「――いくらで?」

着信を知らせるスマートフォンの画面をちらと見下ろし、心底億劫そうに顔をしかめる人間が一体どれくらいいるだろうか。
あまつさえ嫌々ながらも電話に応対したかと思えば、世間一般の誰何すいかやら挨拶やらを抜きにして、まさか第一声がこれとは。
誰が予想できただろう、すくなくともシピは困ったように眉根を寄せた。
スマートフォンを掲げる沙明の向かいに座っていた彼は、通話を終えるのを無言のまま待っていた。

一階学生課前のロビーは、用件によっては短くない時間を待たされることもままあるためか、公共施設の待合スペースよろしくソファが何脚か設置されている。
学生生活全般に関する相談を受ける課の窓口は、正課の講義時間を過ぎたとあってほとんどが閉ざされ、対応可を示すブラインドがふたつみっつ上がっているだけだった。
ロビーにたむろする何組かのグループも、課そのものが目的ではないのだろう、めいめいに集まってソファでだらけているのがぽつぽつと散見するばかりである。
至って平和な夕暮れ時は日中の慌ただしさも薄れ、なんとなくのんびりした時間が流れていた。

「……なまえか?」

沙明がスマートフォンを置いたタイミングを見計らい、シピは尋ねた。
なんともいいがたい微妙な表情はあえていうなら「毛玉を吐き出す直前の猫」によく似ている。
いつも彼と共にいる黒猫を撫でながらとあってか、猫に関する形容が容易に頭をよぎった。
撫でられる猫は心地よさそうにうっすら口を開けているものの、主人と同じく、どこか物言いたげな面構えをしていた。

「あ? ンンー……いまの電話? よく分かったな」
「そりゃ分かるだろ。お前が他に金でどうこうする相手がいるっていうんなら、知らねーけどよ」
「いやいませんわ。ヘコむわー、俺そんなクソ節操なしだと思われてんの?」

つっても、まーそんな間違いじゃねェけど、と沙明は笑った。
学内のファストフード店で買ったばかりの使い捨てドリンクカップのなかで、大量に投入された氷ががらがらと騒々しい音を立てた。

学部も学年も異なる沙明とシピは、縁あって――偶然、学内を闊歩するシピの猫に、沙明がちょっかいをかけたのがきっかけだった――顔を合わせるたび会話を交わす程度には、親しく付き合っていた。
後者がおおらかで人当たりも良く、些細なことにこだわらない性根の好青年だったおかげもあるかもしれない。
良くいって大雑把、悪くいえば軽薄かつ他者への興味が薄い沙明と、当人の性質もあっておおむね好意的に受け入れられてはいたが、ひとの多い教室だろうと教授の研究室だろうと常に猫を伴っているシピと。
性格も交友関係もまったく似た要素がなかったものの、ふたりとも安易に他人の事情に踏み込まないし、踏み込ませもしないという共通点のおかげか、周囲の人間が思っているよりずっと友好的な関係を築いていた。

そして議題をうやむやにするような沙明のセリフ回し、雑談に対する他者のリアクションは、憤慨、軽蔑、あるいは無関心といったネガティブなものが占めがちだった。
彼自身、そういった反感をすくなからず想定した上での口上なのは否定しないだろう。
しかしなまえとの通話中からずっと、呑み込めぬものが喉に引っかかったような顔をしていた男の返答は、そのどれでもなかった。

「……沙明は、なまえから金取るの、やめるつもりはねーのか」

ひとの好さそうな太めの眉をひそめたまま、実直な眼差しでシピが呟いた。
声音は平生よりワントーン低い。
年上の男の滅多にない様相に、沙明はぱちぱちと目をしばたいた。
常に共にいる黒猫も相まってか、彼には猫じみて気詰まりな空気を不得手とするイメージがある――勝手に抱いている印象だがそれほど的外れではあるまい。
その彼が真っ正面から、他人の繋がり、人間関係のしがらみに口を出してきた。
珍しいこともあるものだと、不快感よりも驚きが勝る心地で、沙明は噛んでいたストローから口を離し、大仰な仕草で両手を広げた。

