シャドーファルコンの「聖女」の正体は、任務を依頼してきた「赤毛の女」によって明かされた。
クライアントの待つホテル、ラペェト・ロアナプラの五階九号室、フランス窓から音もなく入室したファルコンを迎えたのは、席を外しているスタンを含めてわずか三名だった。
キャロライン・モーガンのトルチュ一味が全滅し、赤毛の女が招集した、当初の暗殺メンバーたちだ。

不信感を露わにしていたジェイクはあっさりと「フォールド」を宣言した。
失敗した最初の襲撃、あまりにも杜撰な計画、尚以なおもってクライアントの等閑とうかんに付す――取りも直さずナメ腐った態度が気に食わなかったのも理由のひとつだ。
しかしなによりも、趣味と実益を兼ねたライフワークにおける「ネタ」を見出したことによるところが大きかった。
なにせ東南アジアの片隅、熱帯の半島くんだりまでわざわざやってきた案件ヤマすら霞むほどの逸材をいまや見出したのだ。
眼裏まなうらに浮かぶのは、インターネットに比類なく映える・・・二挺拳銃トゥーハンドの挑発的な肢体だった。

「じゃあな、スタンにもよろしく伝えといてくれ。あとヤクも程々にしとけってな」

部屋を立ち去る間際、ジェイクはそういえば忘れていたとばかりに「ファルコン、あんたはどうする?」と視線をやった。

「――ひとつ、借問したい」

昼間の一件は伏せたままファルコンが聖女のことを尋ねれば、ロアナプラに潜伏して日の浅い彼よりも発注元である赤毛の女の方がこの街に詳しいはずとの目論見通り、求めていた答えは呆気なく寄越された。
彼女の特徴を二、三、聞いたところで、ジェーンが「ああ、」と気怠げに首を傾げたのだ。

「張がそんな女を囲っていたわね。名前は確か、なまえ……アジア人の名前って、どうしてこうも発音しにくいのかしら。ここらではご大層に“金糸雀カナリア”だの“処女”だの呼ばれてるそうよ。ハッ、なんでも、銃もナイフも使ったことすらないんですって。場末の娼婦も真っ青よ。どこまでふざけた女なのかしらね」

ジェーンは心底馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らすと、燃えるような赤髪を背に流し、ピアニッシモに火を点けた。

「なんだあんた、張の女から落とそうって算段か? まあ、やり口としちゃあベタだが……」

いささか意外そうにジェイクが目をしばたいた。
ただでさえ不案内なアジアの片隅、加うるに難攻不落、八面六臂のターゲットが相手ならばその親族や情婦共を誘拐するなり殺すなりという手段は常套ではある。
とはいえよりにもよってシャドーファルコンの口から、そんな不埒な案が出てこようとは想像だにしなかった。
浅い関わりのジェイクといえど、仲間の「ニンジャ」がしち面倒臭い流儀だの沽券だのに正気のラインを超えたレベルで固執しているのはよくよく承知していた。

しかしファルコンは「否」と静かにかぶりを振った。

「そのような外道、我には必要なし。この魔都を統べる悪の巨魁と聞きし張維新チャンウァイサンの元に、かような“聖女”が囚われていると知った今――」
「は?」

なに言ってんだコイツという表情を隠しもせず、赤毛の女が唇を歪めた。
もしかしたら口に出ていたかもしれない。
ジェイクも似たり寄ったりな顔をしていた。
しかし彼らのドン引いている様相なんぞまったく意に介さず、義侠に燃えるシャドーファルコンはぐっと拳を握り締めた。

「誅を為すが我の務め。今、その任に更なる使命が付与された。――囚われの聖女を救い出さんと」

もしも彼の全身を覆う黒装束の隙間、その切れ目を覗いてみようなどという奇矯な人間がいたなら、奥の碧眼が使命にメラメラと燃えているのを見ることができただろう。
だが言うまもなく、そんなエキセントリックなボンクラはこの場にはいなかった。
なにやらおかしな方向に思考が走り出しているらしいシャドーファルコンは「御免」とだけ言い置き、入って来たフランス窓に手をかけた。

「ちょっと待ちなさい! 勝手なことしたって、後金はあげないわよ!」
「――我はただ天命に従うのみ」

慌てて呼び止めたクライアントを置き、ファルコンは夜の闇に消えた。
もあらばあれ、次いで、呆れ果てた様子でジェイクもさっさと部屋から出て行く。
忌々しげに歯噛みしながら、赤毛の女、すなわちタチアナ・ヤコブレワは、メンソールの煙草を深々と吸って吐いた。






