねることはなかった。
雨後の入り江、斜面になった砂道はとかく歩きづらかった。
加えて、彼女が履いているサムループ・サンダルは親指を引っ掛けるだけのデザインで、足首や踵に留め具がなくホールド力に難があった。
結局、道標代わりのタイルの並ぶ庭までふたりは手を取って歩いた。
足元を照らすガーデンライトが枝折しおりを示してやわらかい暖光を放っていた。
辺りには虫の鳴き声が相変わらず満ち、夜の海風が吹き抜けていた。

ガゼボが濡れてぴかぴか光っていた。
その横をふたりして通り過ぎたところだった。
慎重に青いタイルに目を落として歩きながら、か細い呟きを漏らしたのはなまえだった。

「あのひと、いま、どなたかとご一緒なのかしら……」

彼女の手を引いていた男は、ともすれば折ってしまいそうな細腕を握ったまま振り向いた。

「……連絡して、誰かに確かめることもできますが」

彼の返答は部下としてなんら問題ないもののはずだった。
が、呻吟しんぎんの主はあたかもその返答に殴られたようにばっと顔を上げた。
見開かれた瞳は一驚いっきょうと混乱を隠せずにいた。

「――大姐?」
「っ、あ……いいえ、いいえ、ちがうの、なんでもないわ。連絡も必要ない。おねがい、忘れて」

滅多にない早口は言い訳するような語調だった。
彼女自身口にするつもりはなかったのだろうと思い至るには、十分なありさまだった。
視線をさまよわせた女の顔は笑ってはいたものの、それはただ唇が弧を描いているというだけでなんの意味もなかった。
横顔から平生の清らかさや淑やかさは見出だせなかった。
まるで自らで上演してしまい、もう中断することができない芝居のせいで、自分がつくづく嫌になっている顔だった。

「……大姐がそうおっしゃるんなら」

男は目をそばめ、いつの間にか止まっていた歩みを再開させた。
笑みと呼ぶにはあまりに無様な顔貌を、それ以上直視しているのは如何いかんともしがたいものがあった。
平生、他の男衆相手だったなら耳の穴でも掻きながら「しゃらくせえ」と一蹴したに違いなかったが、なにしろ街に居着いてよりこの方なかった安逸を貪る日常に、神経が膿むような心地がしていたのだ。
てて加えて、元来こんな湿っぽい空気には慣れていない。
殊更にしかつめらしく唇を引き結ぶと「ここらまで来りゃ大丈夫でしょう」と繋いだ手を離した。

「ま、嫌でも明後日には戻らなきゃならねェんだ。もうすこし辛抱なすってください」
「……なんだかあっという間だったわ。あなたたちともうすこしこうしていたいくらい」
「おや、意外でした。大姐はさっさと大哥のところに戻りたい一心なもんだとばかり」

なまえは「だって、この生活に慣れちゃって」と悪戯っぽく笑った。
小鳥が吐露することはなかった。
正直に「怖いんだもの」とは。
どこからかうっすら声が聞こえた気がした――「もしもいまこの瞬間、なまえのいた場所に、張の隣に他の誰かが収まっていたらどうしよう」。

「タオルを持ってきてくれる? このままお部屋に入るのは気が咎めるもの」
「ああ、ここで待っててください」
「……珍しくいらっしゃらねェと思ったら、大姐、浜に出てたンですか」

禿頭とくとうと入れ替わりに、向こう傷を覗かせた男がなまえへ声をかけた。
どうやらひとりでヴィラの居間パーラーで煙草をくゆらしていたらしい。
「ンな島までいに来たのかテメェ」と小突かれ、なまえの足元へそそくさと跪拝きはいした。

「サンダルも汚れちまったな、洗いましょうか」
「ありがとう。浜辺からの夕日がきれいだったの。雨以外の夕暮れって、わたしたちが来てから初めてじゃない?」
「そういやそう……ですかね? 覚えてねェや」
「だってあなた、大抵この時間は寝ていたものね。お目覚めだなんて、今日はどんな風の吹き回し?」
「いや、大姐……ほら、夜に見回りとかあるもんで、仮眠ってェ必要でしょうよ……」
「あら、雨が降っていたらお休みしているの、わたし、知っていてよ。もうひとつ知っていること自慢をすると、この島に来てから大抵お天気が雨だったのも覚えているわ」

