「おや、偶然ですね。こんなところでお会いするとは。ふふ、明日は槍でも降るんでしょうか」
「……ほう、これまた奇異ですね。まさかあなたと意見の合う日が来るとは思いませんでしたよ。が――さて、いまここで降らすなら、血雨の方が幾分かマシでしょう。それもあなたの血肉ならこの上ない。そう思うならこの“偶然”も、あるいは“幸運”と呼べるかもしれません」

――うわー、血管が切れそう。
いやいっそ切れてくれたらいいのに。
凜堂棘のこめかみに浮かんだ青筋がひくひくと痙攣しているのを見て、青児はこっそり願った。
なにしろ思うばかり、妄想するばかりは自由だ。
いままでの所業を思い返せば、暗々ささやかな不幸を願ったとして、バチなど当たるまい。

処暑とは暑さの峠を越した八月末を指すらしいが、九月に至ってもなお、うだるような熱気を保っている今日この頃はなんと言い表すのだろうか。
皓と連れ立って往来を歩いていた青児が偶然出くわしたのは、気障ったらしい細身の英国式スーツを着こなした男と、それに寄り添う妙齢の女性だった。
後者はともかく、前者には会いたくなかった、というのが青児のストレートな感想だ。
結果、図らずも残暑厳しい九月の路傍は、皓と青児、棘となまえという、飼い主ふたりとその付き人ふたり、という惨状を呈した。

棘の様子を見るに、血管はともかく、どうやら精神的な激昂まではそう時間は要さないだろう。
そもそもあれは既にキレているとはいえないのだろうか。

舌戦は、飛び交う火花が視認できないのが不思議なほどだった。
青児はちょっぴり距離を取り、どうかとばっちりを食らいませんように、と祈りながら彼らの対話くちまじえを遠巻きにしていた。
信じてもいない神さまとやらに縋るべきか、すくなくとも存在だけは疑いようもない地獄の閻魔さまへ嘆願すべきか。
この目で見たことがないのだから、どうにも貧相なイメージから出ない不毛な二者択一で悩んでいた青児の耳朶じだをふと打ったのは、女の密やかな笑い声だった。

「やみませんね、」

雨、とでも続きそうな口調だった。
これは同意を求められているのだろうか。
青児がおっかなびっくり窺うと、隣で日傘をさして佇立する女がのほほんと笑っていた。

名を、なまえという。
浮かべる笑みは野の花のように素朴で、おっとりと頬に添えた手は繊細の一言に尽きる。
この場の誰よりも時宜に適っているだろう、暗い青色っぽい半袖のワンピースは目にさやか。
立ち居振る舞いは、片や魔王山本五郎左衛門、片や悪神神野悪五郎の令息たちによるおどろおどろしい腥風血雨せいふうけつうの争い――その実、直接手を出せぬ子ども同士の口喧嘩を観戦しているとは到底思えぬ温雅おんがさ。

なまえを連れていない棘は何度か遭遇したことがあるが、その逆、棘に連れられていないなまえには、お目にかかったことがない。
なまえあるところに凜堂棘。
最早等式となった図が青児の頭のなかで出来上がり、彼らを「セット扱い」してしまっているのも道理といえた。

とまれ、付き従う男があまりに目を引く風体のせいか、どうにも影の薄い印象が否めないご令嬢である。
ひとかはたまた地獄の眷属のものか、なにひとつ知らぬ青児にとっては、すこしばかり身構えざるをえない相手だった。
なにせ忠犬よろしく――そう表現するにはそれはもう個人的な・・・・引っかかりを覚えるが――、常に棘のそば近くにはべっているのだから。
もう一度言おう、あの・・凜堂棘のそばに、である。

