連中ときたら、事情を知らない余所者の目には陰気な葬儀帰りのように映っただろう。
理由はずらりと並んだ黒服のせいばかりではあるまい。
一様にサングラス如きではいっかな隠せない沈鬱っぷりと、居た堪れなさそうな表情がその印象に拍車をかけていた。

「ひと月ではあまりにも長すぎます、旦那さま。なまえが耐えられません。“お試し”とはいえ、そんなにあなたから離れて――お別れしていなければならない・・・・・・・・・・・・・・なんて……。どうか、半月程度で手をお打ちくださいませんか?」

――「別れる」こと自体は良いのか。
その場にいた者の総意だったに違いない。

油照りに揺らぐ眼下の街は、今日もだるような暑さにさらされていた。
しかしロアナプラで一等目を引く大廈高楼たいかこうろう、その天辺は、熱帯の半島には到底似つかわしくない厚着の主人たちが快適である温度に保たれていた。
黒服共に囲繞いじょうされた白い女は、万緑叢中一点紅、明暗法キアロスクーロにより印象を強くしている『夜警』の少女めいてさやかだった。
その只中にあってなまえの悲しげな囀りはこの上なく真に迫っていた。

彼女をいつものようにはべらせた張維新チャンウァイサンは、鳥瞰ちょうかんする眺望パノラマへ向けてふっと紫煙を吹きかけた。
おわす瀟洒な居室は、壮麗だが奢侈しゃしではない。
決して品位を落とすことなくことごとく一級の調度品のみで構成されている。
ともあれ見事な調度の数々も、ソファに腰を下ろした偉丈夫の洒脱っぷりと比べれば色褪せて見えるものだった。
漂う白靄と唇とに目を奪われそうになるのを、なまえは懸命に堪えているらしい。
張は形良い口角を片方だけ皮肉っぽく上げ、鷹揚に首を傾げてみせた。

「小鳥が文句を垂れるたあな。驚きだ。そう毛を逆立ててみせるんじゃねえよ。それに、たまには趣向を変えてみるのもいいもんだろう?」
「同意の義務はありますか?」

慇懃に、しかしけんもほろろに跳ね除けた飼い鳥に、彼はとうとう喉を鳴らして笑った。
これほどまでになまえが主人に対し素気すげない態度を露わにしているのは、あに図らんや、彼がにわかに思い付いたように「なあ、なまえ、別れてみるか」などとのたまったことに端を発した。
離縁状を突きつける口ぶりは、さながら人事考課や配置換えを告げるかのようだった。
あの瞬間のなまえの表情は、輓近ばんきん、一等見ものだった――とはさしもの張も口にしなかったが。

不機嫌そうに「なにをお考えになっていますの」とかこつ彼女に、無論、張は条件を提示した。
あくまでこれは「お遊び」、加えてひと月という期限付きでどうだ、と。
そこでなまえが声高に「ひと月ではあまりに長すぎます」と異を唱えたのだった。

厚い唇がひょうげた弧を描いた。
なまえが顔を歪めたからだった。
張維新チャンウァイサンが浮かべるのは一見人の好さそうな笑みだったが、如何いかんせん、胸臆きょうおくからうっすら透けるような軽薄さを隠せていなかった。
サングラスの奥の享楽的な瞳に灯るのは、膝を屈してしまいたくなるほど驕傲きょうごうな輝きだった。

「賭けるか? どっちが先に音を上げるか」
「ご存知でしょう、金糸雀カナリアは賭け事をいたしません。それに結果はわかりきっているもの。賭けにならないわ」
「ふ、わからんぞ? お前恋しさに、俺が途中で“許してくれ”なんぞ乞うたらどうする」
「……ここでわたしを糠喜びさせて、あなた、どうなさりたいんです……」

笑うのを失敗したような顔でなまえが呻いた。
その面差しには、煙草をくゆらす為様しざまが惚れ惚れするほど様になる男が憎らしくて堪らないと満面に表れていた。

「旦那さま。質問をひとつ、よろしいですか?」
「なんなりと、お嬢さん」
「……このレクリエーションはあくまで“お遊び”――終えたあとも、なまえの帰る・・鳥籠はあると思っていて良いのでしょう?」
「は、金糸雀カナリアが理の前のことをわざわざお尋ねになるとは。長年取った労をふいにするなんざ、俺もそこまで悪趣味でも酔狂でもないつもりだがね」
「ふふ、嘘ばっかり……。悪趣味かつ酔狂なお遊びを、いまから始めるのに?」

耳に心地良いバリトンによる婉曲な返答を受け、なまえは「かしこまりました」と頷いた。

「そもそも、あなたのお言葉にくちばしれられるものでもございませんね。お望み通り、“お別れ”いたしましょう、旦那さま。――ああ、“失恋”なんて、生まれて初めて。傷心旅行にでも出てみようかしら……」
「なんだかんだお前も乗り気じゃねえか」
「だって、破鏡の憂き目に遭ったのに、いつも通りあなたのおそばにいられるのは懲罰とどう違います? それとも、別れた――捨てた・・・女と、変わらず共寝してくださいますの?」

