一年中、三晩と空けず、私たち五人はサータナム・ストリートの片隅にひっそりと建つ「ザ・ダウンワード」のテーブルに集まったものだった。
手引き屋、始末屋、店の主人、なまえ、そして情報屋の私。
時には更にまだ誰かいることもあったが、とにかく雨が降ろうが榴弾が降ろうが、我々五人それぞれ決まった肘掛け椅子に陣取っていた。

なまえは元は美しかっただろう面影をそこかしこに残した、飲んだくれの東洋人だったが、明らかに学はある女で、この街でぶらぶらと暮らしているところを見ると、収入も一応あるらしかった。
何年も前、まだイタリア人共が根を張るより前にロアナプラにやって来て、長年住んでいるというだけの理由でいまでは街の一員としてそこそこ名が通っていた。

年中着ている黒いラフなホルターネックのサロペットは、白い肩と背をあられもないほど露出しており、教会の尖塔と同じく街の名物と化し、彼女がザ・ダウンワードの常連であること、教会の尼とは飲み友達であること、いずれもロアナプラにあっては当然の事実として受け入れられていた。
飲むのはスコッチで、一晩決まって五杯。
夜毎ザ・ダウンワードの過ごす時間の大半、右手にグラスを持って座り、憂いを帯びた酩酊状態に浸っていた。
屋号こそ掲げてはいなかったものの、医学には詳しいという噂で、いざとなると折れた骨を整骨したり銃弾の摘出手術を担ったりと、外科的な実績もあるという話で、皆からは冗談まじりに「ドクター」と呼ばれることもあった。
が、こうした若干の詳細を除けば、彼女の人品や素性について我々は何も知らなかった――この街に蔓延はびこる大勢の悪人共と同じように。




ある冷えた晩、時計が十時を打ってしばらく立ち、店の主人も仲間に加わっていたときのこと、ザ・ダウンワードの二階に急病人が担ぎ込まれた。
ここから数ブロック離れたところ一帯を仕切っている男で、店の主人と懇意にしていた。
自分のところのシマよりも、微妙な立地のこちらの方が突発的な襲撃に遭いづらいとでも小賢しく考えたのやもしれぬ。
何しろこの街にまともな医者は少ない。
病態にもよるが、この街で医者にかかるくらいなら、さっさと現世とおさらばした方が安上がり・・・・な場合もある。
二階は木賃宿になっていて、落ち目ダウンワードの主人がたまに面倒を見てやっていた。

「ああ、終わったみたいだ」と主人が、パイプに葉を詰めて火を点けてから言った。
「終わったって、何が?」と私は言った。
とうに慣れてはいたが、彼の吸う混ぜ物だらけの麻薬は、吸っていないこっちまで鼻がどうにかなりそうな臭いを辺りにまき散らしたものだった。
「二階に医者が来てたんだったか?」
「そうだよ。ウチの二階を診察所として売り出してやっても俺ァ構わねェんだが」と我が店主は応えた。
「どこの奴だよ」
「ドクター・マールブルクとかいう、余所から呼び寄せられた医者さ。偶然バンコクに滞在してたらしい。よっぽど病状がヤベェらしいな」と主人は言った。
「わざわざ?」「そう、わざわざ。腕利きらしいが、こんなクソ溜めまで呼ばれるたァご愁傷様ってとこだ」

なまえは三杯目も大分進んでおり、ほろ酔いに頭もぼんやりして、こっくり船を漕いでいるかと思えば、戸惑ったような目を辺りを見渡していたところが、主人の最後の一語を聞いて目が覚めたのか、自ら「マールブルク!」と二度、最初はごく静かに、しかし二度目は突如大いに感情を込めて繰り返した。

「そうだよ」と主人は言った。
「まさにその名だよ、ドクター・ウルフ・マールブルク。なまえ、あんた、知ってンのか?」

なまえが一変に素面に戻った。
黒い目は活気づき、声も大きくはっきり安定し、言葉にも冷静さと思慮深さがこもった。
我々は皆その死者の蘇りの如き変身に二の句を告げずにいた。

「ねえ、悪いんだけど」となまえは言った。
――「あんたたちの話をちゃんと聞いてなかったわたしにも分かるように言ってくれる? そのウルフ・マールブルクっていうのは何者?」。
そして、主人の説明を聞き終えると、「まさか、そんな、ねえ」と言い足した。
「でもとりあえずここは、じかに顔を合わせるしかないわね」

「知り合いなのか、なまえ?」と始末屋が驚いて尋ねた。
「人違いだと良いんだけど」という答え。
「でもよくある名前じゃないでしょ? ご丁寧にまだ本名を名乗ってるかどうか怪しいけど。ねえ、その男、年寄り?」
情報屋の私に、なまえは首を傾げてきた。
「さあ、ここに来る奴ら一々知ってる訳じゃねえよ。でもなァ、聞いた話じゃ年寄りって言うにはちょっと若すぎるかな、なまえ、アンタと同じくらいかちょっと下くらいだろうさ」
「はッ、でも向こうの方がわたしより年上なんだよ、ずっと」と言ってテーブルに頬杖をついた。
「あんたたちがわたしの顔に見ているのは蒸留酒ウイスキーなんだよ――スコッチと、悪徳。多分あっちは、良心の呵責もなく、枕を高くして寝てるんでしょうね。ふふ、良心! わたしが言えた義理じゃないわね。まったく、どこぞの善良にして信心深い使徒みたいな物言いじゃない、ねえ?」

「――その医者とやらがアンタの知り合いだったとしても」と私は、些か気詰まりな沈黙があったあとに言ってみた。
「好意は抱いてねえのだけは伝わってくるぜ」
なまえは私の言葉に耳も貸さなかった。

再び間があってから、ドアが乱暴に閉まる音が二階で響き、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
「あいつだよ」と主人は囁いた。
「よく見てろよ、"ドクター"?」

小さな店内から玄関まではほんの数歩である。
そして幅の広い、床がオーク材の階段も、ほぼじかに街路に繋がっている。
絨毯を一枚敷いたら、最後の一段と敷居の間にはもうなにもない。
ところがこのささやかな隙間が、毎晩眩く照らされることとなった。
階段の明かりと、看板の下の大きな広告灯のみならず、酒場の窓が放つ橙色の輝きもそこに明るさを加えていたのである。
かくしてザ・ダウンワードは、通行人たちに煌々こうこうと己れを宣伝していた。