歌うような抑揚をつけて軽口を叩いている女主人の様子に、平素との違いはなんらみられなかった。
言いつけられた通りタオルを取りに行った男はちらりと振り返った。
その目がどこか物言いたげな光を放っていることを、彼自身、自覚していなかっただろう。






微笑は碧落へきらくすらかすむようだった。
雨季、束の間の快晴は、さながら待ち望んだ主人のもとに帰る候鳥こうちょうを祝福しようとでもいうのか。
見慣れた白いワンピースを纏ったなまえは、二週間前となにも変わらない大廈高楼たいかこうろうにて恬然てんぜんおわす主人へ、恭謙きょうけんな所作でこうべを垂れた。

「鳥籠が空の間、ほんのすこしでも小鳥を思い出してくださることがありましたか、旦那さま?」

今生、おのれへのみ奉じられるなまえの笑みを前に、こりゃ大層お怒りだと張維新チャンウァイサンは口の端のジタンへ微苦笑を添えた。

たった半月とはいえ戯れで主から別離を申しつけられていた小鳥は、焦れったくなるほどおっとりと彼の横へ伺候しこうした。
張は隣に座った女の腰をその逞しい腕で引き寄せながら、くゆらす煙草はそのままに鷹揚に唇を吊り上げた。

「ああ。失せてからやっとありがたみに気付くってえ、往生際の悪さに湿っぽさをぶっかけたクソ陳腐なフレーズも、あながち馬鹿にできねえってこった。思いの外、独り寝が堪えたよ」
「まあ、嘘ばっかり。邸へ戻る前に、今一度ハウスキーパーに念入りにお掃除をお願いしてまいります。髪の一本でも見付けたら、なまえ、泣いてしまうもの」

困ったように頬へ繊手せんしゅを当てる媚態はいじらしくはある。
が、なまえの甘えきった恨みつらみは、どこぞの女に入れあげただけではなく、彼女も生活する邸へまで連れ込んでいたと決めてかかるものだ。
居丈高な僻心ひがごころに、張は返答を目を細めるだけに留めた。
なにせ仮に否定してやったところで、どうせ彼女は笑って差措さしおくばかりだろうことは明らかだった。

「“たまには趣向を変えてみるのも”、だったかしら。わざわざ小鳥を排除までなさったんです。期限を半分にしてしまったとはいえ、もちろん、お仕事は万事お済みになったんでしょう?」
「――仕事?」

間髪入れず、というにはいささか間が空いてしまったかもしれない。
それでも表情にたたえた落ち着きを微塵も崩さず「金義潘の白紙扇」と名高き男はのんびりと首を傾げてみせた。

「なんの話だ、なまえ」
「お仕事は終わりましたか――と、そう申しました」

「三合会の金糸雀カナリア」、無謬むびゅうなる白紙扇の所有物たるその女は、高踏こうとう的な微笑のままにべなく答えた。

「旦那さまのことです。小鳥がおそばにいることによって、難のある案件がおありだったのでしょう。だからなまえも甘んじて御許みもとから離れておりました。ご安心を。わたしは委細を存じません。――それにしても、旦那さま、わたしがお邪魔だったのは深謝いたしますけれど……追い出す名分は、もっと他にありませんでしたの?」

典雅ではあれど、つんとおとがいを上げた女の口ぶりは、不遜極まりなかった。
「なにかしら理由がなければ、戯れにも、わたしをおそばから離そうなんてお思いにならないでしょう?」と。

三合会きっての碩学せきがくは、紙巻きを咥えたままはっと紫煙と感嘆とを吐き出した。
口舌くぜりに訂正してやる点はなかった。
白妙の鳴鳥がくちばしれようものなら、少々面倒なことになっていただろうごたごたの顛末てんまつから、手仕舞いにはひと月もかかるまいとの予想に至るまで、すべてが彼女の見立て通りだった。
下部組織に関する厄介事は、加うるにそこに悪名高き「穢れなき処女」に心酔する与太者がいたとなれば頭を悩ませるのは目に見えていた。