穏やかに、しかし居丈高に口舌くぜるなまえに、張はいかにも愉快げに相好を崩した。
ジタンを灰皿へ放り、ソファへだらりと上体を預けた。

「余所へ出るのは構わんが、人員を割くのは“業務”に支障がない程度に留めてくれよ」
「ご随意に。どこへ行こうかしら。いまから急にホテルを押さえられると良いけれど……」
「家主を鈍器で殴りつけるか? 鳥好きもガキもタップダンサーも」
「あら、ご存知ありません? ミュージカルの最前列の席を取るために拳銃なんて必要ないんですよ」

折も折、ゆくりなく居合わせたというただそれだけの理由でボスたちの迂遠な言葉遊びに付き合わざるをえなかった黒服共は、一言たりとも口を挟むことなく、ただひたすらこの場が穏便に散会することだけを願っていた。
針のむしろとはこういう心地をいうに違いない。
彼らの願いが叶えられたのは、それからたっぷり半刻後だった。
捨てゼリフというには大いに甘えの滲む声音で「半月ですからね、旦那さま」との念押しを最後になまえが退出した途端、どこからともなくはあっと跼蹐きょくせきの吐息が漏れ聞こえたほどだった。

並ぶ面差しはどれもこれも陰々滅々、むっつり押し黙った様相は、さながら――。
かつりと華奢なヒールがエレベーターの床を叩いた。
なまえに伴われて退出した黒服のひとりは、グランドフロアのボタンを押すと深々溜め息を吐いた。
背後の金糸雀カナリアの目に頓着する余裕がなかった彼を誰が責められるだろう。
階数を示すそっけないインジケーターを無心で眺めていると、先程までのいつ爆ぜるやも知れぬ炸薬じみた応酬の反動だろうか、思わずぼそりと呟いていた。

「……ん、あなた、いまなんて言ったの?」

彼の呟きが聞き取れなかったなまえは不思議そうに首を傾げた。
主人の御前から下がるよりささくれ立ったオーラを辺り構わず放っていた彼女ではあったが、共にエレベーターに乗り込んだ部下の奇態な振る舞いはみすることが難しい程度にははなはだしかったらしい。

「あ、いや、大姐、お耳に入れるつもりはなかったンです。まったくもって大したことじゃねえ」
「なあに、そう隠されると逆に気になっちゃう」
「その、あー……さっきのあいつら・・・・の並んだ顔――その、歯医者みてえだと思って」
「歯医者?」

丸い目がきょとんとしばたいた。
なんのことやらと小首を傾げているなまえに、彼はここまで来たら洗いざらい吐いちまえとことすくなに補足した。
――「……どいつもこいつも情けねえツラしてるのを見て、歯医者の待合室を思い出しちまったんで。あれほど逃げてェのに逃げられない……立つ瀬がないものもない」云々。
歯切れ悪くぼそぼそと釈明する彼に、なまえは虚をかれたように破顔した。
逃れられぬ破滅を前に「待合室の椅子にいると、そばでほかの患者たちが勇ましい冗談を飛ばしあっていて、でも、いずれはその全員が、歯医者の治療台に上る瞬間を迎えるのだ」と唱えたのは、確か米国の作家だったか。

「ふ、ふふっ……やめて、そんなに笑わせないでちょうだい。そのたとえ、だめ、笑ってしまうわ。……意外だったわ、あなたたちにもお医者さまを怖がる性根があるのね? ああ、おかしい。もしあなたにふれられるなら、ハグしてしまいたいくらい」
「辞退させてください。他でもねえ、俺自身のために」
「そうね、あなたにとってのいひとはきっと他にいるもの……。ああ、でも、いまのところわたしはあのひとに廃棄されちゃったんだし。気兼ねなく誰かにふれられるのよね?」
「は、思ってもねェことを」
「あら、実際、接触を避けていて不便なのは嘘ではないもの。こうなったらいっそ浮気でもしてみようかしら。んー……でも浮気っていうと思う? この場合」
「マジでやめてください」

もあらばあれ、鈴の転がるような軽やかな笑い声と共に、彼らは本社ビルを後にした。

「さ、荷造りしなくちゃ。お手伝いしてちょうだいね……っ、ふ、」
「大姐、思い出し笑いやめてください」
「そう恥ずかしそうなお顔をしないで」
「恥ずかしいんじゃなく、へそを曲げたツラなんですが、上手く伝わらなったのは不徳の致すところだ」