なまえは確固たる足取りでその地点まで歩いていき、あとに残った我々は、この二人の人物が、一方の言を借りるなら「じかに顔を合わせるしかない」のを見物することとなった。

ドクター・マールブルクは機敏にして精悍そうな壮年の男性で、穏やかで青白いながらも活気ある顔つきをしていた。
一目で上物と分かる灰色のトラウザーズと、この上なく白いリンネルに身を固め、趣味の悪い金の指輪を小指にしていた。
細いフレームの銀縁眼鏡の奥の目は神経質そうで、見るからに表の世界の成功者・・・然とした背筋の伸び方、この街に入るべきではない富と威厳を感じさせる立ち振る舞いだった。
階段の下で、我らザ・ダウンワード仲間の飲んだくれ――こちらは肌も露わなサロペットと、腰のベルトにシグ・ザウエルが突っ込んである――がこの人物と向き合ったさまは、驚くほどの対照を成していた。

「マールブルク!」となまえは些か大きすぎる、友人と言うよりは死者を思わせるような声で言った。
大人しそうな医者は四歩目でぴたっと、あたかもその呼びかけの馴れ馴れしさに不意を衝かれ、品位を傷付けられたかのように立ち止まった。
「トディ・マールブルク!」となまえは更に言った。

からやって来た医者はぐらっとよろめき、危うく倒れそうになった。
そして眼前にいる女を一目凝視し、怯えたような表情で女の後ろをちらっと見やってから、驚きの混じった囁き声で「なまえ! 君か!」と言った。
「記憶力が良いのね」となまえは言った。
「あんた、わたしも死んだと思った? わたしたち・・・・・の縁はそう簡単に切れやしないみたいよ?」

私はなまえの声におどけた響きがこもるのを感じた。
彼女はいま、この街に不慣れな憐れむべき医者を甚振ることに喜びを見出しているようだった。

「やめてくれ!」と医者は叫んだ。
「まさかこんなところで出会うなんて……君も随分と驚いた様子だ、白状すると、一目見たときはまさか君とは思わなかった。けど、その黒い瞳はそのまま美しいんだね、会えて嬉しいよ――こういう機会が巡ってきて本当に嬉しい。今夜のところは残念だが出会いと別れの挨拶を一度に言うしかない、車を表に待たせているし、さっさとこの街から出るつもりなんだよ、僕は。だが君……ええと、そうだな……うん、住所を教えてくれないか? 近いうちに必ず連絡する。なまえ、是非とも君のためになにかさせてほしい。こんなところにいるなんて、大分困ってるんだろ? だが旧友のよしみだ、なにかさせてもらおうじゃないか。この街から出るのにいくらくらい必要だ?」

「はは、金?」なまえが笑った。
「あんたから金をもらいたいって? わたしが言った? あんたから受け取った金も、あのときの雨のなか全部捨てたのに」

喋っているうちにそれなりの優越感と自信を取り戻したドクター・マールブルクであったが、相手のただならぬ剣幕に、当初の戸惑いへと逆戻りしたようだった。
おぞましい、醜い表情が、見るからに傲慢そうな顔をよぎっていった。
「ああ、なまえ」と医師は言った。
「好きなようにしてくれ、君に嫌な思いをさせたくないんだ。押し付けがましい真似をする気はない。でも、僕の住所は伝えて――」
「そんなもの要らない――あんたを護る屋根のことなんぞ誰が知りたがるの?」となまえは相手の言葉を遮って言った。
「名前が聞こえて、もしかしてあんたのことかと怯えたわ。こんな世界でも神様なんてものが存在するのか興味はあったけど、もうこれで存在してないってことがよく分かったよ。さあ、出てって!」

なまえが尚も階段と戸口の間、絨毯の真ん中に立っていたので、高名なる外科医が逃げようと思ったら、どちらかの端に寄らないといけない。
その屈辱を思ってかれが躊躇しているのは明らかだった。
顔面は蒼白でも、眼鏡の奥は剣呑にぎらぎら光っている。
ところが、未だ決めかねて立ち尽くしている最中に、車の運転手兼護衛がこの尋常ならざる場面を表から覗き込んでいるのを目の端に捉えもした。
こうも見物人が多くては敵わぬと決めたか、医師は直ちに逃げ出そうとした。
体を低く丸め、壁板に身を擦らせ、蛇の如くさっと扉に突進していった。
だが彼の試練はまだ終わっていなかった。

通り過ぎようとしたそのさなかに、なまえが彼の腕をぐいと掴んで、ひそひそと、しかし痛いほどはっきりと
「あんた、またあれを見た・・・・・・・? 
わたしは見たわよ・・・・・・・・この街で・・・・」と言ったのである――愉快な三日月の形に割れた唇で。

富裕にして著名なる医者は、甲高い、喉を締め付けられたような叫び声を上げた。
問いを浴びせた相手を壁に突き飛ばし、両手を頭の上に掲げて、現場を見付かった泥棒じみた仕草で外へ逃げていった。
我々が動こうと思い付く間もなく、車はもう街の外へと走り出していた。
こうしてすべては夢のように過ぎたが、夢は己れが過ぎていった証拠と形跡を残していった。
翌日、上等の銀縁眼鏡が割れて敷居の上に落ちているのを店の主人が見付けたのである。

だがその前、まだ当の晩のうち、我々は皆で酒場の窓際に息を殺して立ち、なまえはその傍らで神妙な、青褪めた、断固たる表情を浮かべていた。
「なァ、なまえ!」と主人が真っ先に我に返って言った。
「どういうことだよ、随分妙なことあれこれのたまってやがったが」
なまえは私たちの方を向いた。
四人の顔を代わる代わる、まじまじと見ていく。
「ここだけの話にしてもらいたいんだけど」と彼女は言った。
「あのマールブルクって男、関わり合うとろくなことはない。これまでそうした奴らはみんな後悔するハメになったんだよ。もう会うこともないだろうけど。……それにしてもあんな偉そうな格好しといて、泡食って出てった顔を見た? ああ、ちょっとだけすっとしたわ」
そう言って、三杯目を飲み終えもせずに、いわんや残り二杯を待つこともなく、なまえは我々にいとまを告げ、店のランプの下を抜けて暗い夜に消えていった。