「おっとぉ、お説教タァイム? シピサンてばこんなとこでおっぱじめるつもり? オゥキィドゥキィ、優しくしてくれよ」

へらへらと軽薄を絵に描いたような笑みを浮かべる。
くちばしをれるべくもないとはいえ、やはり金で誰かとどうこうしているなんぞ聞いていて気持ちの良いものではないのだ。
会話するのと同じくらい日常的になまえと金銭のやり取りをしているせいで、その辺りの感覚が鈍ってしまっていたようだ。
シピに指摘されて初めて気が付いたが、そういえばなまえからの連絡はなにがしかの要求に限られているため、払われる金額を問う返答ばかりだったかもしれない。
反省しつつ、とまれ心密かに「まー、金でも貰わねェとやってらんねーことばっかり、あいつ要求してくっからな」とこぼしていると、案の定いささか陰った声音で「沙明、」とたしなめるようにシピが言葉を継いだ。

「沙明、俺は――」
「へいへい、シピ、お前はいいやつだよ。だからさ、それ以上お口はチャックしててくれね? な?」

妙に真面目くさった面持ちのシピに、沙明は殊更にあっけらかんと「マジ過ぎな」と肩をすくめた。
おそらくシピも特段なまえのことを心配してるわけではないだろう。
にもかかわらず真摯に言い募ろうとする彼に、沙明は内心「変なトコしっかりしてンなあ」と苦笑した。

「あ、そういやシピにゃ教えとくか。俺、引っ越したわ」

馬鹿正直に「なまえの金で」とは言わなかった。
さすがにそのくらいの配慮やら慎みとやらくらいは一応、持ち合わせている。
滅多に発揮されることのないレアな心遣いとは裏腹に、相変わらずシピの眉間のシワは晴れた気配はなかったので、もしかしたら呆気なくバレていたかもしれないが。
しかし物分かりが良い彼は、疲れたような、諦めたような笑みでゆっくりと頷いた。

「沙明の部屋、狭かったもんな。……覚えてるか? しげみちと泊まったときさ、あいつ、壁に激突してたろ」
「アッハァ、ありゃしげみちにも原因があると思いますけどねェ。ま、今度の家は、んな心配はないわけよ。そのうちあいつも呼んで飲むか」

笑いながら、沙明は飲んでいたカップを見下ろした。
大量の氷が邪魔をして飲みづらい。
がらがらと音を立てて振りつつ、安っぽいプラスチックの蓋を取り外そうか逡巡したところで、いつの間にか噛んでいたらしいストローがぐずぐずになっていることに気付いた。
噛み跡のついたプラスチックストローを見下ろし――ふと、昨夜もなまえの肌に歯を立てたことを思い出した。

無論、自分が望んでそうしたわけではない。
最中に押し付けられた紙幣と、なまえの「キスマークつけて」との要求に従ったまでに過ぎない。
服で隠すことのできる太腿をはじめ、胸元や腹といった場所に要望通り吸い痕を残していった。
挿入していると、そのたびになまえが、ぎゅうっとナカを締め付けるものだから、射精の瞬間、思わずうずめた肩へ一際強く歯を立ててしまった。
熱を上げたやわい肌。
いびつな歯の痕。
滲み出る血液。
吐精した数瞬後、冷水を浴びせられたように青ざめた彼が謝るより先に、なまえがとろとろになった笑顔で「すっごく気持ちよかった……」と追加の金を押し付けてきて、沙明は謝罪のために開きかけた口をつぐんだ。
あのとき去来した情動がなんだったのか、彼はいまもよく分からずにいる。

そこまで回想に沈んでいた沙明は、げっと顔をしかめた。
なまえとの関係は「金を受け取り相手をする」、すべてこれに尽きる。
にもかかわらずたかがストロー一本でここまで彼女のことをつい思い起こす――たったこれだけの日常動作にまで影響が及ぶなんて、なまえばかりではなく自分に対しても無性に腹が立った。

――なんで俺がこんな気分にさせられてんの。
腹立ち紛れに窓の外に目を転じれば、丁度、忌々しい感情の元凶、くだんの女が通りかかるところだった。
先程の電話で、学生課前のロビーにいると聞くなり「いまから行く! お金ちゃんと払うから待っててね」と言っていた。
宣言通り、迎えに――沙明にとっては連行・・とさして違いはないが――来たらしい。

「ありゃあ、なまえと……」
「……噂をすればンーフーってな」

沙明の険のある視線を追ったシピは、途端にまた眉をひそめた。
窓の外の通路をなまえが知らない男と歩いていた。
そこそこ距離があるため、会話の内容までは窺い知れなかったが、どうやらなかなか盛り上がっているのが見て取れた。
男の方は、隣のなまえに歩幅に合わせてやりつつ、穏やかに頷いている。
なまえは身振り手振りでなにかを伝えようと、白い手をひらひらと忙しなく動かしていた。
爛漫な笑顔は、ともすれば好意を持って近寄りたいほどに愛らしくはある。

