「も、もう、大丈夫かな……」

メインのウォークスルーでなく、普段あまり使っていないクローゼットに隠れたまま、なまえはおずおずと首を伸ばした。
狭い箱型の衣装部屋は営倉じみて暗く、立てこもりが長引いてそろそろ心細くなってきた。
腕時計をしない小鳥に正確な時刻を計る手立てはなかったが、すくなくとも十分近くは経過しているはずだった。
恐る恐る外の様子を窺うも、物音も、ひとの気配もしなかった。

クローゼットは隠れるためのものじゃないのに、となまえは溜め息をついた。
張から逃げ出した先が邸内の衣装スペースとは、近頃、ほとほと逃亡先に困窮している。
主人から先手を打たれたため仕方なかったが、可能であれば邸外へ出たいところだった。
街でなにか不穏な動きでもあるのだろうか、元よりすくなかった伝手つてが、このところ念入りに潰されているように感じられるのは気のせいではないだろう。

なまえが悪さをしたときに施される仕置きには様々な段階と種類があった。
そのなかで最たるもので、滅多にめいじられることがないのは、「香港にひとりで仕舞い込まれる」ことだった。
飼い主に指示されれば大抵のことは受容する金糸雀カナリアいわく「旦那さまの痕跡が色濃い本邸にひとりでいろだなんて。とても耐えられるものではありません」。
そのため張になにを言われようとされようと、ひとりで啓徳へ――いまは赤𫚭角を踏まない限り、彼の言う「仕置き」は児戯のようなものだと、なまえはよくよく理解していた。

しかしながら今回、彼女はなにも悪くなかった。
罰を受けるいわれもないとくれば逃げ出したくなるのも仕方ないだろう。
にもかかわらずこんな暗く狭苦しいクローゼットになまえがひっそり立てこもっている原因は、なんとなれば――

「……元々コスプレ趣味なんてなかったんだから、ぜったい、シェンホアのときに味を占めたんだわ……」

それもこれも全き主がなんの前ぶれなく、さあこれを着ろと衣装をお遊びで使用されるタイプの、それはもうろくでもないコスチュームのたぐいを寄越してきたことに端を発する。
そ飄々と「男のロマンってやつだろ」云々のたまっていた彼は、そもそもこれが仕置きとも罰とも思っていないだろう。

しかしなまえにとってはほぼ同義だった。
着せ替え人形にされるなど堪ったものではない。
なによりかつて冒涜的なほど深いスリットの旗袍チャイナドレスを着せられた際のあれこれを思い出して、否応なしに羞恥に襲われてしまう。
前回が前回だけに、飼い主だけならばともかく、誰か他の人間の目にまでさらされてしまうかもという懸念を覚えるのもやむなしだった。
それに――これは彼女自身、認めたがらないだろうが――単なる戯れとはいえ装いや役回りを変えるよう求められるのは、まるでいまのなまえに不満でもあるのかと、くだらない不安が暗い雨雲のようにもやもやと膨らんでしまうものだった。

というわけであれやこれやと理由を連ねたものの、つまるところあられもない格好をさらすのを嫌がっただけのなまえは、つい数十分前「無理です嫌です」と主人の前から逃走するに至ったのだった。
平生は慎み深く肌を隠す衣服を纏わせておいて、指一本ふれさせない境涯に据えておいて、時折こんな恣意的な戯れに興じるのだからまったくもって理解ができない。
本当にシュミが悪い。

とまれかくまれ、今生ただひとりと恋い慕う飼い主から自ら逃げるのも、我を張るのも、金糸雀カナリアのプライドに障るのもまた事実だ。
――あのひともそろそろ諦めていてくださらないかしら。
とつおいつ儚い希望を抱きながら、なまえは内側から折れ戸をそっと押し開けた。
びくびくしながら顔を覗かせた瞬間だった。

「――もう気は済んだのか?」
「ひっ」

すぐ横合いから聞こえた声は寧静ねいせいではあったが、はっきりと鼓膜をふるわせた。
クローゼットの扉のすぐ横で、張維新チャンウァイサンが壁へもたれかかり、腕組みして静かにこちらを見ていた。
背後に窓があるせいか、逆光で表情は判然としない。
黒々とした様相と相まって、下手なホラー映画のびっくり演出ジャンプスケアよりも恐ろしい光景だった。

短く悲鳴をあげたなまえは顔色がんしょくなく扉にすがりついたまま、ずるずると座り込んでしまった。
危うく腰が抜けかけた。
ばくばくうるさい胸元を押さえ「……し、心臓が、とまるかとおもった……」と呻いた。