我々四人はザ・ダウンワードの定位置の方に向き直った。
これまでの経緯を反芻していくなかで、驚きや困惑はじきに好奇心の熱気へと変わっていった。
私たちは遅くまでザ・ダウンワードで過ごした。
こんなに長居するのは滅多にないことだった。
ようやく解散した頃には、めいめいが自説を築き上げ、是非ともその正しさを証明せんと意気込んでいた。
四人とも差し当たって急務はなく、暇潰しにロシアンルーレットでも始めかねぬほど自堕落で、そして酔いに任せ、正解に辿り着いた奴に全員が金を払うなどという馬鹿げた賭けまで話が至っていたのだから始末に負えない。
結局、我々もこのゴミ溜めの立派な住人なのである。
ここはひとつ、我らが「ドクター」の過去を突き止め、彼女があの男と共有しているらしい秘密を探り出してやろうという気だった。
これはただの暇潰しと好奇心によるところが最も大きかったが、なにせ余所からわざわざ招聘された医者と、そいつの何か後ろ暗いところを知っているらしいなまえのことである、上手く運用・・すれば金になりえる情報だった。

隠されたものを嗅ぎ出すことにかけては、四人のうち自分が一番長けていた。
そうデカいものを扱う訳ではないが、情報を食い扶持の種としていたプライドというものもあった。
そして恐らく、現在、以下のおぞましい、奇怪な物語を語りうるのはこの世に私ひとりであろう。




うら若き日々、なまえは医学を学んだ。
才能はそれなりにあったらしい。
聞いた話を素早く理解し、難なくそれを再現してみせる能力を有していたのである。
教室を出たらろくに勉強しなかったが、教師の前では礼儀正しく、注意を怠らず、聡明に振る舞った。
程なく教師たちから、話をよく聞きよく覚えている娘として認められるようになった。
その辺りの小賢しさは、いまのロアナプラでのなまえの立ち回りのそつのなさを彷彿とさせた。
どれだけ真っ当な道を歩んでいようと、萌芽は隠れているものだ。

この時期、大学に所属していない一人の解剖学教師がいた。
仮にB氏と呼んでおこう。
いまでこそなまえの故国では蛇蠍だかつの如く忌み嫌われたある種有名な男――だが当時B氏は人気の絶頂にあった。
ひとつには己れの才能と話術ゆえ、もうひとつにはライバルたる大学教授の無能さゆえに人気を集めていた。
学生たちには崇拝され、なまえにしても、この彗星の如く現れ一気に名声を得た人物に認められたときは、これで成功の土台が築けたものと自ら思い、はたからもそう思われたのだった。
B氏は有能な教師であると共に、人生を楽しむ男であった。
入念な準備を尊ぶと共に、密かなごまかしを面白がりもした。
どちらの面でもなまえはB氏の目を惹くべくして惹き、教えを受け出して二年目に入る頃には、授業の第二補助員、もしくは助手補佐という準常勤の地位を与えられていた。

この職務で特に重要なのは、解剖教室の管理であった。
教室を清潔に保ち、学生たちの規律を保つのは彼女の責任だったし、一連の解剖用死体を確保し、受け取り、分割するのも義務の一環であった。
特にこの、死体に関する、当時は甚だ微妙なところがあった仕事ゆえに、彼女はB氏に命じられ、解剖室のある通りに、やがては解剖室のあるまさにその建物に住まされた。
立ち寄った教授と穏当ならざる快楽を一晩貪り、目も依然としてかすみ混乱したまま、その建物で寝床に入っていると、冬の夜明けがいま訪れぬ深夜、解剖台に載るべき材料を提供する浮上でならず者――丁度いまの私たちのような――の盗人たちに呼び出されるのだった。
ドアを開けて、のち国中で悪名を馳せることになるこれらの男たちを迎え入れ、その痛ましい荷を運びいれるのを手伝って、浅ましき代価を男たちに支払い、彼らが立ち去ると、およそ共とはしがたい人間の残骸と共に取り残される。
それからまた、晩の悪習を是正しきたるべき一日に備えるべく一、二時間の微睡みを盗みとろうと、寝床に戻っていくのだった。

このように、死の運び手たちと関わって生きる人生が及ぼす影響に関し、なまえほど鈍感でいられた娘もそうざらにいなかったに違いない。
誰もが考え付きそうな様々な思いに対し、彼女の心はすっかり閉ざされていた。
他人の運命なり人生なりに興味を持つ力がこの女には欠けていた。
彼女は己れの欲望と卑しい野望との奴隷だった。
が、つまるところ冷淡で、浅薄で、自己中心的な人間ではあれ、世間では誤って道徳心と呼ばれるところの、最低限の慎重さは持ち合わせていたため、見苦しく泥酔したり、罰せられるべき盗みを働いたりもせずに済んでいた。
それにまた、教師たちや学勇からの敬意もそれなりに寄せられていたらから、誰もなまえの内面的な情緒に立ち入る者などいなかった。

こうして、学業においてある程度認められることも愉しみとし、毎日毎日、雇用主B氏の前では非の打ちどころのない勤めぶりを発揮した。
昼の仕事に対しては、夜に騒々しい、下衆な快楽に耽ることで埋め合わせた。
両者の釣り合いが取れた時点で、己れの良心、と彼女が呼ぶ器官が、これで十分と宣言するのだった。
ここまで知ったとき、私はやはりなまえは至るべくしてこの街に至ったのだと思ったものだ。

死体の供給は、彼女にとっても師にとっても終始頭痛の種だった。
人数も多い活発な授業にあって、解剖の素材は常に払底ふっていしていた。
死体確保のため必要になってくる諸々のやり取りは、それ自体不快であるばかりか、関わる者皆を危険に巻き込みかねない。
この取り引きに関しては一切なにも訊かない、というのがB氏の方針だった。
「奴らが死体を持ってきてブリング・ザ・ボディ、僕らが金を払うペイ・ザ・プライス」と、頭韻を強調しながら氏はよく言った。
「現物に現ナマ、さ」。

更にまた、些か不謹慎にも、「良心のためにも、余計なことは訊かぬが身のためだぞ」と助手たちによく言った。
実験用の死体が殺人によって供給されているという了解は存在しなかった。
もしそうした可能性をはっきり言葉にされたとしたら、B氏としても怯えていたことだろう。
が、かくも深刻な問題に関して氏があまりに浅薄な、それ自体良識に対する冒涜と言う他ない口を利くものだから、彼相手に商売を行う男たちにしてみればますますそそのかされるというものである。

