――俺が、金のにおいで興奮するようなクソ変態にでもなっちまったらどうしてくれんのコイツ。
苦々しい思いに駆られるまま、沙明は顔をしかめた。

嗅覚は記憶と強く結びつく。
視覚、聴覚、味覚、体性感覚といった五感は、間脳の視床において情報が取りさばかれている。
しかし五感のなかで唯一、嗅覚だけは処理方法が異なるのだ。
鼻腔の受容器によってにおいが探知されると、分析するために嗅球へ運ばれたのち、間脳ではなく、扁桃体と海馬という記憶と感情を扱う部位へ信号が伝えられる。
脳のなかで海馬は記憶を司っている。
そのため海馬へ伝えられたにおいの情報は、視覚や聴覚で得たものよりもずっと密接に、記憶と結びついているのだ――マドレーヌと紅茶の香りが幼少期を思い出させると、かつて書かれたように。

そして金銭、とりわけ紙幣というものは独特のにおいがする。
使用される紙元来のものなのか、あるいはおびただしい数の人間の手指を介した結果染みついたにおいなのか、彼は知らなかったし、知りたいとも思わなかったけれど。

風を受けてカーテンが揺れるようにそんなどうでも良い知識が思考の片隅をするりと流れていくのを、沙明は他人事のように感じていた。
押し付けられた紙幣を見下ろす。
次いで、金を手渡そうとしてくる犯人、なまえを胡散臭そうな目で眺めやった。

彼の下で仰向けに寝転がったなまえが、とろけた顔で紙幣を握っていた。
紅潮した頬、濡れた瞳、一糸纏わぬ裸体、そして大きく脚を開いて雄を咥え込んだソコを恥ずかしげもなくさらして、ゆるゆるになった唇から嬌声と唾液とを垂らしていた。
すり寄ってくるなまえから鬱陶しいと言わんばかりに上体を反らしつつ、沙明はこめかみを流れ落ちた汗を乱雑にぬぐった。
普段は冷え性のくせに、セックスの間だけ火傷してしまいそうなほどの熱を孕む女の肌の感触がうざったくて仕方がない。

「ハッ、さっきまで“もう無理”なんざアヘってやがったのは、どこのどいつなんですかねェ。あ? 金押し付けちゃえるくらい余裕なんですけどって言いてーの?」
「ちが……っ、そんなことない、よ……あ、あぁっ、」
「んじゃ、せめて大人しくしといてくれって。ヤッてる最中、金がべたべた引っ付くの気持ち悪ぃんだわ。なまえサンは知ったこっちゃねェつー話かもしれませんけど。シュミ悪ィんじゃねーのマジで」

なまえは一拍呼吸を呑み、やたらに饒舌な沙明を見上げた。
なにか気に障ることでもしてしまっただろうか。
不快げに顔をしかめており、元から良いとはいいがたい目付きがますます険しさを増している。
渡す金額がすくなかったのか。
いつものように金を払い、いつものように抱いてもらっている最中だというのに、いつにも増して不機嫌そうな沙明の表情に、途方に暮れる心地がした。
金を払ってセックスをしているだけの間柄で、面と向かって「どうかしたの」「なにかあったの」と尋ねても良いものか考えあぐねたなまえは、結局、彼の腰に両足を絡ませるだけに反応を留めた。

揺さぶられるたび、ぎ、ぎ、と、体の下でやや不穏当な音が鳴る。
沙明の部屋のシングルベッドは男性の一人暮らしという事実を鑑みても狭く、しかしなまえがくっつく口実には最適だった。
ただしオーバーワークを訴えるような軋む音だけはいただけない。
もしも壊れでもしてしまったら、こちらに非があるのは明らかだからだ。
大丈夫だろうかと不安に思うものの、しかし真っ当な気がかりもすぐに快楽に呑まれて溶けた。

