熱を上げた寝室に「えっ」と素っ頓狂な声が響いた。

「よ、よろしいんですか……?」
「……よろしいもよろしかねえも、俺が言い出したことだろ。解せんな、そこでお伺いを立てられるとは思わなかったぜ」

脈絡のない困惑に、こちらこそが戸惑わざるをえず、張維新チャンウァイサンは飼い鳥の怪訝な面持ちを見下ろした。

夜々中、寛雅かんがねやでの埒もない問答は、金糸雀カナリアのお小言が発端だった。
所有の痣や噛み痕を胸といわず腿といわず刻まれたなまえが、おのが身を見下ろして「こんなにたくさんお付けになったら……なまえ、お洋服を着るときに困ってしまいます」とこぼしたのだ。
良識めいたセリフとは裏腹に、火照った裸体と微笑から、それが男をなじる嬌態であるのは瞭然だった。

ねやでのり言なんぞ、他愛ない睦言むつごとと大差ない。
なまえの媚態を鼻で笑い、張は軽々きょうきょうにのたまった――「それじゃあお前も、俺に付けてみりゃいいだろ」。

そして冒頭へ戻る。
ふたり揃って一糸纏わぬ様相とはいえ、未だ肌にふれ、しとねに伏せた白肌へ戯れに口付けていた頃合いである。
まさかこんな中途半端なところで待ったをかけられるとは、誰が想像できただろう。
小賢しい与太でもひねろうものなら問答無用で押し倒して続行していたに違いないが、しかし「いいの?」と首を傾げるなまえは、飼い主の目から見ても本気で当惑していた。

たかがキスマーク如きで、なにを面食らってうろたえることがあるのか。
張が不審げな顔をしていると、彼にならって上体を起こしたなまえが躊躇いがちに口を開いた。

「ええと、すみません、驚いてしまって……。以前、その、“跡”を残さないようにお言いつけを……」
「言いつけ?」

いわく、昔、抱かれている最中に、我知らず張の腕を爪で引っ掻いてしまったなまえはその過ちを咎められたのだそうで。
些末な傷といえどそう易々と痕跡を残されては、他の女と寝ている折に事々しくあげつらわれかねず面倒だからと、大儀そうにたしなめられたらしい。
身も世もなく乱れて意識もはっきりしていなかったなまえに、怪我を負わせてやろうなどと大それた企みは皆無だったのは言をたないにもかかわらずだ。

「だから、気をつけなくちゃと……思っていて」
「そんなこと言ったか?」

張はあっけらかんと首を傾げた。
述懐は「ありそうだな」と思う反面、「いつの話だそれ」という呆れも正直なところだった。
ひるがえってなまえは、小面憎いとばかりに「おっしゃいました!」と丸い頬を膨らませている。

物覚えは悪くない。
おのれが吐いた言ならなおのことだ。
だというのにこの為体ていたらくは、おそらく現下の情勢や版図とつまらぬ差異はあるだろうが、相も変わらず無頼者共が掃いて捨てるほど蔓延はびこるこの街へ赴くようご指名される前・・・・・・・、それこそ指折り数える年月より過ぎ来し方のことに違いなかった。

洒々落々たる男は、その伊達男っぷりに似合わない吐息を深々と吐いた――どれだけ昔のことを根に持っているんだこいつ。

「……それはなんの溜め息ですか、旦那さま」
「あーわかったわかった。言いつけを守ってて偉かったな。尚更、付けりゃいいだろ。褒美代わりにどうだ」

腹の内をさらすように「ほら、」と気怠げに両腕を広げた。
さしたる心積もりもなかったが、あたかも自分の身を下賜するかのような姿態ポーズである。

まさか主人からそんなことを差し許されるなんて、ゆめゆめ思ってもみなかったのだろう。
それまでの膨れ面とは打って変わって、なまえは丸くするのを今度は目にした。
満面朱を注ぎ、気もそぞろに視線をさまよわせた。

「やる気がないならそう言ってくれよ、なまえ。さすがにこの状態で女に待たされるのは堪える」
「っ、ま、待って、待ってください、ごめんなさい、」

そこはかとなく決心がつきかねるらしく、なまえはくちばしを開閉している。
まごついている飼い鳥に辛抱強く付き合ってやるものの、なかんずくなまえに関することでは元来そう気が長い方でないのは、彼自身、認めるところだった。
試合終了のカウントアウトでも宣言してやろうか――云々、張が暗々あんじ始めたところで、ようやくなまえが「ええと、あの、し、失礼します……」と裸身を寄せてきた。