死体が妙に新鮮であることになまえは何度か気が付いていた。
夜明け前にやってくるごろつき共の、おどおど卑屈な、なんとも厭わしい顔付きも何度となく目に留めていた。
こうした諸々の事情を一人ひそかに組み合わせ整理していくなかで、恐らくなまえは、師の些か無防備な忠告を、極めて非道徳的かつ断定的な意味に還元するに至った。
要するに、自分の義務は三つあると理解したのである。
一、届いたものを受け取る。
二、金を払う。
三、一切の犯罪の形跡から目を逸らす。




しかしある朝、こうした沈黙の方針が大きな試練にさらされることとなる。
しばしば訪れる落ち着かぬ熟睡に沈み入ったところで、取り決め通りの合図が三、四回忙しなく繰り返されて眠りから引き戻された。
薄っぺらい、明るい月の光が広がっていた。
恐ろしく寒い、風も強い、霜も下りていそうな晩であった。
町は未だ目覚めていないが、ごそごそ判然としない動きが既に生じていて、一日の喧騒や活動の前奏を奏でていた。
いつもより遅く来訪した悪鬼共は、いつにもましてさっさと立ち去りたげだった。
眠気で気分も悪いまま、なまえは明かりを掲げて男たちを二階に招き入れた。
彼らがぶつぶつ喋る声も夢うつつで聞いていた。
男たちが袋をその嘆かわしい商品から剥いでいる間も、一方の肩を壁に寄りかからせ、立ったままうとうとしていた。
彼らに払う金を取りに行くにも、努めて眠りを振り払わねばならぬほどだった。
歩き出した途端、死人の顔に目が止まった。
なまえははっとして、二歩近付いていった。

「待って、ジュディス・ガルブレースじゃない!」と彼女は叫んだ。
男たちは何とも答えず、こそこそと出口の方に近寄った。
「この女はわたしの知り合いなのよ」となまえは更に言った。
「昨日は元気に生きていたわ。彼女が死ぬはずない。この死体をまともな手段で手に入れたとは思えない!」

「お嬢さん、そりゃまるっきり勘違いですよ」と男の一方が言った。
だがその相棒が陰険な目でなまえを見て、即刻支払いを要求した。
脅しの口調は聞き逃しようもなく、物騒さがひしひしと感じられた。

うら若きなまえの度胸もこれまでだった。
しどろもどろに言い訳を口にし、金を勘定して払い、憎むべき訪問者たちが出て行くのを見送った。
彼らがいなくなった途端、己れの疑念を確かめに飛んでいった。
一ダースばかりの、間違いようのない印によって、それがカフェの顔馴染みの女中であることを認めた。
暴力の痕跡と思しき印が体にいくつも残っているのを目の当たりにして、なまえは心底ぞっとした。
パニックに襲われて、自分の部屋に逃げ込んだ。
部屋でこの発見についてじっくり考えた。
B氏の支持の意味するところを神妙に考察し、かくも由々しい事態に口を出したらいかなる危険が我が身に及びうるかも熟慮したが、考えは一向にまとまらず、すぐ上の上司である授業助手の忠告を待つことにした。

これがウルフ・マールブルクなる若き医者で、遊び人の学生たちに慕われている、如才ない、道楽好きの、およそ良心の欠片も感じさせぬ男だった。
海外旅行や留学の経験もあり、華やかで人当たりは良いが些か図々しいところもあった。
なまえとは親しい間柄であったし、立場上もある程度緊密な関係が必要となった。
なにしろ、死体が不足したときは二人でマールブルクの車に乗って山奥まで出かけていき、どこかの寂しい墓地を訪れて、墓を暴き、獲物を携えて夜明け前に解剖室へ戻ってきたりもしたのである。

たまたまその朝、マールブルクはいつもよりやや早目に現れた。
音を聞きつけて、なまえは階段のところで出迎え、一部始終を打ち明け、問題の死体を見せた。
マールブルクは女の体に残った痕を詳しく調べた。

「うん、これは怪しい」と彼は頷いて言った。
「どうしたら良いかしら?」となまえは訊ねた。
「どうする?」と相手は訊き返した。
「何かしたいのか? 触らぬ神に祟りなしってやつだろう」
「誰か他のひとが気付くかもしれないわ。カフェの看板娘だったもの」
「誰も気付かないことを期待しよう」とマールブルクは言った。
「仮に気付かれたとしても、とにかく君は・・気付かなかったのさ、な、それで話は終わりだよ。もう長年やってきたことだから、今更騒ぎ出す訳にはいかないさ。下手に騒ぎ立てると、Bがひどく面倒なことになりかねない。君だってえらい目に遭うぞ。僕だってとばっちりが回ってくる。証人席に立たされてみろ、いったい僕らが人目にどう映るか、なんと弁解できるか聞かせてもらいたいね。まあとにかく間違いないのは、我々が買い取る死体は、事実上すべて殺された人間のものだってことさ」

「マールブルク!」とうら若いなまえは叫んだ。
「まあまあ落ち着け!」と相手は鼻であしらった。
「君だって、まさかいままで疑いもしなかった訳じゃあるまい?」
「疑うのとはっきり知るのとでは――」
「勿論違うさ。その通り。こいつがここに来ちまって、僕としても君と同じくらい残念に思っているさ」
そう言って持っていた傘で死体をつつく。

「次善の策としては、これが誰だか気付かずにいることだ。そして」と冷淡に言い足す。
僕は・・気付いちゃいない。君が気付きたければそれは君の勝手だ。命令するつもりはない。だが、世の中が分かっている人間なら僕のようになると思うね。更に言えば、恐らくBも、我々にそんな振る舞いを期待していると思う。そもそも、なぜBは僕たち二人を助手に選んだのか? 答えは、口やかましい奴は困るからさ」

こうした物言いが、うら若きなまえの精神に作用した。
彼女はマールブルクを見習うことにしたのだ。
不幸な女中の死体はしかるべく解剖され、誰一人なにも言わず、彼女だと気付いた素振りも示さなかった。