「そりゃ困ったなあ。手を貸してやろうか、なまえ」
「……お気遣いだけで、けっこうです」

床にうずくまったまま、しかしギリギリ残っている理性がぷいっとそっぽを向かせた。
子供っぽい所作はカモフラージュだ。
逸らした視線で如才なく退路を探していると、常になく反抗的な小鳥が余程お気に召したのか、もう一遍逃げ出してしまいたくなるほどひょうげた笑い声をあげて、張がひょいとなまえを抱き上げた。

「きゃっ……!」
「さーて自分から出てきてもらったところで話の続きをするか、なまえ。殊勝にしてるんならな、こことベッド、どっちが良いか希望くらいは聞いてやるぞ?」
「やだやだ旦那さま! 放してください!」
「なるほどここでか。床は痛ぇから嫌だなんだ、前に不満垂れてなかったか? まあ、付き合ってやるさ。服はどれにするんだ」
「……旦那さまのいじわる!」
「言っただろ、“殊勝にしてるんなら”って――なあ、なまえ。大人しく俺の歓心を買ってた方が、賢明だと思うだろ?」
「っ……い、いや、です」
「そう煽ってくれるなよ。明日、予定はなにもなかったな?」
「念押ししないでください! なにかお約束があったような気がします!」
「よく言えたな、お前のスケジュール全部把握してる俺に。その度胸は褒めてやってもいいが」
「ありがとうございます、離してください」
「はっはっは」
「え、笑顔がかわいいなんて思っていないんだからっ……!」
「ちょろすぎるだろお前」

なにを言おうとしようと処置なしであることを悟ったなまえは、怯えるようにちいさな手を握り締めた。
潤んだ瞳で「……せ、せめて、やさしくしてほしいです……」と見上げるも、残念ながらこの世で唯一彼女の秋波にこれっぽっちも惑わされてくれない主人は、なまえの媚態を一笑に付した。

「媚売るにゃすこしばかり遅いんじゃないか、なまえ? それに、どうだろうな――お前、酷くされるの好きだからなあ」
「やめてください。ひとを被虐趣味みたいに」
「ああ、言い方が悪かったか。俺に・・酷くされるのが好きなだけだったな、お前は」
「っ……!」



(※おまけ。その後)

「……大姐はどうかしたんですか?」
「ん? ああ、ありゃただ拗ねてるだけさ、彪。気にするほどのもんじゃねえよ」
「そうですね、誰かさんのせいでそうりゃあもう。ねえ、旦那さま?」
「よっぽど気に入ったらしいな。またレパートリー増やしてやってもいいんだぜ」
「っ、だんなさま!」
「お、どうした。新しいやつの提案か?」
「違います!」

主語や目的語を省いた胡乱なやりとりを前に、彪は「またろくでもねェことでイチャついてんなこいつら」と思った。
正解である。

藪も突かねばなにも飛び出すまい。
関わらないのに越したことはないだろう。
そのまま放置していると良からぬ方向へ舵を切りかねない上司たちの戯れを、優秀な部下は「大哥、そんなことより、」と遮った。
不満を訴えるボスの眼差しをあっさり無視し、本人が放り出していたせいで溜まっている仕事を容赦なく思い出してもらうことにした。




(※更におまけ。結局なにを着たんですか?)

「ノーコメントです」
「勿体ぶるなよ。似合ってたぜ、バニーガール。あと女教師」
「旦那さまストップ!」
「んな声を荒げるほどのことかね。たかが服の一着や二着」
「……わたしが一生懸命に拒否することも、旦那さまにとっては“たかが”なんですね。わたし、あんなに嫌がっていたのに……」
「なまえ、」
「と、いうわけで。旦那さま、こちらのお洋服をお召しになっていただけます? たかが服の一着や二着、ですものね」
「どっから取り出したその衣装の山」
「瑣事です。わたしとしてはこの航空パイロット制服あたりなんて、旦那さまがお選びにならなさそうだから拝してみたいです! ああ、お医者さまの白衣も捨てがたいですね。どちらになさいます?」
「邪悪な二者択一話法は余所でやれ。そもそも誰が喜ぶんだ、おっさんのコスプレなんぞ」
「わたしが世界一喜びます。きせかえ遊びは乙女の嗜みだもの。はい、じゃあ段階を踏んでまずはこちらのトラディショナルな書生さんスタイルからお願いしますね。きっとお似合いです!」
「こんなにはしゃいでる小鳥、拝めるのいつぶりだろうな……」
「おかげさまで、ご主人さま。お着替えの助勢は必要です? あっ、ちなみに男性用のバニー衣装もありましてよ。二十年後くらいには“逆バニー”というものも流行っているらしいですが」
「正気かよ」
「うふふ、これ以上なく」


(2021.07.03)
- ナノ -