そのとき傍らに彼女がいたのが悪かったのかもしれない。

やっべ、と呻き声が口を衝いて出た。
文書の通知として形式だけは整っている紙切れは、よくもまあこれほど素っ気ない文言を並べられたなと感嘆しかねないほどの簡素さである。
資源の無駄遣いとしか思えない余白たっぷりのそれを見なかったことにして、くしゃくしゃに丸めて投げ捨ててやろうか云々、不穏なたくらみを募らせていたところで、女性向けのファッション雑誌に目を注いでいたはずのなまえが耳ざとく「どうしたの?」と反応した。
パステルカラーのフォント文字が踊る紙面は彼女がわざわざ持ち込んだもので、 狭いとはいえ落ち着いたモノトーンの彩色でまとめられた沙明の部屋ではひどく浮いて見えた。
雑誌から彼女ごと目を逸らし、沙明は唇をひん曲げた。

「……あー……家賃の催促。はやく払えって大家にせっつかれてんの」

ぺらりと示してみせたA4サイズのコピー用紙には「滞納した家賃を二週間以内に払わない場合は出ていってもらう」との要旨が、妙に硬苦しい文体で綴られていた。
進学をきっかけに辺境の片田舎から出てきて、このワンルーム――とは名ばかりの六畳一間のボロアパートに沙明が住んで、もう三年ほどになる。
どれだけ甘く見積もってもゆとりなど皆無ということは、手狭な居住空間、切羽詰まった惨状を見れば瞭然である。
実家へ仕送りもしている彼に金銭的な余裕はなく、この情もへったくれもない簡素な通牒つうちょうを受けるのも、なにを隠そう、初めてのことではなかった。

そんなことを恥ずかしげもなくつらつらと教えてやっていると、ふうんと気のない返事をしたなまえが、なにを思ったか雑誌を閉じて身を乗り出してきた。

「ね、代わりに出しておこうか?」
「ありゃまなまえサンってば。ヤブからンーフー? 出すってナニの話よ」
「だからぁ、家賃。わたし、結構お邪魔してるし。ちょっとくらい出させてよ」

言いながら財布を取り出す来客に、沙明は呆れた顔をしてしまうのを堪えられなかった。
当然だろう、偶然家賃催促の場に居合わせたからといって、ただの学友の居住事情においそれと首を突っ込むものだろうか。
すくなくとも自分なら「払うもん払っとけよ」と笑ってそれで終わりだ。
そもそもいまのいままで我が者顔で部屋に居座り、あまつさえシュミの悪い雑誌を楽しんでいるのも許容していたが、どうぞお越しくださいと彼女を招いた覚えはさっぱりないはずだった――それもよりにもよってこんな真夜中に。

「そういや呼んでもねーのになんでいんの、なまえチャンは。ちったぁ警戒しろって。んな夜中、気軽に男の部屋に来るってどーよコレ」
「終電のがしたって説明したでしょ。それに、ちゃんとお邪魔しますって言ったもん」
「こりゃビックリ。なるほどねぇ。俺ぁいつでもお邪魔してどうぞッて言った覚えもねーけど」
「沙明、話そらそうとしてるでしょ」
「オーライオーライ、んな睨むなって。……なんにせよ、金借りんのはゴメンだぜ。トイチとかおっかねぇこと考えてんなら、ヨソ当たってくれよ」

沙明は降参をアピールするように、素っ気なく両手をひらひらはためかせた。
「なに言ってんのこいつ」というあからさまに胡散臭そうな面差しが目に入らないのだろうか。
ネガティブな反応にひるんだ様子は一向になく、それどころかなまえは不満を訴えるように、むっと唇をとがらせた。

「じゃあ返さなくていいから。代わりに、沙明、わたしの言うこと聞いて。それならお互いプラスでしょ?」
「アーハン? 金払ってやっから肉奴隷になれってか。ご奉仕強要しちゃうとか、なまえサンてばカワイイ顔してえげつねーヘキでもあんの? 俺、ナニさせられちゃうワケ? ンン?」

