(※お題ガチャ「振り回されてあげてる」
https://odaibako.net/gacha/1752 より)
(※IF転生パロ。平和な大学生パロ。記憶の有無はバラバラ。いつも通り深く考えてはいけない。正気を失ってください)
(※掌編)
日常茶飯事
大半の者は空調も設備も真新しい新館の方へ移動したらしく、旧館のラウンジに人影はまばらだった。
学内の喫煙スペースは軒並み撤去という憂き目に遭っており、このだだっ広いラウンジも例外ではなかった。
しかし染みついた香りは一朝一夕どころか十朝十夕に至ろうと到底消え去るものではなく、確かに嗜まない者は好き好んで長居したくはないだろう。
骨董品級といえど、座り心地が最悪な教室のスタッキングチェアよりいくらかマシであり、未だ煙臭いラウンジで座ることができるという一点においてのみ存在をなんとか確立させている安物のソファに腰掛けて、ロックは足を組んだ。
「それで、」とやおら首を傾げた。
「なまえさんとは随分と仲良くなったみたいで」
「……目が腐ってんのか?」
それはもう盛大に顔をしかめてみせたのは、正面に腰掛けた張維新だった。
そこらの安っぽいソファなど到底似合うまい情調が記憶に強くあるためか、それでもその一角だけものが違うように感じられるのは、生来持ち合わせた気質もあるだろうか。
とはいえ洒脱さも鷹揚っぷりも、いまは疲れ切ったような表情のせいですっかり台無しになっていたが。
口をへの字に曲げたまま、張が「勘弁してくれ、ロック」と嘆息した。
「お前が紹介したいやつがいるって言うから付き合ってやったってのに。やれやれ、まさかストーカー予備軍を寄越されるとは思ってもみなかったよ、ロック。なんだ、俺に恨みでもあんのか。ならはじめっからそう言え。こっちにも考えがある」
「いやー、俺もまさかこんなことになるとは思わず」
「大体、おかしいだろ……。出会った瞬間に好感度カンストしてたぜ、あれ」
ロックは理解していた。
張がこれほど険のある物言いと眼差しを向けてくるのには、自分も原因の一端――というと反論したい点は二、三あれど、ともあれ「まあ、すこしくらいは関与してるかな」と認めざるをえないことを。
なにしろ初恋を知ったばかりの処女もかくやとばかりに瞳を潤ませた女が、声高に「だんなさま!」と声をあげたのも、直後、自己紹介も誰何も置いて、初対面の男へ一心に抱き着いたのも記憶に新しい。
ロックはははっと苦笑した。
「一世一代の見ものだったな。なまえさんが突然あんたに抱き着いて泣き出したの。映画のワンシーンかと思った」
「脚本に物申したいんだが」
前々から俺のこと知ってたのか? と問うたのは彼女の「元」飼い主だ。
知っているもなにもと笑い飛ばしたい腹のうちを隠したまま、ロックは空とぼけて「さあ?」と首をひねってみせた。
「俺じゃなくて、直接なまえさんに聞いてみればいいでしょ」
「……あれに?」
「いや“あれ”って。そんな無体な」
「考えてもみろよ、ロック。筋も道理も通らんことを喚きながら初対面で抱き着いてくるような女……通報してやらなかっただけ御の字ってやつだろ。まかり間違っても“仲良く”なんざできるはずもねえ」
「……のわりに、あっちは全然めげてないみたいだけど」
な、なまえさん、とロックがひょいと上体を傾けると、いまのいままで話題に上っていた当のなまえが恰も好しと、腕を広げて満面の笑みで突撃してくるところだった。
彼女が抱き着こうとした瞬間、しかし張はぱっと身を翻してすんでのところで回避した。
「避けるのが上手くなったな」とロックがどこかずれた感想を抱いたのは、既にこのやりとりが常態化していることを示していた。
全力のハグをかわされたなまえが「ああん、もう」と唇をとがらせた。
拗ねた表情はいとけないが、どうやらまだ諦めていないらしく依然として抱き着こうとした腕を下ろす気配はなかった。
ソファを挟んでじりじりと張との間合いを詰めていた。
「ひどいひと。どうして避けるんです」
「むしろなんで避けないと思った?」
「だって、だんなさま……じゃなかった、あなたのお顔を拝せて嬉しいんです。その喜びを表そうと思って」
「他に方法は」
「ありません」
初日、これ以上ないほどドン引きした形相で「その呼び方はどうにかならないか」と張直々に呻くように要求されて以降、一応なまえも気を付けてはいるらしいが、つい「旦那さま」と口から出てしまうらしい。
いわく「癖のようなものです」とのことだが。
そして初撃を見事に回避したにもかかわらず、結局、追いかけっこの勝敗はなまえに軍配が上がったようだった。
愛らしく頬を染めているなまえからべったりと抱き着かれたまま、張は深々と溜め息をついた。
語尾にハートマークを大量に付け、なまえが砂糖菓子のように甘い声で囁いた。
「ああ、今日も素敵です、好きです……愛しています……」
「………………助けてくれ、ロック」
記憶にある限り滅多にないほどくたびれた様相の男と、記憶に残っているまま幸福そうに寄りすがって微笑む女を眺めながら、やはりロックは苦笑を禁じえなかった。
「実際、なにしたらここまで悪化するんだ、張さん」
「俺が知りてえよ」
旧懐
「あら、バラライカさん、こんにちは。まさかこんなところでお会いできるなんて。ご挨拶は……“お久しぶりです”でよろしい?」