麾下きかの手綱さばきに難があるなんぞ、たとい係争地ロアナプラの連中に知れ渡らずに済んだとしても、しんば言葉尻でも捕らえられようものなら、いついかなるとき雁首揃えたホームルームでしかつめらしく上程されるかわかったものではない。
不確定要素も、それを生じさせる誘因も、扱いに困るくらいならばそもはじめから舞台へ上げさせないことにしくはない。
「No rest for the wicked.」、なにしろ始末に負えない衆愚は枚挙にいとまがなく、匆々そうそうたる悪徳の都は考慮なんぞしてくれなかった。

「――やれやれ、ご承知おきとは。さすが“金糸雀カナリア”といったところか。堪らねえな。で、なまえ? そこまで呑み込んでいただいてたのは結構だがね、まだそのり言に、俺は付き合わされるのか?」

小鳥相手に始末書やら報告書やらをわざわざご丁寧に提出してやるべくもない。
輪奐りんかんたる麗しの本国より「四一五」を拝命する男は、我が物顔で引き寄せた柳腰を撫でながらいけしゃあしゃあ鷹揚に微笑んだ。

飄々となんでもないことのように嘯く男に、なまえも「ご安心ください、もう出尽くしました」と肩をすくめた。
慣れ親しんだワンピースの白裾を、きゅっと握り締めた。
憂き世も浮世も馴れて間遠くなるのはなにも男女の仲ばかりではないだろう。
敬慕くあたわざる男の腕に囲われたまま、弧を描いていた桃色の唇が泣くのを堪えるようにふっとほどけた。

「もしもわたしが、あなたを諦めてしまったら・・・・・・・・・・・・……どうなさいましたか、旦那さま」

――益体もない「もしも」とやらを、よくもまあぬけぬけ吹鳴すいめいするもんだ。
そうなじってやる言葉は、しかし音にはならなかった。
それより先んじて脳裏によぎった妙相みょうそうが、ほんの一瞬、彼から言葉を奪ったためだった。
にわかに眼裏まなうらに浮かんだのは、あれはいつだったか、かつて「要らなくなるまで、そばにいさせて」と泣いていた娘の姿だった。
あのときもいまも、引き攣れじみてかすかにふるえた手を自ら咎めるようになまえはてのひらを握り締めていた。

張は咥えた煙草をローテーブルの灰皿へ放った。
あれから両の手指では足りない年月を経ているというのに、この女はなにも変わらないのだ。
「そんなことお前ができるか」と一笑に付すのは容易かったけれども、なかなかどうして心細そうな顔をする飼い鳥が物珍しく、張は満足とも慨嘆ともつかぬ笑みで女の身を抱き上げた。

「そのときはまた躾けなおしか。骨が折れるぜ」
「……なまえは従順なあなたのペットだから、そのお手間はおかけしませんけれど」
「そりゃ助かるよ」

腿の上に抱え上げて真正面から抱きすくめた。
濃墨の髪が指の間からさらりと流れ落ちた。
極上の手ざわりを楽しみながら、ちいさな頭を首元へぐっと押しつけた。
もう片方の手でしっかりと腰を抱いてやれば、一分の隙間なくぴったりと肉体が重なった。
なまえの身体は彼女よりずっと大きな張の体躯にすっぽりと収まってしまう。
抱きすくめた肢体から強張りは徐々に解けていった。

「……っ、わたしのこと、“嘘つきな女だ”って、笑って」

傲慢に綾取あやどられた言葉に反し、囁きは不用意にふれれば砕けてしまいそうなガラス細工めいて頼りなかった。
押しつけられてくぐもった声は求めていた――すべて、すべて、嘘だと笑い飛ばして、と。
飼い主を慕う気持ちが挫けそうになったならという愚かな仮定も、り言を連ねる必要も、――そしてなまえが不在の間、誰かと共にしていたかもしれない朝夕も、すべてが嘘だと。

自分の空想が生んだ虚構うその事実を、唯一無上の天国と信じて命がけで抱き締めてきた彼女の心境を、なまえが求めているものを、寸分たがわず理解していた張維新チャンウァイサンは、しかし求める答えを与えてはやらなかった。
なにしろそうやって自分の横にあるため、懸命に涙を堪えている女のありさまと心延こころばえときたら、この濁世において比類なくうつくしかったもので。