沙明は己れの茶化すような物言いに、さっさと諦めてくれないかという期待がそこはかとなく滲んでいることを自覚していた。
決して焦っているわけではないものの、なぜだか取り返しが付かない道に向かって突き進んでいるかのような焦燥にかられていた。
それもこれも、真っ直ぐ見つめてくるなまえが余程のことではごまかされそうになかったためだ。
どうして都合の良いはずの申し出をこれほどかたくなに突っぱねようとしているのかまでは、自分でもよく分からなかったが。
すくなくとも彼女の親しい友人であるセツ辺りに吐こうものなら、腰の入った右ストレートで沙明の言うところのヘヴンを見せてくれるか、付き合いきれないとばかりに無言でさっさときびすを返したに違いない文言が、すらすらと口から流れ出る。

しかしながら良くも悪くも普通でない女は、大人しくうやむやにされることはなかった。
なまえはぱっと破顔して声をあげた。
一言、「キスして!」と。

「……パードゥン?」
「だからキスしてって。あわよくばちょっと沙明にさわらせてほしい」
「……。そういやなまえ、最近よくオトメに会いにきてるらしいけどさ。気軽に来んなよ研究室。学生だろーが部外者は立ち入り禁止っつってますよねェ?」
「もう、しげみち相手みたいな雑な流し方やめてよ。確かにしげみちとしゃべってるとき、ラキオに“君たちの会話を聞いてると、頭痛を覚えるよ。おめでとうとでも言っておこうか。同レベルだね、君たち”って言われたことあるけど。なんであんな長文でしゃべるのラキオ」
「カーッ、マジかよ。リアリィ? なにがあるかわっかんねーな、人生。ラキオに賛同できる日が来るたぁな!」

へらへら笑ってみせるものの、なまえの熱の入った面差しは小揺るぎもしなかった。
やはりいっかな引く気配はない。
近距離から真っ直ぐ向けられる眼差しに耐えられなかったわけではない――が、顔を背け、沙明はがしがしと乱雑に頭を掻いた。
ゴーグルがずれるのも構っていられなかった。

「……自分がなに言ってるか分かってんのかよ。そんなんでキスとかヤっちまったりできんの? お前。引くわ、普通に」
「えー……普通普通って言うけど……沙明に正論で諭されるとは思わなかったな。もしかして熱ある?」
「ドーント・ハァブ・フィーヴァア。どさくさに紛れて顔面さわんな。指紋つくだろ、メガネ」
「ごめんごめん、あ、慰謝料ってことで、はい。家賃、これで足りる?」

テーブルにぽんと置かれた紙幣数枚。
沙明は苦虫を噛み潰したような表情で見下ろした。
なまえが提示したそれは、足りるどころか、ボロアパートの滞納しているふた月分の家賃を払ってもなお釣りがくる金額だった。

涼しい顔でさっさと財布を鞄に仕舞ったなまえに、「……んでそんな金払いたがんだよ」と低く呻く。
目元にしわを寄せて睨みつける彼の相貌は、嫌悪などと一言では到底言い表せない暗い情動が潜んでいた。

金の多寡ではない。
ただ単になまえの行為そのものが気に入らなかった。
権力、あるいは金を多く持つ者が、持たざる者を己れの意のままに扱い、使い捨てにする――そんな不条理を垣間見たのは彼が幼少の頃のことだった。
軽々しく紙幣を積んでみせた彼女の行為は、吐き気のする過去を容易に彷彿とさせた。
無論、役に立つなら程度の考えで、露悪的な意図などはじめからなまえにはないだろう。
しかし金で他人をどうこうできるという趣意の物言いは虫唾が走るものだった。
なまえが彼の過去を知るはずがないと理解はしていても、幼少期の経験に根差した嫌悪感ばかりはどうにもならない。

「……なんで俺なんだよ。金で買えそうで都合がイイってか? ハァン、光栄だぜ。欲求不満のなまえチャンのお相手に、極貧の俺ァピッタリだったってワケだ」
「そんなこと……」

