(※IF)
(※暴力的、グロテスクな描写、非倫理、差別的な表現を含みます。強姦、凌辱、薬物、欠損、嘔吐、精神障害等、苦手な方は読まないでください)






「――これは驚いた。顔面にクソをなすりつけられて、そのまま大人しく手をこまねいていろとおっしゃる」

言葉の端々にともるのは、指先でいらう千度近い火より遥かに苛辣からつな怒気だ。
万が一その姿を目の当たりしようものなら、言いつけに背いた塩柱じみて手練れの猛者といえど無様に足をすくませたに違いなかった。

ひるがえって受話器越しの男性の声は小揺るぎもしなかった。
「まさか我らが白紙扇殿に限って、口の効き方を忠告されることはないとは思うが」と返す声音は柔和さすら含んでいた。
ただ無為にこうを経ただけではこうはなるまい。
電話越しの音声ばかりではなく顔を突き合わせた折もそうだった。
極道の理路が内面化して久しい、老練した気組みが声といわず顔といわず、おのずと表れ出るかの副山主の面様おもようが脳裏によぎった。

直接的に・・・・彼女をかどわかしたのは、お前の言う通り、ロアナプラそちらで幅を利かすつまらん溢者あぶれもの共だろう。が、関係筋を辿ればなんと、昨今こちらの“銀行事業”に手を出したがっている別組織とも繋がりがあった。手広くやっていると、こういう落とし穴があるものだと身につまされる。我々も肝に銘じておかねばな。然許さばかりいくら薄かろうと、繋がりは繋がりだ。そうなればいくらでも口実も名分も付けられ、取りも直さずこちらで我々が動くに足る。――口実は肝要だ。知ってるだろう、“組織”というものは、その規模が大きくなればなるほど、踏まねばならん手順も面倒事も増えるものだ」
「たかが女ひとりには荷が重いように思われますがね。あれが香港が動く契機足りうるとは、到底」
「口実なんてそんなものだ。気に食わないなら“言いがかり”とでも言い換えよう。重々承知じゃないかね、お前なら」

是々非々をここで議論するつもりはないときっぱり言い切った「十五底分」、組織ナンバー二たる上司に、「四一五」を拝命する張維新チャンウァイサン気疎けうとげに秀眉をひそめた。
渋面を禁じえないものの、とまれ二路元帥の言は――お題目さえ整えてやればどうとでも蹂躙しうるという無頼の玉条ではあるが――正論ではあった。

そもそも「三合会トライアド」とは香港を拠点とする黒社会全体を指す語である。
香港に駐留する英国当局が、三合会という固有の組織に「Triad」という英訳を当てた結果、洪門の一部だった三合会を指す語が、時が経つにつれて中国にルーツを持つ犯罪組織の総称になったのだ。

中央集権的だった三合会構造、調整機関たる「本部」の役割と権力が弱まっていったのは七〇年半ばのことだった。
以降、「支部組織」に対して厳しい統制を行っていた「本部」の統合力は分散化し、それぞれの支部が力を持つ傾向が強まった。
現在の三合会組織は、分権化、組織構造の合理化、断片化、世俗化のプロセスが進んだ結果の形である。
時世時節に対応する柔軟さは、九四年に交付された「組織犯罪および重大犯罪に関する条例」をはじめ立法措置が強化されてなお隆盛を誇っている一因に相違ない。
とはいえ絶対的だった「本部」の調整機関たる面が弱まり、それぞれの組織との明確な線引きは、ある点では明確に、ある点では曖昧になったと言わざるをえなかった。

縄張りという決して譲歩しえない線引きがはっきりするようになったものの、引かれた線が、短いスパンでの盛衰により流動的にもなったのだ。
香港黒社会の秩序ある組織構造において、別組織との衝突は、漁夫の利を狙ったまた別の組織との軋轢に直結しかねなかった。
仲介だのレンドリースだの、“叔父輩(※仲介者)”顔をして口やら首やらを突っ込まれると厄介なのは、昔もいまも変わらない。
つまりこちらから先に・・手を出そうものなら、勢力拡大を目論んだ貪汚たんお者とのそしりを受けかねないが、ロアナプラの「別件」を制圧したしかるのち、該当組織にまで累が及ぶなら名分も立つというものだ。

女のためになりふり構わず駆け出すような、青臭さも片生かたおい性情も手待ちがない。
とはいえ御大層な口実、あるいはお題目とやらのために、自分の女がかどわかされ、嬲られるのを指を咥えて座視していろなど、諾々と呑み込めという方が道理に外れている。
どこに拘禁されているのかも一切合切、把捉した上でだ。
実以じつもっおのれのものを取り戻すのに、他者の許可も号令も要するものか。