肺を満たす淑やかな白百合、豊かな黒髪へ顔をうずめた。
悪辣極まれり男は嘯いた。
――「ふ、さすが金糸雀カナリアだって褒めてやっただろ? 正す誤りなんぞ、なにひとつないさ」。



(※おまけ)

「護衛に連れてったのは――ああ、あいつら、シュミの合わねえモノってやがる」
「シュミ?」
「煙草だよ。お前に染みついたにおいが気に喰わん」

セリフ通りいかにも不愉快そうに眉を下げる飼い主に、なまえは首を傾げた。
喫煙しない彼女には細かい違いまでわからなかったが、どうやら彼の吸うものとは違う香りが身に残っているようだった。
淑やかな白百合とよく馴染む、薫り高い黒煙草――愛飲している主人にはそれと判ぜるものらしい。
あるいは張維新チャンウァイサンという男がなかんずく明敏というだけかもしれなかったけれども。

「煙草の香りひとつくらいお許しになって」
「そうは言ってもな。自分のものに、他の――あまつさえ、シュミの悪いモノ着けられて、喜べって方が無理だろうよ」
「あなたの戯れの結果です。あの子たちはなにも悪くありません」
「そういつまでも根に持ってくれるなよ、なまえ。お前も端から理解してたんだろ。自分が邪魔だったってことを、な」
「ええ。ですから大人しく旅行に出ておりましたの。滅多にないことで新鮮でした。あの子たちとは映画鑑賞の約束までしましたし」
「おや、なによりだ。鳥籠の外でさんざっぱら羽を伸ばしてきたらしい」
「旦那さまほどでは。……捨てた女が、自分の知らないところでどう過ごしていたかなんて、ふふ、あなた、逐一お気に留めるような度量の方でした?」

くすぐるような揶揄に張は閉口した。
それは等閑視というより、意外にも言い負かされたかの様相だった。
軽口のひとつも寄越してくれない飼い主に、なまえはひるんだように眉をたわめた。
まさか口が過ぎただろうか。
沈黙に耐えかねておずおずと張を見上げた。

「あの、ええと、どうかなさいましたか、旦那さま……?」
「あーいや、やっぱりさかしらな小鳥の囀りが耳に馴染むと思ってな。舌を巻くぜ、さすがのやかましさだ」

サングラス越しの瞳はしみじみとした情感を隠さない。
そこはかとなく感慨深げに溜め息をついている主に、なまえは唇をとがらせた。

「……もっとおやさしい褒め言葉はありませんの」
「せいぜい舞い上がっといてくれ、なまえ。そこらの女じゃ物足りねえってことさ」
「……身にあまるお言葉です、旦那さま。……お気に召さない香りのわたしでも、抱き締めて――あなたの香りに、また染めてくださいますか」
「ふ、喜んで」




(※更におまけ)

「ただいま、彪。お土産がないからって機嫌を損ねないでちょうだいね。オフシーズンだからお店がどこも開いていなかったの。土産話ならいくらか披露できるんだけれど……」
「土産も話も、大姐に要求する奴がいるとお思いで」
「だってあなたには手間をかけたし。さすがの人選だったわ……。わたしと一緒にいて、気が違ってしまうような子たちじゃなくて良かった」
「なに恐ろしいこと言ってンですか」
「恐ろしいなんて。“リスクヘッジ”、もしくは必要な杞憂・・・・・っていうものよ」
「はァ?」
「そばに置く子の選定って意外と難しいの。旦那さまから聞いていない? いつだったかな……何年か前のことよ。わたしの身の回りのお世話や、警護をしてくれていた部下がね、なにを血迷ったのかしら……“こんな世界は似合わない、自分とふたりで逃げよう”って言い出して困ったことがあったの。それもひとりやふたりじゃなくて……。ふふ、おかしい。このご時世、駆け落ちですって。もちろん、旦那さまのおかげで無事だったけれど」
「無事ッて? 誰が?」
「わたし」
「……相手は?」
なんの相手・・・・・? 小鳥はご主人さまのおそば以外、いたい場所なんてないもの。あのときも、いまもね」
「……あんた、大哥から離れンのやめてもらいたいもんだと心底思います」
「奇遇ね、わたしもそう願っていてよ」