「ええ、久しぶりね、なまえ。驚いたわ、“こんなところで”――学内で、顔を合わせるなんてね。私も驚きよ。あなたも変わりないようでなにより、って――なんなの、あの男……?」
ふいにバラライカが鼻白んだように言葉を切った。
いかにも戸惑った面持ちの彼女を見上げて、なまえは破顔した。
かの「大尉殿」を知り及ぶ者にいくら言い張ろうとも信じてもらえないに違いなかった。
あのバラライカが面食らって言葉を失っている風姿なんぞ、従前お目にかかったことがない。
とはいえ彼女の反応が飛び抜けて不合理というわけでもなかった。
なにしろいまのいままで自分と会話していたはずの張維新が、なまえが現れた瞬間、なんの断りもなく一も二もなく逃亡したとあっては致し方ない。
何事かと怪訝そうな顔をするバラライカに、とうとうなまえは声をあげて笑い出してしまった。
「ふふっ、どうかお気になさらないでください、ミス・バラライカ。わたしを見付けると――わたしに見付かるとって言った方が正しいかしら、うふふ、あのひとったら逃げちゃうんです」
「……“金糸雀”から、“飼い主”が?」
さすが、はやくも動揺から復帰したようで、当惑も露わに頷きながらバラライカは「見知った初対面」もとい小鳥のたわ言へ引き攣った笑みを返した。
「あなたたち、思っていたよりなんだか面白いことになってるのね」
「まあ、面白いだなんて。ですが、今世、女ひとりから逃げ回っている飼い主さまを見るのは新鮮で……ふふ、ちょっとだけ楽しいです」
どこか悪戯っぽい子どものような笑みで小鳥が嘯いた。
すくなくともバラライカが覚えている限り、なまえのそんな表情を見るのは初めてだった。
「……あなた、吹っ切れて愉快な性格になったわね。それとも私が知らなかっただけで“金糸雀”は元からそうだったの?」
「どちらかというと前者なんでしょうけれど……。性根そのものはそう変わっていないと思います」
真面目な顔で自己分析に取り組んでいるなまえは、やはり従順、貞淑さよりも爛漫な印象が強かった。
記憶より目線が低く感じられるのは、底の平らなフラット・シューズを履いているためだろう。
バラライカは浅く嘆息した。
なにせソドムとゴモラ、かの街は遥か遠く、血と硝煙の香りは絶えて久しい。
安逸を貪る今世には仕舞い込まれる鳥籠もないのだから、小鳥がのびのびと囀るのも妥当というものだ。
翻って自分も同じだけ平和ボケしているはずとおもんみるに、そこはかとなく焦燥に似たむず痒さを覚えずにはいられなかった。
偶然も、いくつ重ねれば運命なんぞ胡乱なものに昇華するのか、指折り数えてみる気にはならない。
遺恨に禍根、軋轢に凌轢、禍に算無し、ともあれなんの因果か再び相見えたというのに、相手がなんの記憶も持っていないとくれば、なんともはやフラストレーションをぶつける手立てもない。
うつし世初めて張に相対する間バラライカが抱えていた微妙な機微を、なまえは理解しているとばかりにいくらか落ち着いた笑顔を見せた。
「思うところも多々おありでしょう。もしよろしければ、またお茶をご一緒させていただけますか、ミス・バラライカ? ご覧の通り、いまは“許可”も必要としませんし」
「ええ、勿論。あなたたちの近況も教えてちょうだいな」
喜んでと嬉しそうになまえが首肯したところで、またひとり「見知った初対面」の男が現れた。
端無くも通りがかったのはそこそこ彼女たちと浅からぬ関わりのあるロックであり、ふたりを視認するや否や、相好を崩して「なまえさん、あんたの“旦那さま”が旧B棟の方に逃亡してくのを見たよ」となんの躊躇いもなく密告った。
「いま追えば捕まえられるんじゃないか。なんせいまはそんなに踵が低いんだし」
「旧館のB棟って、理工学部の方だったわね? ありがとう、ロック。お礼に、あのひとのお写真をあげましょうか」
「お気持ちだけで。ていうかそれ、どうせ隠し撮りだろ」
「うふふ」
肯定も否定もしないまま、なまえがにっこり笑った。
おっとりと「それでは失礼いたします、ミス・バラライカ。またお会いできるのを楽しみにしています」と辞去を告げると、目撃情報に従って旧館の方へ駆けていった。
「いやー、面白いですよねアレ」
走り去るなまえの後ろ姿を眺めながら、のんびりとロックが懐から煙草とライターを取り出した。
火を点けつつ呟く彼の横顔はセリフに違わず半笑いだ。
生温い口ぶりから、どうやらあの騒動が日常茶飯事らしいとバラライカが察するにあまりあった。
同じく煙草を取り出しながら彼女も頷いた。
なるほど確かに「前」のふたりを知っている身としては、いまの張維新となまえをして「面白い」以上に相応の表現もないだろう。
「そうね。それには私も同意見だわ。傍から眺めてる分には、かなり」
「惜しいですね。もし張さんにも記憶があったら、いまのなまえさんを見てどう思うか一度聞いてみたいところだったんですけど」
「私が会った面々は大抵、記憶を持っていたけど……張は覚えてないのね?」
「ええ、まあ。そうらしいです」
でもなんだかんだ言ってなまえさんのことは憎からず思ってるみたいですよ、とロックが紫煙まじりに笑った。
彼からライターを借りつつ、バラライカも己の煙草へ火を点けた。
「……それよりロック、いま学内って禁煙じゃなかった?」
