梅の咲きこぼれる楼では、焚きめられた香と、白粉と紅と、紫煙の香りとが重く入り混じり、頭の芯がぼうっと霞んでしまうのが常でした。
息苦しいような心地がして、窓を開け放してぼんやりと空を見上げていると、女将さんに叱られてしまうのを常々不思議に思っていましたが、楼に立ち込めていた香はなにかしらの作用を持ったものだったのでしょう。
客の財布の口をゆるくするには好都合だったのだと、いまなら分かります。
あるいは、逃げ出そうと企んでいる女を大人しくさせるのにも。
実際、その香の影響か、姉さまたちも前後不覚になって呂律も回らぬ有り様に成り果ててしまうことが、年に一度か二度ほど起こるものでしたから。

気安く窓も開けられぬ楼で、「ねえさま、ねえさま」と纏わり付くわたしを、花婉姉さまは邪険に扱うことなく、苦笑しながら「あんた、いつまで私の後を着いてくるつもり」とたしなめてくださいました。
癇立かんだった様相の他の姉さまたちが、打ったり無理なお言付けをなさったりするのが当然であるここで、自分のご機嫌で他人や物に当たることの決してない花婉姉さまが、どれだけ優しく気高いものに思われたことか知れません。
直截に甘やかしたり贔屓をしたりということはありませんでしたが、他の姉さまたちにいじめられているとさり気なくかばってくれたり、客にもらったという菓子や細々した服飾品を、こっそりわたしへくださったり。
ああ、挙げればきりがございませんね。
器量ばかりではありません、花婉姉さまはその性根もとても美しい方でした。

「……姉さまは、もうここへは戻らないのですね」
「そう、出来の悪いあんたの面倒を見るのも、今日で終わりね」

せいせいするわ、とおっしゃるわりに、姉さまのお顔にはどこか物憂げなものが滲んでいました。
晴れやかとはとても言えません――ずっとずっとお慕いしていた「あの方」のところへ召し上げられるには。

この国を救う巫女さまを守護するお役目を、花婉姉さまはその身に宿していました。
磁器のように美しい白肌に現れた「房」の字も、とこしえ恋焦がれていた「あの方」と、同じ七星士であることを知って、涙まじりに喜んでいたのも――ぜんぶ、ぜんぶ、一等近くでわたしは見ていました。
儚い白藍色がほろほろと白い肌を伝い落ちる、そのさまの美しさときたら。
かのひとを思い描きながら「あのひとのために私は生まれてきたの」と花開くように頬を染めた花婉姉さまの微笑は、当代随一の花と謳われた、楼一番の姉さまも到底及ばぬに違いありません。

出立の日、お見送りを許されたわたしに、「どうか、お元気で」と姉さまの無事をお祈りすること以外、出来ることはなにもありませんでした。

「……姉さまも、戦場に出るのですか」
「まあ、そうなるかしらね。“あの方”のお役に立つために行くんだもの」

髪といわず肌といわず、香の染み付いたわたしとは違い、わたしより長くここにいたはずの姉さまは、幸いなことに――いいえ、他愛ない香ごときが星の宿命さだめを持つ士に影響や害を及ぼすことがどうして出来ましょう、女だてらに馬をき、しっかりと地を踏みしめ、凛々しく施された薄化粧が惚れ惚れするほど似合っていました。
対するわたしは夜着代わりの敷妙に包まったまま、晴天の下、泣きたくなってしまいました。
姉さまのいなくなったこの楼で、わたしはいつまで過ごすことが出来るでしょう。
窓ひとつ開けられぬわたしに、なにが出来たでしょう。

余程わたしが沈んだ顔をしておりましたか、姉さまは細顎をつんと上げ、見えぬ雲の行く末を探すように、視線を彼方へ向けると「なまえはそんなに私と離れたくないの」と小声で尋ねました。
わたしは黙っていました。
なんと答えたなら、今生もうまみえぬだろう姉さまに、いとわしい思いをさせずに「さようなら」を告げられるのか、探しあぐねていたからでした。
うんとんもすんとも言わぬわたしに痺れを切らしたか、姉さまは平生より少しく荒っぽい早口で続けました。

「戦となると、巫女のお世話にかかりっきりの者なんて用意できないでしょう。着飾るしか能がない宮の侍女なんて、連れていけやしないだろうし。あんたなら、私の部下ってことにして、いくら連れ回しても文句はないんじゃないかしら。すぐには無理かもしれないけど、栄達すれば、私だってその程度の裁量くらい認められるわ。巫女のお役にも立てるなら、女のひとりくらい、増えたって気にするほどのものでもないし――」

