「笑い声が聞こえるんです」

そう語る女性は、ひどく面窶おもやつれしていた。
コーラルピンク色の口紅は顔色を明るく見せるはずだったが、いっそ化粧などせぬ方がマシだったと言わざるをえまい。
口唇が荒れ、ささくれができているせいでまだらに汚れて見えた。
肉の削ぎ落ちた頬には頬骨が高く浮かび、落ち窪んだ眼窩のせいで、骨に皮膚を薄く貼り付けたかの如き印象を受ける。
もしも夜中、ふいに出くわそうものなら、本人よりもこちらの方がおどかされたに違いない。

不健康そうな顔色に相応の、濁った瞳がおもねるようになまえを見上げた。

「夜、寝てるときに、笑い声が聞こえるんです」

それはもう聞きました、とは言いづらい雰囲気だった。
返答に困ったなまえは「……笑い声、ですか」と所在なげに頷いた。
端からなまえの反応など求めていないのだろう、意に介した様子もなく、憔悴しきった顔で女性は言葉を続けた。
自分の中でも上手く整理できておらず、理解の範疇を超えた混乱に思考も奪われているとみえ、主語と述語も整っていない口調は一本調子で、どこか危うい。

「笑うんです。みんな。夜、寝てると笑い声が聞こえて目が覚めるんです。男か、女か、子どもか、老人か、わかんないんですけど、いろんなひとがいっぺんに、あはは、あははって笑い出すんです。普通、息継ぎするじゃないですか? それもなくて、ずっとおかしそうにお腹から声を出すみたいな大声で、あはは、あははって笑ってるんです。どこから聞こえてくるか? いえ、私も分からなくて。耳元で聞こえるような気もするし、部屋の天井とか床とか壁とかからいっぺんに音が出てるような感じもするし、でもたくさんのひとの笑い声ってことだけは確かなんです。部屋中から笑い声がして、耳が痛いくらいうわうわんって響いて、それがずっと続いてると、だんだん笑ってるんだか、泣いてるんだか、わからなくなってくるんです」

部屋中に反響して、うわんうわん……。
口のなかで、己れの吐いた言葉の感触を確かめるように、彼女は小さく繰り返した。

「それで、耳が破裂しそうになって、怖くて、気が遠くなったときに、――グッと足首を掴まれるんです」

驚くほど低い声だった。
彼女はちらりと下肢へ視線をやった。
ストッキングも靴下も履いていない素足には、本人の発言に違わず、握られたような指の痕がぐるりとついている。
どう見ても人間の手によるものだった。

「彼氏に相談しても、偶然痣が手の形っぽく見えるんだろうとか、寝ぼけて自分で握ったんだろうとか、全然取り合ってくれなくて。でも私はそんな覚えないし、……それに普通、自分で握ったんだったら、手形ってこういう向きにつくはずじゃないですか?」

こう、と両の手を胸の高さまで持ち上げ、女性は同意を求めるように揺らした。
服の長袖がずるりと下がり、痩せて骨ばった手首を露わにした。

もし仮に自らの足首を掴む場合、体を折り畳み、親指が内側に入るように握るだろう。
しかし痣を注視すれば、なるほど彼女の主張通り、肌にくっきりと刻まれた指の痕は、人差し指が上、小指側が下である。
他人に握られなければこのような手の痕はつくまい。

「毎晩毎晩こんなのが続いて、眠れなくて。笑い声だけじゃなくて、うつらうつらすると、足首をグッと引っ張られるような気がして、それも怖くて。何度訴えても信じてもらえなくて、彼氏にはうざったがられてしまいました」

自嘲、あるいは侮蔑めいた笑いが口の端に浮かぶ。
それ以上の言及はなかったが、大方、鬱陶しがられ、恋人とは疎遠になったらしい。

――本来ならば補助監督が聞き取り等の初動対応、調査を行い、呪いの仕業だと判断された場合、高専を通して呪術師へ対応の要請が入る。
被害の大きさにより、四級相当、三級相当と割り振られ、同等級の術師が任務に当たる。
つまり被害が起こってから初めて、対処がなされるのが常である。
被害――端的に言えば、人死ひとしにだ。
そういった意味では、呪術界における呪いへの 干與 コミットメントは、警察のストーカー被害の対応に似寄ろう。
実際の被害が出ていないのだから逮捕や拘束等の直接的な対処は出来ない、そう返され、取り返しの付かぬ事態に陥る陰惨なニュースが流れるたび、遅きに失した対応、その杜撰さに非難の声があがること頻々。
――とまれ、呪術師の数に対し、呪いにより起こる事件が過多であることがなによりの素因ではあるものの、しかしなまえのような一介の術師風情が、現下の世俗を憂えてなんになるだろう。

