新研究棟の一角にその巨大水槽は備え付けられている。
新研究棟は、最先端の設備を備えた学術都市に相応しいなんとやら云々と謳って、学外へ向けたパンフレット等でもでかでかと喧伝されているものの、なにしろ新しく大型の施設をつくるとなるとスペースの確保が難しいのは当然で、結果、学生たちが授業で使うメインの本館やら駐輪場やらから距離のあるひどく不便な場所に建設された。
真新しく清潔、新進気鋭のデザイナーが手がけた学び舎は、見てくればかりはなるほど確かに立派なものだったが、悲しいかな、実のところおおむね不評だった。
上記の、本館や駐輪場といった必要不可欠な施設のみならず、屋外の実験場や調査室からも離れた位置のため、利便性の点で学生はおろか教授陣からもぶつくさ不平が聞こえてくる始末だったのだ。
とはいえ一応、良いところがないわけではない。
新しい研究棟は一部屋辺りのスペースが旧棟より格段に広かった。
もしも彼らの研究室が新棟へ割り振られなかったなら、ここまで大型の実験水槽は搬入できなかっただろう。

静けさの勝る室内に、水質管理機器の作動音が控えめに響く。
備え付けられた巨大な水槽にはなみなみと人工海水が満たされ、やや青臭いにおいがした。
人気ひとけのない新研究棟とあってか、他の研究室からは学生らしい喧騒どころか、物音ひとつしなかった。
室内には巨大な水槽と、女学生がひとり。
いや、「彼女」を頭数に含めるなら、ふたりと呼ぶべきだっただろうか。
傍らに放置されていた簡素なパイプ椅子を水槽にぴったり寄せ、なまえは水面とこちらとを隔てるアクリルガラスへもたれかかっていた。

透明のアクリル樹脂に額を寄せてなまえは斜めに水面を見上げた。
ガラス越しとはいえ、水を通して水面を仰ぐときらきらと光っている。
たゆたう水面が描くのは万華鏡めいたきらめきで、居住者の動きや気泡に合わせ、刻一刻と不可逆的な模様をつくりだす。
光源が他の研究室と同じ画一的なLED照明ではなく、濃い青空で輝く太陽だったなら、どれほど美しいだろう。
本来なんの用も関係もないはずの新研究棟でのんびりとなまえは目を細めた。
飽きずにずっと見てられそう、と。

「ねえ、オトメはここと海、どっちが好き?」
「キュ? “どっち”? ですか?」
「そう。ここから……わたしのところから見ていても、水面の光がきれいでね。こんな水槽じゃなくて、海ならどんなふうに見えるんだろうって思ったの。スクーバでもしなきゃ、人間は水面を見上げるの、難しいんだもん」
「えっと、あの……あたし、ナダから来たっておはなししました。よね?」
「うん。研究のために一時的にここにいるんでしょ」

大型水槽をゆったりと回遊しているのは、ひとよりやや大きい体長の白イルカだ。
いまはピンク色の水着――の範疇に収まるだろうか、ボディスーツのようなものを纏い、悠々と水槽を遊泳していた。
胸元にはちいさなリボンが付いており、可愛らしい印象に拍車をかけている。
深い知性を思わせる澄んだ瞳が説明のための言葉を探そうとくるくるまたたいた。

「ナダには、あたしみたいな知性化イルカが他にもいるのです。海と、こういう水槽? が、一緒になったみたいなところもあって……だから、あんまりどっちがどっちって、考えたことなかったかもなの」
「そうなんだ……どんな感じなのかな。わたしは普通の海しか知らないし。こんな大きな水槽、ここで初めて見たくらいだもん」
「なまえさん、いつか来てくれたらうれしいです。ナダのみんなもきっと喜ぶと思うの。……あたしたちのこと知ってくれるひとが増えるの、キュキュ! ってなります」

イルカは知能が高いということはなまえも知っていたが、いつの間に会話のできる生物が生み出されていたのやら。
原理だの仕組みだのといった生化学的、生理学的なことにはまったく理解が及ばないものの、なまえにとっては大した問題ではなかった。
愛くるしい見た目に加えて、純真な言動、そしてひとと関わることを好むやさしい生き物を、どうして嫌うことができるだろう。
部外者であるなまえにとっていまや新研究棟は「珍しい友人が住んでいるところ」くらいの認識だった。
男目当てとはいえ足繁く通っているうちに知性化白イルカと親しくなった彼女は、つぶらな瞳を見つめ「そうだね。行ってみたいな」と微笑んだ。

オトメについて、沙明に尋ねてみれば答えてくれるだろうか。
彼はここでオトメについて――動物の知性化について研究しているうちのひとりだ。
もし仮に説明してくれたとしても、理解できるかどうかはまた別の問題だったけれど。

「沙明さん、言ってました。ごりょうしん? も、研究してるって。沙明さんのおとうさんたちも、ナダに来たことあるのかな?」
「そうなの? ご家族も研究者なのは知らなかったな」
「はい。前に教えてもらったのです」

見ているとこちらまで頬がゆるんでしまう無邪気な笑みで「キュ」と鳴いたオトメに、なまえは驚いてぱちぱちとまばたきした。
彼もこうしてオトメと他愛ない会話を楽しむことがあるのだろうか。
そういえば生い立ちや家庭環境といった個人的な話を沙明と交わしたことがないという事実に、なまえは今更気付いた。