ある日の午後、一日の仕事を終えたなまえが流行りの酒場に立ち寄ると、マールブルクが見知らぬ男と二人で座っていた。
小柄な男で、顔色はひどく悪く、髪は赤く、目も煉瓦のように色付いていた。
目鼻立ちからは知性と洗練の可能性を感じさせたが、言動にはそれがろくに実現されていなかった。
接してみると、なんとも粗野で、下品で愚かしい人物だったのである。
しかしマールブルクに対しては驚くほどの支配力を有しているらしく、横暴に命令を発し、ちょっとでも言い返したり命令の実行が遅れたりするとかんかんに怒り、卑屈な服従を求めてずけずけ者を言った。
この不快極まる人物が、幸か不幸か、なまえを一目で気に入り、散々酒を奢ってくれて、初対面だというのに己れの過去を恐ろしくあけすけに打ち明けてきた。
告白の十分の一でも真実だというしたら、なんとも忌わしい悪党に違いなかった。

「俺も相当に悪だが」と見知らぬ男は言った。
「マールブルクには敵わんね――トディ・マールブルクと俺は呼んでるがね。トディ、なまえにもう一杯注文してやれ」。
あるいはまた、「トディ、ちょっとそこのドア締めてこい」。

「トディは俺を憎んでるんだ」と男は更に言った。
「その不愉快な呼び名、やめてください!」とマールブルクは忌々しげに言った。
「よく言うなあ! なあ、なまえ、若造連中がナイフ遊びをしてるのを見たことがあるか? 機会さえありゃあ、こいつも俺の体中にナイフを入れたいところだろうよ」
「わたしたち医学に携わる人間には、もっと良いやり方があるわ」となまえは言った。
「嫌な奴が死んだら、死体を解剖するの」
マールブルクはさっと、なんと悪趣味な冗談を、と言いたげに顔を上げた。

午後は過ぎていった。
グレー(というのが見知らぬ男の名だった)は君も一緒に飯を食っていけとなまえを誘い、恐ろしく豪華な晩餐を注文したものだから酒場はてんやわんやの騒ぎとなった。
やがて食事も済むと、グレーはマールブルクに命じて勘定を払わせた。
夜も更けてから散会となり、グレーはぐでんぐでんに酔っ払っていた。
マールブルクは怒りのあまり酔おうにも酔えずにいえ、散々ないがしろにされた上に大変な散財をさせられたことをくよくよ思い悩んでいた。
一方なまえは、頭のなかでいろんな酒が歌っているのを聴きながら、覚束ぬ足取りで、虚ろな心を抱えて解剖室の上の自室へ帰った。




翌日、マールブルクは授業を休んだ。
彼があの耐えがたい男に付き添って酒場をはしごする思い描いて、なまえの口元が思わず綻んだ。
授業の終わりを告げる鐘が鳴った途端、昨夜の仲間を探して店から店を回った。
だがどこにも見付からなかったので、早目に部屋に戻り、早目に寝床に入って、正しき者の安眠を貪った。

午前四時に、聞き慣れた合図に起こされた。
玄関に降りていくと、マールブルクを乗せた車が来ているものだからなまえはすっかり驚いてしまった。
車のなかには、これまで散々目にしてきた、細長い、おぞましい包みがあった。
「どうしたの?」となまえは叫んだ。
「一人でお墓まで行ってきたの? どうやって?」
だが相手は乱暴な言葉でなまえを黙らせ、さっさと仕事にかかれと命じた。
死体を二階に上げて解剖台に載せると、マールブルクは最初、立ち去ろうとするような素振りを見せたが、じきに歩みを止め、しばし躊躇った様子を示してから、「顔を見てみなよ」と、些かぎこちなく言った。
「見た方が良いぞ」と彼は、呆然と見返しているなまえに向かって繰り返した。
「でも、どこで、どうやって、いつこれを手に入れたの?」となまえは叫んだ。
「顔を見てみろ」答えはそれだけだった。

なまえは動揺し、奇妙な疑念に襲われた。
若き医者から死体に目を移し、また戻した。
やっとのことで、はっと飛びあがって命じられた通りにした。
見えた光景はほぼ予想していたものの、やはりショックは甚だしかった。

昨夜酒場の敷居で別れたときは上等の服をきて美食と罪業とに身を膨らませていた男が、いまや死の硬直に包まれ、粗い麻布の上に裸で横たわっているのを目にして、いくら他人に思いの及ばぬなまえも、さすがに良心のおののきを覚えずにいられなかった。
なにしろこれで二人、自分の身知っていた人間がこの氷のように冷たい台の上に横たわったのだ。
「明日は我が身」という思いが胸の奥で響き渡った。
だがそれも二の次の思いでしかなかった。
なにより頭にあったのは、ウルフ・マールブルクのことであった。
かくも大きな試練にいきなり見舞われて、相棒の顔をどうやってまともに見たら良いかも分からなかった。
目を合わせる勇気もなかったし、言葉も声も出てこなかった。

歩み寄ってきたのはマールブルクの方だった。
ひっそり後ろから近付いてきて、そっと、しかししっかりとなまえの体を抱き締めた。

耳元で愛でも語らうように、「首はリチャードスンにやろう」とマールブルクは言った。
リチャードスンとは、ずっと前から首を解剖したいと切望してきた学生である。
答えがないので、殺人者は先を続けた。
「仕事の話になったから言うが、君、僕に金を払わないといけないよ。帳尻が合わないと困るだろう」

なまえはやっと、いつもの声には程遠い、幽霊のようにか細い声を絞り出した。
「金を払うって……」と彼女は呻いた。
これ・・の金を払えと言うの?」
「当然さ。何があろうと、是非払ってもらわないと」とマールブルクは再び話し出した。

「僕だってタダでくれてやる訳にはいかんし、君だってタダで受け取る訳にはいかないさ。そんな真似をしたら、二人とも厄介なことになってしまうぞ。ジュディス・ガルブレースのときと同じだよ。まずいことがあればあるほど、万事何事もないみたいに振る舞わなきゃならんのさ。Bの奴、どこに金をしまってる?」
「そこよ」となまえは上ずった声で答えながら、隅の棚を指した。
「じゃあ鍵を寄越せ」と相手は落ち着いて言い、片手を突き出した。