「……二名も入り用ですかね」
「難しい? 本当は三人欲しいくらいなんだけれど」
「なに企てる気ですか。まさか大哥に一泡吹かせるってえ腹なら、さすがに制止せざるをえない」
「まあ、誤解、それもひどい誤解だわ。そんなことを小鳥が図るはずがないでしょう、彪。あくまでわたしの護衛の話よ」
「なら結構。――大姐ならやりかねねェと思いまして」
「だってひとりでは気苦労も負担も大きいもの。彪、あなた、わたしとふたりっきりで半月も過ごしたいと思う?」
「都合が良いのが数名いるんで、そいつらから選んで手配します」
「……わかってはいるけれど、そんなに即答されると胸が痛んでよ、彪」
「痛める胸とやらは、俺なんぞじゃなく大哥のために取っておいてくれ」
「まあ、女心がわかるのね。あのひとのせいでいまも痛めているもの」
「そりゃ大変だ。薬餌は?」
「結構よ。もう……あのひとの思いつきで、まさか小鳥がひとりで旅行することになるなんて」
「いや、その“旅行”なんぞクソ面倒なこと考えついたのはあんたでしょうが」

嘆息まじりに彪如苑ビウユユンは、幼な子じみて頬を膨らませるなまえを見下ろした。
周囲には芳香が漂っていた。
居間パーラーの窓際にしつらえられたティーテーブルには、精巧な縁飾りが施されたガラスのオーバルトレイ、乱雑に扱おうものなら粉々に砕け散らんと危ぶむほど薄いティーカップが――それらはなまえの繊手せんしゅにひとしお映えた――、鎮座していた。
「あなたもご一緒する?」との誘いを如才なく辞退した彼は、しかしほとんど強制的に、愚にも付かないなまえの「旅行計画」とやらに付き合わされていた。
――「彪ったら。上司の女ではないんだから、そんなに畏まらなくても良いのに」「申し出はありがたいんですがね、つつがなく“お遊び”が済んだ後、根に持たれてても困るんで」「まあ、そんなことしないわ」「は、どうだか」。

「ああ、そういや、大姐の信者――大哥の言うところの“お友達”はどうします。不在となると、上がってくる情報モノさらえねェでしょう。護衛ベビーシッターには連絡員をてますか」

思案顔でお伺いを立てる部下に、なまえは品良くまた一口、紅茶を嚥下した。
面様おもようといい風体といい、酷薄そうでいて、その実「ねえ、彪、手練れの、それもいまこの街を離れても構わない子をふたり、わたしの護衛につけてくれる?」と言い出した自分に根気よく付き合ってくれている優秀な部下を、手中でティーカップをもてあそびながら見上げた。

「あの子たちのことは気になるけれど、連絡は断っていた方が良いのではなくて?」
「大姐がそう言うンなら否やはないが……。半月――二週間だ。疑念をくれてやるには十分な時間じゃないですか」
「ひと月以上、香港へ戻ることだっていままでにもあったわ。それに、期限付きとはいえ“金糸雀カナリアはお払い箱になりました”なんて説明してあげたくないもの。わたし、まだ怒っているんだから」
「おや。引き継ぎどころか“旅行”中は手綱すら握ってやらねェんで」
「ふふ、どうしてわたしがそんなことを? “捨てた女”が我が物顔で街のことに関わっていたら、あのひとのご不興を買ってしまうかもしれないのに」
「一々険のある物言いだ」

俺に言ったって仕方ねェでしょうがと彪は肩をすくめた。
傷心旅行とやらの計画か、ねちねちと八つ当たりに付き合わされるか、どちらかにしてほしい――叶うならいずれも願い下げではあったが。
なまえの愁訴しゅうそに答えるのは後回しにして、彼はどうにも引っかかっていた疑義を口にした。

「あんたらのお遊びに付き合わされる俺らの愚痴は、まあ置いといて――ンな不行跡を了承するたあ、大姐、一体どんな風の吹き回しです。またけったいな……口にするのも尻こそばゆいぜ。“別れる”なんざ。あんなふざけた三行半、初めて見ました」

彪はストレートに「大姐が了承するとは思いませんでした」と疑問をぶつけた。
なにしろあの・・金糸雀カナリアだ、戯れとはいえ、飼い主から捨てられることを諾々と呑み込むとは到底思えなかった。
そんな彪の――もしかしらあの剃刀の刃を渡るかの応酬の場にいた者たち全員の不審を、彼女は一笑に付した。

「ふふ、知っているでしょう。我らが白紙扇さまは、小鳥一羽が喚いたところでお考えを変えてくださる方ではないもの。だったらいつまでもり言を並べていないで、できることを考えなくちゃ。ね?」

しかつめらしく良識めいたことをつらつら吐きつつも、黒い瞳からは滅多にない機会にすこしく昂揚している輝きがちらほら覗いていた。
あたかしと「それでね、普段できないことをやってみようと思って」と囀るなまえに、もありなん、彼は肩をすくめた。
どうやら懸念していたほど意に介してないなと、どこか安堵めいたものをわずかに覚えていたのは口が裂けても言えなかった。

「はあ。そんなもんですかね。――で、どこにまで羽根を伸ばすおつもりなんで」
「寒いところに行ってみるのも考えたけれど……せっかく常夏の国にいるんだもの、ちいさな島を借り切れないかしら。リゾート客以外は用がなさそうな……。手配してくれる? 今日明日にはこの街を出たいわ。あまり離れすぎると手間も増えるし、そうね……タイ湾内で。丁度、閑散期オフシーズンだもの。営業していないところならそう難しいことではないでしょう。――ああ、把握している限りで構わないから、危ないお仕事が近辺で予定されてない場所にしてちょうだいね」