女好きを公言してはばからない彼にしては極めて珍しい、刺々しい口調と形相。
滅多にない様相は最早敵意とすら呼んで差し支えなく、吐き捨てられた言葉の数々に、なまえは戸惑ったように目をしばたいた。
薄い唇を皮肉げに歪めている沙明をなだめようとしたのか、あるいは反論しようとしたのか。
なまえはやおら口を開いた。
面映そうに頬を染め、微笑んで――

「あ、ぁう……ん、っ、沙明……?」

なまえが不思議そうに小首を傾げていた。
浮かぶ表情はいつも通りなにも考えていないのが伝わってくるほどあどけないが、そのちいさな唇は先程までの長ったらしいキスのせいで、どちらのものか分からない唾液に濡れてひどくいやらしく光っている。

いつものように金をもらってなまえを抱いている最中、いつの間にか過去にトリップしていたらしい。
沙明は素っ気なく「別に」と呟いた。
既に一度射精したためだろう、狭苦しい部屋には湿った青臭いにおいがこもっていて、換気のために窓を開けたかったが、腰へ脚を絡ませたなまえは離してくれそうになかった。
いまも、あのときも、「キスして!」という要求はキスだけに留まらず、結局、性行為にまで至って、金を受け取った数時間後にはこのにおいが窮屈なワンルームに充満していた。
だからあのときのことをつい思い出してしまったのだろうか。

物言いたげななまえを、腹奥を埋めたままだったモノで突くことによって黙らせる。
思考をとろかす不意打ちになまえが「ふ、ああぁっ!」と甘ったるい悲鳴をあげた。
どろどろにとろけた顔のまま彼女は財布から現金を取り出した。

「も、ごまかさないでよ……。沙明、ねえ、いまだけはほかのこと、考えないで……」

「普通」というものが彼にはよく分からなかったが、すくなくともセックスの合間、金を渡し注文を付けてくる女が「普通」だとは到底いえないことだけははっきりしていた。
――そして、受け取る方も、もしかしたら。
大人しく「へいへい、りょーかい」と紙切れを握ってやれば、なまえはそれはそれは嬉しそうに相好を崩した。
春に蕾がほころぶようなやわらかい笑顔に、頭のなかがぐちゃぐちゃに煮崩れていくかの錯覚に陥る。

「ッ、は、あー……出そう」
「あ、はぁ……! らして、いっぱいっ、なまえにだしてっ、あ、あ、きもち、いいっ、すき、沙明、好きぃっ……!」
「うるせえよ。後で壁ドンされんの俺なんだから、……っ、んなヨガり声出されちゃ困るワケ。お分かり?」
「っ、う、ごめ、ごめんなさ……沙明、しゃみ、すき、」

最初はイイ財布ができたと思っていた。
そのはずだった。
顔や体、抱き心地も悪くない。
折にふれてなまえが金を渡してくるものだから、いまやもうすこし広い住居へ引っ越そうかと考える程度には、沙明の糊口ここうを凌ぐ生活に余裕が生まれてきたのも事実である。
なにしろ最中のなまえの喘ぎ声はうるさく、築年数が自分の年齢以上の木造アパートでは防音に難がありすぎる。

――今更、口が裂けようと言えるはずもない。
憎々しげに「なんで俺なんだよ」と問うたあのとき、面映そうに頬を染めて笑っていたなまえのことも、告げられた「沙明だからだよ」という理解に苦しむセリフも、いまは
嫌になるほど分かってしまっている・・・・・・・・・・・・・・・・なんて。
金を払い、そして受け取って成り立っているこの関係から逸脱する気も更々ないくせに、なんということだろう、どんどん気持ちが傾いていって、こんなはずではなかったのにと歯噛みしている自分の愚かさを――彼が直視する必要はなかった。
なにしろ「いまだけは他のこと考えないで」と金を払ったのはなまえ当人なのだから。
沙明は目を閉じ、鬱陶しいほど一途に見つめてくるなまえの瞳から逃げた。

ほの甘い髪の香りだとか、やわらかい肌だとか、縋ってくる火傷しそうなほどの熱だとか、必死に我慢しているか細い喘ぎ声だとか。
幸せそうに繰り返される「好き」という言葉だとか。
そんなものばかりが頭を占めて気がふれそうだった。


(2021.12.08)
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