「麗華、どうしてこんなところまで……」
「いいから着いてきて。そう時間は取らないつもりよ」
勇は戸惑いながら、なんの迷いもなくすたすたと前を行く麗華に遅れまいと、その華奢な背を追躡した。
浜江省の哈爾濱は、熱河以東であるため日が暮れるのが早い。
降りみ降らずみの雪は、夜闇が濃くなるにつれ勢いを増してきた。
吐く息は白々と立ち上り、ガス燈に照らされた往来、道行く人々の足もこころなしか急いているように見える。
商業施設の立ち並ぶ近代的なキタイスカヤ通りで、なかんずく玉ねぎに似た形のクーポラは目立っていたが、しかし奇抜なデザインにも関わらず、石造りの街並みにしっくりと馴染んでいるように感じられるのは、雪国特有のその形状こそが景観と共に郭大したためだろうか。
ソフィスカヤ寺院へ向かう道中、麗華は「ちょっと寄り道をするわ」と勇の腕を引いた。
「ここ哈爾濱に来たのには、もうひとつ理由があったの。――少し、私用の面も否めなかったから、皆には伝えてなかったけれど」
「“私用”?」
困惑も露わに、勇は麗華の言葉を繰り返した。
先を行く彼女の繊麗たる相形は赤いマフラーに遮られ、表情や腹積もりを窺うことは出来ない。
――省察するに、出会ってからずっと、彼女の描いた図に沿って動いてきた。
奉天から熱河、新京、そして哈爾濱と、場所も商売相手も転々としてきた。
その間、不測の事態や渋難に見舞われつつも、畢竟、麗華の考えの外を出たことは一度たりともない。
もしも彼女に出会わなければ、――この特徴的な玉ねぎ屋根も見ることも、生涯なかったに相違ない。
勇は固唾を呑み、ロシア正教会の聖堂を見上げた。
しかしながら麗華の「私用」とやら――そもそも、いまこのときばかりではない、彼女自身の「目的」や「意図」を自分はなにも知らないのだ。
彼女の個人的な都合に付き合わされるのは、もしかしたら初めてかもしれない。
彼女の紅唇によく似た薄い三日月の夜、「あなたも私と同じ」と語っていたのは、どこまで信じて良いのだろうか。
一言も発さず、彼女の後に着いて黙念と歩いていた勇は、深く考え込んでいた。
もしも麗華の「着いたわ」という声がなかったなら、彼女の背にぶつかってしまっていたかもしれない。
「ここは……」
目の前にはなんの変哲もない、門前雀羅を張る家屋。
中心部から離れれば平屋の民家らしき建物も広がっていることに驚く。
見慣れた建造物群は、やはりここは満州なのだと思い出させるには十分だった。
弱々しいライトに照らされた玄関は薄汚れ、看板を提げていない曖昧宿のようにも見えた。
目的がなければ素通りしてしまったに違いないほど存在感のない扉を、麗華は躊躇いなく叩いた。
「――なまえ、久しぶりね」
「り、麗華……?」
麗華が頭を覆っていたマフラーを外す。
その下の美貌を認めた途端、ドアの隙間から顔を恐る恐る覗かせていた女の顔が、困惑から歓喜へ、大層分かりやすく輝いた。
「麗華、久しぶり、まさかあなたがこんなところにいるなんて……」
「ちょっと哈爾濱まで用があったの。――早速で悪いけど、ひとつ確認させて。なまえ、ここにまで青幇の手は及んでないわね?」
「ええ、もちろん。今更ここも……わたしにも、目を付けられる理由もないし、母も数年前亡くなったし……。――ああ、ごめんなさい。こんなところで立ち話もなんだから、どうぞ上がって。狭いけれど」
「直接会うのは何年ぶりかしら」と頬をゆるめた女は、次いで麗華の半歩後ろにいた勇に気付くと、おずおず「どちらさまですか」と首を傾げた。
人見知りする性質なのだろうか、上目に見つめられ、勇はどぎまぎと「ええと、僕は、」と口ごもった。
麗華をはじめとして、朴念仁と自覚している己れですら我知らず浮き立ってしまうような女性たちと顔を合わせること頻々、しかし慣れることなど更々なかったし、また、彼女はそのどれとも違う美しさを持ったひとだった。
放っておくといつまでもそうして手をこまねいていそうな勇を見兼ねたか、麗華が薄く苦笑しながら頷いた。
「勇、彼女はなまえ。私の幼馴染みといっても良いわ」
「……は、はじめまして、なまえです。わたしの母が乳母として奉公していたので、幼い頃、麗華と一緒に育ったんです」
そう長い間ではなかったけれど、と目を伏せてなまえが微笑んだ。
――少しく悲しげな表情の意味を知らぬのは、この場にはひとりだけ。
知り及ぶべくもない男は、多少なりとも引っかかるものを感じながらも、ようやく「はじめまして」と挨拶を返した。
「日方勇です。――麗華とは、仕事で来たんだ」
「日方さんは……日本人よね。お仕事って? それに、どうしてふたりで哈爾濱まで……」
勇の実直なさまになまえもいくらか警戒を緩めたらしい、おどおどとした様相も幾分和らいでいた。
とはいえ依然、困惑も露わに首を傾げている彼女に、麗華は鷹揚に「ふたりではないの」と首を振った。
す、となまえへ手を伸ばす。
一切衆生を堕落へ誘うかのたおやかさで、麗華がなまえの手を握った。
――紅に彩られた形良い唇が、剣呑な弧を描く。
勇はその凄絶な笑みが今世に現れるとき、定めしひとの破滅が訪れるだろうことを既に知っていた。
「なまえ、いま、あなたは……特別区市政管理局にいる。東清――ソ連の中東鉄道利権譲渡のため、管理局は忙しいところよね?」
「え、ええ……確かに管理局で働いているわ。勿論、ただの末端の事務員だけど……。それに、中東鉄道を巡って、ソ連も特別市も混乱しているのも事実よ。……それがどうかしたの?」
「私達はまだこの街には不案内だわ。地区の成り立ちや大雑把な勢力図は知っている。だけど、私が欲しいのはそんなレベルの版図じゃないのよ。青幇とロシアンマフィア――そしてその隙間。哈爾濱におけるふたつの勢力――あなたには“地図”を引いてほしいの。なまえ、あなたなら可能だと私は思っている」
ぎゅ、と力強く握られた手を、なまえは静かに見下ろしていた。
「り、麗華、突然なにを、」と勇は声をあげた。
見るからに奸智とは程遠そうな女になにを、と狼狽える彼とは裏腹に、しかしなまえは「ええ、やってみるわ」と頷いた。
「女だから難しいことは分からないだろうって、わたしたち女性事務員たちへ対する監視は緩いの。局自体の機密はともかく、他の組織――麗華の求めている青幇やロシアンマフィアについての情報は、比較的得やすいと思うわ」
「決まりね。勇、なまえの家も拠点のひとつにしましょう」
「だ、大丈夫なのかい、なまえさん……」
「ええ、どうぞ日方さんもここにいる間は任せてください。……ふふ、なんたって、滅多にない麗華の“お願い”だもの。役に立てると思います」
自慢げに頬を紅潮させて頷いたなまえに、麗華も相好を崩した。
なまえを前に、いままで見てきたなかで一等やわらかな笑みを浮かべている麗華を見ていると、勇もまた面映い心地にならざるを得なかった。
(2021.09.09)