一瞬の躊躇いがあったのち、賽は投げられた。
鍵の感触を指の間に感じ取りながら、マールブルクは、心底安堵をおぼえていることのかすかな兆候なのか、ぴくぴく顔が引き攣るのを抑えられずにいた。
棚を開けて、仕切りのなかに置かれたペンと帳面を取り出し、引出しに入った金からしかるべき額を抜き出した。

「さあ、いいか」とマールブルクは言った。
「支払いは澄んだ。これが君が裏切らぬことの第一の証しであり、君自身の安全に至る第一歩だ。更に一歩進んで、これを確実にしないとね。支払いを帳面に付けろ。そうすりゃもう万事うまく収まる」

その後の数秒間は、なまえにとって苦渋の時だった。
が、様々な恐怖を天秤にかけるなかで、勝利を収めたのは最も目先の恐怖だった。
当面マールブルクとのいさかいを避けられるなら、未来の困難などほとんど歓迎すべきものに思えた。
しっかりした手付きで、取り引きの日時、内容、金額を書き込んだ。

「さあ、これで」とマールブルクは言った。
「君もおこぼれにあずかる権利を得たというものさ。これを受け取るんだ。僕はもう自分の分は取ったから」
「マールブルク」となまえは、尚もまだ少し上ずった声でいった。
「わたしはあなたのために、絞首刑の縄のなかへ自分の首を突っ込んだのよ」
「僕のためにだって?」とウルフ・マールブルクは叫んだ。
「やめろよ! 君は自分を護るためにやる他ないことをやったまでさ。僕が厄介事に巻き込まれてみろ、君はどうなる? このささやかな第二の事件は、第一の事件からそのまま繋がっているのさ。グレー氏はガルブレース嬢の続きなんだ。一旦始めたらやめることは出来ない。始めたら、やり続けるしかない。それが真実だ。邪悪な者に安らぎはないんだよ」

恐ろしい闇の感覚と、運命にあざむかれたという思いが、不幸な学生の胸を捉えた。
「ああ、わたしはなんてことをしたの? すべてはいつ始まったの? 補佐に採用されたとき? でもそれのなにが悪いの? ケイトもこの職を欲しがってた。ケイトが得ていても不思議はなかった。あの子がなっていたら、いまのわたしと同じ立場にいたの?」

「可愛いなまえ、君も子供だなあ!」とマールブルクは言った。
「君になんの害が及んだっていうんだ? 黙ってさえいれば、今後なんの危害が及ぶんだ? 君、人生というやつがどういうものか知ってるか? 人間は二組に分かれるんだよ――獅子と仔羊に。仔羊はグレーやガルブレースのようにこの解剖台に行きつき、獅子は生きて馬をせき立てるのさ、僕やBのように、そして世界中の知恵や度胸のある人間のように。君は出だしでふらついた。でもBを見ろよ! 可愛いなまえ、君は頭も良いし、肝も据わっている。僕は君を気に入っているし、Bも気に入っている。君は狩りを指揮すべく生まれついたんだよ。あと三日もすれば君は、こんな案山子かかしのことなんぞ、高校生が道化芝居を笑うみたいに笑い飛ばしてるだろうよ」

そう言い捨ててマールブルクはなまえの唇を自分の唇で塞ぎ、彼女の部屋に倒れ込んだ。
階下に死体を置いてのマールブルクとの交歓は、悪夢のようだった。
つまり、自分の意思では目覚められぬし逃れられもしないということだ。




日が昇る前に人目から逃れようとマールブルクは去っていった。
こうしてなまえは、後悔の念を抱えたままひとり取り残された。
己れが巻き込まれた忌わしい危険が、いまやありありと見てとれた。
自分が底なしに弱い人間であること、譲歩を重ねているうちにマールブルクの運命の調停者から彼に金を貰った無力な共犯者に堕してしまったことを思い知って、なんともいえぬ愕然たる心持ちだった。
もっと勇気が出ていれば、と悔やまれてならなかったが、これから先に勇気を出せば良いのだということには思い至らなかった。
ジュディス・ガルブレースの秘密と、帳面への呪わしい書き込みとで、彼女の口は閉ざされてしまっていた。

何時間か過ぎた。学生たちがやって来て、不運なるグレーの身体は、一人に、また一人にと分配され、皆何もいわずに受け取っていった。
リチャードスンは首を貰って喜んでいた。
授業の終わりを告げる鐘がそろそろ鳴ろうかという頃、自分たちは既に安全に向けて大きく近付いたのだとなまえは実感した。
嬉しくて身が震えそうだった。
それから二日間、人目を偽ることのおぞましさを抱えて生きるなか、喜びはますます募っていった。

三日目にマールブルクが姿を露わした。体調が悪かったのだと彼は言ったが、休んだ分を埋め合わせるかのようにてきぱき元気に学生たちを指導していた。
特にリチャードスンには大変貴重な助力と忠告を与え、相手も助手に褒められてすっかり気を良くし、野望を燃え上がらせて、いまや主席学生の栄誉は我が手中にありと信じていた。

週末になる前に、マールブルクの預言は現実となった。
なまえはいまや恐怖を乗り越え、己れの卑しさも忘れていた。
共犯者とは、B氏不在の隙を狙って、たまに解剖台の上階の私室で逢瀬を重ねた。
共通の上司とも寝るベッドでふたり乱れていると、あの夜のように胸糞悪い甘美なものを味わい、気も狂わんばかりだった。
昼は授業の仕事で会うし、一緒にB氏から指示を受けたりもした。
マールブルクは終始恐ろしく親切で陽気だった。
だが二人共通の秘密に言及することは一貫して明らかに避けていた。




やがて、二人がますます緊密な関係に置かれる機会が訪れた。
B氏が再び死体不足を訴えたのである。
学生たちも待ち望んでいたし、死体は常に十分供給するというのがこの教師の売り・・のひとつだった。
同時に、郊外の墓場で葬儀が行われたという報せが届いた。
時代の流れにもほとんど染まっていないこの片田舎の墓場は、(今日でもそうだが)人里離れた十字路にあって、六本のヒマラヤスギの葉むらの奥深くに埋もれていた。
近隣の丘に棲む羊たちの声、両横を流れる小河のせせらぎ――花咲く巨大な栗の老木で風がそよぐ音、田舎の町を包む静寂を破る音はそれで全部だった。
墓泥棒たちは、お決まりの信心にわずらわされたりはしなかった。

