(※もかちゃんの個人サイト「La Mer」『九死に十生』シリーズのラッキーガールちゃんをお借りしました。本当にありがとう、もかちゃんへ捧げます!)




「いる。違う。なまえさん、昨日じゃない。それ、“今日”。“今日”は覚えたはず、です」
「はい。覚えている。でも、きのう……ううん、夜なのよ? 朝じゃない」
「それは……“未明”って、言うです」
「ミメイ?」
「ええと……夜中から、朝早くくらいの時間」
「ああ、もしかして“凌晨リンサン(※明け方)”ってことかしら」
「なまえさん、中国語までいくとさすがに本格的に分からないのでやめていただけますか」

片や英語、片や日本語のちぐはぐな会話は、そのどちらもがひどく稚拙であったため――そして不格好な物言いに反し、お互い大層大真面目な面持ちで額を合わせていたがゆえに、なんとも名状しがたい不思議空間をイエロー・フラッグ店内の片隅に生じさせていた。

傾きつつあるとはいえ、窓の外には容赦なく照り付ける陽光が未だ健在、宵の口というにもいささか早すぎる時分とあって、さすがに客はまばら。
入り口の自在扉を押し開けるなり、ロックは一歩二歩、空足からあしを踏んだ。
なにしろ、とうに見慣れたカウンターに、馴染んでいるとは到底言い難い後ろ姿がひとつ――相棒のセリフを借りるなら「最近のクソ映画だってもっとマシなCG処理すらア」といったところ――、浮きすぎるほどに浮いていれば致し方ない。

いぶかしげな顔をしていたロックにいち早く気付いたのは、カウンター越しにこちらを向いていた女店員だった。
前述の、不思議空間を作り上げていたうちのひとりである。
「よう、ロック」と声をかけてくる店主よりも愛想良く、彼女は――ラッキーガールは、客商売として満点以上の笑みで「いらっしゃいませ」と軽く会釈した。

「ロックさん。いつもレヴィと一緒なのに、おひとりなのは珍しいですね」
「あら、こんにちは、ロック」

それぞれ日本語と英語でかけられた挨拶に、咄嗟になんと答えたものか。
そんなところだと曖昧に頷きながら、ロックはカウンターの端を占領していた女の隣へやおら腰掛けた。
酒場に白々と浮く妙相みょうそうの正体は、金糸雀カナリアの後ろ姿。
なまえは「ふふ、ロックったら」と微笑んだ。

「こんな時間からお酒だなんて。あなた、今日はお休み?」

まだ日の高い時刻から、ひとりで酒場にいる小鳥に言われたくはないが。
彼女の手元のハイボールグラスを無言で指差せば、なまえは「これはお酒じゃないもの」と唇をとがらせた。
どうやら以前、この場で晒してしまった醜態は、なまえ本人の記憶からも抹消できなかったものとみえる。
酒に弱いと耳にしたときは半信半疑だったが、かつて実際にロックはそのさまを目の当たりにしている。

いつ何時も、その場で最も安全な場所を見極めるのは、黙示録の白馬や赤馬、黒馬の駆ける段に至ろうと、その爪音すら飛び交う銃声が掻き消すだろう魔都において、なにをいても肝要である。
銃撃戦に巻き込まれた際、違いといえば、身を隠す遮蔽物がたったひとつ隣のテーブルだったというだけの男が、運悪く鉛玉を頂戴するハメになったのを間近で拝めるような機会に、遺憾ながら彼は事欠かなかった。
なかんずく街にその名を轟かす相棒レヴィも伴わずにいるとなると、少なくともいまこの場で「金糸雀カナリアの隣」は最もあらまほしいポジションである。
――それでなくとも、嬉しそうに頬をゆるめている女店員に促されれば、余所の席を陣取る思考は浮かばなかったが。

「……それにしても、ふたりが顔見知りだったなんて知らなかったな」

拗ねているなまえをかわしつつ、ロックはやや意外そうに首を傾げた。
なきだに、中立地帯とはいえ――ややもすればそれが原因となることも――物騒な話題に事欠かぬ「イエロー・フラッグの女店員ラッキーガール」と、大廈高楼たいかこうろうに仕舞い込まれた「三合会の金糸雀カナリア」など、縁の端緒をいぶかるのもけだし道理というもの。
勘繰るというより、純粋に不思議がっているロックの疑問に答えたのは、彼のためのつまみを準備している前者ではなく、隣でおっとりとグラスを干した後者だった。

