茜の光がやわらかく射し込む夕方、台所に二人。
ひどく狭いそのスペースで、他愛のない話を続けながら食事を準備する、いつもの光景。
ボクが言ったことに合槌を打ちながら、なまえさんは手際よく作業を続けている。
なまえさんは楽しそうにボクの話を聞いてくれるし、話してくれる。
一緒に料理をつくりながらとりとめなく話をする、そのささやかな時間がとても好きだ。

「そういえばドッピオくん、ディアボロさんと外出するの、明日だったっけ?」
「はい、ボスと一緒の用事があるので……」
「そっかあ……またディアボロさん、宥めなきゃいけないね……」
「あの、手伝ってもらえませんか」
「うん、もちろん。……ふふ、手のかかる上司を持つと大変だね」

顔を見合わせて、二人して苦笑する。
部屋に引きこもっているより死ぬ確率が飛躍的に跳ね上がるから、外に出ることをボスはとても嫌う。
ボクとしても何が起こるか想定しづらい外よりは、比較的安全な(他の住人のことを考えると必ずしもそうとは言えないけれど)、ここにいてほしいとは思うものの、どうしてもそれじゃあ片付けられない用件もあった。

そうして外出するのを渋るボスを時々、というか大抵の場合、なまえさんが宥めすかして外に出るよう説得してくれる。
きっと今回もそうなるだろうことは想像に難くなく、お願いします、とやんわり苦笑した。

「――あっ、そうだ。ね、帰りはだいたい何時頃になる?」

腰を屈めてコンロの火加減を見ていたなまえさんが、真っ直ぐに立ち上がりながら首を傾げた。

細い睫毛に縁取られた伏し目がちの瞳が、ゆっくりとボクに向けられる。
上体を起こす動きに合わせて、夜色の髪がさらりと流れた。
その一連の、動作。
理由なんてない。
ただ純粋に目を奪われ、震えるほどきれいだと、唐突に強く感じた。
なぜだか普段のなまえさんの雰囲気とかけ離れて見えた。
妙に胸がざわりと波打って、どきどきする。

なまえさんはあどけなく、純粋で、穢れなんてなくて、どうしてボクたちと一緒にいられるんだろうと疑問に思うほど愛らしかった。
あんまり言うとなまえさんは照れて、「日本人はそういうのに慣れてないんだから、そんなに褒めないで」と頬を赤くしてそっぽを向いてしまうけれど。
でもその仕草すらもまた、堪らなく愛くるしいものだった。

大切に守ってあげたい、愛らしいなまえさん。
いつもそう思っているのに、それは絶対に嘘でもごまかしでもないのに、――どうしてだろう、たまに、ふとした瞬間、目を奪われ、その細い肩を押さえ付けてひどいことをしてしまいたいという、抗いがたい衝動を覚える。
そんなときのなまえさんは、なまえさん本人の意思を無視してめちゃくちゃに、自分の好き勝手に汚してしまいたくなるほどに、とてもきれいだった。

そうして抱いた抑えるのが難しい内部的な欲求は、何も知らないなまえさんの邪気のない言動ですぐに霧散してしまう。
結果、口に出すことの出来ない醜い罪悪感だけが、ボクのなかに渦巻くことになるのが常だった。
いつかそれが掻き消えてしまうことなく、はっきりとボクのなかに充満する日がきてしまったら。
そうしたら、ボクはどうするんだろう。

なんて無意味なことをひとりで逡巡していたら、ぼんやりしていたボクを不思議に思ったらしいなまえさんが、また首を傾げた。
殆ど工程を終えた料理たちはやわらかな湯気を立てて、食されるために並んでいる。

「ドッピオくん、どうしたの?」

なまえさんがきょとんと上目に、まばたきを繰り返した。
小さく首を傾げたその動きに合わせて、また、夜色の髪がさらりと揺れる。
何度目か分からないけれど、きれいだなと思った、そのとき。
柔らかそうなその髪の隙間から、僅かに覗く白い首、耳のすぐ下に赤いキスマークを見付けた。

この寒い時期、なまえさんはハイネックの服ばかり着ている。
そして薄手の黒いタイツ、もしくはストッキング。
理由は寒さのためばかりじゃあない、そこかしこに散らばるその痕を隠すため。
とはいえ首を大きく覆うハイネックの服といえど、耳のすぐ下を隠すのはいささか難しかったらしい。