古い墓の渦巻き模様やら天使のラッパ、崇拝者や墓参りの人々の足に踏みならされた道、墓前への捧げ物、愛する者を失った人々が刻んだ墓碑銘等々を嘲笑し冒涜するするのも、墓泥棒家業の一環に他ならなかった。
田舎の町にあっては、愛情も概ね強く、血や友情の絆が一教区全体をひとつにまとめていたりもする。
こうした場所に、死体泥棒は、人間本来の敬意によって気遅れを感じるどころか、仕事のやり易さと安全さゆえに惹きつけられるものだった。
地中に横たえられ、まったく違った目覚めを歓喜と共に待ち受けている死体の元に、鍬とツルハシが訪れ、慌ただしい、ライトの光に照らされた、恐怖に憑かれた「蘇り」がもたらされる。
棺がこじ開けられ、経帷子きょうかたびらが引き裂かれる。
憂いを帯びた遺骸は麻布にくるまれ、月も出ておらぬ裏道を何時間も揺られて走った挙げ句に、ついには、あんぐり口を開けた若者たちの前に、この上なく屈辱的な姿でさらされるのである。

二羽の禿鷹が瀕死の仔羊めがけて舞い降りてくるように、なまえとマールブルクはその緑なる静かな休息の場に向かわんとしていた。
新聞に載っていた情報によると、死体は病気で死んだ六十代の女性だという。
存命中はもっぱら美味なバターと敬虔なる会話で知られていた老婦人が、真夜中に墓から暴かれ、命なき裸体を遠い都まで――そこを訪れるとき彼女はいつも恭しく余所行きの外套を着ていったものだった――運ばれてゆくのである。
家族と並んだその場所は、最後の審判が訪れる日まで空っぽのままだろう。




ある日の夕方、二人は外套に身を包み、何より頼もしい酒壜を携えて出発した。
休みなく雨の降る日だった。
冷たい、濃密な、叩きつけるような雨。
時折風が吹いても、降りしきる雨に押さえつけられていた。
酒はあっても、夜を過ごす予定の途中の町までの車中の旅は、陰惨な無言の道行きだった。

夜も大分更けてきていた。
自分たちの車が立てる音と、絶え間ない、耳障りに降りしきる雨の音以外はなんの音もなかった。
辺りは真っ暗闇で、白い門や、壁の白い石が束の間道案内となってくれもしたが、垂れ込める闇のなかを、陰気で人里離れた目的地へ向かっていった。
埋葬地の近所を横切っている、地面の沈んだ森を走っている最中に外灯も途絶えてしまい、車のライトだけがぼんやりと照らす道を進んでいた。
こうして、ぼたぼた雨を滴らせている木々の下、蠢く巨大な影に囲まれて、彼らは罪深き労働に携わる場に辿り着いた。

二人ともこうした仕事には慣れていたし、鍬を使うのもお手の物だった。
取りかかって二十分と経たないうちに、ゴトン、と鈍く棺の蓋を打つ音がした。
と同時に、石に手をぶつけて痛めたマールブルクが、無造作にその石を頭上に放り投げた。
いまや二人とも肩あたりまで生まれたその墓は、墓地を形成している一段高い地面のほぼ端にあって、周囲が見えるようにと車のライトで照らしていた。
偶然の悪戯で、石はものの見事に命中した――車のヘッドライトに。
闇が辺り一面に降りた。
鈍い響きと、ガチャンと鳴る音とが交互に響いた。
やがて、闇の如き静寂が支配を取り戻した。
耳を懸命に澄ましても、雨音以外何も聞こえなかった。
雨は風に合わせて先へ進んでいくかと思えば、何マイルも開けた地にまた降り注いだ。

自慢の愛車を損傷してみせたマールブルクは、思い付く限りの罵詈雑言を吐いていたが、おぞましい仕事ももうほぼ終わりなので、ここはもう真っ暗なまま最後までやってしまおうと決めた。
棺が掘り出され、こじ開けられた。
ぽたぽた水の垂れる袋に死体を押し込み、二人で車まで運んでいった。
死体があらぬ方向に転がらぬよう一人が後部座席で押さえ、一人が運転した。
無論、この車はマールブルクのものだったから、必然的に死体を抱えるのはなまえの役目だった。

作業の最中に二人ともずぶ濡れになっていた。
そしていま、深いわだちの上をヘッドライトを失った車が跳ねるように進んでいくなか、なまえの足元の獲物が、がたん、がたん、と彼女の足を、彼の座席の背を叩いた。
おぞましい接触が繰り返されるたび、二人とも本能的にそれに眉をひそめ、奥歯を噛んだ。
何もかも自然の成り行きとはいえ、これがだんだんと二人の神経に堪えていった。
老婦人をめぐってマールブルクが何やら下卑た冗談を口にしたが、それも何とも虚ろに響き、結局また黙ってしまった。

自然ならざる重荷は依然として左に右に前へ後ろへ倒れ続け、まるで打ち明け話でもするみたいに頭を彼女の膝に乗っけてくるかと思えば、今度はびしょびしょの麻布が彼らの足元を冷たくぴしゃりと打った。
じわじわと背筋を上ってくる寒気がなまえの心を覆っていった。
包みをしげしげ見てみると、なんだかさっきより大きくなったように見えた。
辺りの田園一帯、遠くからも近くからも、野犬と思しき物悲しい遠吠えで道行きのお供を務めた。
なまえの胸のうちで、何か自然の力を超えた奇跡が死体に降りかかったのだという思いが膨らんでいった。
名状しがたい変化が死体に生じたのであり、犬たちが吠えているのも、このよこしまな積み荷に怯えているせいなのだ。

「もう駄目、もう我慢できない」となまえはどうにか言葉を絞り出して行った。「もう我慢できないわ、一旦止まって、灯りを点けて!」
どうやらマールブルクも同じような気分に陥っていたらしく、なんとも答えはしなかったものの、道のど真ん中で停車させた。
雨は未だ、あたかも聖書の大洪水が戻ってきたかのように激しく降り続け、かくも水浸しで真っ暗な世界にあって車中から出るなど愚かの極みというものだった。
車内の小さなライトを点けると、頼りないオレンジ色の光が二人を照らしたが、その灯りがいまの二人には天使の後光にも思えた。

