「……また余所でメシ食わせてもらってんの、お前」

午後四時のファミレスは、昼食を摂るには遅すぎ、夕食というには早すぎる時間帯とあって、テーブルに参考書とノートを広げた学生の集団と、外回り中にサボっているらしいくたびれたスーツ姿の男性しかいなかった。
斜めに差し込んだ西日がきつい。
客の来店を告げる電子音と共に、店員が「いらっしゃいませぇ」と間延びした声をあげた。

まさかその客が、自分たちのテーブルにまでやってくるなど想像だにしなかった千紘は、降って湧いたように突然浴びせられた声に目を丸くした。
ぽかんとした顔で見上げ、「なんでいんの」と呟く。
四人がけのボックス席の横には男がひとりが立っていた。
厚手のカーディガンを肩に羽織った浩然は、あまり口を開かない喋り方で「偶然、窓越しに見えたから」と至って簡明に答えた。

「狭そうでなんか妙に広いよね。千紘の人間関係」
「どーいう意味だよそれ」

突然現れるなり胡乱なことを吐いた慮外の男に、千紘は慌てて「あ、」とフォークを置いた。
正面の席に座る女が、すっかり置いていかれてぱちぱちとまばたきしているのに、そこでようやく気付いたからだった。

「あー、なまえ、こいつは、ハ、――ケイト。さっきしゃべってたやつ」
「はじめまして、ケイトさん。お会いできて嬉しいです。本当にイケメンなんですね。丁度、あなたのことを千紘と話をしていたところだったから……ふふ、びっくりしちゃった。噂をすれば影って本当なんですねえ」

女の態度は丁寧だった。
初対面の人間に対するには差し障りない。
しかしどこか温かみの欠けた眼差しは、「友人の友人」と相対するには良識的すぎたかもしれない。

「なまえって呼んでくださいね。仕事は作家をしています。担当さんに“取材”って嘘ついて抜け出してきて……千紘に息抜き、付き合ってもらっていたんです」

慇懃な笑顔で自己紹介する女に、浩然も「どうも」とうっすら笑みを浮かべて頷いた。
光らない黒々とした瞳で、千紘となまえとを見比べ「まともな職種の友人いたんだ」と呟いた。

「まともかしら……。作家なんて、水と似たようなものですよ。波とムラが激しいの。売れている間はちやほやされるけど、売れなくなったり書けなくなったりしたら、さっさとお払い箱」
「作家って、千紘コレみたいな、ヒモとか底辺系のルポ?」
「ふふ、残念ながらハズレ。なんと児童向けの絵本作家です」

なまえは悪戯っぽく肩をすくめた。
「コレってなんだよ」と口をとがらせている千紘に頓着することなく、浩然は「狭いよ、つめて」と隣に座った。

テーブル隅には汚れた皿が数枚重ねてあり、いまのメインは鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てている安いステーキらしい。
なまえはコーヒーを飲んでいたようだが、そのカップは既にほとんど空だった。
どうやら食い溜めでもするかのような勢いで食べている千紘を、彼女は眺めていたとみえる。

容赦なく浩然が同席したからか否か――沈黙が五秒ほど続いたところで、なまえは腕時計へ視線を落とすと、嫌味っぽくもなく「担当さんにそろそろ怒られそうだし、お邪魔したら悪いかな」と立ち上がった。
つい、と自然な動作で、千紘へ顔を寄せた。
さらりと揺れた黒髪が、男の明るい金髪と重なった。
化粧けがないなとは思っていたが、これだけ間近だと、マスカラもアイラインも引いていないのがはっきり見て取れる。
――なに考えてんのか分かんねえ黒い目、なんとなく浩然に似てんなあ。
千紘が内心呟いたときには、頬にふれた唇はもう離れていた。

「じゃあまたね、千紘」

千紘に軽くキスをしたなまえは、さっさと身を翻すと、ひらひら手を振って店を出て行った。
客の出入りを知らせる安っぽい電子音が止んだときには、もう窓の外にもどこにも、薄い背は見当たらなくなっていた。

「口紅ついてる」と脇にあったナプキンでごしごしと遠慮なく頬を拭いてくる浩然に、千紘は「んな力いっぱい擦るな痛ぇよ」と文句を垂れつつも、振り払うでもなく彼のやりたいようにさせていた。
なぜか無表情でひとの顔面を拭いている浩然が面白かったのもあるし、なにより、まるでいつもの挨拶かの如くキスをしていったなまえの真意が全く理解できなかったのもある。
そこそこなまえと付き合いは長いが、まともな接触は――頬にキスすることを接触と呼んで良いのか分からなかったが――これが初めてだった。
色めいたものはこれっぽっちもないキスだった。
なにがしたかったんだろうな、とぼんやり考えながら、千紘は彼女の置いていったコーヒーカップを見下ろした。

「……ねえ、なまえさんって、元カノとか家用セフレ?」
「いや全然、んなことない」

千紘は即答した。
あっけらかんと「なまえとはありえねぇから」と言い切る千紘に、浩然は毒気を抜かれた表情で「そう」と頷いた。

「ちょっと似てるから、たまにメシ食ってお互い愚痴ってただけ。ただの飲み友達だよ。まー金は出してもらってたけど」

それよかもう食っていい? とフォークを握ってお伺いを立てる。
そういえば食べてる途中だった、と浩然はテーブルを見下ろした。
鉄板の上でやかましく断末魔をあげていた肉は、すっかり沈黙していた。
浩然はすとんと座席に腰を落ち着け、仏頂面で「……似てるって?」と呟いた。