立場の清濁、貴賤を論じるべくもなく、来し方、天星小輪スターフェリーの碼頭で硬い銃把を握ったあのときと自分はなんら変わっていない――張維新チャンウァイサンはロアナプラで一等目を引く輪奐りんかんの居城から芥場あくたばへ向けて紫煙を吹きつけた。
悪都の夜景が白く霞んだ。
縷々るるたる香煙こうえんは、もしもこの場にくだんの女がいたなら惚れ惚れと相好を崩していたに違いなかった。

立つ岸が異なろうと、いくら変節しようと、結局、この手はなにもつかんでいやしないし選択もできないのだ。
うじうじと自己分析するのも内省するのも思春期には良いものだろうが、生者死者問わずひとの皮を被った無頼漢たちが蠢くこの世界は、実存の躊躇や葛藤に拘泥しない。
どうかしている。
その不条理、不合理をこの期に及んで指弾するなど笑い話にもならず、理無わりなおのが身の矮小さがつくづく身に染みた。

大仰な肩書きや二つ名を数多冠する偉丈夫は、虚脱というにも足りない、臓腑まで重く腐れ落ちそうな倦怠のために軽く目をつぶった。
手にした煙草の灰の長さを見通したわけでもないだろうに、電話の向こうの副首領四三八が浅く息を吐いた。

「繰り返すが、まだ手は出すな・・・・・・・香港こちら按配あんばいするまで待て。同情はするが、彼女ひとりでたまさかあの目に余る流氓リューミン共への突破口を開けるとは、釣りが来るくらいだ。どのルートを辿ったかまで知らせてくれるとは。きっかけがタイの小天地といえど、並の情報屋や点灯屋ランプライターではこうはいくまい。さすがお前の“小鳥”だな。……それだけじゃない。香港で先方をあぶる材料にすらなる。――お前相手にわざわざ開陳することでもないと思うがね。これは龍頭の判断だということを、くれぐれも忘れぬように」
「保証いたしかねる――と、そうお伝えください。なにしろ身のうちを掻っ攫われても、大廈たいかでケツを落ち着けてろなんざふざけた薫陶、山主からはたまわってないもので」

さすがしょうすべき白紙扇、闊達かったつな語調、悠揚迫らぬ息継ぎに至るまでなんら平生と変わらなかった。
しかし横溢おういつせんばかりに波打っているのは純然たる怒りである。
「金義潘の白紙扇」と冠せられる男の別天地ゲゼルシャフトでの行動をさっさと裁可しろと迫るセリフに、香港に御座おわす副山主は声を荒げるどころか静かに笑い声を漏らした。
命令できる立場ではないにもかかわらず脅迫じみた不遜な物言いを、感慨深そうに「ここに小鳥がいないのが私も惜しい」と評した。

「お前にそこまで言わせるとは。ふ、そっくりそのまま聞かせてやりたいよ。彼女のことだ、きっと喜んだだろうに」

長くなった灰が落下していた。
革張りのソファが汚れ、張維新チャンウァイサンは指先のジタンを灰皿へ放った。
まるで若い衆の勇み足を微笑ましく眺めるかの舌端ぜったんに、なお反発するほど黄色いくちばしも持ち合わせていなかった。
サングラスの下ですがめた双眸が現世の三悪趣を見下ろした。






引き千切られたボタンが弾け飛ぶ。
無骨な床をボタンはかつんかつんと跳ね、部屋の隅に駆けていってすぐに見えなくなった。
室内はだだっ広く、がらんとしているにもかかわらず、雑然とした印象を受けるのはいかにも廃墟然とした佇まいのせいだろうか。
四方は素っ気ないコンクリートで囲まれており、連れて来られた際、これまたコンクリートの壁に挟まれた細い階段を二階分ほど下ったためにここが地下だとなまえにもわかった。
取りも直さず、それ以上の情報はなんら手に入れられなかったということだ。
外の音はまったく聞こえなかった。
建物に入るまで――車で搬送されている間、気を失っていたため、いまが昼か夜かも判別できない。
必要最低限の照明しかないために、部屋全体が薄暗く、白熱球の真下だけがいやに明るかった。

天井部へ伸びた配管類から、おそらくかつてはボイラー室として使用していたものと推測できた。
役割を終えて久しいらしく、メインエンジンや給水管といった設備は既に見当たらないが、老朽化し赤錆でまだらになったパイプや異形棒鋼、ホース類が散乱していた。
重量のある装置が据えられていたとおぼしき黒ずんだ汚損や擦過痕がそこかしこにはしり、長年に渡って染みついた不快な湿気がこごっていた。