天真爛漫に「わたしになにかあったら大変」とのたまう金糸雀カナリアに、彪如苑ビウユユンは大袈裟な溜め息でもって返答とした。






自分たちの黒服と同じく、街でトレードマークと化して久しい白いワンピースドレス、清楚な白裾以外の女主人の姿を拝むのはまったくの初めてであることに、彼はそこでようやく気が付いた。
向こう傷のある左頬を不随意に引き攣らせ、トランクケースを持ったまま感嘆まじりに切れ長の目を更に細めた。

ようやく船着き場に降り立ったなまえは装いのためか、平生の静謐、清楚さではなく、溌剌とした雰囲気を感じさせ、背にした佳景がいまにも雨粒を落とさんばかりの曇天であることが心底悔やまれた。
無防備に肩や上腕を剥き出しにしたサンドレスは明るい色調であり、「傷心旅行」と打たれた銘すらかすむほどまばゆかった。

「どうしたの? 酔ってしまった?」
「そこまで軟弱だと思ってらっしゃるんなら、どうしてご指名くだすったんです」
「ふふ、今更そんな可愛くないことを言ったって無駄よ。ここまで来ちゃったんだから」
「……まったく。来ちまいましたね」
「晴れていたら嬉しかったけれど、そこまで贅沢は言っていられないものね……。時期が時期だし」

太平洋南シナ海最西部に位置するタイ湾では、雨季、降水量は乾季の二〇倍以上であり頻繁に台風も発生する。
ひとつに纏め、高く結い上げられたなまえの黒髪が雷雨前の不穏当な潮風に煽られた。
首に巻いたスカーフを取り払えば、華奢なうなじを的礫てきれきと露わにしたに違いなかった。

「ところで大姐、どうしてまたこんなに重いンだ、このトランク」
「まあ、女の荷物に文句をつけるものではなくてよ。原因はたぶん本だと思うけれど」
「は、リゾート地に来てまで読み物か……。大哥もご不在なんだ。すこしくらいいい目を見させてくだすってもいいもんでは? 水着姿とか」
「お天気に尋ねてみてちょうだい」

見慣れた彼女の見慣れない姿に、なんとなく居心地の悪いものを感じていたのは事実だ。
彼は「足元に気を付けてください」と注意を促しつつ、なまえの荷物を手に波止場を進んだ。
板張りの歩道は完璧に清掃されており、生活道路というより旅行客を歓待するためのものと窺えた。

同行するもうひとりの部下――禿頭とくとうの男の方は、前方でホテルスタッフと宿泊手続きの話を付けているところだった。
おのれも彼も見慣れた黒服ではない。
揃って派手な図柄のシャツを着ており、染みついた眼光の鋭さを除けば、そこらの安っぽいゴロツキと大差ない風貌だった。
自分が思っていたより黒服がこの身に馴染んでいるのは結構ではあったものの、なんとなく落ち着かなかった。

ソドムとゴモラの街で、彼らの黒服とサングラスは面隠しの点においてある種のアドバンテージを有していた。
なにせロアナプラのみならず、出くわす欧州やら南米の奴らときたらべてアジア系の顔立ちの区別も付かないのだ。
ともあれそこはかとない違和感のために、向こう傷の刻まれた左頬に苦笑が浮かぶのを堪えられなかった。

男たちがこのような格好をさらしている原因は、なんとなれば、おっとりと前をゆく金糸雀カナリアだった。
直々に「いつものお洋服だと、目立って仕方がないでしょう? お仕事とはいえ街ではないんだから、普通の・・・服装をしてちょうだいね」云々とのめいがあっては致し方なかった。
見てくれだけは時期外れの観光客――加えて、性別も年齢も風体もちぐはぐな組み合わせ――といった三人組は、そうしてタイ湾内の小島でホテルの従業員に迎えられた。

オフピークの島内は閑散としていた。
狭隘きょうあいな島は、東側が切り立った崖になっているため正確に測るすべはないが、徒歩でおおよそ小一時間程度で外周を回れるだろう。
観光が最大の産業であるこの島は、閑散期のため従業員はほとんど出払っていた。
施設の維持管理のために残っていた数名のスタッフがなまえたちの対応するとのことだった。
使用人たちは皆一様にオープン・カラーの白い半袖シャツを着ていた。
清潔感のあるお仕着せのシャツが浅黒い肌に似合うレセプショニストは、どう見ても堅気かたぎではない様相の彼らに臆することなく、実直に「お待ちしておりました、海が荒れる前にご到着くださって良かったです」と微笑んだ。