いくらめつけようと信じられる気がしない。
ああして朗らかに笑っている学友が、昨夜、自分のベッドで浅ましいにも程がある善がり声をあげていた女と同一人物だとは。
あの男は知っているのだろうか。
服で隠れたあの白い肌に、いまも自分の歯の痕が残っているのを。

先程の電話での「お呼び出し」はあの男の横でかけたものだったのだろうか。
どんな顔をしていたら「ねえ、沙明、授業終わったよね? どこいる? 一緒に帰ろ」なんぞ吐けたのか。
まるで本物の恋人同士のように親しげに接する男が近場にいるのならば、わざわざ自分に金を渡してまで相手をさせる必要などなかっただろうに。
――アレの相手が終わったら、俺の番ってワケな。

沙明は頬杖をついたまま、心底面倒臭げに「はッ」と鼻で笑った。

「……お前はそれでいいのかよ、沙明」
「“イイ”も“ダメ”も、そもそもあいつが言い出したコト、てのお忘れ? 俺にゃ関係ねェじゃん。……そんでお前にもな、シピ」

・・・


「いくらなんでも趣味が悪すぎる」
「ふふ、バッサリいくねえ、セツは」

開口一番きっぱりと言い切ったセツに、なまえはへらりと相好を崩した。
いっそ小気味良いほどの断言っぷりに、反論する気も起こらない。
にべない切り口と同じく、赤い眼光も大層鋭く、もしかしたら傍目には相手方を詰問しているかのように見えたかもしれない。
しかしそれが他でもない、自分への心遣いからくるものとよく理解していたため、なまえは「セツが心配するようなことはなんにもないよ!」と返すしかなかった。

「知ってるでしょう。沙明は女の子全般に酷いことするようなひとじゃないもん」
「当然のことはアピールポイントにならないんだよ、なまえ。それに私は、酷いこと以前に相手が沙明という時点で反対なんだ」

常日頃から極めて冷静で、公明正大を体現したようなひととなりのセツにここまで言わせるとは。
すっきりと整った目鼻立ちがその印象をぶち壊してしまうのにためらいがないらしい。
それはもう嫌そうに顔をしかめている大の親友を前に、なまえはどこかずれた感慨を抱いた。
――セツにこんな表情をさせちゃうなんて、沙明はすごいなあ、と。

学内につくられたカフェは昼食時とあって盛況だった。
校内にはより安価な学食やファストフード店もあったが、単純な量よりもビジュアルや品目、バランスに重きを置いたメニューと店構えのためか、比較的女子学生の割合が多く、なんとなく華やかな雰囲気に満ちている。
その片隅でアイスティーを嚥下しながら、なまえは親友の渋面を苦笑でもって受け入れた。

「うーん、沙明はなにをしたら、ここまで目の敵にされるようになっちゃったの」
「……すまない。思い出したくもない」

セツと沙明の間になにがあったのか。
非常に気になるものの、この調子では答えを期待するだけ無駄だろう。
言いたくないことを無理に聞き出したいわけもなく、なまえは「ええ〜、気になるなあ」と当たり障りなく笑いながら、水滴の浮いたグラスを、つっと指でなぞった。
指先が冷たく濡れる感触に、ふと口の端に上るひとのことを思い出した。

昨日も「一緒に帰ろう」と電話で呼び出したら、心底面倒そうではあったものの応じてくれた。
学生課前で雑談していた彼とそのままアパートにお邪魔して、結局いつものように金を押し付けて、食事をして、セックスをして、風呂に入って。
「なまえサンはいつまで居座るつもりなんですかね〜……」と渋る彼に、また金を渡し「泊めて」と押し切った。
つい最近とうとう引っ越しを果たし、寝室と呼ばれるスペースができたおかげでダブルベッドまで導入した。
大きいサイズのものを据えた結果、前のように「ベッドが狭いから」と宿泊を突っぱねるカードを沙明が切りづらくなったのを、なまえはなんとなく察していた。
本人は嫌がっていたので、あからさまに表立って喜ばないようにはしていたけれど。

指を濡らす水滴、冷たいグラス。
それらは容易に彼の肌を思い起こさせた。
昨夜――最中、素肌を伝う汗をなぞった指先をうざったそうに振り払われたときのことを。

さわられるのが嫌なのかなと首を傾げる。
アイスティーをまた一口嚥下した。
心地良い冷たさに、「わたしにさわられるのが」とよぎった妙に悲観的な思考も霧が晴れるようにすっかり消え去った。

