(※一文だけ『永遠の不在証明』歌詞を含む)




突風に煽られ、火の粉が舞う。
澄んだ青空すら染めるほど燃え上がった炎は、数十メートル先に立つわたしの肌まで焦がさんとするかのようにのたうっていた。
ガソリンが漏れ、小規模ながら爆発を起こした車は未だ炎上している。
一刻も早く消防隊に通報しなければならないものの、その作業は、本道を往来する車列や近隣のビルの人間に任せて良いだろう――大慌てで我々の方を指さしている彼らに。
このポイントへ先回りしたわたしたちが可能な限り人払いをしていたこともあり、派手に車が横転した側道に人影はない。
幸い、巻き込まれた一般市民はいないようだった。

TR新幹線の新港浜駅から下車して逃亡した井上治を、赤井さんの指示で追い詰めた。
ジェイムズさんとキャメル、そしてジョディとわたしという二手に分かれて。
赤井さんの指示通り待機ポイントに現れた傷だらけのドイツ車は、掣肘せいちゅうを加える――と呼ぶには些か荒っぽすぎるジョディの制止により、これ以上の逃走は不可能なのは明白だった。
彼女の背を見つめながら、走行する車前へ飛び出すなんて無茶なことをする、と嘆息した。

「ジェイムズさんたちは?」
「すぐに合流するそうよ。なまえ、警察へは?」
「一般人の皆さんがしてくれているみたいだからお任せしようかと。一応、東京の警察へは直接わたしも連絡を入れるよ。地方警察の手には余るでしょう」
「過去の事件で世話になった伝手が、まさかこんなところで活かされるなんてね」
「本当に」

この世に存在するものすべてを拒否、否定するかのような虚ろな目で、道路へ平臥へいがしている男。
この様子ではまともに聴取を行えるかどうかはなはだ怪しい。
惨めな有り様を見下ろし、彼の歩んできた過去へ思いを馳せるものの、我々FBIに対して憎悪の念を募らせてしまった彼に、しかし同情の余地は一切ない。

――事件は、ひとの人生をあっけなく変えてしまう。
拳銃を懐のホルスターに戻して井上を見下ろしている彼女の背へ、わたしは「ジョディ」と呼びかけた。
かすかに振り向いた彼女の青い目は、凍てつくよう。
空を舐めんばかりに燃え上がる炎とは対象的な氷めいた碧眼を、わたしはひどく眩しく感じた。

「ジョディ、――わたし、あなたの同僚でいられて良かった」

普段の彼女だったら、大きな口を開けて「なーに、なまえったら、突然。気味悪いわね」なんて笑い飛ばしたに違いない。
けれどいまのジョディの青い瞳は、こちらが容易に近付くことを躊躇うほど、鮮烈な光を孕んでいた。
わたしを見つめて、わたしの発言を咀嚼するようにゆっくりとまばたきをした次の瞬間には、その光は鳴りを潜めていたけれど。
あるいはその冷徹な眼差しが、こちらの見間違いだったのではないかとよぎるほどに。

華やかな美貌には似付かわしくない、少々野暮ったいデザインの眼鏡の奥の碧眼は、こちらがもどかしくなってしまうほど凪いでいた。
――以前、尋ねたことがある。
彼女へどうしてその眼鏡をかけているのか、酒の席で。
日系のわたしが戦力になりうることを勘案してか、キャメルと共に日本へ入国した直後のことだった。
――「特別目が悪いって訳じゃないでしょう? それに、なんていうか……ジョディのファッションとは合わない気がして」と。
少し赤みの増した顔を「なによ、文句でもあるっていうの?」としかめてみせたジョディは、けれどわたしの言わんとしているところを正確に汲み取ってくれたらしい。
きれいにルージュの引かれた唇を、ふ、とゆるませ、教えてくれた。
その黒縁の眼鏡は「とても大切な人の、この世に残った唯一の痕跡」なのだと。
なにかを思い出すように、なにかを堪えるように、かすかに目を伏せて語るその横顔は、やはりはっと目を奪われるほど美しかった。

「さ、撤収しましょうか。後は日本の警察に任せましょう」
「ええ。……赤井さんはなんて?」
「そのまま東京へ向かうそうよ」
「そう、じゃあわたしたちも」

視線を転じると、遅れて到着したジェイムズさんも「うむ」と言葉少なに頷いた。
キャメルの運転する車に四人で乗り込み、現場を走り去る。

――もしも「被害者」という点で論じるならば、きっと、井上治とジョディ・スターリングは似ていた。
大切なひとを、自分の人生を、名前を、過去を、理不尽に奪われ、まったくの別人として生きることを余儀なくされたという点において。
けれどふたりにはなにより大きな隔たりがある。
真逆といっても良い、完全なる相違は、己れひとりでは到底手の届かぬ強大なものに対峙するにあたり、自分が何者であるかという「選択」。
加害者にはいつでも誰でもなれる。
二十年前、愛する家族や生まれ育った家を奪われ、故郷を捨てさせられ、幼い少女であったはずの彼女に、世界は選択肢を与えた。
なんて酷なことだろうかと思う。
けれど、たといそれが苦難の道であろうとジョディは「正義」を選び取った。

情報収集のためタブレットへ落としていた目線をそっと上げ、助手席に座っているジョディを垣間見る。
――だからこそ、正義の跡を追うと決めた彼女を、わたしはひどく眩しく感じるのだろう。


(2021.04.16)
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