無上

「なんでも、とおっしゃると……」

いかにも困ったという顔ばせで女が呟くものだから、その元凶たる男は紫煙と共に溜め息を吐いた。

「堪らねえな。その様子じゃあ、どれだけ無理難題を押しつけられるんだ、俺は」
「ああ、いえ、そうではないんです、旦那さま。お恥ずかしい話ですが……咄嗟に思い浮かばなくて」

申し訳ございませんと苦笑するなまえの顔には嘘も見栄も見当たらず、そんなに悩むことかと張はいっそ呆れた。
思案顔の理由は、滞りなくおつかいを果たしたなまえに対して、戯れに張がなにかしら下賜してやろうかと提案したのが発端だった。
なにげなく「褒美はなにがいい」と尋ねた結果がこのザマである。
欲がないにも程があるな、と彼は胸中呟いた。

とつおいつ視線をさまよわせるなまえを横に置いたまま、張は手持ち無沙汰に彼女の黒髪を指先ですきはじめた。
のんびりとジタンをくゆらしながら、今世、彼だけに許された極上の手ざわりを楽しんだ。
ふれられて面映ゆそうに口元をゆるませている愛寵の小鳥には「下手の考え休むに似たりってな。特にご要望がないんなら、はやいとこそう言ってくれ、なまえ」と釘を刺してやることも忘れずにだ。
ともあれ張の指先ひとつでこの上なく幸せそうな面持ちになってしまうのだから、実際これ・・が褒美ということでも良い気がしてきた。

そんな怠惰な考えがバレたかどうか。
おのれを撫でる飼い主の大きな手に目を奪われていたなまえが、ようやく「あ、決まりました、旦那さま」と顔を上げた。

「まだご褒美の受付キャッシャーケージは終了していませんか?」
「引換チップによるかね。なんせ女のワガママとやらを万事上手く聞いてやったことがない」
「まあ、お顔をよく見せてください」

どんなお顔でそんなことをと微笑んだ女は、おもむろに自分にふれてくれていた飼い主の無骨な手を生花を抱くように両手でやさしく包み込んだ。
硬い銃把と対極をなすような清らかな指先がそっと主人の太い手首を指さした。
張維新チャンウァイサンの手首を――そこに鎮座する高級時計を。

「時計? やるのは構わんが、男物なんざ持ってどうする」

男性らしい濃い秀眉を片方だけ上げ、張は首を傾げた。
飼い主が身に着けているものを所望するのは、まあ予想の範疇から出はしないが、平生から時計など着用しない金糸雀カナリアがなにを、と。

不思議そうな顔をしている主人を見上げ、頬を染めてなまえは微笑んだ。
雅兄闊歩ウォーキン・デュード」の名をほしいままにする伊達男にしては珍しいことだとどこか楽しく思いながら、秘めた恋心を告げるようにちいさく囁いた。

「……ふふ、いいえ。許されるなら、どうか、あなたのお時間を」


突拍子

「あら、旦那さま。お迎えもせず申し訳ございません。お許しください、お戻りになっていたんですね」
「ああ、そういや連絡してなかったな。部下あいつらも気が効かねえなあ」

本社ビルの上階で、ゆくりなく飼い鳥に行き合った主人は内心「珍しいこともあるもんだ」と独りちた。
時計ひとつ持たない彼女にしては極めて珍しいことに、平身低頭するなまえは両手を分厚い書類たちによって塞がれていた。
部下を見付けようものなら適当に言いつけてさっさと役を変わっていただろうに、どうやら誰も捕まえられなかったとみえる。

彼はじめ男手にとってはなんでもない量だが、小鳥の細腕には重荷だろう。
手伝ってやろうかと、張は「ん、」とのんびり両手を差し伸べてみせた。
主人の手をわずらわせてしまい恐縮してみせるかと思いきや、しかしその瞬間、なまえは音が聞こえそうなほどぱあっと顔を輝かせた。
いそいそと傍らに荷物を置き、駆け寄ってきてあどけない少女のように朗らかに、真っ正面から張へぎゅっと抱き着いた。

「あ?」
「え?」


人質

「聞いてたな? 大人しく解放してくれると助かるんだが、なまえ」
「……わたしだけが求めていたみたい。お付き合いくださってありがとうございました、旦那さま」

上体を起こした張維新チャンウァイサンは、切ったばかりの電話機を手渡した。
眉をひそめて拝受したなまえも、同じく起き上がって衣服の乱れを気怠げに整えはじめている。

折悪しく鳴った電話はボスのお呼び出しであり、ベッドでの戯れの中断をめいじていた。
通話機器を恨めしげにめつけるなまえを尻目に、張は中途半端に脱いでいたシャツのボタンを留めた。
ネクタイを締めなおそうとしたところで、しかしいて放っておいたはずのネクタイが見当たらない。
どこへやったものかと首を傾げていると、目当てのものは繊手せんしゅにとらわれていた。