椰子の木々が風に煽られ音を立てて揺れていた。
雲脚くもあしははやく、ほんの半刻足らずで雨粒を振りまかんと告げており、驟雨しゅううの前に到着できたのは幸いだった。

「慌ただしいですが、雨が降り出す前にどうぞ」と促されたヴィラは白亜の二階建てだった。
ホテルの敷地内に点在するヴィラはすべて同様らしく、ひとつひとつが離れた造りになっていた。
狭苦しく感じないよう低く取られた生け垣と相まって、仮にピークシーズンだったとしても他の客と遭遇することはそうそうないだろう。
傷みを防ぐためか、修繕のためか、いくつかのヴィラの屋根は防水のポリタープに覆われていた。
それぞれ専用の庭とプールがあり、通常の営業時には、一棟ごとに島内の移動時の運転手を兼ねた専属の執事とハウスキーパーがついているということだった。
今回そこまで差配できないことを「万全のお迎えができず申し訳ございません」とレセプショニストは恐縮しきりだったが、なまえは「わたしたちはこちらの方が助かるわ」と制した。

一階の瀟洒なリビングルームは半分が吹き抜けになっており、見上げると柵越しに二階の寝室が見えた。
どの棟も寝室はひとつらしいが、用意されたヴィラは二階にゲストルームも備えた比較的大きなものだった。
そこかしこに鮮烈な熱帯の花々が花瓶いっぱに活けられており、籐椅子の脇ではアンスリウムが赤い色を主張していた。
磨き上げられた大理石の床は、平生のスティレットヒールや革靴だったならば高く音を鳴らしたに違いない。
彼らがそれぞれヒールのないサムループ・サンダルや、備えつけの麻のスリッパを履いているため足音はほとんどなく、耳に届くのはさらさらと軽やかな音ばかりだった。
広々とした部屋は窓を大きく取ってあり、時期が時期なら、開け放って心地良い風が吹き抜けるままにしただろう。

一階のフランス窓からは、手入れの行き届いた芝生の庭、そしてプールへそのまま下りられるようになっていた。
ブーゲンビリアやインパチェンスの花々が強風に煽られており、花々の隙間から見え隠れしている青い光は陶磁器のタイルだった。
点々と道標を示す青いタイルを視線で追うと、奥にはガゼボが見え、乾季にはクッションを並べて過ごすにはあつらえ向きだった。
タイルに従って更に進むとホテルのプライベートビーチへ続いているらしいが、果たして滞在中に楽しめるだろうか。

「素敵なところね。気に入ったわ」
「ありがとうございます。皆さまのご滞在が良いものでありますように」

やや訛りの残る英語でそう言うスタッフの笑顔には、近隣諸島に数多ある似たタイプのホテルのなかでもボン・トンのものに従事する自負が伺えた。

各部屋の説明を終えて退いたスタッフを追うように、激しい雨が降り始めていた。
垂れ込めた鉛色の雲のせいで、空が低く感じられ、外界は突如として日食にあったかのように薄暗い。
おびただしい雨量が、天からざあざあと直瀉ちょくしゃする騒がしさのなかになにもかも打ち消され、ともすれば耳が遠くなったかと危ぶむほどだった。
二階の主寝室にゴヤールのトランクケースを据えた男は、居間パーラーへ下りながらすこしく声をあげなければならなかった。

「大姐、荷物は階上うえの寝室に運んどきました」
「ありがとう、あなたたちはゲストルームを利用してちょうだいね。大きなヴィラを準備してくれていて助かったわ」
「ええ。――とはいえ、こんな天候とひと気のなさじゃ、手持ち無沙汰にも程があるが」
「せっかく街から離れたんだもの。たまにはゆっくり過ごしてみたら? いひとのひとりも連れてこられなかったのは同情するけれど」
「……どんな腹積もりがありゃア、そんなこと吐けンです、大姐」
「ふふ、はじめに言ったでしょう? これは傷心旅行よって」

囀りに顔をしかめている部下ふたりはそれ以上の反論をつぐんだ。
不平不満を呑み込む器量は好ましく、ひるがえってなまえは相好を崩した。

「それにね、……あなたたちがいてくれるもの」

秘密を打ち明けるよう潜められた甘い鶯舌おうぜつにつられ、無意識に身を屈めていた男共は――定位反射などと同じく動物として当然の動作だった――途端、ぱっと上体を反らした。
街でも敬遠されがちな強面こわもてたちは揃って厄介そうな色を隠さなかった。

「やめてください、大姐。俺たちは警護のためだけにお供してるんで」
「そうです。大姐を楽しませるような芸当なんざ期待しても無駄ですよ。なにをお考えか知らねェが、ご相伴にはあずかるのは荷が重い」

異口同音に諭され・・・、なまえは優秀な部下の配剤にいかにも満足そうに微笑んだ。
どうやら無理難題を押しつけられた部下、もとい彪は彼女の要望を万事叶えてくれたらしかった。
すくなくともてられた・・・・護衛たちが、小鳥の甘言如きにやすやすとてられてしまう・・・・・・・ような表六玉ではないのは、幸いである。
もしかしたら選考の際に先達からクギを刺されていたのかもしれない。
なにしろこれから二週間ほど同じ屋根の下で寝食を共にしなければならないのだ。
「……もう、ただの軽口に、お説教みたいなこと言わないで」と拗ねてみせる媚態とは裏腹に、声音に滲んでいたのは安堵といっても過言でなかった。
いだかれる感情は、親しみよりも危機意識である方が彼女にとっては都合が良かった――普通は逆なのだろうけれども。