「あー……どうしてですかね。バラライカさんを見てたら自然と吸いたくなってしまって」
「わかる気がするわ。さっき張と話してる間、私も葉巻が欲しくて堪らなかったもの」
などと供述しており
あっと思ったのは、白百合を連想させる姿が視界の端をかすめたからだった。
彼女が白っぽい服を着ていると否応なしに過ったものだった――前の、「大姐」と呼んでいた頃の小鳥を。
別段用があるわけでもなし、彪如苑は呼び止めることなく、通りがかったなまえを眺めていた。
白いワンピースは飼い主の趣味で着せられていたかと思いきや、彼女自身も気に入っていたらしい。
従前より色味も装いも格段にバリエーションが増えてはいるものの、あの頃と変わらないおっとりとした所作によるものか、受ける印象はさして変わらなかった。
今世はどうだか知らないが、そういえば「金糸雀」と呼ばれていた前は「良いところのお嬢さん」だったらしいなと今更ながらに思い出した。
いまは顔を合わせるたびにふざけて「彪さん」「先輩」などと呼んでくるものだから、むず痒さ七割、得体の知れなさ三割とあって、心底やめてほしかったが。
と、なんの前ぶれもなくなまえがぱあっと顔を輝かした。
視線の先を辿れば、果たして彼女の飼い主が――いまは学友たる男が、ひとり歩いているところだった。
最早、学内で知らない者はいないのではと、彪は恐ろしい推測をしていた。
手を替え品を替え、日々全力で張維新にアプローチしているなまえの存在は、学部内のみならず学内で既に名物扱いされていた。
一部ではいつあの「旦那さま」が陥落するのかと、愚にも付かない賭けまで行われているのを、当人たちは知っているのだろうか?
賭けの対象が対象だけに、学生らしいと笑い飛ばせば良いのか否か、悩むところではあった。
とはいえ、依然としてなまえが周囲からギリギリ犯罪者もといストーカーと後ろ指を指されずにいるのは、彼女の天分、資性によるものだろうか――人徳だとかは口が裂けても決して言えないが。
張と遭遇するまでのなまえを知る者たちは、口を揃えて「大人しくて物静かな女性だった」「例の“旦那さま”と会ってからなにがあったんだ、なにかされたんじゃないだろうな」と証言しているため、なにも覚えていないらしい「元」飼い主にはひたすらご愁傷様ですとしか言いようがない。
張を見付けて頬を染めるなまえの様子は「周囲に花が咲くってのはああいう顔を言うんだな」と否応なしに理解させられるものだった。
と、観察されているのに気付かず、彼女は鞄からちいさな鏡を取り出した。
なにをするつもりやらとなんとはなしに眺めていると、いそいそと手鏡を覗き込み、髪や化粧をチェックしてちいさく微笑んだ。
なまえの微笑は正しく恋する乙女の顔そのもので、いまも、そして「前」も、彼女の性悪っぷりを忘れてはいない彪ですら我知らず見惚れてしまうほど可憐だった。
一連の行動は、誰かに見せるためでもない素直な笑みは、ついいじらしいと思わされてしまう。
後日、彼は認めた。
極めて不本意そうに「あれは……可愛らしいって言っても差し支えねェだろ……」と。
とまれかくまれ、無事、身だしなみチェックを終えたらしいなまえは、軽やかな足取りで張維新へ駆け寄った。
彼の腕へ抱き着き、胸焼けしそうなほど甘ったるい声音で「おはようございます」と囀った。
「朝一番にあなたにお会いできるなんて! きっと今日は良い日ですねっ」
「うわ出た」
最早慣れつつあるらしい。
大して驚きもせず、張は抱き着かれたまま顔をしかめた。
あんまりな第一声に、なまえは「まあ、なんて言い草でしょう」と頬を膨らませた。
が、それが男をなじる媚態であるのは明白だ。
気にした素ぶりひとつなく、可視できそうなほどハートを言葉の端々に散りばめながら、張から雑にあしらわれるのすら嬉しいと頭の悪い子犬のようにじゃれていた。
「今日も素敵です、好きです、愛しています……」
「はいはい」
「このままご一緒しても?」
「あーはいはい」
「ね、キスしてよろしいですか?」
「よろしかねえよ。はいはい頷くと思ったか」
「なんて意地が悪いの……」
「いやそっちが被害者ヅラするのはおかしいだろ」
完全にイチャついているようにしか見えないやりとりだったが、男の方にはそんなつもりはないらしい。
纏わりつくなまえを徒や疎かにしながらさっさと足を運んでいく。
なまえもなまえで機嫌を損ねた様子もなく、幸福を絵に描いたような笑顔のまま連れ立って行ってしまった。
後々、彪が「……もうちょっとやさしくしてやっても良いンじゃないんですかね……」とぼやいた際、なに言ってんだとばかりに張は微妙な顔をしていた。
が、しかし――無論、小鳥の肩を持つつもりはこれっぽっちも、欠片も、微塵もないとはいえ――元「大姐」のあんな姿を見てしまえば、すこしくらいと彪が思ってしまうのも、人情というものではないだろうか。
コールサイン
張自身は非常に不本意だったが、いまや彼も、そしてなまえも、学内でそこそこの知名度を有するようになっていた。
彼女を説明しようとしたらしい学友が「なまえさんって誰?」「ほら、張さんの押しかけ女房してる……」「ああ、あのひとね」と会話しているのを偶然耳にしてしまったときは、思わず頭を抱えたほどだった。
