(※もしも8章で自殺しなかったら、というIFです)




はじめに違和感を覚えたのはいつだっただろうか。

香港での「おつかい」を万事終え、なまえが私邸のひとつへ戻ってきた折のことだった。
平生となんら変わらずひょうげた口調で「例の若い鳥とは、無事に鏡は割ってきたかね」と嘯いた張に対して、なまえは首を傾げたのだ。
彼女は「……ああ、そうでしたね。申し訳ございません。失念しておりました」と困ったように苦笑した。
小鳥を見知った者ならばなまえの面様おもように面食らったに違いなく、他でもない張が筆舌に尽くしがたい違和感を覚えたのは道理といえた。

「――お前、香港あっちでなにかあったか?」
「え? いいえ、特には……。どうかなさいましたの、旦那さま? どこかお加減でも……」

不思議そうになまえは眉をひそめ、「雅兄闊歩ウォーキン・デュード」と謳われた偉丈夫の、珍しく戸惑ったような面輪おもわへ白い手を差し伸べた。
探るように繊手せんしゅを握り引き、張はなまえの肢体を抱きすくめた。
きゅっと絞られたウエストからふんわり広がる淑やかな裾が、夢のようにうつくしく翻る。
ただひとりの主の腕のなかでなまえはいかにも幸福そうな笑い声をあげた。

「あらあら、もう、旦那さまったら。ふふっ、たった数日、小鳥が御許みもとから離れていただけで……寂しい思いをしてくださいましたの?」

その笑みに、声音に、為様しざまに、不可解な、後ろ暗いものを見出だすことは極めて困難だった。
無謬むびゅうの主が察知できなかったのだ、畢竟、この世になまえの状態を正しく汲み取れる者など皆無だったに違いない――そして正しく斟酌しんしゃくしようと努める人間がいるかどうかはまた別の話だ。

その数日後のことだった。
大廈高楼たいかこうろうの天辺で、彼と、彼の囲う女とが他愛もなく戯れているところにゆくりなく遭遇して、なまえは驚いたように「あら、」とまじろいだ。
折しもあれ、眺望を見晴みはるかすソファにふたりの男女がおわしていた。

「お邪魔して申し訳ございません、いらっしゃるとは思いませんでしたの。失礼いたします」
「あ、待って、なまえさん、お久しぶりです。この前は――」

扉を閉めようとしたなまえを、彼女は引き止めた。
ほんの半月ほど前に顔を合わせて以来、金糸雀カナリアロアナプラを離れていると言い聞かされていたのだ。
小鳥の穏やかな微笑は、輓近ばんきん他の女性と相対する機会を著しく欠いていた彼女の目に余程慕わしく映ったのだろうか、この期を逃すまいと、娘は慌てて張の横を離れてなまえを追いかけた。

しかしながらなんぞ図らん、日向ひなたの香りのする娘は思わず息を呑んだ。
引き止められたなまえが心底不思議そうに首を傾げたためだった。

「どこかでお会いしたかしら……? どうか無礼をお許しくださいね、お名前を伺ってもよろしいですか?」

主人が囲う他の女への当てつけでも皮肉でもない。
なまえは真実まったく困惑していた。
彼女の目から見ても明白にだ。
「あの、なんていうか、なまえさんの様子がおかしいんです」と異変を訴えられた張が、小鳥を詰問してようやく発覚したのは、なまえがいろんなものを「忘れてしまった」事実だった。

なまえの記憶は静かにゆっくりと失せていった。
両の手で掬い上げた砂が、指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていくようだった。
なまえのなかの消滅でなかんずく顕著だったのは「悲しむ」「苦しむ」といった負の感情だった。
今生ただひとりと恋い焦がれていたはずの男が色敵いろがたきと戯れていようと、金糸雀カナリアが介意する様子を露ほども見せなかったのは、感じられないのなら当然といえた。
彼らに遭遇してしまったときの「お邪魔して申し訳ございません」という謝罪は、心からのものらしかった。

なくす記憶に共通点や整合性はなかった。
新しく知ったもの古くから知っているもの、好むもの嫌悪するもの、人物や物質、感情といった簡明な区分はなく、なにかを忘れたことすら彼女は忘れた。
診察した医師に「なんでも構いません。心当たりはありますか」と問われ、なまえはおもむろにこう答えたという。
頬に白い手を当てて細首を傾げながら、見えない糸を手繰たぐるかのように、懸命に、素直に――「心当たり、というわけではありませんが……。ずっと、“忘れなければ”と思っていたような気がします。考えてはいけない・・・・・・・・って。なにか、しようもないことで悩んでいたのかもしれません。あまり覚えていないんだもの、きっと、取るに足りないことだったんでしょう。――でも、いつのことだったかしら。わたし、なにを忘れなきゃいけなかったのかしら・・・・・・・・・・・・・・・・・・……」。