墓場にて一発の銃声が響き渡った。
並ぶ墓石に刻まれていたはずの名は読み取れず、それでなくとも読み取るべき者すらとうに此岸にいるべくもない。
土の下で朽ち果てるだけの観客に囲まれ、対峙するふたりのうちいずれかには同じ末路が用意されていた。
さてその道をどちらが辿ろうかと、慮外の熱風が吹き抜けた。

ザルツマン号にて並々ならぬ禍根を残したレヴィとジェイクの一騎打ちは、9ミリの叫喚でもって閉幕した。
襲撃のともがらは立案者を含め残り三名であり、そのうち二名はかつて戦乙女ヴァルキュリアと謳われた女の手に委ねられた。

嗤笑ししょうと共に、落日に焼かれた桟橋で「それほどに嬉しかった。何せ彼は来なかった・・・・・・・のだから」と嘯いた――既往、畏怖と敬愛の念をもって「パブロヴナ大尉」と呼ばれていた者以外、けだし幕引きを許されないだろう。
前世にも等しい隔世で、同じ砂塵と血臭に埋もれた矜持をして「ああ、今ようやく私は再会の喜びを噛み締めているんだよ」と吐いた、修羅以外には。






床から天井までを覆うガラス窓は、澄み渡る群青の空を損ねることはなかった。
本日もロアナプラは快晴、まばゆい陽光は容赦なく照りつけ、街全体が陽炎で揺らめくようだ。

ひるがえって、ペントハウスのなまえの私室は空調が効き快適だった。
見晴みはるかす佳景に興味もなく、なまえは塗ったばかりのマニキュアへ、ふうと息を吹きかけた。
利き手と反対の人差し指にわずかにはみ出した箇所を見付けて、丁寧にぬぐった。

爪化粧を終え、手入れの行き届いた手指をめつすがめつした。
うっすら青みがかったピンク色のヴェルニは、彼女の指先に輝かんばかりに映えた。
爪のみならず、自身でしか化粧を施せない小鳥は、大層器用にちいさな刷毛をるようになって久しい。
仕上がりになまえが満足げな笑みを浮かべたところで、傍らの電話機がコール音を響かせた。

「――もしもし?」
「大姐、お邪魔してすみません。受付のリョンです」

電話の主は顔馴染みの受付嬢だった。
グランドフロアのロビーで職務中であるはずの彼女の声音は、しかし脇のテレビでレイトナイトトークショーでも見ている最中なのかと疑いたくなくほど、いまにも笑い出さんばかりである。
常になく明朗――というより、まるで一歩か二歩、距離を置いてしまいたくなるほど度外れて陽気な様子だ。
一体何事やらとなまえは首を傾げた。

「ええ、梁、どうしたの?」
「っ、あの、大哥のご指示の……例の件で――」

必死に堪えているらしいが、声の端々が込み上がる笑いで揺れている。
いわく「なんかもう予想以上にヤバイのが来ました」。

「ああ、旦那さまが今朝おっしゃっていた?」
「そうですそうです、もう、なんていうか、ッ、あの、」
「はいはい、教えてくれてありがとう、梁。みんなに通常業務に戻って構わないと伝えてくれる? ……その様子だと難しいかもしれないけれど」

電話口の向こうでは男女問わず複数の爆笑が続いていた。
浮足立つというにはあまりにもバカ騒ぎじみたざわめきに、やれやれとなまえは嘆息しながら電話機を置いた。

ともあれなにやら面白そうなことになりそうな気配はたっぷりである。
無謬むびゅうの主のおわす場においてさしたる恐れも憂慮も要さない女は、色とりどりのマニキュアの小瓶を片付けると、ペントハウスの階下へ降りることにした。






「なんという、マスターのお心遣い……! 拙者、おのが浅慮を恥じ、更なる修練の道を歩む所存!」
「うむ。精進するよう」

シャドーファルコンは滂沱ぼうだの涙で床を濡らしていた。
おのが身を賭してまで忍の道を説いたマスターNINJAのご高配に、彼がいたく心をふるわせている真っ最中、更に感動の追い打ちがやってくるとは誰が予想しえただろう。
おもむろに華奢なヒールがかつっとステップを叩いた。
折も折、典雅な足運びで階段を降りてきたのはひとりの女だった。
ひょっこり顔を出したなまえの姿を視認するや否や、シャドーファルコンがその場でずしゃあッと床に崩れ落ちた。
突然の乱行らんぎょうに、なまえはぱちぱちと目をしばたいた。