説明する方もする方だが、それで納得する方も納得する方だ。
一言二言、物申したいところだった。
誰が言い出したのやら、一部の人間はなまえのことを「小鳥」と形容しているらしかった。
なるほどうるさい囀りに似合いのあだ名だと彼は妙に納得したものだった。
ぴったりではないか。
張を見付けるや否や軽々に周りを飛び回ってあれやこれやと吹鳴するさまは、正しく頭の足りない小鳥そのものだ。
彼女だけならともかく、自分まで注目の的になっている現状ははなはだ遺憾だった。
それもこれも、自分のことを「旦那さま」と呼んではばからない、このおかしな女のせいである。
「ね、週末はここにデートに行きたいです!」
「あー、その日は用事が」
「ないことは把握して言っています」
「いやなんで把握してんだよ」
雑誌を手に、なまえがここへ連れていけと姦しく要求してきた。
示す誌面には恥ずかしげもなくデカデカと話題のデートスポット云々との文字が踊っている。
張は辟易しながら「そもそもデートってのは、交際している人間が……」と一から説明してやろうかとも思ったが、すんでのところで口をつぐんだ。
その手には乗ってやるものか。
なにしろこの女、張が自分に顔を向けて話してくれているという事実だけでこの上なく幸福そうに顔をとろけさせるのだ。
ならばこちらからわざわざ喜ばせてやる道理などないだろうと、張は纏わりついてくるなまえを雑に往なしつつ懐から煙草を取り出した。
なぜかちゃっかりライターを準備していた女を押し留めて自ら火を点けた。
「そもそもそんなこと要求できる立場か、お前は」
「嫌なおっしゃりようだわ。結婚……じゃなかった、お付き合いを前提に一緒にいる相手に対して、その言い方は良くありませんよ」
「なんでこっちが説教されてんだろうな……」
「まあ、あなた相手にお説教だなんて。でも、ご不快にさせたいつもりはありませんでしたの。お許しください。謝罪するお時間を割いてくださるでしょうか……週末なんていかがです?」
「それお前がデートとやらがしたいだけだろ」
「うふふ」
「うーん、今日も通じさせてくれねえな、会話」
「つまりなまえと会話をしたいという意欲があなたにもおありということですね? ありがとうございます!」
「……その前向き加減は買ってるよ」
「えっ、そんな……お褒めいただけて嬉しいです、どうしよう、こんなのもう結婚まで秒読みではないかしら……。不束者ですがどうぞ末永くよろしくお願いします」
「病院に行くか?」
「付き添いしてくださるということですか? 夫婦みたいですね」
「ひとりで行ってくれ」
ネットミームのあれ
今日も今日とて飼い主とその小鳥は愉快な話題にこと欠かないらしい。
「もしかしたら誰よりも学生生活を満喫してるんじゃないか」とロックは笑うのを失敗したような引き攣った顔でふたりを眺めた。
なまえは首から「反省中」と書かれた札を下げていた。
ちなみに満面の笑みである。
意味がわからない。
わからない、が、しかしその光景はめちゃくちゃ面白かった。
ペットが悪さをした際、飼い主によって罰と称してふざけて首から札をかけられている写真なんかをインターネットで目にしたことがあったが、現在のなまえの姿は完全にそれと一致していた。
「同じ」なのは当の本人がまったく反省していないという点においてもだった。
すくなくとも「反省」という語から最も遠いところにいるのは、犯人のとろけるような笑みから明白である。
そして輪をかけてなにが面白いかというと、彼女の隣に座っている男の方がよっぽど反省――というか、いかにも疲れ切ったように項垂れているありさまだった。
絶対にふれてやるかと身構えていたにもかかわらず、しかしロックを見付けるや、なまえはにこにこしながら「あら、ロック」と声をあげた。
なにも聞いてもいないのに、ご機嫌に弾んだ声で「あっ、これ?」と小首を傾げた。
「うふふ、良いでしょう。あのね、なまえのために作ってくださったの!」
ね! と、隣にぐったりと腰掛けた男へなまえが微笑みかけた。
たっぷりの媚とハートをストレートに浴びせられる張維新は、テーブルに肘をついたまま束ねた両手へ額を乗っけて項垂れていた。
滅多にないくらい疲弊している彼を眺め、ロックは一応「今度はなにしでかしたんだ?」と尋ねた。
しかし口にするのもはばかられるようなことでもやらかしたのか、飼い主は説明を躊躇うようにあやふやに「あー……」と唸った。
形良い太眉は情けなく垂れており、なまえは彼が言わなければ自ら白状する気もないらしく、甘ったるい笑みを浮かべるばかりだった。
彼の珍しいそんな表情すらいとおしくて堪らないと言外に振りまきながらだ。
頭痛に悩まされているような表情で張がぼそりとこぼした。
「……“反省”って言葉の意味から教えるべきだった」
丁度いい巻き込まれポジション
図ったわけではなかったが、彪はくしくも張と同じ研究室に所属していた。
というか知る限り「前」に所属していた組織と、在籍する学部や科の顔ぶれは、なぜかほとんどイコールだった。
狭苦しい研究室には、いま彼ら以外の人間はいなかった。
至って平和な室内に突如として響き渡ったのは、着信を告げる初期設定のそっけない音だった。
スマートフォンの画面を目にした途端、持ち主が「げ、」と顔を歪めた。
