ふわふわと寄る辺なく立ちのぼる湯気。
その行く先をゆらゆらと目で追いかけていくけれど、ある程度空気中に広がった白い靄はやがて、最初から存在すらしていなかったかのようにほんのりと消える。
ティーカップから立ちのぼる湯気は、気体ではなく水滴なのに、どうして浮かんでいることが出来るのだろう、と取りとめもなくぼんやりと考えた。

淹れてくれた本人のように澄み輝く紅茶はあたたかく、口に含むたび、優しいぬくもりが体の中心から末端へとじんわり広がっていくようだった。
繊細な装飾をほどこされたティーカップは、花束をモチーフにした、なめらかな曲線を描いている。
カップを両手で包み込むようにして持つと、冷えた指先もあたためられた。
意図せず、ほっ、と口元が自然にゆるむ。

「……美味しい」

感嘆の溜め息まじりにほとんど無意識に呟くと、向かいで一緒にお茶を飲んでいたジョナサンが嬉しそうに微笑んだ。
つられてこちらも笑みを浮かべる。
もう一度きちんと、美味しいです、と伝えれば、あたたかなエメラルドの瞳が柔和に細められた。

「ありがとう、そう言ってもらえて嬉しいよ」

どうも僕は料理は苦手なんだけど、こうしてお茶を淹れるのは好きでね、と少しだけ恥ずかしそうに頬を掻くジョナサンに笑みがこぼれる。
絡まった糸のかたまりがやんわりと、ゆるやかにほどけていくような笑み。
その安寧とした空気が移ってしまったかのように、わたしの気持ちもやわらかく凪ぐようで。
他人をこんなに穏やかな気持ちに出来てしまうなんて、望んでも簡単には得られない、とても素敵な性質だ。
そんなところも羨ましい。

「わたしはこんなに美味しいお茶、淹れられないから羨ましいです」

カップのふちを指先でなぞりながら、ゆんわりとたゆたう水面を眺める。
彩度の高い紅緋色は澄み切って、香り高い。
きちんとした行儀作法は一度教えてもらったけれど、気にしなくて良いよと言ってくれたジョナサンに甘え、好きなように自由にいただいている。
彼とこうして、お茶を飲みつつ他愛もない話をしながらゆっくりと過ごすことは、わたしにとってささやかな幸せであり楽しみだった。

「……ああ、そうだ、なまえ、紅茶占いって知っているかい?」

頬に影を落とすほど長い睫毛が伏せられた目をぱっと開き、ジョナサンが口元をほころばせたまま呟いた。
聞いたことのないそれに、カップを手にしたまま首を傾げる。

「紅茶占い? ううん、知らないです」
「そう、良かった。ええっと、飲み終えたティーカップとソーサーを使うんだ。今はストレーナーで茶葉をきれいに取り除くけど、昔はそのままポットから注いでいたんだよ。……だからこうして、カップに少し茶葉が入ってしまう」

こんなふうにね、と小さく笑みながら、ジョナサンがカップの底を見せる。
一口より少ない程度に残った淡い紅緋色は、動きに合わせてゆんわりと揺れた。
底には、確かに数枚の茶葉が沈殿している。
両手で包み込むようにカップを持ったまま目を輝かせて続きを促せば、ジョナサンはいたずらっぽく微笑んだ。

「ソーサーにカップを伏せて、……そう。そして、カップの底をトン、と3回叩くんだ。はい、カップを持ち上げてみて。カップに残った茶葉の形を見て、未来を占うっていうものだよ」

元々は女性のものなんだけどね、と苦笑しながら、ジョナサンは大きな手でカップをもてあそぶようにくるりと回した。
ただの茶葉の残り滓に意味を探すなんて、なるほど他愛のない噂話やら罪のない占いやらを好む女性には、格好の楽しみだっただろう。

「なんの形に見えるかい?」

手の中のカップには、3、4枚の小さな茶葉が残っている。
笑みを含んだまま尋ねられ、うーんと首を捻った。
こういうのは見る人や、その時の気分によって、たくさんの解釈が生まれるって言うし。
根を詰めずに直感で、と包み込むようにして手にしたカップを見つめる。

「……うーん、花、かなあって思います」

重なり合って形作っていたそれが、わたしにはなんとなく花のように見えた。
なんとなくだけれど。
いや、でも、こっち側から見ると、全然違うようにも見えるし、と、カップをくるりくるりとためつすがめつする。
直感で、なんて考えていたくせに、思いの外じっくりカップの底を見つめるわたしに、ジョナサンはくすくす笑う。

「花かあ、良かったね。確か花や植物は、愛情とか尊敬とか、良い意味だったはずだよ」
「ふふ、やった! ……あ、そうだ、ジョナサンは? ジョナサンはなにが見えました?」

やわらかく微笑んだ彼に身を乗り出して尋ねる。
わたしに急かされたジョナサンは、そうだね、と呟くと小首を傾げた。
彼のとても大きく厚い手のなかにあるカップは、わたしのと寸分違わず同じもののはずなのに、なんだか随分と小さく見える。
ほれぼれしてしまうほど隆々とした体躯を持つ美丈夫が、真面目な顔をして小さなティーカップを覗き込む様子は、なんだか可愛らしくてつい口元がゆるんでしまう。