「大姐、それで、俺たちは……」
「ああ、このお天気だもの。わたしはお外には出ないわ。あなたたちも自由にしていて……といっても、できることなんて限られているけれど」

わたしは寝室で大人しくしているわ、となまえは上階へ上がって行った。
窓ガラスを流れ落ちる雨粒が勢いを増している。






これといった仕事のない――否、ボスの女の警護という大層なご下命ではあれど、幸か不幸か、その警護対象は微塵も手がかからない状況で、彼らが「なにしに来たんだったか」と日に数度、頭を悩ませるレベルで安穏無事だった。
そもそもこの「旅行」は前もって計画されていたものでなく、ゆくりなく発生したイレギュラーだ。
しんば害を及ぼさんと図る与太者がいたとしても、取れる準備期間プレップタイムはたかが知れており、それでなくともオフシーズンの客は他になく、なまえたち以外の部外者はそれだけでひどく目立った。
最低限のスタッフしか島にはいないせいで、在留する全員の顔ぶれも意図せずとうに覚えてしまった。

胸の悪くなるような腐臭が常に漂う尺寸の街ロアナプラは遠い。
なんたることだと彼らは漏らさずにはいられなかった。
金、背信、保身、怨嗟、矜持、娯楽、気まぐれ、そのほか様々な欲と業によって成り立つ悪逆無道の芥場あくたばを離れて安閑と過ごしていると、まるでこの世には一切衆生、罪業もなにも存在しないのではないだろうかと、済度しがたい妄想がよぎるほどには、安寧というものは脳髄を腐らせるもののようだった。
生きるために生きている、明日をも知れぬ身代みしろがあらまほしいわけではないだろうに。
銃把を握りたての素人でもあるまいし、トリガーハッピーの通過儀礼はとっくに脱したつもりだったが、アドレナリン依存のでもあったのか。
まったく代わり映えのしない日々、考える時間ばかりあるというのも膿むような心地にさせられた。
始めの一日二日こそ神経をとがらせていた彼らも、一週間が経とうとする頃には「平和ボケで気が違っちまいそうだ」とぼやく始末だった。

「おい、そろそろ行こうぜ」
「あ? ああ……。大姐は俺が呼んでくる」

スタッフの「ご希望なら、お食事はヴィラへお持ちします」との申し出を、彼らの「ずっとここにカンヅメなのは御免だ」との意見により断り、食事の際、フロント近くのレストランまでわざわざ移動の労を取っていた。
晴れ間が覗いた際の太陽は強烈で、外界はさながら蒸し風呂の様相を呈した。
そうかと思えば、朝か夜か判じかねる雨天の暗さもやはり問題だった。
いまも滂沱たる雨垂れによって窓の外の景観は波打っていた。
先程まで晴れていたというのに、あっという間にやって来たスコールは、その一粒一粒で射らんと欲するかのように沛然はいぜんとして降り注ぎ、屋内をひんやりと暗くさせていた。
轟く波と雷のメドレー以外はひっそりとしていた。

二階の主寝室を「失礼します」と覗くと、女主人は飽きもせず書見の最中だった。
窓際に置かれた籐椅子にゆったり腰掛けて書物へ目線を落としている姿は、アルフレド・ブロージの窓辺の女のようだ。
時折顔をあげて憂容うれいがおをしてそっと溜め息をつくさまは絵画じみており、あまりにも現実味がなかった。
時が止まったかのような須臾しゅゆの硬直ののち、戸口で立ち尽くしている禿頭とくとうの男を認め、なまえは目が覚めたようにぱちぱちまばたきした。

「なあに、どうしたの……。ああ、食事に呼びにきてくれたのね。こんなに時間が経っていたなんて、気付かなかったわ」

細い指がページの上で微睡まどろんだ――「いったい、この人の中にはなにがあるのかしら? いったい、なにがこの人にいっさいを無視して、なにものにも左右されない、落ち着きを与えてるのかしら?」。
余程、気忙しげな表情でもしていたのか、開いたページに繊手せんしゅを乗せたままなまえが「どうかした?」と首を傾げた。

「なんだか物言いたげなお顔よ」
「……こんなふうに日がなひとりで過ごしてらっしゃると、大姐、気がふれやしませんか」
「ふふ、もしかして気遣ってくれているの?」
「すくなくとも俺らは襲われてますがね、その兆候に。乱射の際は退避願いますよ。ここいらにゃテキサス・タワーほど高い時計塔はねえが」
「いやだ、そんなに怖がらせないで。それに小鳥は心配には及ばなくてよ。こうして過ごすの、実はそんなに普段と変わらないの」