サングラスもかけていないせいで――たとえかけていたとしてもバレバレだったに違いないが――逡巡しているのを隠せていない張を見て、彪は「あ、これ小鳥絡みだな」と即判断した。
さすが元部下、正解だった。
元上司にしては珍しく、喉になにか引っかかったような筆舌に尽くしがたい微妙な表情で張がスマートフォンを見下ろしていた。
依然として着信音は鳴り続けていた。
正直にいって非常にうるさい。
仕方なく彪は「……出ないんですか」と水を向けてやった。
「……出てやらないと後が厄介なんだよな……」
とっくに察していたとはいえ、呟きは電話の主を白状したようなものだ。
良くも悪くも多少なりとも彼らのことを知っている男は「というかあんたたち、連絡先を交換したんですね」と嘆息した。
「意外だ、わざわざ教えてやったんですか。いつもの鬱陶しがってる具合からは想像もつかねえ」
「なぜかあいつが知ってんだよ既に」
「通報案件では」
「だよな」
そんな会話をしている間も鳴り止まない着信音にとうとう観念したか、張はしぶしぶといった様相で通話を開始した。
「……なんの用だ」
「あっ、もう、出てくださるのが遅いです。なにかあったのかと、なまえ、心配になってしまいました」
「……俺はなんの用だって聞いてるんだが」
「ふふ、そう邪険になさらないで。あなたのお声が聞きたくなってしまったんです」
「じゃあ目的は達成できたな、切っていいか」
「だめです」
声量は、特段大きなわけではなかった。
とはいえ静かな部屋では女のやわらかな声は聞くともなしに耳に入ってくるものだった。
ふと目を上げた彪は、その瞬間「見なきゃ良かった」と全力で顔を歪めた。
向かいの席でなんやかんや会話を続けている男は、仕方なくとばかりに作業の手を止めていた。
自覚していないのだろうか――素気なく言葉を切る声音とは裏腹に、小鳥と通話中のその面差しが、一見して「やさしい」と形容しても差し支えないものであることを。
こっちが知らないだけで、もしかしたら「前」もそんな顔で飼い鳥を見てたのかもしれねェなと思い至った彪如苑は――先月、憐れにも恋人と別れたばかりの男は、引き攣りそうになる顔面を自覚しながら地を這うような声で呻いた。
「イチャついてんじゃねーぞ……」
バカップル
ロックの「押して駄目なら引いてみろっていうでしょう」というセリフに、張維新は心底不審げな眼差しを返してやった。
「……ソレ言う相手、間違えてないか?」
「いやいや、じゃあ引いて駄目なら押してみたらどうかなーと、ふと思って。逆に」
突如としてそんなことを吹っ掛けたのは、なにもロックも特別なにかしらの解決策を披露しようと考えてのことではなかった。
なにしろ待ち合わせをしていたレヴィから、バイトが長引いて遅れると連絡があったばかりだった。
時間を持て余していた彼が、単なる暇潰しにそんな提案をしたと知ったなら、張は機嫌を損ねるだろうか。
しかしながら無下に却下されるかと思いきや、アドバイスともいえなくはない投げやりな発案はそう悪いものでなかったらしい。
不所存な提言を聞いた男は「まあ、一理あるな」と頷いた。
「なんせ打てる手は打ち尽くしたと言っても過言じゃねえからな……」
「打ち尽くしたって、そんな大袈裟な」
「……帰宅したら、メシ食うか風呂にするか自分にするか、待ち構えて聞いてくる女に――他にどんな手が打てるか、出せるもんなら出してみろよ、案を。全力で玄関のドア閉めたわ」
「ストレートに犯罪だった」
頭痛を堪えるようにこめかみを押さえて「普通にストーカーっていうか不法侵入だろ」とロックは呻いた。
悪名高い小鳥は、常識だの倫理だのとかいうものを前の世へ――自分も含めてその「前」も揃いも揃って異議を唱えるべくもない悪党ばかりだったが――すっかり置いてきてしまったらしい。
このところ日がななまえのつきまとい行為に悩まされている元飼い主には、内心、同情せざるをえなかった。
しかしながらどうしたことか、顔をしかめているロックに同意するでもなく、張は「いや、」と首をひねった。
非常に珍しいことにどこか煮え切らない物言いである。
被害者であるはずの男がぼそりと呟いた。
「……いや、まあ……合鍵渡した俺がどうかしてたな」
ロックは全力で「は?」と顔をしかめた。
――ちょっと待ってくれ、聞き捨てならない単語が聞こえた気がする。
「……合鍵?」
「……部屋を掃除してたあいつが偶然見付けて、くれって散々駄々こねたんだよ」
へえ……そう……掃除は許可したんだ……ていうか部屋の掃除する仲って何なんだろうな……云々、思っていることが表情に出すぎていたかもしれない。
肯定も否定もせず「へえ」と生温い笑みを浮かべるロックに、張は益体もない言い訳を重ねるでもなく不承不承口をつぐんだ。
そのとき丁度、渦中の女が現れた。
張を視認するや否や、いつものように嬉しそうに駆け寄ってきた。
なまえが抱き着いてくる瞬間、それより一歩はやく張は身を引いて避けた。
間合いの取り方が最早素人離れしていたのは、さすがと称えるのもそろそろ無駄な気がしてきた。
「……油断も隙もねえな」
「もう、本当にひどいわ。そんなに人前でくっつくのがご不満です? ……ふふ、それなら、ふたりきりになれるところに行きましょうか。存分にお付き合いしてさしあげます」