例外は、先月の九州での一件くらいか。
生き人形を中心とした凄惨な孤島の事件クローズド・サークルではついぞ見かけなかったが、そういえばあのとき、かんかん照りの白昼に到着できた自分たちとは違い、まともな船なら航行を断念する嵐の夜、凜堂棘は無理やり吉おう(※區に鳥)島へ乗り付けてきたのだった。
繊細そうな女性を連れ回すのを躊躇う配慮だとか、紳士的観念といったものを持ち合わせているとは思えない。
はたまたもしかしたら、彼女が自ら辞退したということも考えられる。
船酔いしやすい性質か否かはさておいて、あんな悪天候での船旅など、それこそ青児レベルか、準ずる程度に健康を損ねるのは火を見るより明らかだ。
青児のように、「お小遣いをあげますよ」とエサをちらつかされればほいほい言うことを聞いてしまうタイプでもなさそうだし。
自分と同じような助手というより、皓少年と世話人の紅子さんのような関係といった方がしっくりくる。
悲しいかな、「助手」とそう主張しているのは最早ただ自分だけのような気がするのはこの際おいておこう。

ともあれ、皓少年と紅子さんという身近な例を思い出すと、急激になまえへの警戒感が薄まっていくのを青児は自覚した。
勝手極まるだろうが、卑近な具体例に当てはめると、ひとはなんとなく納得、安心してしまうものだ。
なにより、彼女が異形に姿を変えるところを青児が目撃したことは、いまのところ一度たりとてない。

だったらそう構える必要もないのかもしれない……と、青児はちらちら横目に窺った。
なにしろ主人然として歩いている傲岸不遜を絵に描いたような男の半歩後ろを追従するさまは、恐ろしいというより奥床しい印象が先に立つ。
セット扱いとは言いじょう、あまりの対照っぷりに、おのずから親しみを覚えてしまうのだ。
こちらに危害を加えるのをなんとも思っていない夜叉と、穏やかに微笑む野の花、ふたつを並べられてさあどちらが好ましいかと迫られたなら、そんなもの自明である。

なにはともあれ、独り言めいた呟きといえど無視したままというのも居心地が悪い。
青児は収まりの悪い寝癖を掻きながら、へらりと苦笑した。

「いや、ほんと……。あのふたり、よくあんな舌が回るなあって、一周回ってちょっと尊敬しちゃいますよね」
「ふふ、わたしもそう思います」
「いや尊敬っていったって、別にああなりたいとは逆立ちしたって思いませんけど……」
「確かに、あんなふうに誰かと接している青児さんは……あまり想像できませんね」

できぬ想像とやらに挑戦してみたのだろうか。
真剣な眼差しで見上げられ、青児は照れた。
こうして一対一で会話をするのは初めてなのだ。
普段、横で睨みを利かせている男のせいで気付けなかったが、思いの外、造形の整った女性だ。

「……あ、今更ですが、青児さんとお呼びしてよろしいですか。皓さんがおっしゃっているのを聞いて、そうお名前を記憶していましたが……」
「え、ああ、勿論。こちらこそ……なまえさん、ですよね」
「はい。……ふふ、はじめましてって挨拶も変かしら」

たったこれだけのやり取りで、青児のなかのなまえに対する好感度メーターがぐんと上がりに上がった。
皓も棘も紹介の労を取ってくれなかったこともあり、名前だけは会話の端々から知り及んでいたが、これほどの好人物だとは思ってもみなかった。
なにしろ青児に対して、呼び名を礼儀正しく確かめてくる他人なんて、数年単位でお目にかかっていない。

と、身構えていた警戒心が収まると、今度はむくむくと好奇心が湧いてきてしまった。
当然ではないか。
ことしもあれ、どうしてこんなにまともな・・・・女性があんな男に――凜堂棘に付き添っているのか? と疑問に思うのも。
なにせ記憶に新しい九州での一件のみならず、その他もろもろ恨みつらみは数知れず。
鵺の一件での警視庁なり、先月のクルーザー乗り付け上陸なり、携帯電話を介したやり取りから察するに、いろんな方面からも恨みを買っているようだった。
かくいう青児も、自分とはまったく関係ないところで不運な目に(例えばタンスの角で小指を強打してくれないかなとか、生え際に重大な負荷がかからないかなとか)遭っていてくれないかなあ、と願う程度には気に食わない。
もしの御仁に付き従うのが苦ではない人間がいるというのなら、鈍いと罵られがちな青児より鈍感なのか、あるいは筋金入りの被虐趣味に違いない。

そこで青児は、あのう、となまえへ声をかけた。
先見の明やら深謀遠慮などという語とは、対極レベルでかけ離れていると自負している。
分からないことは聞けば良いのだ。
これが滅多にない機会なのは確かだ。
丁度、なまえと揃って暇をもてあましているところだし。
幸か不幸か、互いの同伴者はあの調子だし。