「……人質です」

主人のネクタイを握ったまま、物騒な単語を吐くには愛らしさの勝る唇を、精一杯とがらせているさまは大層いとけない。
どうやら思いの外「おあずけ」がご不満のようだった。

サングラスをかけながら、張は「拗ねています」と書かれたなまえの顔を見下ろした。
邪魔というにはあまりにも他愛ない、さながら毛糸にじゃれる猫めいたありさまであり、口付けのひとつでもしてやればいわく「人質」の奪還は容易いだろう。
とはいえ飼い主を妨げるような躾をした覚えはない。
そんな愛玩物ペットに飴をくれてやるほどやさしくはない男は、それならそれで仕方ないとばかりに「そんじゃあ別の取りに、クローゼット行ってくるか」と肩をすくめた。

「小鳥にひとつ教授しといてやるか。取引なんぞご大層なもんを仕掛けるときにはな、なまえ。まずは脅迫相手の喉元を押さえつけろ。ワンショット・ワンキルのネタを握って初めて、交渉の場に引き摺り上げられるってもんだ。お前の細腕もそうだが、ネクタイそれじゃあ押さえる・・・・には――ふ、いささか荷が重かろうよ」

いけしゃあしゃあ「勉強になったな」とのたまった男はさっさとベッドから下りようとした。
果たしてなまえは「待って」と慌てて手を伸ばしてきた。

「旦那さま、人質はお返ししますから、ね、わたしに結ばせて」

彼女はベッドの縁へにじり寄り、気早な様相で抱き着いてきた。
黒髪を撫でながら、男は湧き上がってくる低い笑い声を噛み殺しはしなかった。
ご機嫌がすっかり治ったとは言いがたいものの、最早なまえの表情は飼い主にそっぽを向かれまいと必死なペットのそれだった。

昔からそうだったが、やはり小鳥は駆け引きやら釣り・・やらは不得手らしい。
もしもその場に、しばしば彼らのお遊びに付き合わされる部下が居合わせたなら、辟易した顔で「そりゃ飼い主あんたに対してだけでしょうよ」と漏らしていたに違いないことを考えながら、張維新チャンウァイサンは飼い鳥のためにやや屈んでやった。


(※おまけ)
ひとりでベッドに寝転んだまま、なまえは残り香を腕のなかに閉じ込めるようにぎゅっとおのが身を抱き締めた。

なまえは主人のネクタイを結ぶのが好きだった。
個々人の価値基準はさておいて、なにせマフィアという生業は概して面子メンツというものをなにより重んじる。
鳥籠の小鳥には畏れ多くて理解あたわぬことだったけれども、彼らにとってメンツ、見栄、立場、あるいは名誉といったものは、そのために天秤が傾く――すくなくとも人死ひとしにが出るほどには肝要だった。
そんな済度しがたい濁世において主人の身嗜みを任されているのが、どれほど嬉しいことか。

ネクタイを結ぶ都度「この結び目をほどくのがわたしでありますように」と願っているのはなまえだけの秘密だった。
他の女がくことも、愚かな杞憂、L'Improbable――ありべからざることだが、主の身になにも起こりませんようにと願うくらいは、エゴイスティックな女の自由だろう。

ネクタイを結ぶという行為ひとつ、塔の天辺でひとり主人の帰りを待つことしかできないなまえのささやかな呪いだ。
それは祈りと呼ぶに相応のものかもしれなかった。


めしあがれ

おもむろに花瞼かけんをあげて、鏡台越しに女が微笑んだ。

「……キス、したくなりました?」

なまえが化粧をしている最中、背後でなんとはなしに眺めていた男はその言葉で我に返ったように目をしばたいた。
繊細な縁飾りを施された鏡台は、女を囲繞いじょうしてあやなす額縁のようだ。
鏡越しの甘い瞳が、窺うように偉丈夫へ置かれていた。

ベッドにだらりと寝そべった張維新チャンウァイサンは、くゆらす煙草をそのままに頬杖をついた。
特段、工程を注視していたわけでもない。
反射する鏡面越しにこちらを見ているなまえへ、皮肉っぽく厚い唇を吊り上げた。

