「……何してるんだい」
「あれ、吉良さん? 今日は午後お休みって言ってましたっけ?」

こてんと首を傾げて自分を見上げるなまえに、吉良は忘れ物を取りに一時的に戻っただけだと簡潔に答えた。
なるほど、と納得したなまえは、お疲れさまですとやわらかく微笑む。
その愛らしい笑顔に普段ならば癒され素直に笑みを返しただろうが、いかんせん現在の彼女の状態の方が気にかかって仕方がない。
春の日差しが思いの外暖かく、汗ばむくらいの陽気のなか、脱いでいたスーツの上着を几帳面に皺にならないよう床へ落とす。
彼はおざなりに、ああ、と返した。
誰だって気になるだろう、

「どうしたんだい、ソレ」

もう一度同じ問いを繰り返した。
ソレ、と指し示された原因、腕のなかのディアボロを見下ろして、なまえはまたやわらかく笑った。
ただしそれは苦笑と呼ばれる類のもの。
困ったような、僅かに照れたような、それらが曖昧に混ざった笑みで少女は目を細めた。

ディアボロの胡坐をかいた両脚の間でなまえは膝立ちになり、正面から彼を抱き締めていた。
そしてそのやわらかな胸元には、彼の頭がうずめられている。
なんとも贅沢な体勢で、しかも彼女を独占している男は現在眠っているらしい。
なんと説明したものか考えあぐねたなまえは、ええと、と首を小さくひねる。

「……ディアボロさんがまた……その、死んじゃいまして、戻ってきたと思ったら、ずっとこうで」

よっぽど大変な思いをしたんでしょうねと、なまえはゆっくり呟いた。
手持無沙汰に胸の谷間に俯せる男の頭を撫でたり、斑に色を変えるブーゲンビリア色の髪を指で梳いたりしながら。
彼女自身はなんの被害も損害も被っていないというのに、死ぬことに対する恐怖感に思いを馳せているのだろうか、言葉を紡ぎながらいたましげに表情を曇らせ、悲哀に耐えるようにゆっくりとまばたきをした。

うっすらと陰ったその表情を見て、吉良は唐突に思った。
胸元にうずめられた頭を優しく抱き締める少女が、――まるで、母親のようだ、と。
年若い彼女に対してそんなことを考えるなど失礼極まりないだろうが。
吉良はひとつ溜め息をつく。
良い歳をした男が一回り近くも幼い彼女に慰められ、あまつさえ縋りついて眠っているとは。

もし邪魔だったら爆破しても構わないがと告げれば、なまえは肩をすくめ、お気持ちだけで充分ですと苦笑いで返した。

「そんなに甘やかす必要もないだろうに」
「うーん、甘やかしてるつもりはないんですけど……。この体勢も、突然、無理に引っ張られてこうなっちゃっただけですし」

その本人はいつの間にか寝ちゃって動けなくて困ってるんですけどね、と、なまえはゆんわり苦笑した。
その様子はやはり、手のかかる子を持つ母親のようで。
吉良は「理想の母親」なんてモノなど知りもしなかったが、もし仮に存在するのならば、こんな微笑を浮かべているのだろうととりとめもなく考えた。
男の髪を優しく梳くなまえは、そんなことを思われているなんて露知らず。
眠りを妨げないよう控え目ながら、労わるように慈しむように、髪を撫でつつとろけそうなほど甘やかな笑みを浮かべている。

「――なまえ、」
「はい、なんですか」

唐突に近付いてきて名前を呼ぶ吉良を、身動き出来ないなまえはなんの疑いもなく澄んだ瞳で見上げた。
きょとんと擬態語でも聞こえてきそうな表情はどこまでも無垢で、先程まで感じていた母親というイメージよりも、今は世慣れていない少女のようだ。
吉良は、髪を梳いていた白い手を音もなく掬い上げ、驚くなまえの指先に、甲に、ゆっくりと口付けた。
目を見開いたなまえはいつもの手への愛撫とすぐに理解して、従順に手の力を抜く。
感じるくすぐったさに思わず身をふるわせた。
しかし抱き締めている眠ったままのディアボロを慮ってか、声を漏らすことはなかった。
ひとしきりその肌のなめらかさを楽しむと、吉良は最後に細い手首へゆるく噛み付き、ようやく彼女の手を解放する。

「そろそろ会社に戻らなくては……ああそうだなまえ、帰りは19時を過ぎると思う」
「っ、はい、分かりました。……あ、お見送り出来なくて、ごめんなさい」

なまえは丸い頬を紅潮させつつ、やっと解放された手を扱いに困ったようにさまよわせる。
次いで申し訳なさそうに苦笑した。
彼女の性格からして、弱り切って眠ってしまった男を無理に振りほどくようなことは出来ないだろう。
君が謝ることなんてないさと薄く笑むと、吉良は踵を返した。