「あの、なまえさん、こんなこと聞いたら失礼かもしれないんですけど……。ええと、俺、気になることがあって。質問してもいいですか?」
「質問?」

鸚鵡返しに呟いたなまえは、素直に「わたしに答えられることでしたら」と頷いた。
突然こんなこと尋ねられても困るよな、とちらりと焦燥を覚える。
自分だって仮に誰かに「どうして皓のところにいるのか」と問われたとしても、簡潔に答えられる気がちっともしないのだから。
どうしようか、やっぱりやめておこうか、でも言いかけちゃったし云々、うじうじとあんじるものの、好奇心が勝ってしまった。
青児はええいままよと口を開いた。

「どうしてまた、なまえさんは……棘さんのところにいるんですか?」

あんな傍若無人、文字通りひとをひととも思っていない野郎のところなんかに、と言いかけた。
どうにかすんでのところで呑み込めたが。

「“どうして”、というと……」
「いやあのほら、めちゃくちゃ失礼ですけど、棘さんってひとに好かれるタイプには見えないっていうか。なんでなまえさんはいっつも一緒にいるのかなーって……。脅されて、とかじゃないですよね」

早口で補足して、はは、となんの役にも立たない乾いた苦笑を付け加える。
言い終える前から既に、不躾に踏み込むことじゃなかったと、今更ながらに自省の念がこんこんと湧いて出てきていた。
自分で話を振っておいてなんだが、後から悔いるから後悔とはよくいったものだ。
昔から、話題のチョイスミスには自他共に定評がある。
そんなものなくて一向に構わないというのに。

と、なにやらあちら方面――具体的にいうと舌戦冷めやらぬ凜堂棘の方から、威圧感というか、鬼気迫るというか、とにかく非常に不穏な空気がぶわっと飛んでくるではないか。
彼らとの距離から考えるに、青児の発言の内容が聞こえたわけでもないだろうに。

――えっ、もしかしてなまえさんに話しかけちゃ駄目だったりするんですか。
滝のような冷や汗が青児の背を伝った。
中折れ帽のつば下からめつけてくる炯眼けいがんは、モノローグが大正解だと知らしめるかのよう。
怨念という言葉もあるくらいだし、そのうち思念やら視線やらで、ひとを殺せるのではないだろうか。
知識が及ばないだけで、そういうたぐいの妖怪も既にいるのかもしれないが。

顔色をなくしてふるえている青児の窮状を知ってか知らでか。
問われた内容にきょとんとまじろいでいたなまえが、くすくすと笑い始めた。
鈴が転がるような笑い声は大層耳馴染みの良いものだったが、いかんせんそれも長々続くと、何事かといぶかしまざるをえない。
余程面白いことを言ってしまったかと、飛んでくる怨念に怯えつつ青児が「あの、」と声をかけると、ようやく発作が治まったらしい。
なまえが「すみません」と笑い混じりに謝罪しながら、笑口を隠すように上品に添えていた手を外した。
青児を見上げてふんわりと微笑んだ。

女の微笑は「やさしい」と称するにしくはない。
そのとき、青児の胸に去来した情動はなんだったのだろう。
自分の人生において、かつてこれほどまでに慈しみ深い笑顔を向けられたことがあっただろうかとふとよぎった。
「花がほころぶような」という形容は、きっとこういうものを指すのだろうとおのずとかいする笑みだった。
――あの・・凜堂棘を口にのぼすにはあまりに不釣り合いなのは間違いない。

「……ふふ、あのひと、あれでなかなか可愛いところがあるんですよ」

好ましく思うひとと一緒にいるのは、おかしなことではないでしょう? と。
青児の方へやや顔を寄せて声を潜めるさまは、まるで内緒話を打ち明けるかのようだ。
年端もゆかぬ女学生めいた頬の赤みは可憐で、大層愛らしいが――はてさて。

己れの目を棚に上げ、青児は「ひょっとしてなまえさんって、目がおかしいんじゃなかろうか」と思った。
もしくは頭の方か。
いずれにせよ棘相手ならともかく、なまえに対して直球に「正気ですか?」と吐くのはなんとか堪えた。