顔貌だけなら愛らしい笑み、そして通常運転の囀りに、しかし返ってきたのは異常事態といっても過言でない男のセリフだった。
「そうするか? “ふたりきり”になれる場所なあ……空き教室ったって校内はいつ誰か入ってくるかわかったもんじゃねえし、俺の家が都合が良いか」
「え?」
普段ならさっさと踵を返しているはずの男が、一歩、彼女との距離を詰めたのだ。
それどころか耳を疑うようなことまで言う。
理解の外の展開に、なまえはぱちぱちとまばたきした。
隙だらけの女の、抱き着いてこようと中途半端に伸ばしていた腕を張は逆に握り引いた。
「なあ、なまえ」
「っ、」
頭ひとつ低いところにある顔に向かって張維新が名前を呼んでやれば、なまえはあえかに息を呑んだ。
「えっ、あ、ぅ……ど、どうかなさいました? どこか、お加減でも――」
「そんなにおかしいか? 俺がお前の誘いに乗るのが」
今生、正面から真っ直ぐ見つめられることにすら慣れていない彼女にとって、たったこれだけのふれあい――というにもささやかな接触、会話すら、刺激が強すぎたようだった。
やわらかそうな頬のみならず、なまえの耳や首はすっかり真っ赤だった。
おろおろと視線をさまよわせていたかと思えば、やにわに彼女は「っ、す、すみません、失礼します!」と叫んで逃げ出してしまった。
どうやらキャパオーバーだったらしい。
ぽつんと残された張は思い切り眉をひそめた。
常日頃、人目もはばからず纏わりついてくるくせに、避けもしないどころか、折角こちらからふれてやったというのに、あの女、逃げ出すとは何事か。
常になく低く漏れた「あ?」という声はこの上なく不興げだった。
混乱のあまり逃亡した小鳥と、狩猟本能なのだろうか、舌を打つや彼女を追いかける男を、やはりひとり取り残されたロックはのんべんだらりと見送った。
そんないつになくだらけた容体の彼のところへ、入れ替わりにやってきたのはフォンだった。
今生やはりなまえの友人のひとりであるフォンは、尋常でなく訝しそうに元主従を見送ると「眼鏡の度は合ってるはずなんだけど」と独り言ちた。
「……ねえ、ロック。私の目がおかしくなってないって保証してくれる?」
「保証となると難しいが。まあ、君と俺はたぶん同じものを見てるはずだ、フォン」
「じゃあなんなの、アレ」
「……バカップルがバカなことやってるだけ、かな」
「さすがに死語になって久しいんじゃない? バカップルって。それに付き合ってはないんでしょ。なまえ本人が言ってたわよ。前に、婚姻届を持って“飼い主”を追いかけてるときに」
「ははっ」
「しょうもねえ〜」と乾いた笑いをこぼすロックを、フォンは首をひねって見ていた。
正しい断り方
囲まれている真っ只中へ割り込むでもなく、張は中心にいた女を「それ」と指さした。
「そのひとはやめといた方がいいですよ」
なまえは、二、三人の男たちに囲まれており、どうやらナンパされている最中だと見て取れた。
張が現れたからか、それとももしかしたら彼を視認した途端になまえがそれはもうあからさまにぱっと破顔したためか、ナンパ男共はものわかり良く「はじめっから男連れって言ってくれりゃあいいのに」と捨てゼリフ付きとはいえ大人しく引いていってくれた。
ともあれ厄介なことにならず済んでなによりである。
普段が普段だけに忘れていたが「そういや、見てくれだけはそう悪くはなかったな」と張維新がどこか遠い目をしていると、くっと袖を握り引かれた。
見下ろすと、当のなまえが感謝するどころかぷくっと頬を膨らませていた。
ついさっきまでの笑顔はどこへやら、なぜか満面にわかりやすく「不満です」と書かれていた。
「……まさかそんなツラされるとは思わなかったな。追っ払ったのは余計な真似だったか?」
「いいえ、いいえ、とんでもない。本当に助かりました。ありがとうございます。でも追い払い方がだめです」
「は?」
非難がましい目で見上げてくる女に、助けてやったはずの男は思い切り口をひん曲げた。
――まさか不平を申し立てられるとは、と。
数秒前の「見てくれだけは」云々という世迷言を張は内心撤回し、むくれているなまえに負けず劣らず顔をしかめて一応お伺いを立ててやった。
「じゃあどんなのがご希望で」
「んー……そこはやっぱり王道の“俺の女に”、では?」
「少女漫画の読みすぎだ。いや、一冊もなかったな――お前の部屋」
「わたしの部屋のものまで把握してくださっているなんて……そ、そんな、恥ずかしいことをさらっと……」
「恥じらうべきタイミング、もっと他にあるだろ」
しかしなまえはなまえで、むっと唇をとがらせたまま「やり直しを要求します!」と声高に訴えた。
なんだこいつ、と張は溜め息をついた。
小鳥の突拍子もないわがままの数々にはそろそろ慣れてきたと思っていたが、なかなかどうして思い通りにならない女だ。
「あら、丁度あちらに通行人へ声をかけている男性方がいますね。行ってまいります。今度はお間違えにならないでくださいね」
「やめろ」
手
「いい加減、機嫌直せよ。謝ってやっただろうが」
「あら、驚きました。ご自分が原因という自覚はおありだったんですね」
耳に馴染む愛らしい声がまったく可愛くないことを言う。
面倒な拗ね方をしているなまえを前に、いかにも面倒臭げに首を振ると、張はまだ吸いかけの煙草を灰皿へ押しつけた。