これで二人の若者にも、互いの姿が、そして二人の間に置いた獲物が見えるようになった。
雨を吸い、粗い布地は中の死体の輪郭に合わせた形を帯びていた。
頭と体ははっきり分かれて見えるし、肩も一目で線が分かった。
幽霊のような、同時に人間にも通じる何ものかがそこにはあって、二人のそのおぞましい旅仲間に釘付けにしていた。

少しの間、淡い光のなかマールブルクはじっと死体袋を眺めていた。
名付けようのない恐怖が、濡れたシーツのように死体に巻き付き、なまえの顔の青白い肌を引き攣らせていた。
意味のない恐怖、ありえないものへの怯え、それがひっきりなしに脳にのぼってきた。
もう一拍間があったら、なまえは口を開いていただろう。
だが相棒が一歩それに先んじた。

「これは女じゃない」とマールブルクが押し殺した声で言った。
「わたしたちが入れたのは女よ」となまえが囁いた。
「屈み込むな、ライトの影になる」とマールブルクが言った。「顔を見てみないと」

なまえが仰け反って死体から出来るだけ離れたところで、マールブルクは袋の紐を解いて、頭から覆いをけていった。
光りがひどくはっきりと、あまりによく知った顔の、浅黒いくっきりした目鼻立ちと、綺麗に剃刀を当てた頬を照らし出した。
それは若者両方の夢に何度も現れた顔に他ならなかった。

狂おしい悲鳴が夜の闇に響き渡り、マールブルクは道に飛び出していった。
一人車内に残されたなまえは、足元に横たわった男の指が、何かを掴まんと曲がっている――いまにも彼女の首を握ろうとしているようになまえには見えた――のを認めた。
なまえはゆっくりと車から降りたが、とっくの昔にマールブルクは逃げ出していて、土砂降りの雨の中、彼女はひとり立ち尽くしていた。

更に尋常ならざることに、車は腹を見せるようにドアを開け放されたまま、走り出した。
ハンドルを握って運転しているのは女だった。
先程と同じように車は男女二人を乗せ、とうの昔に解剖された死者グレーとガルブレースの体を運んでいった。




――この街に辿り着くべくして辿り着いた女の過去というものは、このような顛末であった。

「で? 満足した? 可哀想な女ひとりの過去を暴き立てて」
不機嫌そうに顔をしかめたなまえが頬杖をついて言った。
調べた結果をなまえ本人の補注や訂正を挟みながら披露し終えた私は、「まあな」と言葉少なに答えた。
「そう睨むなよ、暇だったんだよ、俺たちも」

「随分と偉そうな口を利くじゃない?」となまえは片頬を歪めた。
「勝手に余所の便所を覗いといて。ねえ――"元"新聞記者さん?」
なまえの皮肉げな言の通り、私はこの街に至る前にはそこそこ名の知れた堅実な新聞社に勤める聞屋ブンヤだった。
無論、いまとなってはどうでも良いことだったが。
このことはザ・ダウンワードの面々なら了解しているところではあったが、成る程、痛くもない腹――いいや、痛いところしかない過去という名の腹を探られるのは心地の良いものではない。

今回、記者時代のツテや調査法を駆使してなまえという女の過去を暴いてみせた私は、「余所では言わねえよ、俺まで頭がおかしくなったのかと疑われンのがオチだろ」と降参を示して両手を挙げた。
「ホラー映画は苦手なんだ。――でもそろそろダウンワードには顔を出してやってくれ、皆、アンタの顔が足りねえってぼやいてる」
気を良くしたなまえが「皆が質問責めにしないなら」と頷いた。

「それにしても、アンタ、あの医者に"またあれを見た"とかなんとか言ってたが」と私は言った。
「……そりゃ、つまり、例のグレーって奴らのことだろ? 本気か?」
疑念というより、おっかなびっくり真夜中に便所の電灯のスイッチを探しているかの如き表情の私を、なまえは鼻で笑った。
「まさか。嘘に決まってるでしょ。あいつをビビらせたかっただけだよ。でも――あのとき・・・・見たのは、本当にグレーとガルブレースだった。それは間違いない。豪雨のせいで見間違えただの罪悪感が見せた幻影だのなんだの……ここで生きているわたしに言わせりゃ馬鹿も良いとこよ。それに、似たようなもんでしょ、わたしも、あんたも。――死人しかいないよ、この街には」

それもそうだと頷いたところで、ここの部屋の本来の主人が現れた。
アドルフのところの掃除屋は、いつものように白い上下の衣服に、肉屋じみたてかてかと不気味な光沢のエプロンを着用していた。
白いマスクとゴツいゴーグルで表情は窺いようもなく、その下の素顔など知りたくもなかった。
言うまでもなく、その手に握られた工業用チェーンソーの用途も含めてである。

「ねえ、ソーヤー。この情報屋のせいで嫌な気分になっちゃった。ガールズトークでもしようよ。それ・・が終わったら、ご飯でも食べに行かない? お腹空いちゃった」
なまえが長閑のどかに頬杖をついていたのは解剖台で、その上には死後硬直の始まったひとりの男の全裸死体が横たわっていた。
どうしたことか、そいつの右腕は肩のすぐ下辺りから無く、鋭利な刃物で切り裂かれたと思しきなめらかな断面を見せていた。
しかし直接の死因は切り傷・・・ではなく、額にぽっかり空いた小口径の暗い穴の方だったのはじっくり調べずとも容易に認められる按配あんばいであった。
首を傾ければ自分の黒髪が物言わぬ男の顔をくすぐるほどの至近距離で、なまえはこの長話を聞いていたのだった。

無言で頷いて同意を示した「掃除屋」ソーヤーは、懐からデカい肉切り包丁とメスを取り出した。
私は――俺は、全力で逃げ出した。
今更、死体のひとつやふたつ程度でがたがた言うような初心な性根ではないとはいえ、この上なくリアルな解体ショーを最前列で観賞する胆力など持ち合わせてはいない、ホラー映画だけではなくスラッシャー映画も苦手な俺を、一体誰が笑いうるというのだろう。

――「ああ、ソーヤー、その腱は骨の横からメスを入れて……そう、上手! 血を浴びたいっていうなら別だけど、そういうシュミがある訳じゃないなら、その方が汚れずに済むよ」
なまえの陽気なアドバイスの声が、俺の背中を追い立てた。

- ナノ -