共に明かした夜は数限りなく、この期に及んで緊張も躊躇も要さないだろうに、なまえは生娘めいた面差しでおずおずと胸元へ顔をうずめてきた。
清らけき唇がふるえながら鎖骨の下辺りをなぞるも、ちゅ、ちゅっとふれる感触がくすぐったくて仕方がない。

「もっと強く吸えるか? そうおっかなびっくりついばまんでも、お前の力程度でどうこうなるもんでもないのはわかってるだろ」
「っ……は、はい……」

指示に従って太い喉頸のどくびへ口唇を寄せるたどたどしくも真剣なさまは、これがあの悪名高き「金糸雀カナリア」かと疑わしくなるほどぎこちなかった。
時折つたなく当たるちいさな歯の肌ざわりも相まって、わざと焦らしているのかとなじりたくなってくる。

なまえは鋭意奮闘中らしい――が、いっかな目的を果たせる気配はなかった。
男の脳裏に生殺しという字が浮かんだ。

「お前、クソ下手だな……」

思わずこぼした吐息は感嘆の意すら含んでいた。
張維新チャンウァイサンまで情感たっぷりに嘆息せしめる女もそうそういまい。
しみじみと呟く主人に、緊張の面持ちで彼の肌へ唇を寄せていたなまえはただでさえ赤かった頬をますますかっと紅潮させた。

「だ、だって……! 初めてで、やりかたも、よく……」

それまでの婀娜あだっぽい相形そうぎょうはどこへやら、弁解の声は急速にしぼんだ。
それはそれは恥ずかしそうにきっと上目にめつけてきた。
睨み据える双眸は、しかし羞恥で潤んでおり、大層愛らしいとしか言いようがない。
房事において、そこらの商売女など足元にも及ばない淫猥な振る舞いをみせるくせに、キスマークひとつ満足に付けられぬ滑稽なありさまに苦笑を禁じえなかった。

「ん、っ……むずかしい……」

とはいえ、それも故無しとはしない。
張はなんともいいがたい微妙な面様おもようで、未だ意を注いでいる飼い鳥を見下ろした。
なんせまだ片生かたおい娘の頃に張維新チャンウァイサンに拾われてこの方、なまえは彼以外の男を――しとねでの所作を他に知りえず、来し方行く末、教えていないことを知らない無雑を、無知と扱き下ろすべくもなかった。

「っ、あ……できました!」

事程左様に、今昔の感に堪えないと珍しく物思いにふけっていた彼を引き戻したのは、明るく弾んだ声だった。
懸命に励んでいた小鳥が目を輝かせて見上げてきた。
さながらできなかったことができるようになった幼な子もかくやという明るい表情と声色で、上気した頬は色めいた昂揚というより、純粋な達成感によるところが大きかった。

男の胸元に極々ちいさな赤い痕が付いていた。
満足げな勝鬨かちどきの声とは裏腹に、しかしぽつんと印されているのは鬱血痕というより、軽くつねったような皮膚の赤みだ。
ほんの数時間程度で消えてしまうだろう。
これでは足りないと不知であるためか、はたまたこれで十分と判断したのか。
それかあらぬか、あえかな指先がおのれが残した些々たる内出血を――「傷」をいとおしむようにそっと撫でた。
面映ゆそうになまえが目を細めた。
平生の従順、貞淑そうなものとも違う、花がほころぶというにはささやかに過ぎる、しかしまぎれもなく嬉しそうにはにかんだ笑顔だった。
飾り気のない笑みは、胸の奥の一等やわらかいところをそっとくすぐられるようだった。

たかがキスマークひとつで――しかも不完全である――然許しかばかり相好を崩す女に、なんとなくむず痒い心地になるものだから、張は華奢な裸体をどさりと寝台へ押し倒した。

「ご満足いただけたかな。そろそろ続きをしても?」
「え……ぁっ」
「自覚はあるだろ。さんざ俺に“待て”させたんだ、高くつくぜ」
「あなたがご褒美っておっしゃったのに……」
「どうせこれ・・も褒美になるだろ、お前には」

途中で音を上げてくれるなよ、と声音だけはひょうげた調子で、既に不埒な手は女の柳腰を這っている。
潤んだ瞳が、こちらの顔を、そして付けたばかりの赤い痕をちらりとなぞり、欣々然きんきんぜんとしてまたたいた。

幸せそうにゆるんだ頬を見下ろしているとやはりむず痒く、ともすれば色付いた柔肌を食い破ってしまいたい衝動に襲われた。
物騒な欲求を堪えるように、あるいは促されるままに、張は細い首筋へ同じものを――なまえのものより濃く、消えるまでに数日を要するだろう吸い痕をきつく刻んでやった。


(2022.06.08)
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