どんな気分だろうか、と思った。

夏油傑が初めて、なまえの呪霊蠱術こじゅつを目の当たりにしたときのことだ。
天与呪縛が平明な例だが、呪力に関すること、こと生得術式においては、本人をはじめ周囲の気質や努力、意思や願望など、ニル・アドミラリに軽んじられてはばからない。
無論「相伝」という名が示すように、血筋や出自にも裨益するところは大いにある。
とはいえ無下限呪術と六眼を併せ持った同輩の男の存在が極めて稀有なのであって、相伝の術式が発現するか否かは、御三家を筆頭にどれだけの名家に生まれようとも、あくまで「確率が高い」程度のことである。
強い術式を求めて同族内で連綿と繰り返される営みは、その枠組みの外からは交配じみていびつと言わざるをえない。
高専に入学してから初めて、己れの呪霊操術は格式高いものだと夏油は知ったが、少なくとも彼の両親は、呪いを祓うどころか視認も出来ぬ非術師である。
そして手数の多さが必ずしもストレートに強さを示す訳ではないと彼が気付かされたのは、数少ない同級生のひとりが「呪霊蠱術こじゅつ」を使う術師だったからだ。
古来、同類を共喰いさせるという非人道さにより、悪名高い「巫蠱ふこ」。
歴史的に忌まれて久しい呪術でもある。

――しかし、そのとき夏油を呆然たらしめた最たる要因は、なまえの微笑だった。
呪術に纏わることを体系立てて修習し始めたばかりの一年生の頃。
暑い夏の下午かごだった。
初めてふたりで組んだ任務にて目の当たりにした、使役する呪霊を治めるさま。
低級とはいえ複数の呪霊を相手取った戦闘は、一方ひとかたならぬ緊張具合のなまえの様子が印象的だったわりに、結果を見ればふたりの圧勝だった。

同種同士で呪い合い、殺し合い、喰い合い、一体だけ残った呪霊は、半死半生といった有り様で――呪いに対しその表現は似付かわしくないだろうが――、ムカデに似たグロテスクな多足をざわざわとうごめかせ、縋るようになまえの前にかしずいた。
眼前へ跪拝きはいする醜い呪霊。
最前までの怯えた表情はどこへやら、能事足れりと見下ろしたなまえの横顔は居丈高ですらあった。
ライト・バーカーの『キルケ』を彷彿とさせる、?ろうたけた微笑。
彼女のよみするような笑みを受け、満身創痍の呪霊は跡形もなくすっと消えた。
あたかも微笑という褒美を与えられ、悪辣な畜生が満足したかのよう。
夏の濃い雲より更に白い頬が、酷薄な丸みを帯びていた。
目を奪われるなという方が酷ではないか。
控えめでおっとりとしていながら、どこかなまめかしい眼差しが、ゆるやかに夏油を射抜く。
その段になって、なまえの面貌を魂を抜かれたようにじっと注視していたことに、ようやく彼は気が付いたのだ。

夏油は、彼女の巫蠱ふこに用いられなかった残りの呪霊を降伏し、平生通り取り込んだ。
何食わぬ顔で「怪我はなかった?」となまえへ問いかけたとき、自分がまともに笑みを浮かべることが出来ているか、夏油は自信がなかった。

死後呪いに転じることを防ぐため、術師を殺す際は呪力をもってして命を絶たねばならぬと授業にて学んだが、己れが敢えなくなる際、取り込んだ呪霊がどうなるのか、彼にも、高専の浩瀚こうかんな史料に当たっても、判然としなかった。
言うまでもなくそんな予定も願望も皆無ではあるものの、し道半ばで殉ずるようなことがあったなら、――あの呪霊のように彼女に平伏し、使役されるならば、己れのやってきたことも無駄にはならないのではないか。

――事程左様に、淡々と夏油傑が語り終えると、隣席の男が「で、おしゃべりはおしまい?」と首を傾げた。
動作に合わせ、やわらかそうな白い髪が揺れる。
新幹線で一時間程度の道程、暇潰しの話題には向かなかったと見える。
五条が心底胡乱な表情で嘆息した。

「それさぁ、なに? 一年のとき、傑がなまえに一目惚れしたって話?」
「……目は良いけど耳が悪いんだな、君」
「ハア? 誰に向かって言ってんだお前」

その長身に相応以上の長い脚を、嫌味たらしいほど窮屈そうに折りたたみ、五条は座席へ深く腰掛けた。
他人の長話に、彼が常になく大人しく付き合ってやっていたのは、紛れもなくこれが「恋バナ」と呼ばれるジャンルのネタだったからに他ならない。