先日、彼が女性とふたりきりで食事をしていたことをどこからか聞きつけたらしく、なまえは大層ご立腹なのだった。
そのときのことを託っているらしいが、それはそれとして、謝るどころかそもそも責められる謂れもないのだから張が溜め息のひとつも吐きたくなるのも道理である。
とはいえ放っておくと更に面倒が増えるだろうことは明らかと、不本意ながら彼は既に学んでしまっていた。
あからさまにむっと唇をとがらせているなまえへ、張は適当に「悪かった悪かった、お前が一番だよ」と嘯いた。
「……それはつまり、二番目や三番目がいるということですか?」
――あ、これ失敗だったな。
彼は己の短慮を悔いた。
なまえは一瞬目を輝かせたと思いきや、すぐに先程より輪をかけて機嫌を損ねてしまったのだ。
「もう、本当に不誠実な方だわ。浮気防止に、その爪にマニキュアでも塗ってさしあげましょうか」
「どうしてそうなる。大体、浮気防止になるのかそれ」
「趣味でもないひとが爪にマニキュアを塗っているのを見るだけで、女は他の女の影を察せるものです」
「……そもそも、なあ、付き合ってもないのに浮気云々っておかしくないか……」
「じゃあ結婚します?」
「よくその論法やるがな。なにが“じゃあ”なんだ」
「あー面倒くせえ」と思っているのが露骨に顔に出すぎていたか、小言はヒートアップしてしまった。
繰り言は一も二もなく姦しい小鳥を連想させた。
そろそろ本格的に煩わしくなってきた張は、やにわに身ぶり手ぶりが鬱陶しいなまえの手をぎゅっと握ってやった。
初めて自らふれたなまえの手はやわらかかった。
力加減を誤ろうものなら砕いてしまうのではないかと危ぶむほど繊細だ。
白い手は、そのままずっと掌中に収めていたいと、慈しみ愛でていたいと欲してしまう――そこはかとなく抗いがたい威力を持っていた。
理由はわからない。
暗いところで瞳孔が大きくなるような、食物が口に入ると唾液が出るようなものだった。
内心、彼が当惑していると、ふと鳴声がぴたりと止んでいることに気付いた。
張に手を握られたなまえはいつの間にやら顔を隠すように深くうつむいていた。
黒髪の隙間から覗く耳や首筋が鮮やかに紅潮しているのは見間違いではないだろう。
平生、突然抱き着いてくるわ、好きだの愛しているだの声高に囀るわ、恥ずかしげもなく好意をダダ漏れにしている女は、いまや一体どこへ行ったのやら。
たかが手を握った程度のことで静かになってしまったなまえを見下ろして、張が密かに「この手、使えるな」と考えていたのは――なにしろまたかまびすしく囀られては堪らない、本人にはひた隠しにしておかなければ。
斜陽
息苦しくなるような斜陽だった。
もし光に質量があったなら容易く押し拉がれていたに違いなかった。
夕暮れの教室というシチュエーションは感傷的なものを催すのはなにもビルドゥングスロマンに限ったことでなく、どの俗世であれ変わらないと揶揄するのに十分な佳景だった。
蜂の巣のように整然と並んだ空き教室はがらんとして、彼ら以外誰もいない。
「“前”にはね、言えなかったの。素直に好きって」
鳴禽めいた声は白々響いた。
「立場というものがあったでしょう。あのひとにも、わたしにも。あれも嫌これも嫌、それが気に入らないって、子どもみたいに直情的に喚くなんて……ふふ、ロック、あなたもわかってくれるでしょう? “金糸雀”には許されなかったの」
無造作にマイルドセブンを――いまは名称を変えた煙草を吸っている男へ、なまえは「ただの言い訳かもしれないけれど」と苦笑してみせた。
「……それが言い訳になるとでも? いまのあんたたちの状況の」
付き合わされる益体もない独り言には誂え向きのそっけなさで、ロックは首を傾げた。
吐き出された紫煙が開け放った窓から逃げ出ていく。
空いた時間を潰すにはいささか持て余す話し相手だったが選り好みできるものでもあるまい、それでなくとも小鳥には彼以上に相応しい相手も見当たらなかっただろう――「意地の悪い言い方だわ」と苦笑しているなまえにとっては。
そして彼女の連ねる与太も、ロックはまったく呑み込めないというわけではなかった。
なにしろ彼も、相棒と呼んでいた――今世またトラブルの渦中で偶然相見えることになったレヴィに対して、「前」の記憶を持たない彼女に、従前の性根やらイデオロギーやらを熟知したうえで関わっている現状を論われようものなら、反駁のひとつくらいしただろう。
「……はは、だから、べたべた付き纏うのも仕方ないって?」
「ふふ、だからね、お伝えできるうちにたくさん言っておこうって。思っていることは、なんでも。だって、ね、“前”と違って自由だもの。わたしがあのひとを慕うのは。そうでしょう? ――……あのひとがわたしのことを忘れていても。もし、今世、わたし以外の誰かと一緒になったとしても……」
あ、泣くかもしれない、とロックは紫煙を吐き出しながらぼんやりと思った。
泣くのを堪えるようななまえの痛ましい表情を見ているとそこはかとなく落ち着かない気分になるのは、前の「あのひと」以外、決して遭遇することがなかったからだろうか。
「……ふふ、それにね、いまのあのひとの反応、ちょっと楽しいのも事実ではあるの」
あの頃とは違うお顔を見られるのも嬉しいじゃない? と女は悪戯っぽく微笑んだ。