「え?」
「だから、なまえさんと“似てる”って。千紘が言ったんだろ。どういうことかと思って」

千紘はもぐもぐと口を動かしながら「あ? あー……」と顔をしかめた。
髪より僅かに色を濃くする眉がたわんで、白い目蓋に影を落とした。
歯切れの悪さは、詰め込まれた安い肉塊のせいばかりではあるまい。

「なんつーか、こーいうの勝手にベラベラ言いふらすのも……、まーいっかな、浩然だし……」
「なにひとりでぶつぶつ言ってんの。キモいよ」
「なんか今日、口悪くね?」

キレているという程ではないにせよ、どこかイライラしているように見える浩然に首を傾げながら、千紘は「えーと、俺が行き倒れてたときに、なまえに拾われたのがきっかけなんだけど」と口火を切った。

「やっぱりヒモじゃん。なまえさんも男の趣味が悪いね」
「ちっげーわ。ホラ、あー、元カレと……色々あったって言ったじゃん、俺。なまえも結構似てたんだよ。境遇ってゆーの?」

へらりと苦笑しながら、千紘は当たり障りのない言い回しを探した。
なまえとは、間違っても色恋の関係ではなかった。
先程のキスのように無味乾燥で、しかしそれ自体は別段不快ではない程度の。
アルコールに頭も口も軽くされた千紘が悪酔いしてぐだぐだになっているのを、なだめるでも介抱するでもなく、家主のなまえは繰り返し「贅沢者め」となじった。
恐ろしく冷えた目で笑っていた彼女を思い出す。
――好きなひとに、フリでも「好き」って言ってもらえるだけマシじゃないの、と。

「えー? んー……そりゃそうかもしんねーけど、でもさあ……」
「贅沢者め。好きって言ってもらえて、抱いてもらえて、まだ千紘は欲しがるのね」

最近お気に入りだという一缶一四〇円の発泡酒を干したなまえは、目を細めて口角を引き上げた。
たぶん、自分ほどではないにせよ、彼女も随分と酔っていた。
ぞっとするような笑顔だった。

冗談めかした口調で「奢ってあげるから、大人しくわたしの愚痴に付き合ってよ。知ってるでしょう、無償の好意なんてないんだから」などと嘯きながら、結局、同じくらい愚痴を聞き、同じくらい愚痴を吐いた。
ついでに嘔吐もした。
ベロベロに酔っていたにも関わらず、そのとき幾度となく浴びせられた「贅沢者め」という音の響きは、未だに耳に残っている。
あれから何度か呼び出されてはこうして食事をしたり、彼女の家で飲んだりしていた。
なまえはあの頃となにも――化粧けのない顔も、耳に残る声も、なんら変わっていない。
いまもなまえは千紘のことを、贅沢者だと思っているだろう。
自分だってなにも変わっていやしないと思っていたが、しかし、隣で心底興味なさそうに頬杖をついている男を見ていると、そうとも言い切れない気がしてくる。
――それがなぜだか、無性におかしかった。

「なに笑ってんの」
「え、笑ってた? 俺」
「うん。キモいからやめて」
「つーかなんでそんな今日、機嫌悪いんだよ……」

肉を嚥下し、申し訳程度に添えられていたポテトサラダの残りを水で流し込む。
一息ついた。
四人がけのボックス席にも関わらず、片側に男ふたりが並んで座っている光景は、なかなかに奇異だった。
視界を遮る座席ごとの高い仕切りのせいか、客が少ないこともあってか、彼らを気にしている人間など皆無だったが。

「……相手、女?」

浩然がぽつりと呟いた。
感情の起伏の窺えない黒い瞳は、さながら先程までそこにいた女を眺めているようだった。
空っぽの正面の座席へ無感動に視線を投げている横顔を見上げ、千紘は「なまえの? そう」と首肯した。

「あっちは別に、寝たりとかはねぇらしいんだけど」
「……は、どこか似てるんだか。勝手に仲間意識持つのやめなよ。男遊びとスロやり込みがバレて追い出されたヒモなんかと一緒にされたら、なまえさんも迷惑でしょ」

頬杖をついたままのんびりと吐き捨てた浩然に、千紘は「そりゃそうだ」と顔をくしゃりと歪めた。

「千紘、食い終わったんなら出るよ」
「ん? おー……」

用もなければ、席に着いたきり注文もしていない浩然は、妙に彩度の高い料理の写真を眺めていたが、惹かれるものも特になかったらしい。
手持ち無沙汰にいじっていたメニュー表をあっさり放ると、さっさと腰を上げた。
千紘はひょこっとテーブル横を覗き込み、「あ、」と声をあげた。
テーブルに備え付けられた伝票ホルダーは空だった。

「あの女、伝票持ってったっぽい。払ってくれたのかな」
「ラッキーじゃん。どうせ経費で落とすでしょ。“取材”ってことでって言ってたし」
「そっか……」

じゃあもっと注文しとけば良かった、と呟いた千紘を、浩然は「クズ」と笑った。


(2021.10.10)

(※タイトルはなきそ『なきそ - げのげ feat. ロス』
https://youtu.be/TG9IjsxAWUsより)
(2021.12.18 改題)
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