さらりと頼りなげに流れる夜色の髪。
その隙間から微かに見える赤いそれに、ぐらぐらと足元が覚束なくなるような衝動を抱いた。
でもそれは決して不快なものなんかじゃあなくて……寧ろ、もっと見ていたいと欲するような感覚で。
自分でも何を考えているのか、どうしたいのか分からなかった。

殆ど無意識に、つい、と、手を伸ばして指先で赤いそれをなぞれば、驚愕に見開かれた夜色の虹彩が大きく揺れた。
ああ、いまその目に映っているのはボクだけなんだ、そう思うとまるで全力疾走した後のように、胸が痛いほどに高鳴った。

「……ドッピオ、くん……?」
「……あの、なまえさん、アト、見えてますから、外出するときは気を付けた方が良いかもしれないです」
「え、……あっ、ああ、そう! は、恥ずかしいね、うわあ、教えてくれてありがとう、ドッピオくん……!」
「いえ、」

昂揚した気分を飲み干すように嚥下して、その赤い痕を控え目になぞり示した。
ボクが挙動不審に押し黙ったり言い淀んだりしたのを、なまえさんはそのキスマークを指摘する気まずさからだと、都合よく勘違いしてくれたらしい。
ほんの一瞬前まで彼女が浮かべていた驚きと戸惑いは、覗く鬱血痕を指摘すれば、すぐに羞恥と納得に塗り潰されてしまった。
それを少しだけ残念に思う心の機微を自覚して、ますます自分が分からなくなる。

ボクが触れた耳元を、なまえさんは小さな掌で押さえた。
丸い頬をほんのりと紅潮させるさまは、本当に可愛らしい。
うろうろと視線を彷徨わせたなまえさんは、やんわり苦笑して、困ったものだよね、と呟いた。

「……ええと、このまま晒しておくのもみっともないから、ちょっと化粧で隠してくるね。……あの、後は任せても良い?」
「はい、もう殆どできましたし大丈夫ですよ」

申し訳なさそうに眉を下げるなまえさんに、笑ってそう返事をする。
続けて、「明日は夕方には帰ってきます」と先程の質問へ答えた。
努めてなんでもない顔をして言葉を紡ぎながら、なまえさんの内側から赤く色付いた頬が、とてもやわらかそうだと強く感じた。

なにも知らないなまえさんは、ありがとう、と恥ずかしそうにはにかんで、ぱたぱたと足早に部屋へ駆け込んでいった。
部屋に入ってすぐそこにいたらしいボスに、文句を言っている声が聞こえる。
(「もう! 見えるとこに付けないでって言ったじゃないですか!」「いきなりなんの話だ」「キスマーク! ドッピオくんが教えてくれるまでわたし、気付いてなかったんですから!」「ドッピオめ……余計なことを」「ドッピオくんは悪くないでしょうが」エトセトラ。)

大好きなボスとなまえさんの声で、自分の鼓膜を震わせることの出来る喜び。
それに包まれながら、台所に一人、立ち尽くす。

ついさっきまでなまえさんに触れていた指先をぼんやりと眺めた。
この手が彼女に触れていたのだと思うと、それだけで肌が総毛立つような興奮を覚える。
――ああ、もしあの時、無防備に眼前に差し出された首筋を、そのままなぞって服の襟を引っ張れば、その首や鎖骨、胸元まで散らばるソレらが見えたんだろうか?

そんなことをボクが考えていたなんて、なまえさんはちっとも思いもしないんだろうな。
もしそれを知ってしまったら、なまえさんはどんな顔をするんだろう。

ストイックに覆われ隠された服の下の白い肌と、隠されているだけで今も、くっきりと色付き存在しているはずの痕たちのことを考えると、熱い血流が毛細血管の隅々にまで流れ満たされるような暴力的な火照りと、どうしようもない眩暈を感じた。
夜色の髪から覗く、白い肌によく映えていた、赤い鬱血痕。
ああ、きっと、きれいなんだろう。

――もしそこに、自分がもうひとつそれを付け加えることが出来たなら。
ふいによぎった妄想に、先程の比ではないくらい興奮した。

白い夜によく映える
(2015.03.08)
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