「まあ、あなたは……」
「ああっ、貴女様は、あのときの“聖女”……!」

見覚えのある彩度の高い碧眼とかち合い、なまえは小首を傾げた。
すぐに先日、路地裏で声をかけた奇妙奇天烈な「ニンジャ」だと思い至った。
忘れろという方が無理だろう。
初対面のときはなんの罰ゲームかと疑う暑苦しい黒装束を身に纏っていたが、いまは、なんというか――端的に言って言葉にならない・・・・・・・
筆舌に尽くしがたい珍妙な様相を前にして、なまえは「ああ、梁たちが爆笑していたのはこれが原因か」と深く納得した。

「先日の無礼、何卒ご容赦たまわりますよう……! 貴女様の深いお慈悲により、拙者、ようやくここまで導かれました」
「そう……」

声涙倶せいるいともに下り、ファルコンは再会の喜びに浸っている。
眼前で膝を着いてふるえる巨体を前に、小鳥は笑えば良いのか怯えるべきか判断しかねるはなはだ微妙な顔をしていた。
なまえは「教会」での意に染まない茶会からの帰途、見慣れない不審者へ手を差し伸べた。
乱行らんぎょうの訳柄は、息抜きというより八つ当たり気味といった方が正しい。
どこでどの糸が繋がり、編んだ糸によってどんな図が描けるのか――英邁えいまいなる「金義潘の白紙扇」でもあるまいし、まだ糸の段階では非力な小鳥一羽如き、想察すべくもなく、彼女が手を差し伸べたのはあくまで気まぐれ、あるいはただの憂さ晴らしだった。
後々糸にも図にもなれば幸運と、多少の腹積もりはあったにせよ、さすがにここまでの展開を読めるはずもなかった。

とんでもないものが釣り上がってしまったとなまえは立ち尽くすしかない。
しかしながらそんな異様な空気にもひとり呑まれずにいたのは、他ならぬ彼女の飼い主である。
濃い眉を器用に片方だけ上げ、張がなまえへ囁いた。

「おいおいなまえ。こんな面白いの、どこで引っ掛けてきたんだ。しかも既に“洗脳済み”だと?」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないで、旦那さま。先日、偶然会っただけです」
「は、俺を狙っていた刺客と偶然ねえ……」
「……ご不満そうですね」
「ああ、そりゃあご不満だぜ・・・・・この上なく・・・・・

さも呆れたとばかりに張が唇を曲げた。
なまえも重ねて反駁はんばくはせず、ただ肩をすくめるだけに返答を留めた。
なんとなじられようとも、この「ニンジャ」を思いがけず見付けてしまったのは事実なのだ。

怏々おうおうとした飼い主の視線から逃れるように、なまえはファルコンの巨躯へ向き直った。

「……ねえ、あなた。旦那さまのもとへ下るの?」
「はい、これより驥尾きびに付さんと、マスターの命により急ぎ香港へ参ります」
「そう、本国へ……。せっかく再会できたのに、遠くへ行ってしまうのね……」

どこか寂しそうになまえが苦笑すると、慈悲深き聖女の言葉に、ファルコンはまた感激しきりと嗚咽を漏らした。
一連のありさまをサングラス越しに心底胡乱な眼差しで見下ろしていた張は、浅く嘆息した。
平生から、とりわけザルツマン号での襲撃以降、部下のみならず麾下きかの小鳥の行状はつぶさに把握していたはずだったが。
一体どこでたぶらかしてきたのやら、ことしもあれ、金糸雀カナリアの熱心な信奉者がまたひとり増えてしまったのは間違いないらしい。

「御身をお守りするためにも、拙者、修身に励み、忍びの道を極め、いずれまた御元へ帰還いたします」
「あらそう? じゃあ引き留めてはいけないわね」

わりとあっさり引いたなまえは、それはそれはやさしげに「行ってらっしゃい」と微笑んだ。
見送ってくれる彼女に、膝を着いて最上級の礼でもって返したシャドーファルコンは、彼らの前からシュタッと専用SE付きで消えた。
「いやー久しぶりに面白いモンを見た」とまた酒を注ぎ始めた張と、「あの子、すこし騙されやすいんじゃないかしら……」と頬へ手を当てているなまえ、ふたりを残して。






「どうしたの、とっても愉快なお顔をしていてよ、彪」
「……俺ァ元からこんな顔です、大姐」
「ふふ、シャドーファルコンだったかしら? 面白そうな子だったじゃない。外に放り出しておくにはもったいないくらい。――旦那さまは遊びすぎだと思うけれど」
「大哥のふざけ具合に関しちゃ全面的に同意だが……前者は面白いとかそういう次元の話じゃねェでしょうよ……」