春のこの暖かな陽気を鑑み、スーツの上着は脱いで手に持ったまま会社に戻ろうと考えながら部屋を出る、瞬間。
吉良がなんの気はなしに振り返ると、彼女は背中を丸め、抱き締めた男の耳元に一言二言なにか囁いているらしいことが見て取れた。
その表情は「母親」などとは決して言えない――敢えて表すならば、恋を知ったばかりの生娘を彷彿とさせるような清らかさに満ちていた。
面映ゆそうに口元をゆるめて囁くさまは、まさしく春の日の穏やかな日差しのようで。

その笑みがなぜか瞼の裏に焼き付く。
そしてなんの前触れもなくにわかに、取るに足らない思い付きが吉良の脳裡をよぎった。
――彼女は自分にも、その表情を向けてくれることがあるだろうかと。
まるでそうして抱き締めてもらえるのを欲しているかなような問いかけ。
何を考えているんだかと、彼は口元を皮肉げに歪め自嘲した。
後ろ髪を引かれるような思いを払い捨てるように、小さく頭を振る。
あんな二人を見たから当てられて疲れたのだろうと深く歎息すると、部屋を出た。


・・・



「――起きてるでしょ、ディアボロさん」
「気付いてたか」
「吉良さんは気付いてなかったと思いますけど……こんな距離だったら、力の入り方とかですぐに分かるに決まってるじゃないですか。起きたんだったら放してください」

先程までのようにまた二人っきりとなった部屋で、なまえは溜め息をついた。
ずっとこの姿勢で足が痺れましたと呟く彼女は、本当に疲れてしまったのだろう、バランスが取りづらそうに不安定に身じろぎした。
特に床に着いていた膝から先は痺れて感覚がおかしくなっているらしい。
なまえは顔を顰めて、自分の脚を見下ろしながら小さく息を吐く。

ディアボロはうずめていた胸元からようやく顔を上げると、その柔らかさを楽しむように再度顔を寄せた。
やめてくださいと身をよじるなまえを一瞥すると、何を思ったのか、彼女を抱きすくめたままの状態でごろりと寝転がった。
当然なまえは巻き込まれて共に寝転がることになってしまう。
悲鳴が上がる。

「なにするんですか! もう、びっくりした……」
「こうしていればお前も寝れるだろう」
「まだ寝るつもりですか、というかそんなに元気になったんだったら放してください」
「断る」
「もう……甘やかしてるってさっき吉良さんに言われたばっかりなのに」
「良かったな、オレがこうして弱みを見せるのはお前だけだ」
「……知ってます」

宥めるように夜色の髪へ口付けられる。
それを拒否することも出来たが、なまえはしなかった。
唯一と望まれ求められる。
それがどれだ得難く、幸福なことか。
胸のうちを伝え切ることなど出来ない程の喜びを、身に余るのではと思うくらいに与えられ、怒ろうとしていた表情を彼女は保てなくなってしまう。
困ったひと、と、小さく呟くと、なまえは呆れたように苦笑した。
その微笑に誘われるがまま、ディアボロは少女の愛らしい唇に口付ける。

「っ、ん……なし崩し的にいやらしいことするのはやめてくださいね」
「そう言うな、付き合わせた礼に気持ち良くしてやると申し出てるんだ、素直に受け取れ」
「要らないし頼んでません」

細い顎をつん、と背けて生意気そうにそっぽを向くなまえに、ディアボロは低く笑った。
向けられた未だ赤みの引かない頬へ、笑い混じりに口付けをひとつ落とす。
そしてついさっきまで吉良が愛撫していたのと逆の手を引き、指先に舌を這わせた。

「……さっき吉良に手を噛まれて感じていただろう?」
「っ……気付いて、」
「こんなに近かったらすぐに分かると言ったのは誰だったか覚えてるか、なまえ?」

死の淵で憔悴しきっていた先程までの様子はどこへやら、いつもの調子を取り戻して楽しそうに口角を上げるディアボロに、なまえは口をへの字に歪めた。
自らの体の変化を悟られ、羞恥で上気した頬が愛らしい。
そんな顔で恨めしげに睨まれても、愛おしさと欲望が増すだけだ。

なまえは溜め息をまたひとつつく。
先程まで愛おしげに梳いていた、斑に色を変えるブーゲンビリア色の髪をゆるく引っ張った。
自然と寄せられた男の唇に口付けて、互いの耳にしか届かないほどに細い声で囁く。

「……脚が、痺れて、逃げられないので。……仕方ないから、付き合ってあげます」

春の日差しのように楚々とした純真な顔を、欲深い表情に染めてなまえは綻ぶ。
うっすらと浮かんだ糖蜜の滴るように甘ったるい笑みは、愛することも愛されることも知っている、ある種の高慢さすら孕んだ「女」を彷彿させるもの。
どくりと腹奥で欲望の火が掻き立てられるのを感じ、ディアボロはまた、春色に潤むなまえの唇へ噛み付くように口付けた。
彼女は果てのないほど様々な顔を見せる。

限りなくアリアドネに近い
(アンゲリカ・カウフマン「テセウスに捨てられたアリアドネ」(1774)より)

(2015.04.15)
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