正課、課外問わずよくこの研究室に詰めている沙明のことだ。
オトメの方が彼に詳しいのは当然といえば当然といえた。
なまえと沙明との会話など、このところは大抵、薄暗い部屋、それも彼の寝室で行われるのがほとんどなのだから。
ましてこんな関係に至ってからは、金銭を介さないコミュニケーションの取り方すらよく分からない有り様だ。
肉体言語ってやつかなあ、とラキオ辺りに聞かれようものなら、心底馬鹿にされそうな与太がふとよぎった。
口元ばかりは笑みらしい弧を描きつつ、皮肉っぽい眼差しで「僕が君と同じ人類であることに、絶望すら覚えるよ。そもそも君、人類と呼ぶに相応の思考回路を有しているのかい?」だとか。
流れるように罵倒される光景を容易に想像できてしまい、なまえはひっそり笑った。

「ふふ……オトメはいいね。うらやましい」

独り言めいて囁く。
目を伏せれば、黒に近い濃い緑が眼前で揺れるさまをすぐに思い出せる。
昨夜、正常位で抱いてもらっている際、「熱い」と不評だったものの、背に腕を回してぎゅっと抱き着いていた。
ぴったり重なった上体、首元にうずめられた頭が、彼の言う通りひどく熱かったのを覚えている。
無造作に跳ねた髪が目の前でひょこひょこ揺れていた。
暗いグラデーションを描く緑色は見惚れるくらいにきれいで、思わず指で撫ですきたくなるほどだった。
ますます鬱陶しがられると分かっていたため、なまえが実行に移すことはなかったが。

水槽の横に立ち、波間の模様、淡い光を浴びる彼は――沙明の黒髪は、きっと暗い寝室で見るものと同じくらい、あるいはそれよりずっと美しいだろう。
いつもオトメは気兼ねなく眺められるのだと思うと、率直にうらやましいなと羨望の念が湧くのも致し方ないことだった。

「キュ、うらやましい、ですか……?」

腑に落ちないとばかりに、オトメは水槽のなかでくるりと身を翻した。
凪いでいた水面がちゃぷんと波打つ。
美しいラインを描く流線型のボディに、人魚と間違えられるのも仕方ないと納得しかけたところで、なまえは「それはジュゴンだったっけ?」と首を傾げた。

もしもためらいがちに「あのね、」と声をかけられなかったなら、そのままぼんやりイルカとジュゴンの違いについて不毛な悩みに意識を奪われたままだっただろう。
幸か不幸か、論理的ロジックという点において、彼女よりもずっと優れている知性化白イルカのおかげで、益体もない疑問はあっという間にどこかへ飛んで行った。

「えっと、なまえさんは……なまえさんなの、あんまりうれしくないです? あたし、人間さんなの、いいなあって思うの」
「え? ああ、んー、嬉しくないっていうか……、人間とかイルカとかじゃなくてね。オトメがいいなあって思っただけだよ」

なまえの笑みに、嬉しそうに「キュ!」と目を輝かせたオトメは、しかし続いた「沙明とも仲良いし」とのセリフに、途端にまた顔を曇らせた。

「あの、なまえさん……ムキュ」

水面からオトメが顔を出してなまえを見つめていた。
浮かんでいるのは気遣わしげな表情だ。
愛くるしい海洋の哺乳類が、実は表情豊かであるとなまえが知ったのは、オトメがきっかけだった。
なかんずく彼女が多彩な感情表現を持っているだけなのかもしれないが。

「あっ、別に深い意味はないよ? オトメみたいに、わたしも沙明と仲良くできたらいいなって思っただけ」

うやらましいと一口に言っても、オトメに対して疎ましい、ねたましいといったネガティブな感情はなまえにはこれっぽっちもなかった。
特段、熟慮しての発言ではなく、親の職業というドメスティックな話題について言及するほど沙明と深く交流できることが、文字通り「いいな」と思ったに過ぎない。
イルカに気を使わせてしまった……と人生で初めての経験になまえがどこか感慨深いものを抱いていると、ふいに研究室の殺風景なドアが開かれた。

「あー、掃除しねーとウゼエ勧告、そろそろ届ちまうな……」

水質管理や種々のモニタやパイプ等、様々な機器類により、室内は雑然とした空気に支配されている。
たまにやって来る抜き打ちチェックのために、床に積み上げている書類の束や書籍たちを、監査の目をごまかす程度には整えなければならない――その手間を考えて彼は溜め息をついた。
来年度もこの新棟の研究室を確保するためには「きちんと有効利用していますよ」と体裁を整えなければならないのだ。
真新しい新研究棟の一室は、年季の入った老教授の教授室と良い勝負ができてしまうレベルで、確かに乱れ放題ではあった。
ちなみに既に一度、整理整頓しろとの有難い「勧告」とやらが通達されている。
研究室なんだから研究に専念させてくれや、というのが顔をしかめながら入室してきた一研究員の言い分だったが。

とつおいつこぼしながら現れた青年の顔は、一際目立つ水槽と、あたかも担当教員よろしく横に座っている部外者を視認するや否や、それはそれは迷惑そうなし口に変わってしまった。
水槽からオトメが「おつかれさまです、沙明さん!」と声をあげた。

「んで? なーんでここになまえがいんの? 俺、立入禁止つったよな? あ? いくらなんでも物覚えが悪すぎンじゃないですかねェ」
「ガールズトークしてたんだよ。ね、オトメ」
「……そうなのです。なまえさん、いっぱいおしゃべりしてくれます。あたし、ガールズトーク? できて、嬉しいの」
「ふふ、なあに、沙明ってばやきもち? 心配しなくてもわたしは沙明一筋だから安心してよ」
「なァ、オトメ。そういやナダから連絡が来てたぜ。あちらさんからアンタ個人宛のメッセージもあっから、見といてくれよな」
「こういう無視が一番堪えるんだよね……」
「キュ、キューン……」

三者三様、他愛ない会話にくすくす笑っているなまえを、思慮深いちいさな瞳が物言いたげに見つめていた。


(2022.06.04)
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