もしもわたしがグラスだったら。
なまえはうっとりと目を細めた。
層楼の天辺、玉座めいたソファからは星屑を振り撒いたように明滅する街を鳥瞰できたが、いつものように張維新の隣に並んでかけた小鳥は、広がる偉観に頓着することなく、彼が酒を飲み下すさまを仰いでいた。
上下した喉骨のラインに――男の太い喉頸に、はしたなく心音が跳ねるのも道理というものだ。
わずかに小指を曲げてグラスの底を支えている手指の陰影すら慕わしい。
ガラスの表面を、水滴がつっと流れた。
手渡されたそれをなまえはハンカチで拭った。
なまえが持つと文字通り手にあまるどっしりとしたオールド・ファッションド・グラスは、しかし繊細、緻密なカットを施され、光を反射して掌できらきら光った。
さながら精悍な体貌に、柔和さと洒落っ気とを隠している主人のようだ。
もしもわたしが煙草だったら。
やおらなまえはグラスをローテーブルへ避難させ、入れ替わりに張が取った細い紙巻きを見上げた。
比較的短いフィルターは男の唇へ完璧なバランスと円熟味を添えており、薄く開いた口吻から覗く舌と恭順に戯れていた。
妙々たる厚い唇に我が物顔で鎮座しているそれに対し、ねたむ情が湧くのを堪えられない。
わたしより頻繁に口付けていただけるなんて、と。
そんな与太なんぞおくびにも出さず、なまえはジタンへ火を点した。
ライターの火を受けてネイルがつっと光った。
香り高い黒煙草の薫香は葉巻とまがうほどだ。
奉ぜられる豪奢な眺望へ向け、堂に入った挙措で男が紫煙を吐き出した。
名にし負う「雅兄闊歩」、瀟洒の代名詞ですらある伊達男が煙草を燻らすさまは、さて縦し世間擦れしていない生娘如きが相対しようものなら、眩いばかりの偉容に目を側めるか、さもなくば惚れ惚れと相好を崩したに違いない――丁度いまのなまえのようにだ。
肺の奥底から煙を吐くその仕草が、張維新ほど様になる男をなまえは他に知らない。
もしもわたしが煙だったら。
周囲をたゆたうありさまは、後ろ髪を引くように名残惜しげだった。
そう感じるのは、蜷局を巻く白靄に嫉妬してしまうからだろうか。
折目高なシャツにも、ほどく際に音高く鳴る黒いネクタイにも、完璧に磨き上げられた革靴にも、服といわず髪といわず、主人へ己の香りを残してはばからない傲慢さを、ねたましくないと言えば嘘になる。
とまれなまえはかすかに眉をひそめ、胸の内だけでこぼした。
月に叢雲、花に風――「すこしだけ羨ましいかもしれないけれど、でも、無粋な風ひとつでおそばから離されてしまうのは気に入らないわ」と。
使い慣れたライターを仕舞った。
喫煙しないなまえがそれを長年帯同している理由は、彼女の寝室のナイトテーブルに灰皿があるのと同じだ。
もしもわたしがライターだったら、とまた考え、所有物仲間として慣れ親しんだものたちを見下ろした。
「この子たちはわたしをどう思っているかしら」と詮無い空想に頬をゆるめた。
無論、度しがたい「もしも」の話など無意味である。
多岐多端な要路の者、あるいはこの手の題目に鼻を摘ままざるをえない者にとっては、とつおいつ耽るなまえの空想なんぞ噴飯物どころではない馬鹿馬鹿しさに違いない。
しかし嗜好品との画然とした違いのない「金糸雀」はそのどちらでもなく、恋を知ったばかりの処女が陥りがちな忘我の心地で、ただひもすがら徒然と過ごしているだけだった。
――もしもわたしが「わたし」じゃなかったら。
張に見惚れたまま、おもむろになまえは小首を傾げた。
彼の意志の強そうな目鼻立ちと、面輪を隠すサングラス、その奥の瞳は柔和と表しても差し支えなく、飄逸かつ洒脱な容止をして「金義潘の白紙扇」と謳われる俊傑と看破するのは難しかったかもしれない。
もしもこのひとに出会わず、拾われず、ふれられず、恋もせず、もしくはどこかで手放されていたら。
昼夜を舎かずなまえの代わりに――その認識すらなく――、張の隣に誰かが侍っていたかもしれない。
茹だるような夏日、ひとりでは耐えられぬ夜寒、腐臭漂う荒廃の都、林立する大廈高楼、真っ黒な車の後部座席、貴顕淑女の雁首揃えたパーティ、銃弾の飛び交う鉄火場、あるいは幽邃閑雅な本邸で。
もしもわたしではない誰かが、こうしてこのひとのおそばにいたなら。
この空想ほど愚かなものはなかった。
確たる事実だ。
いまこの瞬間、張維新のそばにいるのは、他の誰でもない、世界にたったひとりのなまえだった。
一秒、二秒、三秒――いまこのときですら、常しえゆき過ぎる時の流れは決して戻らず、濁世の一切衆生のみならず、たとい天上で尊崇される代物といえどなすすべなんぞあるものか。