抱かれている最中、地肌をなぞる沙明の指の感触に目眩がする。
きもちいい。
ふれ、ふれられる関係に陥るまでは華奢に見えた彼の手は、しかししっかりした男性のものだとなまえはもう知っていた。
今更いうまでもない性差を改めて思い知り、そしていま彼以外の誰でもない、沙明当人の手にふれられているのだとなまえは身に沁みて強く感じて、思考どころか意識まで溶けてしまいそうだった。
ふれられているのは腹や肩だというのに、なぜだか背筋から腰にかけてぞわぞわと痺れのようなものがはしる。
びくびくっと全身を波打たせ、思わずなまえは握っていた紙幣を取り落とした。
はらはらと無残に散る札びらに頓着するくらいなら、はじめからそんな馬鹿げた振る舞いなどすまい。
彼女は懸命に手を伸ばし、男の頭を抱き寄せた。

「あ、ああっ、好き、沙明、すきっ……」

ひとり感極まったような女の善がり声ほど、わずらわしいものはない。
しゃにむに引き寄せられ、うずめたなまえの首元で、沙明はまた顔を歪めた。
眼前のシーツに女の黒髪と紙幣が散らばっていた。
行為に結びつけるのを恐れていたのは、おそらく紙幣のにおいばかりではなかった。
セックスのたびにうわ言めいて繰り返される自分の名前と「好き」という言葉は、とうに頭の端にこびり付いていた。
なまえの明け透けな好意と、肉体の直接的な快感とが混じり、火を点けたばかりの煙草のように頭の奥が熱を持ってじりじりと膿んでいくような心地がする。
嗅覚と記憶のみならず、快楽となまえとがリンクしかねない阿呆らしい錯覚に、日に月にはやくこの行為を終わらせたくて堪らなくなっていた。

ぞっとしない。
腹立ち紛れに一度舌打ちをすると、沙明は抱き寄せてくるなまえの細腕を払い除け、突っ込んでいたモノを抜いた。
なまえの体を乱雑に引き倒してうつぶせにさせると、再度どろどろにぬかるんだ狭い孔へ挿入した。
突然のことに驚きはしたらしいが、なまえも嫌がるでもなく「ふ、あぅっ」と高く媚び声をあげた。
いわゆる寝バックと呼ばれるこの体勢では、膝を曲げて快感を逃がす余裕もなく、上から密着されてしまえば身じろぎひとつ満足にできないとあって、強制的に体のなかの奥深いところを硬く膨れた先端で押し上げられてしまう。
なまえは半狂乱で薄い背をしならせた。

大きく弓なりに反った背をとがめるように、沙明はなまえの頭をベッドに押さえつけた。
なまえのちいさな頭蓋など容易に押さえ込めた。
――これ以上、熱っぽく潤んだ声で、自分の名前も「好き」も向けられたくなかった。

「は、あー……感謝してくれていいんだぜ、お気に入りだろ、バック。……追加料金な」
「ンんっ、ぐ、ぅう……っ」

喘ぎ声というより醜い呻きでなまえが首肯を示した。
脱ぎ散らかした服に顔をうずめ、くぐもった啜り泣きを漏らしている。
しかし苦悶の唸りとは裏腹に、「お気に入り」との揶揄にたがわず、後ろからめくり上げられた膣襞は貪欲極まりない浅ましさできゅうきゅうと収斂していた。

ちらりと見えたなまえの顔は、酸欠のためだろうか、真っ赤だった。
躾のなっていない獣のように、口からはだらしなく唾液が溢れ、下の布を汚している。
哀れな布は――それは彼女が着ていた下着やシャツだった――、ぐちゃぐちゃに丸まり、衣服としての機能を果たすには一度洗濯をしなければ敵わないだろう塩梅だ。
しかし下敷きになった服が汚れようがいたもうが、一向に構わない。
なにしろその服はすべてなまえのものだった。
唾液やはなにまみれようと当人の勝手だろう。
数時間前に金を払われ脱がされた沙明のジャケットは、ゴーグルや眼鏡と共に、手の届かないテーブル隅という安全地帯に慌ただしく避難していた。