「ご期待に添えず申し訳ないが。どれも同じだろと思ってな」

化粧品の数々、並んだリップスティックを指して嘯いた男の、憎たらしいほどおざなりな返答ときたら。
鷹揚の面輪おもわの下に揶揄と享楽とを含み、紫煙を纏わせた澆薄ぎょうはくな口角は、伊達男と呼ぶに相応の洒脱さだった。
とまれかくまれ淡粧濃抹たんしょうのうまつ、日々うつくしくよそおわんと勤しむ女に言うべきでないのは確かだ。

男の随分な言い草になまえはぱちぱちとまばたきした。
しかしながらそのかんばせが気分を害した色に染まることはなかった。
それどころか丸い頬を面映ゆそうに染めて、くすくすと軽やかな笑い声まであげてみせた。
恋を知ったばかりの少女もかくやとばかりのさやけき笑みで、寝そべる主人へ彼女はおっとりと振り返った。

「今日のこの口紅、選んだ理由は旦那さまなんですよ」
「は、過分なお言葉痛み入るぜ。しかしどうしてかな、これっぽっちも心当たりがねえ」
「あなたが好んでいらっしゃるからです、この紅」
「同じことを繰り返させるなよ」

張は目をすがめながら「大して変わりゃしないだろ」と紫煙混じりに吐き出した。
億劫げな飼い主とは裏腹に、女は頑なに「いいえ、変わるのです」と譲らない。
他愛のない押し問答は平行線を辿るかと思われたが、ふと小鳥はあたかもとっておきの秘密を打ち明けるように声を潜めた。

「ふふ、味の良い口紅をしているとね、旦那さま、なまえにいつもより口付けをしてくださるんです」

――いくらうつくしくても味がお気に召さないと、あなた、あんまりキスしてくださらないものだから、と。
さかしらに「もしかしてご存知ありませんでした?」と小首を傾げるなまえは、悪戯っぽい嬌声を隠し切れていなかった。
思考をとろかす桃色の唇が「この身のすべてはご主人さまのためにあるので」とうたうように囁いた妙相みょうそうは、はろばろとした月の光、あるいは一場の春夢を永劫身に宿したかの如き塩梅だった。
実際、鏡台を背にした女の媚態ほどうつくしいものもこの浮世に多くはあるまい。

ともすれば傲慢とも取れる恭謙きょうけんなセリフに、いまのいままで口紅の味などさっぱり考えたことのなかった男は、形良い太眉をひそめるに反応を留めた。
無意識かと問われば反論のひとつもしたくなるが、なきだにキスの頻度なんぞ意識するものでもなし。
たとい飼い鳥といえど、おのれの知らない情動やらへきやらを他人からつまびらかにされるのは、どうにも虫が好かなかった。

咥えた煙草を灰皿へ放ると、男は寝転んだままいかにも大儀そうに腕を持ち上げた。
言葉を必要としない女はぱっと破顔してそこへ飛び込んだ。
喋々喃々、すぐにくすくすと細い笑声が漏れた――なにしろ抱き留めてくれた飼い主が、ほんの一瞬、口付けを落とすのを逡巡するような素ぶりを見せたものだから。
芳醇な黒煙草の薫香に、淑やかな白百合の芳香が混じった。
今生一等幸福な場所でなまえは花開くように笑って張を見上げた。
鳥語花香、「キスしてくださいませんの」という囀りは、それより先んじて唇を塞がれたためについぞ音にはならなかった。


出られない部屋

のっぺりとした壁には窓どころかおうとつすらない。
正六面体、取りも直さずダイスに似た形である。
その一辺には、これみよがしにひとつだけドアが鎮座していた。
なんの脈絡もなくこの部屋――と形容して良いのだろうか、密閉空間に放り込まれた張となまえは揃って首をひねった。

「……どこでしょう、ここ」
「それがわかりゃ苦労しねえよ」

呻いた張の手中には紙切れが一枚あった。
一体、いつの間に握り込まされていたのやら。
なんの変哲もない紙片にまったく見に覚えはなく、それどころかご丁寧に「相手を満足させられないと出られない部屋」と表記されていた。
――なんだこれ。
そもそもここは何なんだ、と彼は顔をしかめた。

「出られない」との文句に偽りはなく、ドアが開かないのは既に確認済みだ。
どうやら外に出るためにはこの指示に従う他ないようだった。
愛玩物ペットのご機嫌を取るなんぞ飼い主としては造作もないことだったが、とはいえ誰からとも知れない命令の言いなりになるのもそこはかとなく腹立たしい。