シャドーファルコンを香港に送り込んだ旨を、本国に御座おわす総主、荘戴龍ツゥンダイロンへ宛て張が電話をしている最中、傍らでなまえと彪はこそこそと言い交わしていた。

濁世、何にまれ手駒は多いに越したことはない。
この街で名うての人狩り師シェンホア二挺拳銃レヴィを手こずらせた傑物ならば、尚のことだ。
しかしその手駒がなにしろアレである。
常になくげんなりした表情に歪む彪の強面こわもてを見上げ、なまえは「もしシェンホアがいたら、怒髪天どころでは済まなかったでしょうね」と苦笑した。

無事、申し送りと按排あんばいを終えたらしい。
張が電話を切ったところで、物言いたげな面持ちで待ち構えていた彪は早速口火を切った。

「……大哥、本当に大丈夫なんですか? あの男」
「ん? いやだってあんな面白いヤツを野に置いとく手はないだろう。まあしばらくはシェンホアも収まりがつかんだろうし、ほとぼりが冷めるまで香港で預かってもらうしかないか」

小鳥と似たことをのたまうボスに、我知らず彪がちらりと目線を走らせれば、素知らぬ顔でなまえは肩をすくめた。

「これでまた俺の新しい二つ名がちまたに知れ渡るかもなあ。なまえも」
「冗談は止めてください」

心底辟易した語調で吐き捨てながら、彪は手渡されていた悪質詐欺の小冊子をデスクへ乱雑に放った。
その横でなまえも似たり寄ったりな表情を浮かべていた。

「彪の言う通りです。本当にもう……どうしてこんな、仰々しい……」

うんざりしたようになまえが眉をひそめた。
その顔には「さすがに居た堪れない」、あるいは「恥ずかしくないのか」とありありと書かれていた。
なまえの誉れ高き「金糸雀カナリア」の僭称せんしょうは、飼い主よりたまわったものだ。
ならば自ら尊びこそすれ、それ以外の呼び名など、奉じられてもただ煙たいばかりである。

なまえの胡乱な表情になにを思ったか。
サングラス越しに彼女のかんばせを一瞥した張は、静かに「なまえ、」と薄い繊月の形に唇を歪めた。
口の端に浮かぶのは、しかし笑みと呼ぶには不祥ふしょうなにか・・・だった。
当のなまえはひくりとかすかに指先をふるわせた。
主、張維新チャンウァイサンの声音はなまえにとって、今世、最も慕わしく、それが自分の名を呼ぶものならば、尚更、まるで痛みと混同してしまいそうなほどの陶酔が胸にはしるものだった。
しかし、いまこのときばかりはなまえは顔を上げるのを躊躇った。
致し方ないことではある。
男の炯眼けいがんが剣呑に光っていることに即座に気付いたのは、十年以上の烏兎うとを共に過ごしてきた彼女のみだったのだから。

「また熱心な信奉者が増えて良かったな、なまえ。“処女”のお次は“聖女”と来りゃあ、いよいよ新興宗教じみてきやがった」
「お言葉の棘が痛いです、旦那さま。彼と会ったのは本当に偶然ですよ。先日、リップオフ教会からの帰り道、具合が悪そうだったのですこし声をかけただけです……真昼間の路上でした」
「あのナリじゃあな」

インチキ通販カタログの表紙にもデカデカと描かれている、露出しているところいえば目元くらいの黒装束を思い出し、張は深々と紫煙を吐き出した。

「で? 拾ってたぶらかして俺のとこに寄越したってわけか、聖女さんよ」
「申し訳ございません、短慮でした。まさかあなたのお命を狙う者のひとりだったなんて……。もし知っていたら、近付きもしませんでした。そんな怖いこと、なまえにはできるはずがないもの」

いかにも純真といった囀りではあれど、しかし愛鳥の口舌くぜりにすべてを宥免ゆうめんしてやるほど、主たる男は愚かでも暢気でもなかった。
しなまえに誤りがなかったとしても、シャドーファルコンが絶望的なまでに騙されやすく、かつ金糸雀カナリアが殺気などというものを纏わせることがないという性質がなければ、いま路地裏で転がっているのが白い手の女だったのは必然、章々、雨天順延券レインチェックでもあるまいし、全弾装填済みの銃口を口に咥えて引き金を引こうものなら、一秒後には現世とおさらばできるのと等しく道理だった。

