(※IF死ネタ)
(※◯年後入れ替わりネタ「羞じる花、閉じる月」のふたり)
ベッドはひとりで寝るには広すぎた。
張は煙草を燻らしながら、ふっと口元をゆるめた。
それもこれも一切合切、「ねえ、あなた。最後にお願いごとを、ひとつだけしてもいい?」と笑って死んだ女のせいである。
病に倒れたなまえは見慣れた黒いドレスではなく、簡素な白い病院着に身を包んでいた。
数年来お目にかかっていなかったなまえの白い装いにまさか違和感を覚えるとは、彼も思ってもみなかった。
背負う龍を露わにする黒いドレスに、いつの間にか随分と目が馴染んでしまっていたのだと、彼は苦く笑ったものだった。
白い病室にそのまま溶けてしまいそうな姿には取って付けたような寒々しさがあり、すぐさま本邸へ引き取ってきた。
黒い綺羅に映えるよう鮮やかな紅を刷いていたなまえの唇は、血色を欠いてはいたが、それでもやはりうつくしかった。
色の失せた唇が冀う「最後のお願いごと」とやらを、素気なく跳ね除けるほど狭量でも澆薄でもなかった男は――いま思い返しても笑えてくるが――、一生に一度あるか否かくらいの神妙っぷりで「叶えてやるかどうかは確約しかねるがね。まあ、聞くだけなら付き合うさ。なんでも」などと答えてやった――のが、間違いだった。
「あら、“なんでも”なんて軽々しく口にするものではないって、ふふ、いつだったかしら……あなた、おっしゃっていたくせに。委細かまわず、どんな災厄が降ってくるかわかったものじゃないって」
「この期に及んで軽々しく、ねえ。俺の気が変わっちまう前に、その“お願いごと”を素直に聞かせてくれよ、なまえ。それともお前の願いを叶えさせてくれとでも、俺に乞わせる気か? また」
彼が地に膝を着いてなまえへ乞うたのは、生涯ただ一度きりのことだった。
その「結果」のプラチナの指輪は、よく手入れされ、いまもなまえの薬指で変わらぬ輝きを誇っている。
それはそれはうつくしく微笑んだ女は、結婚指輪の光る手を伸ばして男の手を捉えた。
病褥の痩せた指ではくるくると指輪が回ってしまうため、張はそのちいさな手ごとぎゅっと握ってやった。
かすかに漂う白百合と白檀のなかで、なまえははにかんで指と指をからめ、潤んだ瞳でただひとりの夫を見上げた。
「もう一生、なまえ以外を好きにならないで、なんて言いません。指輪を捨ててしまってもかまいません。とっても不本意だけれど……あなたをおひとりにしてしまうのはわたしだもの。……あなたが誰か他のひとと一緒になるのは許してあげます。だからね、どうか、」
弱った喉では以前のような軽やかな囀りは望むべくもなかったが、それでもやはり臈たけた月日星はやわらかく耳に馴染み、聞く者の腹の奥底を否応なしに揺さぶるような甘みを含んでいた。
――ここまで聞きゃ、今際の際になんてまあ心打たれるようなしおらしいことを、と思うだろう? と、張は誰かに同意を求めてみたかった。
死んだ人間へ恨み言を垂れるなど、徒爾というにも愚かである。
しかし何にまれ例外というものは存在するらしい。
それが張維新という梟雄であってもだ。
まったく、腹立たしいことこの上ない。
「そのひとは、わたしよりうつくしいひとにしてくださいね」
結局、遺言になったその言葉が、まったくもって健気でもいじらしくもない、それどころか筆舌に尽くしがたいほど傲然たる「支配」であると痛感したのは、媚を含んで彼へしなだれかかっていた女が「どうかしたの?」と上目で睨んできた拍子のことだった。
琥珀色に抱かれた氷が、からんとグラスのなかで涼やかな音を立てた。
丁寧に口紅を施された唇が男の不実をなじって曲がっていた。
瞬間、らしくもなく張は目眩のようなものを覚えた。
なにせ口唇を彩る赤が、死んだ妻に似て
大層うつくしかったものだから。