「さすがの人選」と称された彪はそれ以上突っ込むことはせず、憐れな部下を輩出せずに済んだ幸運に安堵した。
なまえの言う通り、おそらく「気が違った部下」とやらは、彼女と関わるうちに心を寄せてしまったに違いない――心底馬鹿馬鹿しいことだが。
昨今、簡略化、形骸化しているとはいえ、組織へ属する節には規律を誓わされるものだ。
数多あるうちの三四番「兄弟の妻や情婦との不義密通を禁ずる」――すなわち他構成員のイロに手を出すなという不文律は、三一「組織に忠義を尽くすべし」、二「他の部材メンバーを兄弟として扱わねばならない」といった掟と同じく、遵守されているものも未だ多くある。

飼い主以外の人間に興味のない、悪名高き金糸雀カナリアのことだ。
駆け落ちを持ちかけるどころか、そもそも粉をかけるつもりすら更々なかっただろう。
愚かな部下は勝手にてられ、勝手に懸想し、勝手に自滅していったのだろうが――。

「せめてもの救いは、大姐に自覚があるッてことですかね。これで被害者ヅラでもされた日にゃアその阿呆も浮かばれねェ」
「自覚というより……自重はしたくもなるわ。いくら杞憂だとしてもね」
「は、自重――自重ねえ・・・・。どうしてまたそんなことを」
「だって、わたしのせいでなにか起こると、旦那さまに“面倒な女”呼ばわりされちゃうんだもの。酷いおっしゃりようだと思わない? わたしはあのひと以外見ていないのに、あのひとから厄介者扱いされるなんて……不条理にも程があってよ」

ともあれ本人にその気がなくとも、おのずから破滅を誘発する女など面倒どころの話ではない。
「If anything can go wrong, it will.」とはよく言ったもので、問題を起こしうる人員はいずれ問題を起こすのだ。
たとえば、破産した社員を金に関わる部署に配属しない人事管理は、べて一般企業においても常識である。

任免にそこまで勘案かんあんしなければならない上司の気苦労に思いを馳せ、直後、彪は「いやしかし大哥も大概だよな」と思い直した。
なんとなれば飼い主たる当の男も「雅兄闊歩ウォーキン・デュード」とまで謳われる軽妙洒脱な行状ゆえか、泰然自若な度量ゆえか、鬼神にまでたとえられる八面六臂の精強ゆえか――なにも女に限らず、部下たちはじめ、慕う男衆は枚挙にいとまがないのだから。

もとより上司たちの性根やら人付きやらに口を挟むつもりはこれっぽっちもないとは言いじょう、似合いのふたりでヨロシクやっていてほしいと願わざるをえないのも事実だった。
主に、周囲の被害のためにもだ。

「……それより、大哥の横で目を光らせてやってください。大姐がいねェ間、通常業務は放り出して遊び呆けてらっしゃったンで」
「まあ、素敵。鳥籠が空というだけで、あのひと、随分と羽を伸ばしていらっしゃったみたいね……」

呆れたような口ぶりに反して女の眼差しは至極やわらかい。
往古来今、たとい何十、何百もの有象無象から乞われようと、恋い慕うただひとりのひとに顧みてもらえなければ、なにもかも無意味だった。
しかしそんな彼女に、残念ながら決してまどわされてくれない全き主のことを思ってなまえは小面憎いとばかりに微笑んだ――それはそれはうつくしく。



「だんなさま……ぁ、まって、待ってください、っ」

口付けの合間、上体を離そうとなまえが腕を突っぱねた。
ただでさえ半月ぶりの逢瀬だ、なにより主人にふれられることを喜ぶ女が拒否の真似を披露するとは何事か。
腕のなかに閉じ込めてやわらかい唇を存分に堪能していた張が、不機嫌そうに太眉をひそめるのも道理というものだった。

「まさか待ったをかけられるとはな。――は、期待しちまうな。どんな言い訳を聞けるのか」
「っ、ん……」

偉丈夫の低い囁き声はふたりきりのねや以外では許されまい。
至近距離で見つめられてなまえの瞳がとろりと潤んだ。
躊躇いがちにふるえるちいさな唇は、互いの唾液で濡れていた。
そこから奉ぜられる理由がどんなものであれ、さっさと一蹴するつもりで張は白裾の下の熱っぽい肌に手を這わせた。