忙しいあなたたちに言うことではないけれど、とすこしく小首を傾げてみせたさまは、セリフにたがわず、平生となんら変わりないように見える。
彼らにとって日常になりつつあるこの生き地獄――とするにはあまりにも平和に過ぎたが――、小鳥にとってはさして気にするほどのものでもないらしかった。

「なぜそんなふうにおっしゃいますの? それどころか、あたしが男の人だったら、あなたを知ったあとでは、もうだれもほかの女の人を愛することなんか、できないと思いますわ」――可憐な娘が女友だちへ問いかける言葉の上に、おもむろに小鳥は指先を落ち着けた。
彼女たちのピアノと歌の音色、合奏の活字をなぞった。

数百キロ彼方の主人に思いを馳せているのだろうか、目を細めたなまえは申し訳なさそうに苦笑した。

「本当はね、わたしひとりで滞在できたら良かったんだけれど。あなたたちは暇よね。心苦しいわ、付き合わせてしまって。なにか……まあ、ないでしょうけれど、問題が起こったときに小鳥一羽では対処できないものだから」

滅多にない口上が、正面からの謝罪を口にできない金糸雀カナリアの謝意を含んでいると彼が気付いたときには、既に彼女は読みかけの本へしおりを挟むところだった。
どこか疲れたような言葉に、否定も肯定も不適当だと知っていた彼は、女主人の寝室へ一歩たりとも足を踏み入れることなく「クソ暇なのは否定しねェが」と肩をすくめた。

「ゴミ溜めの臭いから離れられて気が楽ってのも、ま、事実なんで」
「……あなた、やさしいのね」

応えあぐねたようになまえは薄い笑みだけ寄越して「さ、下りましょうか。今日のご飯はなにかしら」と本を閉じた。






「さっさと諦めろ。それともなんだ、まさかそうやって睨んでりゃテメェの手札は変わんのか」云々、真正面から飛んでくるヤジを物ともせず、左頬の向こう傷をひくつかせながらカードを睨んでいた男が、ふいに思い出したとばかりに顔をあげた。
ヤジという名の催促をまるっきり無視したかと思えば、やにわに「そういや、大姐、ついこの間気付いたンですがね、」と傍らで観戦・・している金糸雀カナリアに笑いかけた。
顔面の切創せっそうは細い目と相まって尋常でなく物騒だったが、屈託のない笑顔にはどこか人懐っこい気配が漂っていた。

「もしかしたら俺、大姐の食事風景、初めて見たかもしれねえなあッて。この“ご旅行”の収穫といや、これくらいのもんだ」
「そう? ……確かにそうかもしれないわね。わたしもこうして誰かとテーブルを囲むこと、滅多にないもの」
「はは、戻ったら他のやつらに大口叩けるぜ」
「自慢できるほど、小鳥の食事風景って珍しいの……?」

本来ホテルのレストランは閉まっていたが、河岸を変えたがる彼らのためにごく一部をオープンにしていた。
従業員不足により常時開放は困難とあって、基本的に三人は食事の時間を同じくするのが習慣となりつつあった。
海景を見晴みはるかせるよう、レストランは海岸線に沿った細長い造りだった。
景観は素晴らしいものらしく、お仕着せの白いシャツを着たスタッフが「是非お目にかけたいので、ハイ・シーズンにまたお越しください」と苦笑していた。

レストランの隣にはマナー・ハウス風のカジノも併設されていたが、こちらも閉鎖中である。
雨が小止おやみになった食事後のテーブルで「保管してたカードを端金で買い上げましてね」と笑いながら、黒服――否、派手なシャツを着崩した男たちは、ゲームに興じていたらしい。
禿頭とくとうの方がカードを放りながら「大姐もやりますか」と問うた。

「暇潰しには丁度いいでしょうよ。さすがに場もディーラーも、澳門マカオのリスボアには程遠いが」
「ふふ、いいえ、結構よ。金糸雀カナリアは賭け事をしないの。それに――“賭けは金銭だけの問題ではなく、賭場では魂も賭けられている”っていうものね」

なまえはおっとりと首を振った――「賭博者ギャンブラーは恋をしない」って本当かしら、と微笑みながら。

賭場を管理する際、最も気を配らねばならないのは、イカサマなどという包蔵禍心ほうぞうかしんなのは言うまでもないが、次いで留意すべきは「自殺者」である。
死人から負債を回収することはできず、てて加えて周囲の気概を損ねる要因になる。
賭けにおいてとにかく重要なのは「空気」だ。
容易く得られた十万ドルより、息を呑む駆け引きによって勝ち得た百ドルの方が、往々にして賭け手に充足感を与えうるのは済度しがたいの一言に尽きる。
しかしえてして博打打ちは「息を呑む駆け引き」こそを求めて身銭を切る。
賭場のありさまは「葉巻をくゆらす陽気な男、必死の形相をしている男は墓場の幽霊のようにテーブルをさまよう」。
ひるがえって店にとって重要なのは、なにをいても「利益」――この点において、賭博者と運営側は決定的に異なった。