だから青児はただ思った。
なまえさん、めちゃくちゃ趣味が悪いんだなー、と。

・・・


「まったく、呆れる。お宅の駄犬は“待て”もできないんですか。ひとさまのものにちょっかいを出すなぞ、見下げ果てた低能ぶりだ」
「おや、なんのてらいもなく“ひとさまのもの”と吹くわりには、挙動ひとつが心配なようで。それほどなまえさんが信用ならないのなら、しっかり手元で監視なさってはどうですか」

流れるように軽口に軽口を重ねてやると、それまでの棘の業火じみた怒気が、すっと冷えた気配がした。
さては地雷か。
皓は、ふむ、と首を傾げた。
どうやら兄弟たちに続いて、連れる女も不用意にふれてほしくはない話題のひとつとみえる。

表情を消した能面じみた棘の面様おもようは、見ようによっては凪いでいるように判ずることもできたかもしれない。
無表情と、怒気の冷えた気配は、しかし冷静という語からは到底かけ離れていた。
むしろその逆。
その証拠に、すがめられた金色の目はいまにも射殺さんばかりに剣呑に光っている。
さながら薄氷。
怒気――否、まぎれもない殺気・・は物理的距離を取っていた青児が、挙げられたトピックも知らぬままに「ヒッ」と息を呑んだほどだった。
場を支配する禍々まがまがしい冷気は、さすが地獄の王たらんと情け容赦なく衆生の罪業を明かす悪鬼羅刹。
手放しで伏してぬかずきたくなるおぞましさ。
閻魔庁の約定がなかったなら、即刻この場で白牡丹を朱に染め抜いていたに相違ない。

――が、折も折、冷や水を浴びせるように「棘さん、」と女のやわらかい呼び声が響いた。
声音は、冷や水と形容するにはあまりに無粋、あまりに甘露。
夕焼けの公園で遊んでいる子に呼びかける母親めいた、呆れと愛情深さが滲んでいた。

意外や意外、その途端、吐く息すら凍りつかせんばかりの瞋恚しんいは雲散霧消し、その発生源たる男は開きかけた口をぴたりとつぐんだ。
薄い唇を皮肉っぽく歪めた棘は「なんですか」と、場違いなほど朗らかに笑っている女を顧みた。

「お話中に邪魔してごめんなさい。この暑さだもの。わたし、喉が乾いてしまいました。棘さん、行きましょうよ」

ね、と促したなまえの笑みは、拒否や口答えが返ってくるとはまるっきり想像していないだろう健やかさである。
実際、忌々しげに舌打ちをするや否や、凜堂棘はそれ以上言葉をかけてやる価値すらないと言わんばかりに、舌戦を繰り広げていた皓少年にくるりと背を向けたのだ。

――切り替えの速さは称賛に値するかもしれない。
にこにこと笑っているなまえを伴い、気障ったらしいステッキを突く男はさっさときびすを返した。
棘には気付かれないようちらりと振り返ったなまえが、挨拶代わりだろうか、皓たちへ目礼の笑みを残していった。

すわ乱闘かと戦々恐々としていた青児は、ほっと胸を撫で下ろした。
取り決めがある以上、流血沙汰にだけはならないだろうが、なにしろ面と向かって我を主張する意気地だとか、真っ当に責任を負う甲斐性だとか、そういったものから全力で逃げてきた人生である。
事なかれ主義などご大層なものではない。
使役するのが舌であれ手足であれ、互いの眷属・・であれ、元来、真っ正面きってのいさかい全般に向いていないのだ。

連れ立って歩く対照的な男女の後ろ姿を、「もう遭遇したくないな」とげっそりした顔で見送った。
隣の――百花の王のそばにいる限り、詮無い望みと知りつつも。
そんな感慨とも呼べぬ物思いにふけっていた青児の横で、ぽつりと独り言めいてこぼしたのは、当の死装束じみた薄墨色の着物を纏う皓少年だった。

「……ふむ。声高に囀るわりに、なまえさんにはどうにも弱い、と」
「皓さん皓さん、それあっちに聞こえたら絶対また面倒臭いことになるんで、もうちょっとだけ我慢できませんか」


(2022.06.23)
(2023.05.09 改題)
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