コンクリート床は不陸調整や平滑作業を怠ったらしく、ギザギザとささくれ立っており、突き飛ばされたなまえは膝から脛を擦り剥いた。
後ろ手に拘束されていたため、まともに上体から倒れ込んだ。
間髪入れず後ろから引っ張られて背中のボタンが弾け飛ぶ。
端無くもどこぞの馬の骨に拉致されるのは初めてではないが、常にない性急さだった。
繊細なレースの施されたスリップや下着は、ワンピースごとナイフで裂かれ、なまえは内心「旦那さまがくださったものなのに」と呟いた――それをいうならなまえの身は余すところなく主人、張維新チャンウァイサンのものだったが。

じめじめした地下室は呼吸しているだけで肺腑を侵されそうだった。
腹に抱え込んだメインエンジンを失ったいま、使い道といえばけだし死体安置所くらいのものだろう。
扉は先程彼らが並んでくぐった分厚い鉄扉のみで、防音にも優れているとくれば、拘禁や拷問にも打ってつけだった。
室内にはなまえの他に男が四人おり、そのいずれもが野卑な笑みを浮かべていた。

ひとりは奥の方で壁にもたれかかっている。
顔はこちらを向いてはいたが、手は別物のように動き、手中の紐に結び目をこしらえていた。
どうやら「隅の老人」じみてそういう手癖を持っているようだった。
多くのひとが賭け事の最中、チップを移動させるサムフリップだのナックルロールだのをやめられないように手指を遊ばせている。
もうひとりは、まともに用を成さない資材ばかりの部屋で唯一調度と呼べる、粗末な木のテーブルに腰かけていた。
素っ気ない木製の四本脚で支えるには荷が重いだろう、上背のある男だ。
窪んだ左のこめかみに酷い引き攣れ痕がある。
浅黒い肌で一等目立つ、その傷跡だけで不行跡を偲ぶにはあまりあったが、テーブルから物騒なプライヤだのフックレンチだのを無造作に拾い上げたとき、その印象は決定的なものとなった。
床に転がったなまえからは視認できなかったが、どうやら薄汚れたテーブル上にはそういった口を割らせるのに適した、しかし本来の用途では決してない様々な「道具」がずらりと並んでいるらしかった。

外への階段を繋ぐ唯一の鉄扉のところで、また別の男が煙草をくゆらしていた。
口の端、縦に伸びた古傷がチャームポイントであるこの男も、壁にもたれた「結び目男」と同じく、手持ち無沙汰にライターの蓋を開け閉めしていた。
カチャカチャとちいさく鳴る金属音は、一度気にすると耳から追い出すのが難しい具合で、丁度、時計の秒針に似ていた――時刻を示すそれほど、理知的でもなく、埒もなかったが。
顔面の裂傷は深く古く、もしも大きく口を開けて破顔したなら、垂直方向にもうひとつの口がスマイリー、エモーティコンのように笑って見えたに違いない。
煙草を咥えた方の口から煙の輪をぷかりと吐いた。
つい先程なまえのワンピースや下着を紙切れ同然に裂いた大仰なナイフが、彼の手のなかでぎらりと光った。

四人はバラバラに立っており、腹這いの姿勢のなまえからは彼らをいっぺんに視界に入れることは敵わなかった。
無残な布切れと化したワンピースを中途半端に纏ったまま、彼女は男たちを順繰りに見上げた。
露わになった腹部も下肢も余所余所しい白熱球に照らされ、白い乳房がそれでもうつくしく輝いた。

縹緻きりょうを舐めるように見下ろしつつ、なまえの真正面に陣取った男――先程なまえを床に突き飛ばした男だ――が、なまえの黒髪をつかんで上体を起こさせた。
頬がこけた血色の悪い顔にごま塩の髭が散らばっている。
黒いくまに縁取られた目が爛々と光っているのが、真っ当な生気よりも気違いじみた情緒を漂わせており、見るからにピルヘッドか、あるいはその一歩手前といった風体だった。

なまえの黒髪を鷲づかみにした男は、酷薄そうな薄い唇を吊り上げ、手にしたグロックを見せびらかすように眼前で揺らした。
フィンガーチャンネルもないグリップを見るに初期のものらしい。
胸の悪くなるような臭い口が嘯いた、「期待してくれていいぜ、オレたちは交替制だ・・・・」。

「ここにいる四人ぽっちじゃ不足だと思ってるんだろ? いや、いや、お相手には欠かないと思うぜ。接待はフルコースだ。“Nobody expects the Spanish Inquisition!”ッてな――上のやつらも、そこの扉から踊り込んで来る。そのうちな。ペットの間抜けカッコーを拝みたいファンはいくらでもいるんだ、“汚れた小鳩ちゃんソイルド・ダヴ”」