「ミス・ラッキーガールは、わたしに日本語を教えてくれているの。もちろん、お仕事が忙しくなくて――
健勝でいるときに・・・・・・・・、だけれど」

耳に馴染む清らかな声が、流暢とは言い難い日本語で「ね、せんせい」と囀る。
客の少ない時機を、ラッキーガールは金糸雀カナリアと興じる「おしゃべり」に費やしているという。
ロックの前へグラスを寄越したバオが顔色ひとつ変えずにいる様子から察するに、どうやらなまえたちの即席語学教室は、最早、見慣れたものらしい。

「幸運」の別称を持つ女は「ええ、まあ」と同意した。
躊躇いがちな語調には、そこはかとなく不本意なものが滲んでいる。
――不承不承といった様相は、小鳥の教師役を担っていることに対する不満というより、「ミス・ラッキーガール」という呼称によるものが最たる原因なのは、わざわざ弁解されるまでもなかったが。
時と場合によっては皮肉めいたニュアンスすら含まれる「ラッキー」の通称は、彼女自身、やはり実以じつもって是としがたいらしい。

「……金糸雀カナリアさんに“先生”なんて呼ばれるの、なんだか居た堪れないからやめてって再三お願いしているんです。でも、聞き入れてくださらなくって」

愛らしい相貌に浮かぶのは、苦笑というより面映げな色の勝る笑み。
かすかに頬を染めてくすぐったそうに自分の頬をかいているラッキーガールに、ロックも苦笑した。

「……まあ、まだまだ練習が必要みたいだけど。ふたりとも」
「だってわたし、頻繁には伺えないんだもの。あなたみたいにはね、ロック」
「でも、なまえさんも以前に比べて、聞き取りはずっと上達しましたよね」
「まあ、本当? 嬉しいわ」

互いにある程度のリスニングは可能とあって、日本語と英語をごちゃ混ぜにしている会話ははたから見ていると、思わず笑ってしまいそうなほど滑稽な有り様だった。
が、この場にはそれを正面からあげつらう愚昧な者などいまい。
なにしろこの場――酒場に満ちているのは、なまえたちの歓談を除けば、静寂ばかり。
普段の下卑た喧騒には程遠い、さながら葬式でも始めんばかりの様相を呈しているイエロー・フラッグ店内を指して、ロックは「酒場としてどうなんだ」と嘆息した。
客の少なさを、そして日の高さを勘案しても、さすがに静かすぎる・・・・・
ロックの指摘を受け、小鳥たちのおしゃべりを余所に、店主バオは「へッ、抜かしてやがれ」と顔をしかめた。

「俺もな、いつまでも店が平穏無事なんざ信じてられるほどおめでたかねェ。どーせそのうちどっかのバカ共が、逆さまにクルアーンでも唱えながら、砂粒みてぇに薬莢をバラ撒きやがンだ、くそったれ。なら、客共が大人しく・・・・してる間、そのまま黙って尻を下ろしてろッてえ思ってなにが悪い。――大体な、分かってンのか? テメェらラグーンも面倒事を引き連れてきやがる常連組に入ってンだぞ」

しかめっ面で人差し指を突き付けてくるバオに、ロックは「はは、」と苦笑するしかなかった。
なにしろ、遥か彼岸のことのように感ぜられるものの、既にこの身に馴染んで久しい「ロック」の名を初めて雇い主ダッチが呼称したのも、――直後、差向けられた傭兵連中によって、品もセンスも皆無の挨拶と共に破片手榴弾フラグメントを寄越されたのも、他でもない、ここイエロー・フラッグだったのだから。
その横で、うんうんと女店員ラッキーガールも頷いていた。

「バオさん、言ってました。なまえさんがいる間、お店は平和。それは私の無事にも、繋がる。だから助かる」
「まあ、小鳥がお役に立てるなんて」

生真面目な顔で同意を示す彼女は、次いで、なまえのグラスが空であることに気付いたらしい。
「なまえさん、おかわりsome more?」と、痛々しい火傷痕の残る指をグラスへ向けた。
愛らしく小首を傾げるラッキーガールに、小鳥もたどたどしく「May I ask you a favorおねがいしても、いいですか?」と微笑んだ。

「耳はわるくないのに。どうして、話すのむずかしい?」
「んー……組み立てconstructionが難しい。日本語と英語、語順が違う。それに、言葉、探すのも」
「ね、ロック。彼女はいまなんて?」
「あ! なまえさん、ズルはだめですよ!」
「うふふ、なにをおっしゃっているのか小鳥には分からないの、先生」

彼女たちのつたない「おしゃべり」を、どちらの言語も遜色なく役することのできる男は、なんとなくむず痒い心地で眺めていた。


(2021.09.02)
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