仕置きも兼ねて、しばらくは籠の外へ出してやるのは控えておこうか。
目端をすがめる飼い主に、不穏なものを嗅ぎ取ったのか――なまえは淑やかな所作で張の隣へ腰掛けた。
この上なく従順な笑みを浮かべ、主人を仰ぎ見た。

「ねえ、旦那さま。シスター・ヨランダがおっしゃっていました。今回、あなたのお命を狙った狼藉者たちのなかに、ミス・バラライカの、因縁浅からぬ者がいたと。手綱を握っていたのは、ロシア人だったのでしょう? それも彼女の庭先の。さぞ“大尉殿”は不愉快極まりなかったでしょうね?」
「教会の婆との茶会ならともかく、“情報と口入れ屋”の客になるのを許した覚えはねえんだが、なまえ」

ゆるやかな弧を描いた目が、サングラス越しに小鳥を睥睨へいげいする。
彪はそこで、ボスが実以じつもって「ご不満」であることをようよう理解した。
ぞわりと背筋を撫でるような怖気おぞけがはしり、傍聴者であるはずの彼は無意識に息を詰めた。

「シスターにお確かめになって。小鳥は客にはなりえないと、なまえははっきりお伝えしました。――ねえ、旦那さま、」

主の酷薄な眼光に、この場において唯一ひるまぬ閉月の女が言葉を続けた。
声音は歌うように軽やかで、糾弾するようによどみない。

「それが事実だとすると、ミス・バラライカはきっと、幕引きを他の者へは譲らないでしょう。決してね、旦那さま。賊のひとりの素性がわたしの聞いた通りなら、理の前、尚更。……昨日、あなたが埠頭へいらっしゃったのは、」

怜悧な黒い瞳がぞっとするほど静かに、敬慕くあたわざる男を見つめていた。

「彼女に――ミス・バラライカに、
袖にされるためだったのでしょう・・・・・・・・・・・・・・・?」

なまえの言う「昨日」が、ロアナプラ停泊場の桟橋において火傷顔フライフェイスと野暮な話を演じたことを指しているのだと、張は寸分たがわず理解した。
果てなく続くうろのような女の黒目が、なんの感情も示さずこちらを見ていた。
不用意に覗き込もうものならそのまま魂ごと奪われかねないと、馬鹿げたことがよぎるほどうつくしい目だった。
咥えたジタンのフィルターを噛めば雑味が増す。
張はほんのわずか、不分明に頬を引き攣らせた。

張維新チャンウァイサンの小鳥は、「ロアナプラ停泊場」と「バラライカ」、このふたつが揃うと途端に著しく機嫌を急降下させる。
どちらか片方だけなら問題はない。
問題は、そのふたつが過去に揃った――否、問題そのものを生じさせた「九三年」にあった。

九三年十一月・・・・・・
あの鮮烈な夜を思い出した張は、我知らず口の端に笑みが滲んでいるのを遅れて自覚した。
ただでさえ主人がこの調子なのだから、畢竟、飼い鳥もいつまでも尾を引いているのかもしれなかった。

張が新しい煙草を一本取れば、ごく自然な動作でなまえが火を点けた。
整えたばかりらしい女のうつくしい爪先が、ちいさな火によりぬらりと光った。
ふうっと一服つけた。
紫煙が蜷局とぐろを巻いた。
茫洋と白靄を纏わせた男は、にやりと不遜に笑ってみせた。

「……嫉妬してたのは俺の方だったはずだぜ、なまえ」
「ふふ。嫉妬なんてちっともしてくださらないくせに。旦那さま」

泥より出でて泥に染まらず――蓮の花めいて清らかな微笑を女も返してみせた。
不用意にふれれば破裂しかねない、累卵るいらんの危うきという空気のなかでの応酬に、佇立していた局外者たる彪の方がだらだらと背に冷や汗をかいていた。

「……幕を引くのは、きっと、“彼女”でしょうね」

耳の膿まんばかりの沈黙を破ったのは、鳴禽めいきんの囁きだった。
ふいと主から視線を逸らしたなまえが、窓の外へ視線を転じた。
静かな呟きは宣託にも似た厳かさで、群青の空、油照りに揺らぐ魔都を慰撫するようだった。




10

正午、熱風の吹き抜ける路上だった。
鴃舌げきぜつめいた囀りにたがわず、弔鐘ちょうしょうを響かせたのはかつての戦友、英雄と慕われた女だった。
銃声はスチェッキンによる一発、それで事足りた。

そうしてまた、鮮血あけに染まる街は平生通り平穏に・・・あった。
ただそこへ落下する死体と空薬莢の重さだけ増して。


(2019.05.30)
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