ぱっと手を離され、コンクリート床で顎をしたたか打ちつけた。
舌は噛まずに済んだが、なまえの能面じみたかんばせが痛みのせいでかすかに歪んだ。

「オレたちのご高配に感謝しろよ。いや、いや、そのうち感謝するようになる。自然とな。なんせオレたちはこの通り・・・・マシな方なんだ。いま上階でごちゃごちゃやってるやつらが何人いると思う? そのなかでもな、タチが悪いのが何人かいてよ。とびっきりのやつなんか、肉を切りながら、骨を折りながらじゃねえと勃たねェ変態で――ああ、そう睨むなよ、“スマイリー”、二つ目のお口が愉快に曲がってるぜ。お前があいつに世話になってンのは知ってるよ。――で、そう悪いやつじゃあねェんだが……なんせあいつの後だと、クッソ汚ェさまになりやがる。下りてくんのはいつ頃だっけか? ま、そのうち混ざるだろ。な、あんたのために、オレたちからってタイムテーブル組んでやったんだ。出遅れちゃあ、勃つもんも勃たなくなる。――ま、ヒトの嗜好はそれぞれッてことだな。楽しみはみんなで分け合うもんだろ? は、は、そこまで気配りできるタイプだとは思わなかったか? 見直したか? キャスパー・ミルクトースト扱いされりゃ、そりゃあ違うってとこを示すために、グロックこいつを使う他なくなるが。な、それにしたって親切だろ。オレたちはただ犯してやろうッてだけなんだから」

さもありがたい名句かの如く振るって聞かせた男は、安っぽい木のテーブルに腰かけた浅黒い男の方へ、同意を求めるように笑いかけた。
目線を受け、彼はプライヤを手に「まだまだこいつらの登板は待ってもらわなきゃな」と笑い声を、なまえたちへ平等に寄越した。

芝居じみた口ぶりといい、露悪的なステージセッティングといい、怪気炎は見事だった。
床に転がされた半裸の女が取る反応は、怯えるか、泣き喚くか、くらいがけだし真っ当だった。
男たちが求めていたのも、そういった哀れっぽいリアクションに違いなかった。

ところがなまえがなんのリアクションも見せずにいたため、果たして不満だったものとみえ、前触れなくグロックを握った男が振りかぶるとバレルがなまえの半面を殴った。
目蓋が裂け、さっと鮮血が飛び散った。
鼻の奥から鮮血が溢れて呼吸を阻害する。
なまえは激しく咳き込み、口腔へ流れ込んだ血を吐き出した。
頭のなかで自分の血が歌っている音を聞きながら、なまえは血痕が点々と飛び散るコンクリートの床を眺めた。

なんぞ図らん、そのとき分厚い鉄扉の耳障りな開閉音と共に「あらやだもう始まっちゃってた?」と女の声が響いた。
気怠そうにピンヒールが床を叩いて高い音を立てた。
洗いざらしの赤茶けた髪をなびかせて入ってきた女は、口ぶりといい、首の傾け方といい、いささか蓮葉な印象を抱かせるが、本人もそれを承知で振る舞っているようだった。
生来の美貌ではあるものの、酒焼けした声音のせいか、派手なグリッターを乗せた目蓋のせいか、二十年後を想像したくはない塩梅だった。
全体的に骨張った感じを受けるのは、元々鼻梁が高く、目の周りが少々窪み始めているためだ。
ポールダンサーよりいくらかマシといった露出具合のバック・クロス・ストラップが、白熱球の下でぎりぎり下品にならない程度の色香を放っていた。

好色そうな眼差しでちらりと彼女の肢体を眺めた男は、言い訳するように「この不感症女には、まだ手ェ出しちゃいねえよ」と肩をすくめた。
彼らはまだ二、三、言葉を交わしていたが、血のあぶくを吐くなまえの耳では上手く聞き取れなかった。

と、談論を終えたらしい女が例のみすぼらしいテーブルからなにかを取り上げると、おもむろになまえの脇にしゃがみ込んだ。
どうやら無事「一番手」を引いたらしい。
女のルージュがにんまり弧を描いた。
手にしていたのは錆びたハサミだった。

「――きれいな髪ね」

すわ白肌に切刃を呑み込ませるかと思いきや、女は丸柄と平柄へ指を通した。
嘯きながらなまえのつややかな黒髪を一房掬い上げ、どうやらただ単純に髪を切るだけなのだと知り、無言で観戦していた男たちは肩透かしを食ったように声をあげた――そんなことしてどうなる、髪なんてそのうち伸びるだろ、と。
しかしながらなにもわかっていないとでも言いたげにしかつめらしく首を振りつつ、女は勿体ぶってなまえの顔を見下ろした。

「あたしも女だからわかんのよ。ねえ、大変よね。ここまできれいに手入れするのってさ」

ねえ、と描いた弧が同意を促すも、血に濡れた唇は息遣い以外なにも発さなかった。
相も変わらず反応の鈍いなまえが気に食わなかったか、女はまた黒髪を引っつかんでにじり寄った。