「でも、ね、沙明って相手してくれるだけ優しくない? お金もらってでも関わりたくないって言われてもおかしくないのに。んー……それとも、困ってたら他の子とも同じことしちゃうのかなあ……。――よし、他の子に貢がれないように頑張ろ」
「だからどうしてそう思い切りがいいんだ。悪い方向に」

これ以上ないというほどセツは顔を歪めた。
独り言めいた不穏当な呟きに、いくらなんでも苦言を呈さざるをえない。
たとえ彼女の心証を害したとしても、だ。
――なにしろなまえは大事な親友なのだから。
彼女たちは学部やサークルといった所属どころか、その生い立ちも大きく異なっていた。
しかし偶然とはなんとも奇妙なもので、それぞれの親たちの都合により、幼い頃に共に育った時期があった。
幼いなまえが「大きくなったら、セツのお嫁さんにして!」と告白した顛末は、未だふたりのいとけない思い出である。
大学で再会するまで長年離れ離れになっていたが、変わらず親しい関係を続けられているのは、セツとなまえ、性根や得手不得手はまるきり異なっているものの、他人と仲を深める技能に長けているとは言いがたい点が似ていたのも理由のひとつかもしれない。

「……なまえ。君の考えや判断に口を出すべきではないと分かっているつもりだよ。それでなくとも私は……恋愛感情を、知識や情報としてしか理解できないから。なにより誰かを思うのを否定したくはない。だけど……」
「セツってばそんなこと言って。わたしとは、いつもこうして時間を割いて会ってくれるじゃん」
「なまえのことは、ひととして大切に思ってるからね」
「ふふ、ありがとう。わたしもセツがすごく大切だよ。他の誰とも比べられないくらい。できるだけ心配させたくないって思ってるのも本当なんだけど……」

つらつらと告白めいた文言を並べられ、不意を突かれたセツは思わず閉口した。
さながら口説き文句じみた言い回しだったが、ふざけて冷やかす意図もなく、なまえのそれは一途かつ心からのものだ。
真剣な眼差しに、セツは素っ気なく「……ありがとう」と返すに反応を留めた。
真っ白な頬は平生に比べて紅潮して、面映げにぱちぱちとまばたきを繰り返してはしていたが。

しかしなまえが「付き合えなくてもいいから、沙明に相手してもらいたいんだもん」と続けた瞬間、即座に苦り切った表情に戻ってしまった。
苦虫を噛み潰したようなという比喩は、いまのセツの顔ばせこそ指すに違いない。

明るい金色の髪がくしゃりと乱れるのも構わずセツは頭を抱えた。
――誰だってそうだろう。
たったひとりの親友から「金を払って抱いてもらっている」などととんでもないことを打ち明けられて、涼しい顔を保てるというのなら、まずその者の無頓着ぶりをなじってしかるべきだ。
おまけに相手が想像の埒外らちがい、個人的に飛び抜けて好ましく思っていない男ならば尚のことである。

頬をゆるめて「すごい顔してるよ」と穏やかに笑う十年来の親友が、なにを考えているのか、どうしてそんなことをするのか、ちっとも分からなかった。
彼女の行動をすべて把握しようなどと傲慢なことは考えていないし、そもそも理解できたためしもない。
しかし同性異性問わず、他者に対して性的な関心や興味を持たないセツにとって、なまえの行いは不得要領で、そしてひどく危ういものに思えた。
ひとの数だけ考え方や感じ方があるように、とりわけ恋愛だの性行動だの、ひとの性的指向に関する分野では、なにが正しく、どれが誤っているか、ひとつひとつ指を指して示すのは、きっと俎上そじょうに載せたいけ好かない男に強いて好意を抱くよりも難しいことだ。
それでも理解したいとセツが望むのはたったひとりの親友を大切に思っているからで、彼女の選択ならば何にまれ、こちらも応援してやりたいのは山々だったが――。

「よりにもよって、どうして沙明なんだ……」
「酷い言われようだね……。そう邪険にしないであげて。沙明、セツのことは大好きなんだから」

なまえは屈託なく「わたしも、セツを好きになれば良かったのかなあ」と笑っている。
セツは本日何度目か分からない溜め息のカウントをまたひとつ増やすことしかできなかった。


(2022.05.31)
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