二日前から連絡が途絶していた冥冥一級術師と庵歌姫二級術師の救出に、静岡県まで一年生四名で派遣された。
なにしろ一級、二級の術師が揃って音信不通となれば、ただ事ではない。
負傷している可能性を鑑み、危険な任務へ直接赴くことの少ない家入も同行していた。
結果的に怪我もなく無事だった彼女たちと共に、新幹線で東京駅へ戻る道中でのことだ。
庵の「五条の近くにいると、他のお客さんに迷惑をかけるから」云々、座に堪えぬとの主張に従い、男女別れて座席を確保した。
そもそも行きの新幹線でも、五条と夏油、家入となまえという組み合わせで乗車していたため、今更ではあったが。
平日の昼過ぎの時間帯とあってか、他に乗客は少ない。

「はじめは似てるなとは思っていたけど、なまえの術式は私とまったく違うものだ。いまは彼女のことは良い仲間だと思ってるよ。いい加減、体術はもう少し成長してほしいけど」
「で、鍛錬に付き合ってやってるうちに、いつの間にか甘酸っぱい恋心になっちゃったーと」
「違う」

夏油と同じく一般家庭出身のなまえは、高専に入学するまで、まともに呪霊を使役することも、トレーニングに励むこともなかったという。
余儀ないこととはいえ、式神使いの傾向に漏れず、近接戦闘の能力は下の下である。
二年時ともなればさすがに同年代の一般人レベルを脱しはしたものの、やはり能力をパラメータ化したとき体術の低さが目立つのは否めない。
教師のみならず同輩たちからも「呪詛師や悪知恵のついた呪霊なら、間違いなく近接を狙ってくるぞ」と忠告され、彼女も努力はしている。
四人しかいない同級生のうち、ひとりは治療に特化、ひとりはやる気がない場合組み手どころか攻撃をすべて術式で弾いてしまうとなると、自ずとなまえの訓練は夏油が多く相手をすることになっていた。
――家入曰く、滅多に怪我をしない五条や夏油と違い、大小問わず生傷の絶えぬなまえは、格好の練習台らしいが。
その鈍臭さは任務のときには発揮してくれるなよと夏油が暗々裏唱えているのは、秘密ではあった。
しばしば「無意識に煽っている」と口さがなく非難される彼といえども、さすがに口にすべきではないと理解している。
これから三年、あるいはそれ以降も――なにしろ狭隘な呪術界のことだ、関わらずにいるというのは難しいだろう――同期の心象を損ねて有益なことなどひとつとしてない。
術師としての興味なのか、異性としての思慕なのかと問われれば、間違いなく前者だ。

「だーかーら、要は、なまえのこと特別視してるってことでしょ?」
「いや、悟、私の話聞いてたか?」

夏油は眉をひそめ、意思疎通の困難具合を訴えるように親友の顔をじっとりと睨んだ。
恥ずかしげもなく、恋心だの特別視だの、ただの一同期にそう思われること自体、年頃の娘には不快と断じられても仕方ないことだろうに。
なまえに限って、面と向かって不快だと自己主張することはないだろうが。
温容おんような女子生徒だ。
纏う雰囲気は穏やかで、庇護欲無きをえないならば、それを掻き立てる眼差しをしていた。
――その認識を否応なしに掻き乱したのが、昨夏の下午かごである。

あの初任務では、指導という名目でふたりの担任教師も同行していた。
「俺は手を出さないからふたりでやってみろ」という言の通り、夜蛾は離れたところでけみするように不動だった。
一年生の初任務にしては荒っぽいことだったと、いまなら思う。
呪術界の有象無象を多少なりとも知り及ぶようになり、あれは一種の実験・・だったのではないかと、夏油は認識していた。
呪霊を使役するという点において相似関係にある、「呪霊操術」と「呪霊蠱術こじゅつ」の相性を計らんとする実験。
あれで情の厚い夜蛾のことだ、彼自身の考えではあるまい。
大方、高専上層部の意向に従わざるを得なかっただろうことは想像に難くない。
結果が上層部にとって禍福どちらだったのか、夏油が知ったことではないが。
――少なくとも、夏油傑となまえ、術式の相性としては畢竟、最悪・・である。
なにしろ、片や祓い、取り込み、手数を増やす呪霊操術。
片や共喰いを強要し、一体のみ・・・・を残す呪霊蠱術こじゅつ
夏油かなまえかどちらかが譲らねば、祓除ばつじょもままならぬとあっては、最悪と称するにしくはない。
実際、昨年の夏以降、ふたりだけで同じ任務に就くよう指示されることはなかった。