「あんたも覚えがない? ものすっごく短く切るとね、伸びても前と同じ髪質にならないの。不思議よねェ」

張維新チャンウァイサンの女」でも「三合会の金糸雀カナリア」でもない、ただの女を、指一本、腕ひとつで害することができる喜び・・で嗜虐的に歪んだ笑顔は、いっそ禍々しいほどだった。
小鳥がとうに見慣れた、暴力を行使する者の昂揚――ひとの殴り方、殺し方、陥れ方を知っている者たちが、おりのようにあまねくくすぶらせている根源的な欲求だった。
すべての動物は平等である。
ただし一部の動物は更に平等である。

「っ、」

殴打されようと衣類を剥がれようと、反射的に眉をひそめるくらいしか反応をみせなかったなまえが、ふいに息を呑んだ。
怯え――あるいは恐怖に染まったなまえの青い顔をじっくり見下ろし、洗いざらしの赤茶けた髪を背に流すと、女は手にした金属の本領を発揮してやった。

「ああ、ちょっと、暴れないでよ。顔に当たるでしょ」

いやっとなまえが身を引くと、頬を張られた。
女の長い爪が偶然目の下を引っ掻いたらしく、ずきずきと疼くような熱がはしり、次いで鋭い痛みがやって来た。
じっとりと全身に汗が浮き、痛いほど心臓が早鐘を打った。
きゅっとなまえの喉がおかしな音を立てた。

安っぽい電灯の光を受け、錆びたハサミが鈍くひらめいた。
じゃき、じゃきっと不気味な、しかし暴力というには間の抜けた音が響く。
髪を切り落としている最中、女はしきりに、なあ、とか、ねえ、となまえの顔を覗き込んでいたが、それは相槌や同意を求めるというより、おのが言葉が相手へ与える効果をとっくりと確かめるためのもので、実験中の科学者が試験管を凝視するのとも、穴ぼこだらけの積み木のジェンガが崩れるのをいまかいまかと、幼な子が胸を弾ませて見守っているのにも似ていた。
ひとは崩壊、もしくは不可逆的な転落を楽しむ性合を、生まれながらにそなえている。

黒い毛髪が雑に降り積もった。
ざくざくと切り落とされた髪は、元の長さのものも幾房か残っており、それがますますみっともなかった。
キャットファイトというには淡々としすぎた、さながら儀式めいた静かな行為を済ませ、女はひと仕事終えた溜め息ともつかない吐息をひとつ漏らした。
ざんばら髪のなまえを見下ろして、興味が失せたとばかりに立ち上がった。

「じゃ、あたしはお先に。臭くて堪らないし、ここ、長居してると具合が悪くなりそうなのよね」

暴力なんて好きじゃないし、と嘯きながらぐらつく四本脚にハサミを放り、ふいときびすを返した。
出鼻をくじかれ暇そうに突っ立っていた男たちへ「髪の短い女はシュミじゃない?」と笑った。
門口で煙を吐き出していた男が鉄扉を開けてやりながら、卑俗な笑みで問うた。

「じゃあ好きに使っていいんですよね、これ」
「どうぞ、紳士諸君ジェントルメン。ただしボスにどやされない程度にしてよね。この前の、早々に壊しちゃって売り物にならなかったでしょ。いくら見てくれに問題があっても、さばけば酒代ぐらいにはなったのに。“中身”とか」
「勿論。わかってますよ。オレらは・・・・

揶揄と軽侮の笑いが地下を低く這った。
なまえの凍ったかんばせの前で、重い鉄扉が閉まった。






まず五感を襲ったのは耐えがたい臭気だった。
厳めかしい鎧戸といえど、常軌を逸した悪臭を閉じ込めるには至らないようだった。

上階での銃声と叫喚は既に止んでおり、地上に満ち満ちていた死に背を向けて階段を下りていると、奈落へ自ら闊歩している錯覚に覆われた。
暗いきざはしは死者の国へ通ずる穴と大した違いはあるまい。
革靴がかつりと硬い音を響かせた。

狭苦しい階段を下りた終点には、赤錆でまだらになった鉄扉が待ち構えていた。
鼻腔をツンと刺す暗渠あんきょじみた異臭が、奈落の惨状を一足はやく知らせた。
地下にいた者たちは取るものも取りあえず上階へ出てきたらしい。
ぽっかりと開きっぱなしだった鉄の口を、身を屈めてくぐった。

不気味な暗い部屋は、息詰まるような沈黙でしつけられていた。
男は革靴が汚れるのも構わず、ぼろくずのように床に落ちている女の横に突っ立って、見守った。
容態は、なぜまだ生きているのかといぶからざるをえない具合だった。
情報を吐かせるためでもなく、籠絡、洗脳のためでもなく、それはまさに凌辱のための凌辱だった。
もし凶漢共に生かさず殺さずというはっきりとした意図があったのなら、その手腕は見事とすらいえた。
然許しかばかりほとんど死体だった。