「どうした、なまえ、やさしくしてやるつもりだったんだが、気が変わる前に教えてくれよ」
「ふ、ぅ……、ええと――……っ、わ、わたし、あの、ねむくて……」

――よくもまあこの状況で「眠い」なんぞ言えたな。
張は思わず胸中でぼやいた。
実際に声になったのは、心底胡乱な「は?」という感嘆詞だけだったけれども。

ふたりして倒れ込んだベッドの中央では、傍らにサングラスとネクタイが放ってあり、なまえのワンピースも人目にさらせないほど乱れていた。
前後不覚になるほどぐずぐずにとろかし、素直でない女から「さみしかった」の一言でも引き摺り出してやろうかと考えていた男は、しかしながらその手を止めざるをえなかった。
呆れというより「いつもながら思い通りにならない女だ」と一周回って感心に近いものを覚えた。
飼い主の所有物ものだと吹鳴すいめいしてはばからないくせに、浮き世の誰より小鳥を把捉しているはずの張の、予想だにしない方向から返答を飛ばしてくる才腕さいわんはさすがとしか言いようがない。
それはもう盛大に顔をしかめている彼に、なまえは心の底から申し訳なさそうな顔をした。

「だ、だって……あなたの香り、あんしん、して……」

最早、呂律も怪しかった。
抱き締められて思考があやふやになってしまっている彼女を、しかし張が軽々に嘲弄ちょうろうすることはなかった。
なにしろ彼は、今世、なまえが最も安心して眠れる場所は自分の腕のなかだということを誰よりも知っていた。
野の小鳥じみておのれの不調を隠して暗々裏悪化させてしまう分、ぐぜって眠らない幼な子よりも性質たちが悪い。
意識が眠りへと落ちる瞬間、毎夜「あれ・・はまともに寝てるだろうか」とよぎっていたなどとは更々教えてやるつもりはなかったが。

深々と溜め息を吐いた男はベッドに転がったまま、思い通りにならない憎らしい女をやさしく抱き締めてやった。
見ただけでは看破できまい、こうして抱きすくめなければ気付かないだろう程度に、しかしまぎれもなく痩せた肢体のわずかに空いた隙間を埋めるように。

浮き世、最も幸福な場所で、なまえはこの上なくやわらかく相好を崩した。
見る者の胸の内をほんのり明るくするような朗らかな笑みだった。

「ん、だんなさま……ごめんなさい……」
「おいおい、この“おあずけ”以外にまだ謝罪しなきゃならん節でもあるのかよ」
「悪いことを、しました。あなたのもの……勝手に、だめにしてしまいました」
「ふ、俺のものを損ねるたあやるじゃねえか。なにしでかしたんだ、なまえ」
「黙って持っていっていたの。だんなさまのお煙草……」

目を閉じたまま「吸えもしないのに。香りだけでもあったら、あなたのこと、夢にみられるかとおもって……」と舌たらずに吐かれた言葉はたちまちうやむやにほどけた。
残ったのはちいさな寝息ばかりだった。

「傷心旅行」とやらの随伴に、まさか慕う男の煙草を連れていくとは――香りひとつ恋しさに、煙草の一箱を隠し持つという窃盗に手を染めてしまったというのだから、小鳥の「悪いこと」とやらはなるほど大罪に違いなかった。
しかしながら罰されるべき女は、主人に懺悔して荷が下りたのか、既に昏々と眠りこけていた。
健やかな寝顔は、目元にほんのうっすらくまが滲んでいたものの、それすら気にならないほど清澄かつ愛らしかった。
張維新チャンウァイサンはすやすや眠っている女の寝顔に向かって呟いた。

「……お前、起きたら本当に覚えておけよ」

捨てゼリフ、あるいは悪態というにはあまりにも無様な呟きだった。
情けない表情に相応の、滅多にない呻くような声音である。
もしもなまえが意識を保てていたなら――何にまれ主の情動を尊ぶ彼女のことだ――珍しいこともあるものだと喜んだかもしれない。

ともあれなまえはとっくに幸福な夢のなかだった。
目が覚めたら朝まで抱き潰してやろう云々、不穏当なことを考えながら、張も同じ眠りに就くため目を閉じた。


(2022.01.31)
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