「俺、同級生と恋バナするの初めてだけど、あんま面白いものでもないね。相手がなまえなのが原因かな。傑、シュミ悪くね?」
「さすがに彼女に失礼すぎるだろ。それに面白くなくて結構。誤解だって何度言ったら分かってもらえるんだ……」
「んー、まだ冥さんの方が分かるわ。きれいだし強いし」
「恐ろしいこと言わないでくれ」
「それはそうだけど」

悟のそれは「強いから格好いい」っていう小学生男子みたいな感覚じゃないか、と夏油が顔をしかめて指摘しようとしたところで、俎上そじょうに載せられていたなまえたちが、小さく声をあげた。
家入がなにかけしからぬことを口にし、なまえが声を荒げて反論――というには愛らしさの勝る顔で、なにか言い募っている。
まるい頬が赤らみ、不満を訴えるように膨らんでいた。
不貞腐れたように唇をとがらせたなまえを、庵がまあまあとなだめている。
とはいえ庵の表情はにこにこと破顔しており、あれでは説得力もなにもあるまい。
なんの話題であれほど盛り上がっているのやら。
静岡駅に到着するなり、颯爽と「私は別件があるから失礼させてもらうよ。引率は必要ないね?」と立ち去ってしまった冥冥を除き、なまえたち三人が身を寄せてはしゃいでいる様子は、一介の女子生徒となんら変わらない。
彼女たちの他愛ないやりとりは牧歌的ですらある。

「……ゲェ、まさか見惚れてんの? すっげぇ間抜けヅラしてるよー傑クン」
「やっぱり耳だけじゃなくて目も悪いみたいだね、悟クンは」

片眉を跳ね上げ、喧嘩なら買うぞと応じる夏油に、しかし五条は平生のようには乗ってやらなかった。
不平を鳴らすように「自覚してねぇヤツよりマシだわ」と呟いた。
頭の後ろで腕を組み、だらりとシートにもたれかかる。

五条はちらりと親友の横顔へ視線を走らせた。
表情ばかりは平生通り涼しいものだが、――妙な熱に侵されたかの如き黒い双眸を、さていつまで知らぬ存ぜぬと通すことが出来るのやら。
元来、他人の機微に聡い訳ではない。
他者へおもねることも顔色を伺うことも、己れの行動の選択肢にそもそも存在していないのだから、致し方ない話だ。
そんな性分であるにも関わらず、しかし五条の数少ない――否、唯一の親友、己れと肩を並べることが出来る稀有な男、家柄やら血筋やらといった、生来強固に縛り付けられてきたしがらみから離れたところで、心を交わしたともがらの恋路である。
興味を持つなという方が愚かだろう。
対象が、自分のシュミからは思い切り外れたところにいるなまえであることは想像の埒外らちがいではあったが。
身に刻まれた生得術式はともかく、近接戦闘では彼に足元どころか伸びる影にすら及ばないほど酷い有り様の女子生徒である。
大人しく、素直な本人の気質とは裏腹に、悪名高い「呪霊蠱術こじゅつ」を使うなまえという同期。
――そつなく品行方正然としているかと思えば、その実喧嘩っ早く、冷静な現実主義者かと思いきや、方図がない綺麗事を並べてはばからない夏油傑という男には、案外お似合いなのかもしれなかった。
うんうんと大仰に頷き、五条はにんまり笑んだ。

「仕方ないから協力してやってもいいよ、傑」
「ハイハイどうもありがとう、悟」

どうやら彼の言うところの「誤解」を解くのは諦めたらしい。
心にもない謝辞を述べながら、夏油は座席テーブルに放っていたゴミを集めた。
丁度、新幹線が東京駅に着くところだった。
ほとんどの乗客も降車の準備をしている。

高専へ戻り、五条と夏油に「“星漿体”の少女の護衛と抹消」の任を与えられたのは、この翌日のことだった。


(2021.02.20)
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