はじめ、姉さまがなにを言っているのか分かりませんでした。
娼妓が外に出られるのは、身請けされるか、売り物にならなくなって叩き出されるときに限ります。
姉さまのように自らの宿命さだめを背負い、堂々と正門から出ていく者など、日が西廊の方ではなく倶東こちらへ沈むほどに滅多にないことです。
そのどちらでもなく、姉さまはわたしを掬い上げようとしているのだと気付いたときには、目の奥が痛むほど熱を持っていました。
気を付けていなければ、呼吸も失敗してしまいそうなほど胸が高鳴っていました。
おっかなびっくり姉さまを見上げて、必死に絞り出した言葉は「ね、ねえさまと一緒にいてもいいの?」という、なんとも間の抜けた問いでした。
いま思い出しても、ふふ、もっと他に気の利いた返答が出来なかっただろうかと気恥ずかしいものが込み上げてきてしまいます。

「今度は宮でいじめられるかもしれないっていうのに、随分と嬉しそうな顔するのね。それに、戦場に出れば、あんただって無事かどうか……」

柳眉をひそめた姉さまが困ったように呟くのを、わたしは「いいえ」と遮りました。
涙でつっかえつっかえ「姉さまのいないここでいじめられて泣くより、おそばで泣くほうが良いでしょう?」と生意気にも言い返すと、涼やかな目を見開いた花婉姉さまは、ふ、と微笑みました。
それはそれは優しく、凛々しく、気高く、たおやかな笑みでした。
宮までの道中を共にする倶東の軍人が、遠くで急かすように声を張り上げました。

「なまえ、私が迎えに来るまで待っておいで」

はらはらと溢れる涙で裾を濡らしながら、わたしは懸命に、はい、と頷きました。
何度も、何度も。
呆れたように姉さまが「いつまで泣いてるの」と言う声は、幼い頃からわたしを叱るときとなにも変わらず、ますます涙を堪えるのが難しくなってしまうのです。
いつもわたしがいてさしあげていた紅樺色の長い髪が、さらりと揺れ、滲んだ視界にもさやかでした。
七星士として宮に召し上げられる際、髪を断つか逡巡していた姉さまの長い髪を、くるりとまとめて「こうして結んでいればお邪魔にならないかしら」と結い上げてさしあげたのはわたしです。
慕う「あの方」に、姉さまが「女として見てほしい」と願っていることを、知っていたからです。
形良いちいさな唇を彩る紅も、その証。
馬上のひととなった姉さまのお姿はひどく眩しく、ああこの方が国を救うのだと、心の底から誇らしく思いました。
編んでさしあげた紅樺色が美しくなびくさま、いつまでもわたしの眼裏まなうらに残っています。

――そして「姉さまのお迎えを待つことの出来ないなまえを、どうかお許しください」と結ばれていた手紙を、房宿はぐしゃりと握り締めた。
恩着せがましく「身請けされてったやつの頼みを、後生大事に覚えといてやる義理はないんだ。とはいえ、なんせ花婉、あんた宛の文だったからねえ」と笑う妓楼の主人をめ付ける。
周囲には相変わらず甘ったるい毒香が立ち込め、胸の悪くなる心地に襲われる。

「……それで、なまえは?」
「詳しいことは知らないけど、身請け先でどうやら正妻にそりゃあ嫌われたらしくてねえ。いびられて体を壊してそのままあっけなく、だとさ」

それにしても立派になったねえ、出世したんだろ、花婉、とみだりがわしく相好を崩す男を、房宿は視線で殺せるものなら容易に息の根を止めてやらんとばかりの目で睥睨へいげいした。
いまや七星士としてだけではなく、武人としての地歩を築いた彼女の眼光の鋭さは並々ならぬものである、男は「ひっ」と小さく悲鳴をあげ、そそくさと退散していった。

妻子もある豪家の男の許へ、なまえが妾として身請けされたと知らされたのは、あれから幾年経ったことか――房宿が彼女を迎えに訪れてからのことだった。
果たされぬ約束ほど、恨めしいものはあるまい。
いつとも知れぬ迎えを待っていた娘は、きっと、あの頃のようによく空を見上げていたのだろう。
――窓を開けては叱られていた、空に焦がれた娘。
一心に「ねえさま、ねえさま」と伸ばされるちいさなてのひらを握り返してやれなかったのを悔いる彼女をあざ笑うかの如く、青空はどこまでも澄み渡り、美しい。


(2021.07.27)
- ナノ -