その目元は赤く、彼女の言うところの「立場」がないためか、感情の機微をわかりやすく露わにしてしまう小鳥を、しかし好悪で判ずることはできなかった。
結局、なまえが涙を見せることはついぞなかった。
ロックがようよう「レヴィから連絡だ。それじゃ俺はお先に退散させてもらおうかな」と腰を上げると、なまえは「彼女にもよろしくね」と頬をゆるめた。
「あの子も、わたしのことを覚えていないうちのひとりだけれど。でも、ロック、独り占めなんてずるいわ。いつかわたしにも紹介してちょうだいね」
「……飼い主のときみたいな“初対面”をやらかさないなら」
「まあ。ご主人さまと同じ対応を、それ以外のひとにわたしがすると思って?」
「誰のせいか自覚してほしいもんだ。その“ご主人さま”から常々、俺が“とんでもない女を引き合わせた”ってぼやかれてるの」
ロックは如才なく釘を刺した。
つれなさをなじるように唇をとがらせているなまえをひとり置き、「出るときは、窓、閉めてもらえますか」と指差しながら教室を出た。
「――おっと、どうした、ロック。ンなとこで会うたあな」
「あー……いえ……張さんこそ」
出し抜けに張維新とぶつかりかけ、ロックは正体のわからない居心地の悪さに襲われて返答に窮した。
いままで交わしていた愚にも付かない贅言で、なまえの泣き出してしまいそうな顔が彼女の元「飼い主」と相対してなお、あるいはいや増しに後ろめたいほど鮮明だったのが原因だろうか。
常になく曖昧な口ぶりは、疑問を抱かせるには十分だったとみえる。
案の定、張は「いやに歯切れが悪いな」と首をひねった。
一から十まで説いてやる義理はなく、ロックは「……俺は約束があるのでこれで」とそそくさ退散した。
彼の様子に多少なりとも引っかかりを覚えつつも、張はつい今しがたロックが出てきたドアをがらりと開けた。
忘れ物を取りに来ただけの彼は、室内に他の人間がいるなんぞ予想だにしておらず、思わず瞠目した。
「――……なまえ?」
「っ、あ……」
やわらかそうな頬を、大粒のしずくがはらはらと伝い落ちた。
未だうっすら煙の烟る室内にはなまえがひとりいた。
並木道が落日にあかあかと燃え、さながら女の双眸に火を点したようだった。
窓外から振り向いた眦は、慮外の男を認めてにわかに大きく見開かれた。
「っ、恥ずかしいです。あまりご覧にならないで」
そのとき張は気が付いた――笑ったり拗ねたり、喜んだり機嫌を損ねたり、くるくる変わるなまえの表情なんぞとうに見飽きたと思っていたが、しかし涙を流すところを目の当たりにしたのはいまこの瞬間が初めてであることに。
「……ロックと、なんかあったのか」
「ふふ、ないしょ」
なまえはハンカチを取り出しながら悪戯っぽく頭を振った。
女の言々句々は胸裏を刺すかのように温雅だった。
炳として真っ赤な目元を、白くなるほどハンカチを握り締めている指先を、どうして隠し果せようか――にもかかわらず唇には枉げて微笑の弧を強いているのは、馬鹿馬鹿しいの一言に尽きた。
強情さを愚かだと笑うには、しかしこの女のことをなにも知らない己に、目眩じみた衝動を覚えた。
そのため、戸惑っている張をからかうように声ばかり明るく「折角あなたにお会いできたのに。心から残念ですが、すこし、お化粧を直してまいりますね」と踵を返したなまえの腕を引き止めるように咄嗟につかんでしまったのも、致し方ないことだったのかもしれない。
実際のところどうして手を伸ばしてしまったのか、張自身、判然としなかった。
思考や意図を異にして、体が突き動かされるという己の行動――衝動と呼ばれるものに、生来、彼は馴染みがなかったが、しかしこのときばかりはその理由や目的を探すより、目の前の女を逃がしてはならないと腹底から湧く欲求に突き動かされていた。
「――なまえ、」
「……はなしてください」
平生の、爛漫、明朗、鬱陶しいまでに好意を寄せてはばからないなまえの明確な「拒否」に、まったくたじろがなかったといえば嘘になる。
恟恟と伏し目がちにうつむいた女の面差しはしおれた花を思わせた。
彼を映そうとしない黒い瞳は夢のように潤み、薄い肩は縦しふれようものならふっと掻き消えかねないと危惧させるにあまりあった。
しかし握った細腕は服越しといえど温かかった。
張の大きな手では、なまえの肘から手首までの前腕など容易にぐるりと一周てのひらに納まった。
どくどくと如実に血の巡る感触は圧迫を責めるかのようだった。
口が裂けようと言えまい――いまここになまえが「ある」ことをさやかに示す温度と感触に、暗々裏、張が安堵しているなんぞ。
「……な、にを、」
「……そんな目で睨んでくれるなよ。隠すな――、お前の、泣き顔は……気に入ってる」
躊躇いがちにこぼれた言葉は、慰めというにはあまりにもお粗末なものだった。
しかしなまえは弾かれたように頤を上げた。
その言葉をなまえは昔、聞いたことがあった。
二世、 一蓮 などと元より望むべくもない身が、誰より、なにより、恋慕った唯一のひとがそう言って笑っていた。
今生、同じ顔で、同じ声で、自分にふれるてのひらすら等しかった。
濡れた瞳を側めてなまえは「ほんとうに、悪趣味なひと」と泣きながら笑った。
(2021.09.23)
(2024.02.06 改題)