なまえ。
張が足を踏み入れてまず目を引いたのは、なまえの形に近いものだった。

多対多、一対多の衝突においては、即時性が求められる。
速やかに相手を制圧すること――戦闘の継続不可能、殺し切ることを。
のんびりひとりひとりにかかずらっている間に、周囲を塞がれたり退路を絶たれたりしては元も子もない。
点射で脳幹に一発、それが最も理想的な「対処」だ。
鑑みるに、なまえに施された暴行はおそろしく手間暇のかかったものだった。
執拗、いっそご丁寧・・・といっても良かった。
もしくは下品とも、悪趣味とも。

不潔な床を染めたおびただしい血潮はすべてなまえのものだろう。
おそらく流血沙汰からそう時間は経っていまい、血糊はまだ乾燥していなかった。
女の右腕は肘下約一〇センチから先を欠損していた。
切れ味の悪い刃物で折るようにして無理やり落とした・・・・らしく、断面は熟した果物のようにぶよぶよと波打っていた。

張はぶつ切りにされた前腕ぜんわんをじっと眺めていたが、ふとなまえの傍らでなにやら白い虫のようなものが這っているのに気が付いた。
裸虫かと見れば裸虫でもなく、こいしかと見ればこいしでもなかった。
怪しみながらそっと身を屈めると、醜い裸虫は蠢いていなかった。
張は手を伸ばしかけてみて、初めてそれが、ちいさな爪をそなえた指であることに気が付いた。
手指は地下にあって、月のしずくが欠片となって辺りに飛び散るようにぼんやりと光っていた。
最早ただの肉片と化したそれは、切り離した髪や爪のように気味の悪い不快感を抱かせた。
汚れた指は、ひとの、なまえの一部だったと言われても到底信じられまい。
状況から、わざわざ先に・・指を一本ずつ切断し、その後に前腕ぜんわんを切断したものと窺えた。

一方、左手に五指は残されていた。
しかし腫れ上がりだらんと伸びた様相から、肩の関節が外れているのはすぐに見て取れた。
強く引っ張られるなりぶつけるなりすると肩は比較的脱臼しやすい部位だ。
しかし適切に処置しなければ血管や神経が傷付く恐れのある深手でもある。
てて加えて細腕に点々と残る青黒い痕は、注射針によるものだった。
なにを注射されたのか特定し、呼吸管理や循環管理といったお決まりの対症療法に努め、必要なら血液透析や吸着といった浄化法を用いて、除去に努めねばならない。

ここが扱っていたものは、元を辿れば不眠症や不安障害に有用として、過去、一般に市販されていたベンゾジアゼピン系の向精神薬だったはずだ。
世間一般で禁止の憂き目に遭った薬餌を、そのまま流用させたり、形状や分量を変えて転用したりするのは、無法者たちの間では基本中の基本、使い古されたやり口である。
強力な筋弛緩特性や短期的な健忘をもたらし、離脱症状を生じさせるのだから、なるほど、容量に気を付けさえすれば女ひとりを良いように扱うにはあつらえ向きだろう――さばく商品をわざわざ使用するとは、念の入った厚遇だ。
とはいえあれは経口により用いられる薬だが。

腕だけでこのありさまだ。
目立つ外傷の他に、打撲傷、裂傷、そして煙草の火を押しつけられたのだろう痕が、全身に散らばっていた。
床に散乱している工具の数々から、研師とぎしでも金物屋でも医療従事者でもないにもかかわらず、どの傷がどの器具を使用して負ったものか、さしたる熟慮も要さずつまびらかにかいすることができた。

不気味に腫れ上がった眼窩の隙間から死人じみた目が覗いていた。
うっすら開いた左目は白濁し、汚らしく膿んでいる。
どうやら肌と同じく煙草の火を眼球に押し当てられたらしい。
花瞼かけんはぐずぐずに焦げ、見る影もなかった。
精液や吐瀉物と共に、至るところにこびりついている黒い糸くずが糜爛びらんした髪だったものと気付き、余程この女をおとしめるのに長けた人間がいたのだろうなと、感心のようなものが湧いた。

如法暗夜めいたロングコートを脱ぐと、張はほとんど・・・・死体をおのが黒いコートで包み、抱き上げた。
不用意に動かすべきではないかもしれなかった。
が、ここまで傷んでいる・・・・・のだから、そう違いはないように思われた。
吐き気をもよおす悪臭を放つ、おそろしく軽い肢体を抱いて、地上への階段に足をかけた。
瀕死の肉体はふれるとこちらが火傷しかねないほど熱かった。
もうしばらく放置していたら氷のように冷たく硬直するだろう。