こぼれた水が盆の上へ戻ることはないように、詮方なく時は過ぎゆくばかりである。
実以て不可逆な事実、方今これ以上の幸せが存在するだろうか。
つまらぬ俗輩に拐かされようと、狼藉を働かれようと、泣き喚くでもなく命乞いをするでもなく、恐怖や怯えを更々露わにせしない金糸雀が心から恐れるのは、この世にただひとりだった――浮世すべての罪業も災禍も眩むほどの至福を与えてくれるのも、同じくだ。
二度と戻らないいまこのときを共に過ごす幸せを、なまえは常に感じていた。
なにしろ相手は、来々世々どころか向後――たとえばほんのすぐ後の夜明けすら確約すべくもない、極道の男だ。
喪服じみた黒服は、さながら闇夜から滴り落ちたかのような形様であり、累々たる屍の上での舞踏、明日なき生を生きる亡者の証だ。
だからこそ怖いほどに幸せで、泣いてしまいそうになった。
桜梅桃李、一時に集めたかの如き女の微笑は、しかしほんのひとしずくばかり物憂さを含んでいて、燐光のようにぱっとひらめいて掻き消えたのを、じっと見つめられていた男は見逃さなかった。
「今度はどうした、なまえ。またぞろろくでもねえこと考えてるツラだぜ」
小鳥の熱っぽい瞳にも慣れたもので、あたかもそこが万乗の玉座かのように悠然と足を組み、張維新は一心に仰いでくるなまえの双眸をひらひらと手を振ることによってさえぎった。
このままじっと見つめられ続けていると視線で火傷しかねない。
そう危惧させる手腕は大したものかもしれなかった。
「まあ、滅相もない。旦那さまのこと以外に、なまえが意識を割くとお思いですか」
「そうかい。そんなら俺の勘が鈍ったんだろうさ。これでも飼い鳥のこたぁすこしは理解してるつもりだったが」
「……もう。意地悪なひと」
男の芳醇な声音は小鳥をくすぐるようだった。
まろやかかつ力強い成熟した偉丈夫の声は、気疎げではあれど、総毛立つほどの色香はいささかも損なわれない。
古風なティアドロップ型のサングラスに反射した己の顔を見上げ、なまえはもしもサングラスだったら――と考えて、やめた。
不審げな眼差しもものかは、なまえは主の大きな手へ己の手を重ねた。
そんな表情ひとつすら慕わしいと、すべて伝えてしまいたかった。
ふれた手の熱の違いに胸の奥が痛むほど高鳴っているのだと明かしてしまいたかった。
しかしながら伏せられたカードが場に残った最後の一枚なら、わざわざめくって確かめる必要はない。
然らぬだに金糸雀は、飼い主への思慕がこれ以上ないほど露呈してしまっているのだ。
縷々たる紫煙より薄く、小鳥の羽より軽い浅慮といえど、秘めようとしてなにが悪いだろう。
思っていること、考えていることが一から十までつまびらかになってしまったなら、きっと面白みが失せてしまうものだった。
つまらないものと倦まれるのも、なまえの怖いもののひとつだった。
いとしいものが増えると、恐ろしいものも等しく増えるのだとなまえに教えたのは、他でもない張維新だった。
主の手を握ったまま、なまえはいまこの瞬間を慈しむように微笑んだ。
「ふふ、わたし……わたしで良かったなあって思いましたの」
飼い鳥の脈絡もない言に、張は今度こそ虚を衝かれたようにサングラスの下で僅々目を見開いた。
――また突拍子もないこと言い出したな、こいつ。
心の声が聞こえたような気がして、なまえはますます頬をゆるめた。
器用に片方の太眉を上げる彼の仕草すら、また恋しいのだから致し方ない。
なまえのたったひとりの飼い主は、彼女の笑みになにを思ったか、燻らすジタンを灰皿へ落とした。
おもむろに取られた手を握り返し、瑠璃珊瑚をちりばめた金冠の重さに耐えられまいなよやかな体を悠々と抱き上げた。
抱き上げられ、張の脚を正面からまたがされたなまえは、どうやらめくれたスカートの裾を気にしているらしい。
膝の上で白裾を整えているのもお構いなしに、張はなまえの頤をついと持ち上げた。
視線が重なるや否や、瞳は陶然ととろけた。
いかにも待ちわびたと色めく唇へ、男は己のものを重ねてやった。
はっとこぼれた吐息の熱は、果たしてどちらのものだったか。
「――俺の小鳥は一羽だけだからな」
今生、自分だけに奉じられる、それはそれは幸福そうな笑みを眺めながら「なにを当然のことを」と、寛闊に張は厚い肩をすくめてみせた。
腕のなかの牡丹の花は、見る者すべてを陥落せしめるにはあまりあるほどやわらかくほころんでいる。
(2021.12.27)