なまえから消滅したものの最たる例は感情と、そして名前だった。
何度教えられようと、彼女は「なまえ」という自分の名を覚えられなかった。

光をたっぷり取り込む出窓、そのウィンドウベンチにとまり木よろしく無造作に座し、体のラインを曖昧にする肌ざわりの良いコットンのワンピースをゆったりと纏う女の後ろ姿は、まるでお伽噺の絵本に出てくるようなうつくしい光景で、ぞっとするような非現実感を、いつも見る者へ――張維新チャンウァイサンへ投げかけた。
その背へいくら「なまえ」と呼びかけられようと反応を示さない女は、しかし「金糸雀カナリア」という僭称せんしょうばかりは忘却の手に委ねられなかったとみえる。
時折、訪れた主人が「金糸雀カナリアは今日も日向ぼっこにご執心か」と嘯けば、ぱっと振り向き「旦那さま!」と相好を崩したものだった。
いつしか郊外に構えた私邸から一歩たりとも外へ出なくなっていた彼女の名を呼ぶのは、最早、この濁世で張維新チャンウァイサンただひとりになっていた。

ちいさな邸は夢のように愛らしく、あたたかく、牧歌的だった。
なまえのワンピースの濃い黄色、ウィンドウベンチに積まれた薔薇色、紺碧色、若草色、色とりどりのクッション、咲き乱れる花々と、まばゆい色彩に溢れた瑕疵かしひとつない世界において、夜闇がわだかまり造形しかたの如き喪服じみたスーツ姿の男は、白紙へ落ちた慮外のインクもかくや、異様に際立ち浮いて見えることはなはだしい。
この場で顕在的に異物なのは、彼女の主たる張維新チャンウァイサンだけだった。

「――あら、この香り、好きです。ね、旦那さま、名前をご存知ですか?」

つと足を止めたなまえが笑顔で振り向いた。
初めて嗅いだ・・・・・・好きな香りに、嬉しそうに、どこか落ち着かなそうにそわそわと張を見上げた。

今日は、どんな心境の変化があったのやら、退嬰たいえい的な彼女にしては珍しく、クッションたっぷりのウィンドウベンチを離れて、邸の裏側に設えられたちいさな温室をそぞろ歩きしていた。
軽い麻のスリッパを履いた細足は、地を踏み締める感触を楽しむようにゆっくりと花々の間をさまよった。

元来楚々とした顔貌が浮かべる晴れやかな笑みは、曇りも、陰りもなく、驚くほど透き通っていた。
その透明な笑みに深更しんこうの月明かりめいた淡い光はなかった。
記憶を失ってから、なまえは頻繁に「好き」と口にするようになった。
あれが好き、これが好き、屈託のない笑顔で「あなたが好き、愛しています」と、なんの躊躇いもなく、幸福そうに。
出会ってから十年以上の烏兎うとをかけて向けられた「好き」という言葉の数を、いっぺんに追い越してしまったほどだった。

張はサングラスの下の目を僅かにすがめ、ジタンの代わりに鷹揚な微笑を口の端に刻んだ。

「――別段、花には詳しかねえが。ソレが“百合”ってことは、俺でも知ってるな」

なまえは白い花弁へ頬を寄せていた。
それは長らく彼女自身が撫育していた白百合だった。
陽光を避け、日陰にて丁寧に育てられていた大ぶりの白百合は、いまを盛りと咲き誇っていた。

「まあ、旦那さまが花の名前をご存知だったなんて」
「おいおい、聞いといてそりゃねえだろ」
「ふふ……お許しを。だって、なんだか意外で」

言葉の舌ざわりを確かめるように、音の流れをさらうように、そっと「そう、“百合”っていうの……。香りも、名前も、素敵ね」と囁いた面忘おもわすれの横顔があまりにうつくしかったものだから、男はただその今世すべての苦しみから救われたように輝くかんばせを、ただ無言のうちに眺めていた。

もしも彼女の記憶になんら欠落がなかったなら、張は肩をすくめつつ「お前は本当に百合それを気に入ってるな」と一笑に付しただろう。
香水パルファンというもの自体を忘れた女は、既にその香りを纏わぬまま累日に及んでいたが、濃密かつ清雅な芳香は、いまも好ましく感ぜられるらしい。
朝焼けのなか、ねやくらいでしか――それもごくうっすらとしか――嗅ぐことができなかったなまえ自身の肌の香りは、いまは容易く嗅覚が拾い上げられた。

飽きもせず、なまえは白百合へ顔を寄せていた。
が、ふと思いついたとばかりにおとがいを上げた。
なくしたものを見付けたようにいとおしげに目を細めた。

「旦那さま、わたし、このお花が好きです。なんという名前か、ご存知ですか?」

明るく弾んだ声で問う女は、一片氷心、もうずっと夢を見ているように微笑んでいる。


(2021.05.15)
(2024.02.06 改題)
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