階段の上で、黒服が如才なく待ち構えていた。
ボスが抱えられた黒い包みへちらりと視線をはしらせると、それについて無駄口のひとつも叩くことなく、淡々と「申し訳ないです。生きてるのを残せてません」と呟いた。
その足元には丸々太った肥満体の男が奇妙にねじれて転がっていた。
ここの責任者だった男らしい。
張の目線を受け、部下は無言で頷くと、男の頭をつかんで項垂れた頭部を上げさせた。
見ても役に立たなかった。

「いつぶりかね。とんと思い出せないが……“後悔”ってやつかな。こうして味わうのは久しぶりだ」

首実検にも限度ってもんがあるな、と大儀そうに嘯くボスに、それ以上ボーリング玉より重い物体を支えてやる義理のなくなった黒服はさっさと手を離した。
ほんの数時間前までご大層な肘掛け椅子に反っくり返っていた肥満男は、おのれの血と脳漿に勢いよくダイブした。

どしゃっと重く湿った名状しがたい音に頓着する者はいなかった。
居並んだ部下たちは皆一様に口を硬く引き結んでいた。

「……手際が良すぎ――いえ、悪すぎましたか」
「ああいや、そうしょげなさんな。俺もお前も、与太をこいてる暇があるのは悪いことじゃあない。これだけ薬莢をばらまいてクソの山をこさえた後なら尚更な。――もっと丁重にお相手すれば良かったと思ってるだけさ」

顔や腹に穴を開けた者共のどれが、なまえに唾を吐きかけたのか、殴ったのか、犯したのか。
蜂の巣になったひとりひとりに尋ねてやりたかったが、どのみち答えは得られない。
さっさと地上階で殺してしまい、苦しむ時間を長引かせられなかった不手際・・・を、後悔と呼ぶのは滑稽というものだろう。

薬莢が砂粒のように敷き詰められた門口から屋外に出た。
視界がわずかに白んだ。
さして長逗留していないはずだが、地下から這い出たばかりの目には正午過ぎの日照は強すぎる。
ほんの一瞬、立ち止まった張に、傍らの部下がことすくなに「医者の手配は済んでいます」とだけ告げた。






なまえは目が覚めた。
目蓋越しでも辺りはほんのりと明るく、陽光がたっぷり注ぎ込んでいるのが見えるようだ。
窓辺から吹き込む乾いた風が白いカーテンを揺らした。

パストラルを彷彿とさせる佳景、清潔なシーツの感触、さらさらと木々が擦れ合う音、自分を脅かすものがなにもない安楽。
おのれを包み込む牧歌的な空間はまぎれもなく幸福だった。
欲をいえばこの場に、なまえはもうひとつ欲しいものがあった。
――旦那さまがいてくださったら、もっと幸せなのに。
全身に感じる和順な日の熱と涼風に、なまえは微笑んで目を閉じた。






奇跡的です。
医者は業務上相応な、痛ましそうに見える沈鬱な表情を顔面に貼りつけたままそう言った――「これほどの外傷を負ってなお一命を取り留めたのは、幸運だったと言わざるをえません」。

張はベッドに横たわるなまえを見下ろした。
いまは意識がないらしい。
短い覚醒を断続的に彼女は繰り返していた。
全身包帯と固定具だらけで、露出しているところの方がすくない。
切断された右腕は重度の炎症を起こし、肘の上から医療切断アンピュテーションされていた。
残った左腕も外見上に大きな変化はないものの、なにか握ったり繊細な動作を行ったりするのは、以後困難だろうということだった。
下肢の状態も似たり寄ったりで、つまり使いものにならない。
頭部は八割方包帯に覆われており、豊かな黒髪はすっかり刈り取られ、つるつるの縫合部にガーゼや止血シートがべたべたと貼りつけられていた。

一つだけ残された右の眼球はどこを見ているのか判然とせず、なにかを視認するというより、正しくは目蓋が閉じていないだけのようだった。
まったく反応を示さない重体かと思いきや、意識がある短い時間、なまえはたとえばライターの音に異常に怯えることもあった。

煙草に火を点けるために張がデュポンを手繰った折だった。
大仰に居並んだ医療機器の作動音以外にはなにも聞こえない病室に、キンっと硬質な音が響いた瞬間、眠っていたはずのなまえが大仰に跳ねた。
由無く反応したわけではないと察せられたのは、単眼が彼の手元を凝視していたためだ。
なんとなればなまえの全身にぽつぽつと散る醜い痕の原因は、煙草の火である。
ライターの着火音ひとつすら彼女には凶器たりえるのだと理解し、張は点けたばかりの煙草を消した。

しかしそれでも発作じみた痙攣は治まらず、はっ、はっと異様に浅い呼吸と引き攣れる四肢から、あたかもいまこの瞬間も酸鼻を極める凌辱の只中になまえはあるのだと呑み込めてしまった。
落ち着かせようと張が手を伸ばすも、細い体は一際大きくふるえた。
年月日、時間、季節、場所、相対する人物といった、自分が置かれている状況を正しく認識できていないのは明白であり、周囲からの呼びかけにも反応しなかった。
衰弱しきった身では抵抗らしい抵抗もできないのだろう、仮に体力があったなら、叫ぶなり暴れるなりしていただろう。
いまにも気死せんばかりに痙攣しながら、なまえは焦点の合わない一つ目を見開いていた。