後背位の姿勢でセックスしていると、なまえの瞳に一心に見つめられる心配もなく、好き勝手に自分の快楽を追うことができた。
気に入っているのは自分の方かもしれないと、内心自分をあざけりつつ、沙明はぐっと体重をかけてなまえに伸し掛かった。
やわらかな黒髪やきめ細やかな柔肌はほの甘い微香を纏い、このときばかりは無我夢中で呼吸を――香りを吸い込んでしまう。
カッと煮え滾らんばかりに下腹へ熱が重く溜まるのを感じて、我知らず唸るような吐息が漏れた。

そのままなまえの顔を衣服へ押し付けてがつがつ突いてやっていると、ふとちいさな手がぱたぱたとシーツを這い回っていることに気が付いた。
助けや逃げ道を探しているのではない。
なまえの手がなにを求めているのか、沙明はとうに知っている。
――律儀なんざ聞こえが良すぎんな、こんなんただのバカの域だろ。
内々吐き捨て、忙しなく這う手の甲を上から押さえつける。
ちらりと見渡せば、お探しのものはベッド脇の床に落ちていた。
先程、体勢を変えた際にぶつかり、落下してしまったらしい。

手の甲を上から捕らえたまま交互に指を絡めて手を握ってやると、さも嬉しいと言わんばかりに、一際強くナカが締まった。
音にならない悲鳴をあげ、びくっびくっとなまえの背筋が痙攣した。
窒息しかけながらも達したとみえ、きつい締めつけの胎内を無理やり押し拡げるように数度擦ると、彼も避妊具に射精した。

部屋に響くのは、互いの獣じみた荒い呼吸ばかりだ。
ぐったりうつぶせたまま荒い息を繰り返すなまえは、絶頂直後の酸欠と脱力によりそのまま意識を手放してしまうかと思われた。
実際、そうなってくれたら手間がかからないのにと沙明が考えていたのは事実である。
しかしなにひとつ思い通りになったためしのない女は、やおらベッド脇へだらりと腕を伸ばした。
行儀悪く寝転がったまま、目当てのものを――落としてしまっていた財布を手繰り寄せる。
彼女を避けて隣に横たわっていた沙明は、場違いなほど明るい声で「はい」と呼びかけられた。

「……は? んだこれ」

熱と汗を纏った女の体から逃れるように、裸の背を向けていた姿勢から、沙明は気怠げにごろりと寝返りを打って首を傾げた。
呼びかけた張本人は取り出した現金を握っており、さも当たり前のように手渡してくる。
あれほどあられもなく乱れていたというのに、紙幣を差し出すさまはもうすっかり平生と変わらず、思わず呆れた顔をしてしまうのも道理というものだった。

「なにって追加の分だよ。沙明、途中で言ってたじゃん」

独特な香りのする紙切れを「ありがとう」と押し付けてくる女。
よく見れば、頬や口元が妙に赤らんでいることに沙明は気が付いた。
どうやら組み敷かれていた際、衣服で擦れてしまったらしく、興奮によるものとは違う濃い色味が頬の擦過を露わにしていた。

怪我と呼ぶにはささやかすぎる擦過傷を頬にこしらえたまま、嬉しそうな笑顔を浮かべるなまえへ、なんと返答すれば良いのか。
煙に巻くような軽薄な口上を得意とする彼ですら、判然としなかった。

いっそのこと、教えてくれと誰かに乞いたいほどだった。
金を受け取って「へーへー、毎度ドーモ。んじゃ、さっさと帰れよ」と彼女に背を向けて眠る以外の選択肢があるというのなら。

・・・


「あ、服ぐちゃぐちゃになっちゃったから着て帰れないや。ねえ、沙明、このまま泊めて」
「……なんッだよ、マジかお前。厚かましいにもほどがあんだろ。泊まるんなら衣類代と洗濯代と水道料金、あと宿泊代な。忘れんじゃねーぞ」
「はーい。お金、まとめてこっちに置いておくね。……んー……ただ、沙明のベッド狭いんだよね……」
「オゥライ、はよ帰れや」
「ねえ、沙明、新しいベッド買わない?」
「は? あー……お前が払うっていうんなら考えてやってもイイけど」
「ほんと? ダブルとか買っていい?」
「アッハ、このクソせめー部屋のどこに置くつもりなんですかねェ。なまえサンは」


(2021.12.03)
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