「……そうだなあ、石や岩……に、見えるかな」
「石とか岩? 意味はなんですか?」

苦笑を浮かべたジョナサンに、目をしばたかせる。
どうしてそんなに歯切れ悪く、言いよどむのかと。

「意味を全部、ちゃんと覚えている訳じゃあないんだけどね。確か……障害、だったかな」
「障害、ですか」

彼には似つかわしくない不穏な単語に、眉を寄せて小さくその言葉を繰り返す。
障害。
何か彼には困ったことでもあるのだろうか。

「心当たりはあるんですか?」
「心当たりっていうほどはっきり言えるものじゃあないんだけど。強いて言うなら、……僕が欲しいものはとても近くにあるんだけど、どうも、そうだね、それこそ障害があって手に入れるのが難しいみたいで」
「欲しいものが近くにあるのに?」
「うん」

困ったようにやんわりと微笑むジョナサンに首を傾げる。
彼の言葉はひどく抽象的な表現で、それが何を指すものなのかわたしには理解が及ばないけれど、彼がこんな表情をするなんて。
わたしに出来ることなら、力になりたいと思う。
だけど、こんなに優れたひとが何をこれ以上求めるというのだろうか。

「なまえ、君は欲しいものがあったらどうするかい?」

手にしていたティーカップをソーサーに置いて、首を捻る。
雲を掴むような婉曲した話に、ぼんやりとした考えしか出てこない。
首を傾げつつ、わたしなら、と考える。

「わたしがですか? ……ええと、うーん……とりあえずまず、欲しいって意思表示をする、かなあ」

典型的かつ平均的な日本人であるわたしは、他人に向かってアレが欲しいコレが欲しいなんて言うのはなんとなく憚られるけれども。
特段、以前から引っ込み思案ではなかったものの、こちらに来てから欲しいものは欲しいときちんと主張するように同居人たちから教えられたせいで、昔より随分とはっきり物を言うようになったと自覚している。
とはいえ、みんなのように自分の欲求や信念に忠実すぎるのも考えものだろうけれど。

「意思表示、か」
「でも、わたしの考えですから。ジョナサンは違った方法も、答えも見付けることが出来ると思います、けど」

手で掴むことの出来ない白い湯気のようにぼんやりと、曖昧なことしか言えないもどかしさに、もやもやとしたものを抱いたまま両手の指を重ね合わせる。
いつもあたたかで優しい、温和な彼の役に立ちたいという気持ちはあるものの、わたしが出来ることはと考えると、残念ながら無力感しか沸いてこない。

そんなわたしを正面で見ていたジョナサンは、また、やわらかく微笑んだ。
その笑みは、なんとなく、そう、カップに残された茶葉を見る面を変えれば別のものに見えるように、茫洋に、なんだかいつもと違って見えて。
胸の深い深い奥底が、ざわりと波打ち揺れるような。

「なまえ」
「はい?」
「なまえ、」

聞くひとを安心させる、あたたかなジョナサンの声がわたしの名前を紡ぐ。
凪いだ湖面を連想させる穏やかなものだったはずのそれは、なぜだか妙に胸の奥を逆立てながら撫でるような熱を孕んでいた。
この世で最も尊いほどに美しい、きらめくエメラルドの瞳がゆっくりと細められる。
その目はやわらかさを失わないままに、それでいて星のように鮮烈に輝いていて、やっぱり、とても、きれいで。

「なまえ」
「っ、ジョナサン、どうしたんですか、」
「昔から、僕が大切にしていたものはずっと、奪われてきてしまったから。たまには欲張って、君の言う通り素直に欲しがってみるのも良いかもしれないね」

かちり、と硬質な音を立てて、ソーサーごとカップがテーブルに置かれる。
カップを置いたジョナサンの手は、つい、と伸びて、わたしの手に触れた。

「ねえ、なまえ?」
「あ、」

ゆるやかに、穏やかに弧を描いた形良い厚い唇が、わたしの名前を呼ぶ。
落ち着いた優しげな声があまりにも陶然と鼓膜を震わせるものだから、迷子になってしまったかのようにわたしは途方にくれて言葉を飲み込む。

「どうしたんだい、なまえ」
「い、いえ、なにも、」

自分の意思とは関係なく、触れられた手をはじめ、頬や耳がじわりじわりと熱を持つのを、まるでわたしは他人事のように知覚していた。
何も持っていないわたしの手が、指先が、何かを探すように、ほんの僅かにふるえた。

先程まで安寧に立ちのぼっていた湯気は、まるで空気中に溶けてしまったその行く先のように、立ちのぼることすら放棄して存在を消している。
空のカップは、もう冷たくなってしまっただろうか。
その温度を触れて確かめることは出来ない、わたしの手はふるえるだけで、そこまで至ることが出来ない。

「なまえ?」
「え、……あ、」

視線が取りとめもなく、カップの中の紅茶のように、ゆらゆらと泳ぐ。
どうするべきなのか、なにを言うべきなのか。
やり場を失った言葉と熱が、体中をぐるぐる巡って揺れて、わたしの手を取る彼の体温のようにはっきりとその存在を主張している。
逃げ口を探してさまようわたしの視線を掬い上げ奪うように、やわらかく穏やかに弧を描く唇が、また、わたしの名前を呼んだ。

break off the mistletoe
(2015.02.11)
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