なまえ愛用のライターはいまは張の懐に収まっていた――元を正せば自分のものとはいえ、返却するよう命じた覚えはなかったが。

と、静かにベッド横に佇立していた張は、包帯に埋没したなまえの唇が動いていることに気が付いた。
声はない。
口だけが動いていた。
注視すれば、なにか繰り返し呟いているらしいと見て取った。
幾度となく殴られ、唇というより肉色の裂け目と表現した方が相応の口は、生来の愛らしい唇を思い出せぬようにしてしまうには十分なほど破損していた。
読唇のすべなど会得していなかったが、しかしなまえが紡ぐのは何度も同じ、かつ単純な語とあってすぐに理解した。
ガーゼの隙間から覗く肉の割れ目が繰り返した。
――「たすけて、だんなさま」。

誇り高い金糸雀カナリアが「たすけて」とつたなく連呼していた。
そうやって主を呼んでいたのだろう――暴行を受けている間ずっと。
そう思い至った張は、枯れ枝のようにもろい体をきつく抱き締めた。

混濁した単眼をぐるぐるとさまよわせている女は、いま自分にふれている者が誰なのかすらわからないのだろう。
張の腕のなかで、無言のまま「たすけて」と痙攣し続けていた。



「ひどい、ひどい、本当にひどいひと。たったひとつの“お願い”も叶えてくれないなんて。なまえを哀れだとお思いにならない?」

今日は随分、長々と口舌くぜる。
鴃舌げきぜつめいた弁舌とはいえ、文章としてていを成すものを十語以上話すとは。
二単語か三作単語程度の「お願い」以外を口にするのが稀であるなまえにしては、まともな受け答えができるだけマシとすべきなのだろうか。
回復の証拠であるはずの長口上をよみするには、しかし要求が要求だけに、張は鬱陶しそうに笑った。
なまえが横たわるベッドの縁へ腰掛けた。

「本心からそうお望みなら、応えてやるのもやぶさかじゃあないがね。お前のそれは、結局、ただの保身・・・・・だろう。叶えてやる義理はねえな」
「だから“哀れだとお思いにならない?”って聞いたの。お願い、ねえ、旦那さま」

甘えるようになまえは小首を傾げた。

「この期に及んで“小鳥”を失いたくないなんて……ふ、うふふ。まさかそんなことを考えてはいないでしょうね?」

笑みと語調はあざけるようだった。
長らく病床に就いている女の居丈高な物言いに、張はつまらない「お願い」とやらを一蹴するのに相応の、凄絶な笑みを返してやった。

「心外だぜ。まったく、その程度で言いなりになると思われてんのか。煮立たせるにはちょいと足りんな。他人様ひとサマを踊らせたけりゃ、それ相応のお膳立てが必要、そういうこった。それこそ握ってるのが手前の手かグリップか、額面通り忘れるまでだ」
「ふふ、おかしい! 意固地になっているみたい。その口ぶり」

なまえは歌うように「ひどいひと」とリピートした。
笑いながら、肉が引き攣れて盛り上がった醜い断面を見せびらかすように右腕を揺らした。
欠損部位のみならず、女の肌は二目と見られぬありさまだった。
白い条痕しまをなしている間に赤い溝が交錯し、黒ずんだ襞が灼きついていて、おのずと他人に不快な感覚を呼び起こさせた。

今日はすこぶる調子が良い日らしかった。
なにしろ会話が成立している。
次の瞬間には、泣きながら「お願い」と絶叫をあげるやもしれないとあって油断ならなかったが。
なまえは日単位で死身しにみじみて横たわっているかと思えば、突然、筋の通らないうわ言を話し出すこともあった。
寧日ねいじつのない日々――否、数時間、あるいは数秒で翻然ほんぜんとして変動するエモーションは、不安定と一口に言い表せるものではなかった。

なまえが親しげに笑おうが、哀れっぽく涙をこぼそうが、懐柔するよう媚びようが、大声をあげて喚こうが、大した差異はない。
年単位に及ぶ長期間の療養を終えて――すくなくとも肉体の傷だけは癒えて、発声、発語できるようになってからというもの、なまえが要求するのは微塵も変わらずひとつだけだった。
四肢を以前のように用れたならこんな益体もない問答も経ず、ただちに果たしていたに違いなかった。

なまえは弾んだ声で今日もまた「たったひとつのお願い」を繰り返した。
「お願い、はやく、はやく死なせてください」と。


(2022.07.27)
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