「別に、あなたを独占できるなんて始めっから思ってないけど……。ねえ、せめて、いまだけは私を見てくれない? 他の女のこと考えてるって顔をしていたわ」
明るいブラウンの髪を掻き上げて、責めるように女が睨んだ。
女というものは、どういうわけだか「自分を見ていない」「他事に気を取られている」といった男の機微に、そら恐ろしいほど鋭敏な生き物だった。
とりわけ己が身の魅力を知っているたぐいの女はそうだった。
至極道理であるセリフに自分はなんと返したものだったか。
正鵠を射た唇はうつくしく、そこそこ惜しくはあったものの、損ねた機嫌を伺ってやるほど髪のさわり心地が意に染まなかったためだろうか、結局その夜、女の赤い口紅はうつくしいままだった。
どんな容貌、境涯、性根の女が相手であれ、その場にいない誰かに気を取られておざなりな応対をしでかすような愚を、従前、彼は冒したことがなかった。
かくあれかしと信条やら観念やらがあるわけでなく、フェミニストといった気質も皆無だ。
ともあれ、そこらの有象無象の凡俗ならばいざ知らず、余人に――それも過去の女に意識を引き摺られるような軽佻浮薄な性質を、そもそも張維新は持ち合わせていなかった。
加うるに、脳裏に別の女が過ようと、よもや安易に気取られるような失態を演じるべくもない。
にもかかわらず、他の女と比較してしまう下種張った思考を植えつけたのも、相対する窈窕淑女の「うつくしいところ」とやらを我知らず見出すしようもない慧眼を与えたのも、亡き妻、なまえに他ならなかった。
大袈裟な転嫁でも不本意どころの話でもない。
恨み言のひとつくらい吐きたくもなる。
なまえのようにうつくしい瞳をした女が、耳に障る嗄声っぽい声で「ねえ、なに考えてるの」と不満げに問うてきた辺りで、張はようやく気が付いた。
否、とうの昔に気付いていた。
ただ、ハイそうですねと大人しく肯定してやるのがすこぶる癪だっただけだ。
無論、当人には教えてやるつもりは毛頭ないが。
畢竟、なまえが残した「あなたが誰か他のひとと一緒になるのは許してあげます」という悲しげな微笑は、あかぬ別れの夫を乗せるための一世一代の演技――最後にして最大の賭けだったに相違なかった。
あの女ならばやりかねない。
なにしろ奉ぜられた尊称は数知れず、権謀術数を手繰る「金義潘の白紙扇」と謳われた張維新の隣で、生きて死んだ女だ。
照覧あれ、賭けの勝敗については俟つ言もあるまい。
スープのなかに金の指輪、糸車と糸枠はなく、エワルド青年にハダリーを与える者もおらず、憐れ、おかげでこのザマである。
性根が悪いにも程がある女の運らした奸佞邪知により、あに図らんや、人生を持っていかれてしまった男!
ナイトテーブルの灰皿を引き寄せながら、張は「とんでもない女に握られたなあ、魂」とひとり笑った。
情けないやら忌々しいやらを通り越し、いまやどこか愉快にすらなっていた。
果たして己がくたばるまでに、死に花を咲かせたあれよりうつくしい女を見付けられるだろうか。
長らく地獄にてひとり待たせているのだ。
大方、遅いだのはたまたはやすぎるだの、ひとしきり繰り言に付き合わされるハメになるだろう。
そのあと問うことはもう決まっていた。
――まさか俺が、お前以外を選ぶはずがないって死ぬほど傲慢なこと考えてやがったんじゃねえだろうな、と。
心底胡乱なことに、張維新の妻であることに比類ない自負心を持っていた女が、勝利を確信したとろけるような笑みで「わたしよりうつくしい女を見付けられるなんて……ふふ、もしかして、あなた、本気でお思いだったの?」と細顎を上げてみせるさまを容易く予想できてしまうものだから、男は紫煙を吐きながら、やはり今夜も広いベッドを無駄にするしかないのだ。
(2021.06.11)
(2023.05.04 改題)