今回、人的被害が出ていないにも関わらず、なまえが女性と対面することになったのは、術師どころか補助監督の手が足りなかったためである。
東北地方での任務を終え、高専へ戻る道中。
降車する東京駅までひと眠りしようかと考えていたなまえに、白羽の矢が立った。
うつらうつらしている彼女を容赦なく起こしたのは、携帯電話の着信音だった。
もう四十分もすれば東京駅へ到着というところで、聞き取り調査を命じられ、東北新幹線の駅のひとつ、■■市の■■駅にて途中下車を余儀なくされた。
任務概要には、申し訳程度に「補助監督は後ほど合流する」と追記されてはいたが、要するに、ひとりで道すがらついでに・・・・片付けてこいということだ。
調査、報告は言うまでもなく、必要であれば祓除ばつじょまでが任務である。

――二年生になり、術師としての等級を二級へ上げたなまえは、単独で任務に当たることが増えた。
慢性的に人員不足の界隈、学生の本分は学業にあるなどという世迷い言は、高専の学生には当てはまらない。
二度三度と術師が出向くより効率が良いと理解しているが、それにしても人使いが荒い、となまえは嘆息した。

とまれかくまれ、いまは目の前の女性を救うことを考えなければ。
逸れる思考を払うようにかぶりを振り、なまえは躊躇いがちに「ええと、三江さん、」と口を開いた。

「……その笑い声が聞こえ始めたのと、足首が掴まれるようになったのは、同じタイミングですか?」
「はい。どっちも二か月前からです」

三江有希子と名乗った女性は二十代後半。
大学に通うため、僻遠へきえんから■■市へ引っ越し、そのまま就職、以来ずっと一人暮らしをしているという。
物価も地価も比較的安価であるわりに、東京まで四十分ほどという立地を存外気に入り、大学の友人も近辺に多いとあって、いまのところ地元へ戻ることは考えていないと話していた。

■■駅から徒歩五分ほどの、十二階建て住居マンション――三江の住む九〇七号室は、カーテンを開けて陽光を取り込み、かつ電気をつけているにも関わらず、薄暗い印象を受けた。
本来はきれい好きらしく、戸棚には大小の収納ボックスが並び、整頓していた形跡が見られる。
家具等、部屋全体の色味を揃えているためか雑多な印象は薄いものの、しかしながら現在は中途半端に引き出しは開き、レシートや丸まったティッシュが散乱し、塊になったほこりや抜け毛といった細々したゴミが部屋の隅に溜まっていた。

「二か月前、なにか普段と違うことをしましたか」というなまえの問いに対し、なにがきっかけだったのか三江も煩慮していたらしい、即座に「実家へ帰省しました」と答えた。

「帰省した際に、なにか……心当たりはありますか? ご友人と心霊スポットに行ったとか……どなたかお亡くなりになったとか」
「いえ、思い当たることはないです。帰省も、いままで二、三か月に一度は普通にしてましたから」
「笑い声が聞こえるのは夜だけですか?」
「え? ああ、はい……寝てるときなんで、もしかしたら昼寝したら昼もなるかもしれないんですけど……」

怖くてよく眠れなくて、と三江は己れの顔を、苦笑というには疲れ切った形に不器用に歪めた。
その傍らには、矮小な異形がかくれんぼをするように彼女の背後から現れたり隠れたりしていた。
四つ足の異形は顔面が大きく、手足が異様に短い。
術式も使わず、単純に呪力をぶつけてなまえが祓うと、ギィ、と鈍い叫喚と共に、人間の頭蓋大の呪霊は呆気なく消えた。
――マンションに足を踏み入れたときから気掛かりだったが、妙に蝿頭が多い。
部屋は勿論、エレベーターや一階の集合ポストといった共用部にも散在していた。
三江がやつれているのはこれが理由だろう。
事前の報告には記載されていなかったが、あるいは他の住人にも影響があってもおかしくない。
学校や病院といった呪いが溜まりやすい場所は近隣には見受けられぬものの、過去になんらかの土地の関わりを有しているかもしれない。
不動産の登記記録にまで当たる場合、改めて補助監督に協力を仰がねばならない。

蝿頭の多さが関係するか否かは不明瞭だが、しかしなまえは、三江有希子のいう「笑い声」の原因は他にあると考えていた。
なまえが蝿頭を祓おうとも、三江は存在を感知していなかった。
あまつさえ四級にも満たぬ蝿頭ごときが、夜な夜な非術師の五感に影響を与えるほどの現象を起こせるとも思えない。
なまえは補助監督へ尋ねること、依頼することを概括しつつ頷いた。

「分かりました。ご迷惑でなければ、今晩はわたしがこの部屋に宿泊しても良いですか? もしその笑い声というものが聞こえなかったら、部屋が原因ではないということになります。急ですが、一泊だけ、三江さんを泊めてくれるご友人はお近くにいますか? ホテルでも構いません」
「え、ええ、はい、たぶん大丈夫です」
「貴重品とか、大事なものは置いていかないでくださいね。もし破損したり紛失したりしても、わたしは責任を取れないので」

はい、と三江は殊勝げに頷いた。
やつれた顔貌は、どこかほっとしたように眉間のしわを解いている。

「ありがとうございます、信じてもらえるんですね……。友達に相談しても、本気にしてもらなくて」

学生の頃ならともかく、この年齢になって霊感系のかまってちゃんはきついよね、って。
うつむき、自嘲というには苦々しさの勝る語調で、三江は呟いた。


(2021.03.02)
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