張は「“満足”っつってもなあ……」云々考えながら、同じく閉じ込められたなまえを振り返った。
――一口に満足といっても様々な段階・・・・・があるだろうに。
特段、不埒なことを考えていたわけではなかったがさてどうしたものか。
きょろきょろと周囲を見回しているなまえに、とりあえずこのふざけきった紙切れを見せてやろうとしたときだった。

なまえと目が合った瞬間、バーン! と盛大な音を立てて、内側から蹴り破ったかのように勢いよく扉が開いた。

「は?」
「まあ、大きな音。びっくりした……」


(※おまけ。その後)
「……“相手を満足させられないと出られない部屋”? 出るためにはこんな条件があったんですか? もう、そうだと知っていたら……! せっかく旦那さまとふたりっきりなんだから、もっと長くいたかったのに!」
「いやお前、目が合っただけであのザマなら、なにしたって無駄だろ」
「違います満足というかあなたがわたしをご覧くださって嬉しくなってしまって」
「なにが違うんだよ即オチ二コマ」
「……なんだか拗ねていらっしゃいません? 旦那さま」
「気のせいだ。ほらさっさと帰るぞ、なまえ。抱くからせいぜい覚悟しとけ」
「えっ」


巻末おまけマンガネタ

(※第一二集巻末おまけマンガネタ学パロ)
(※いつも通り深く考えてはいけない)


「まさかそう来るなんて! って思ったでしょう?」
「いや別に」

なまえがそれはそれは深刻そうな顔をして同意を求めてきたが、ロックはそっけなく首を振った。
正直に「マジでどうでもいい」と口にするか一瞬悩んだ。
しかし冷淡な態度がお気に召さなかったらしい。
顔貌をきっと険しくさせてなまえが声高に囀った。

「旦那さまが生徒役でいらっしゃるなんて! バラライカさんの例があったから、なんの疑問もなく先生サイドだと思っていたわ……!」

そういや前は学ランだったな。
ロックは記憶を手繰たぐったものの、悪夢じみたあれそれは遥か彼方――具体的に言うと第一集のことで、つまり真面目に考えるだけ無駄である。

「そう言うなまえさんは、前回と同じくセーラー服のままなのか。そういえばレヴィもだったな」
「そうなの。まったくもう、どこまで旦那さまと離してくれるつもりなのかしらって、文句のひとつも吐きたくなるわ。でも学生同士っていうのも素敵よね!」
「このてのひら返しがすごい2022」
「一二集の発売は2021年よ、ロック」
「コレ、昨年中に間に合わなかったんだから仕方ないじゃないですか」
「メタ発言を糾弾するのは、あなたの専売特許だと思っていたけれど。こんなこと、わたしにさせないでちょうだい」
「……あー、“恋い焦がれる方と、教師と生徒なんて配役”、とかなんとか言ってはしゃいでいただろ、あんた」
「まあ、よく覚えているのね。だって、ね、てのひらくらいいくらでも返してさしあげてよ。放課後デートとか制服のパーツ交換だとか、学生限定イベントが発生するかもしれないんだもの! どうしよう、わくわくしちゃう!」
「うーん久しぶりに会話するのがしんどいな」

既視感に顔をしかめるロックの横で、なまえはほうっと甘ったるい溜め息をついた。

「それにしても、ふふ、あのひと、ブレザーの制服があんまり似合わないの。本当にかわいい……」

語尾どころか周囲にたっぷりのハートマークを纏わせてなまえが呟いた。
どういう原理か知ったことではないが、辺り構わず撒き散らす大量のハートはぶつかれば質量が感じられそうだった。
学生服にサングラスを合わせている男を指して「似合わない」とうっとり評する女は、はたから見ていて奇異である。
端的にいうと怖い。
至福とばかりにとろけているなまえの横でロックは思った。
――せめて褒めるかけなすか、どっちかにしろ。

「本当、ブレザー服は予想外だったわ。以前のこともあって、学ランは一度お願いしたけれど」
「……“一度お願い”?」
「うふふ、前にね、わたしの着せ替え遊びに付き合ってくださったことがあるの。いろんな衣装を、これを着てあれを着てって」

そのときのことを思い返しているらしく、可憐に頬を染めたなまえは「ああ、お召しになってほしいお洋服、増えちゃった……」とうっとり微笑んでいた。
異なる世界線の不思議時空とはいえ、張維新チャンウァイサンを「着せ替え遊び」とやらに付き合わせた顛末を、女はそれはもう幸せそうに語っている。
そのときのロックは賢明だったといえるだろう――内心「こわ……」と呟いているのをおのれの胸中だけに留めておいたのだから。


(2022.02.18)
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