最終的に儲かるのは常に胴元と決まっている。
澳門マカオに限らず、ギャンブルを資源とする観光地には、ピンからキリまで大小様々なホテルやコンドミニアムが存在するが、いずれの宿泊施設にも共通するのはグランドフロアに両替のための窓口や機械が備えつけられていることだ。
施設の大小によって生じる差異は、取り扱う外貨の種類の多寡程度である。
スロットマシンもかくやあらん――違いといえば吐き出すモノの所有者・・・くらいだろう――、ホテルのグランドフロアにずらりと並んだ両替機に、初めてかの地を訪れた者は皆一様、まずその明け透けな拝金主義にあんぐり口を開けるのが通例だ。
が、未明にはその恩恵・・あずかる具合だった。

にもかかわらずこんな無意味な遊びになぜひとは心奪われるのか?
理解するには試してみるしかなかったが、それで破滅するさまを目の当たりにする機会に小鳥はあまりにも恵まれすぎていた・・・・・・・・

「――持ってきた本も読み尽くしちゃって。ね、観戦だけさせてくれる? それともわたしがいては楽しめない?」
「さすが、断りにくい物言いだ。大姐、俺の左隣に来てください。ボスの福徳にあやかりてェ」

どうやらふたりでミニバカラをしていたらしい。
向こう傷の男が金糸雀カナリアを招こうとしたが、禿頭とくとうの方がカードを配りながら「こすっからい真似するな」と顔をしかめた。
くすくす笑いながらなまえは「とまり木は小鳥が選ぶわ」とすこし離れた籐椅子にもたれた。

カジノテーブル代わりのダイニングテーブルではカードのすべりに難があるものの、さしたる娯楽もなかった彼らを止める理由にはならなかった。
金糸雀カナリアにふられた男は細い目を更に細めて舌打ちしつつ、懐から煙草を一箱取り出した。
ディーラーも兼ねているいかめしい禿頭とくとう男の手元には紙幣が無造作に放られているところを見るに、持ち金を巻き上げられ、とうとう手持ちの煙草まで賭けていたらしい。
勝敗を決するのが恐ろしくはやいミニバカラでは、完全に運任せの勝負とはいえあっという間に負債が積み重なる。
ヤジにたがわず、数字が変わるのを期待でもしているのか、手札を睨みつけた男はまた舌打ちをして咥えた煙草を握り込んだ。
女主人の「だめよ」と制する声が遅れれば、そのままリネンのテーブルクロスへ押しつけていたに違いなかった。

「おっと。すいません、つい癖で」
「清掃のひとが困ってしまうものね。それに、あなた、あんまり熱中しすぎないでって――ふふ、気恥ずかしいわ。魯班ろはんの門前で斧を振るうみたいなことを……、あら? あの音……」

客どころか従業員も少数だというのに、どこからかピアノの音が漏れ聞こえてきていた。
ふいに言葉を切ったなまえは音の出どころを探すようにやおら辺りを見回した。
音は、レストランの外の、フロントデスクの方から聞こえてきていた。
到着の際、レセプションに鎮座したピアノを視認はしていたものの、黒いカバーをかけられており、弾く人間がいるようにも見えなかったが。
妙にこもった音はたまさか調律師が仕事しているのだろうかともよぎったものの、こんな狭小な島にわざわざ呼びつけるだろうか。
すくなくとも以前、天使の都バンコクで訪れたレストランのものは数年来調律していないことがはっきりわかるほど音が狂っており、そのまま長らく耳にしていると気までどうにかなってしまいそうだったというのに。
不思議そうに首を傾げているなまえに、慣れた手付きで手札を開いた禿頭とくとうの男があっさり答えた。

「ああ、大姐、レコードですよ。湿気で駄目にならんようにチェックしてるってえスタッフが言ってました。壊しでもすりゃクビは免れねェが……余所にない仕事で面白いだなんだ。なんでもここのオーナーの趣味だそうで」
「そうだったの。お部屋にこもっていたから知らなかった……。大した所蔵ね」

繊細な編み細工を施された籐椅子にかけたまま、なまえはかすかに目を伏せた。
頬肘を着いた細腕にはうっすらとラタンの痕がついていた。

「……“恋のひとつかふたつがダメになる、愛を知れば知るほど……あなたを知れば知るほど”……」

ピアノの伴奏に合わせて小鳥がちいさく口遊くちずさんだ。
落ち着いた色合いの照明の下で、コントラストの高いフィルム・ノワールじみて顔貌の半分は判然とせず、妖美な陰影を女のかんばせへ投げかけていた。

「……なんの曲ですか」
「映画の劇中歌よ。レコードまで出ていたなんて知らなかったけれど。――ふふ、あちらに戻ったら鑑賞会でもする?」

ロアナプラ、あるいは香港で揃いの黒服を着為きなす折ならば、あっさり「勘弁してください、そんな度胸ねェ」と流せただろう冗談を男たちはそうしなかった。
実現させるつもりもない軽口、笑って同意するくらいの憂さ晴らし、それも良いかもしれないなと浮ついている彼らを、果たして責めることができただろうか。


(2022.01.31)
- ナノ -