いいなあ、と思った。

なまえが初めて、夏油傑の呪霊操術を目の当たりにしたときのことだ。
生得術式は千差万別、「術師の数だけ術式がある」とまでいわれるものの、なかんずく呪霊操術は事例が少なく、取り込めば取り込むだけ戦力を増やすことの出来る無限に等しき力がゆえに、彼のそれは同輩の男と共に「最強」という驕傲きょうごうな称賛の一翼を担うに申し分のない力だった。
 常住 じょうじゅう人員不足である呪術界では、呪いを祓うという繰り返しに傾注すること累日、ただでさえ「呪い」そのもの、術式そのものの究理は遅々として進まず、不明瞭な点も多い。
式神使いや、被呪者による犠牲と 誘因 インセンティブではなく、呪霊操術における術師と呪霊は、明確な主従関係に基づいている。
稀有な力だ。
いわんや術式のみならず、取り込んだ膨大な量の呪霊を把握、適宜使役しうる聡慧さも、彼の精華の一片である。

――しかし、そのときなまえを呆然たらしめた最たる要因は、夏油の立ち姿だった。
まだ互いのこともさして知りえぬ初々しい一年生の頃。
暑い夏の下午かごだった。
初めてふたりで組んだ任務にて目の当たりにした、降伏した呪霊を取り込むさま。
咽頭を開くように仰いだ横顔、僅かにしかめた眉、すがめた目の下の皺、一瞬強張る肩と肘、嚥下に合わせ大仰に上下する喉、涼しげな様相とは裏腹に、伝い落ちる一筋の汗。
夏の濃い影より更に黒い髪が、薄い頬のラインに沿うように頬に張り付いていた。
目を奪われるなという方が酷ではないか。
思慮深く穏やかでありながら、どこか影の差す鋭い眼差しが、ゆっくりとなまえを射抜く。
その段になって、夏油の一連の動作を夢うつつにぼうっと熟視していたことに、ようやく彼女は気が付いたのだ。

何食わぬ顔でなまえは「お疲れさま」と声をかけようとした。
しかしながら、平生と変わらぬ笑みで「怪我はなかった?」と問い、大儀そうに背を伸ばす、夏油の男性らしい体躯の曲線があまりにも目にさやかだったものだから、呪術師としての彼女が「ああ、生きて彼と共に強くなりたい」と胸の内で声をあげたゆえに叶わなかった。
同時に、人間としてのなまえは「このひとのために死にたい」と浅ましい嬌声をこぼしていた。

死後呪いに転じることを防ぐため、術師を殺す際は呪力をもってして命を絶たねばならない。
そもそもそれ以前に、呪いとの戦闘において殉じる方が余程想像しうる未来だが。
ひるがえせばもしも自らの死を選び取ることが出来たなら、――自分も嚥下してほしい・・・・・・・・・・と望むのは、道理というものではないか。

――このようなことを、家入硝子へぽつぽつと語り聞かせていたなまえは、長話を終え、ふう、と息をついた。
あくまであらましを掻い摘んだ程度。
事程左様に持って回ったような迂遠な物言いにも関わらず、家入は肯定も否定もすることなく、なまえの胡乱な問わず語りに付き合ってやっていた。
いつものように口の端で煙草をくゆらせながら。

ほんの一時間ほど前、同級生男子たちの喧嘩を発端に起こった校舎損壊事件により、家入たち女子ふたりは、別棟で自習を言い付けられていた。
彼女たちのいる別棟の三階は、普段人通りもない。
教師もお目付役も不在となれば生真面目に勉学に励むはずもなく、ふたり揃って窓から外を眺めていた。
彼女の力の特性も多少なりとも関係しているのだろうか、家入硝子は不穏な気配を察知するのに長けていた。
同級生男子のやりとりをぐずぐずと傍観している間に、我知らず巻き込まれてしまうなまえとは違って。
今回は、水端みずはな「なまえ、行くよ」と声をかけてくれた彼女のおかげで被害をこうむることも、当事者の一端としてお叱りに付き合わされることもなく、なまえもこうして平穏という恩恵にあずかっていた。

顎の辺りで切り揃えられた家入の髪が無遠慮な風に揺れるのを見ながら、なまえはしめくくりに「自分でもどうしたいのか、まだよく分からないんだけど」と呟いた。
曖昧な語調にたがわず、その表情はどこか自信なげに陰っている。
ひるがえって、家入は「しっかりイカレてんな」と口角を笑みの形に歪めた。
ぶわりと紫煙を吐き出す。

「ま、呪術師なんて全員どっかしらイカれてんだから、なまえもそんくらいで丁度いいんじゃね。言ってることはキメェ変態と大して変わんないけど」
「さすがにそこまで言われると、ちょっとショック受けるよ」
「自覚ないタイプの変態だったか」

頬を膨らませ「硝子!」と抗議の声をあげるも、煙草をその細い指に挟んだ家入は「ははっ」と笑うばかり。
同級生男子の所業の数々が之繞しんにゅうを掛けて破天荒であるためあまり目立ちはしないものの、比較的、彼女も気まぐれに半畳を入れたりひとを揶揄して楽しむきらいがあった。

情けなく眉を下げたなまえの横顔を、家入は鷹揚に見つめた。
同性の目から見ても愛らしい顔立ちをしていると思う。
纏う雰囲気はやわらかく、庇護欲無きをえないならば、それを促す眼差しをしていた。
なまえという温容おんような女子生徒を一瞥して、悪名高き「巫蠱ふこ」を使う術師とは看破できまい。
他人に害をすなど到底考え付かぬとばかりに大人しそうな顔をして、この女も過不及なくイカレている・・・・・・のだと、家入は改めてなまえを眺めた。
曖昧な舌端ぜったんに隠された、潜む性根は紛れもなく「呪術師」であると。
――誰が考えようか、「同級生男子に喰われたい」などと。
いっそ性的なニュアンスを含むならば、思春期だの若気の至りだのとまだ笑い飛ばせようものを、なにしろ彼女のそれは文字通り「捕食」なのだから、始末に負えない。

なまえ本人曰く、彼女は夏油傑の「劣化版」だった。
取り込んだ呪霊すべてを自ら選択し、かつ同時に使役することの出来る「呪霊操術」と比べれば、なまえの使う「呪霊蠱術こじゅつ」は格の劣る術式である。
古くは「巫蠱ふこ」とも呼ばれたそれは、数多の呪霊を互いに争わせ、喰わせ合い、残った最も強い一体だけを使役するもの。
似て非なる生得術式に、以前からなまえが同級生に対し引け目を感じていたのを、家入は知っていた。
それがどうしたことか。
まさか感情がそちら・・・に転ぶとは。

「にしても同級生と恋バナっていうには、胃もたれしそうなネタだけどね」
「ええと、恋バナっていうか……まだ好きとかそういうのはないんだけど」
「そこまで言って無自覚とかマジでタチ悪いから、せめて自覚しな。もっと可愛いもんだったらともかく」
「可愛い恋バナがしたいって願望が硝子にもあったんだねえ」
「その言い方、あれ・・みたいだからやめとけー、なまえ」

あれ、と家入の指さす方を見れば、ようやく説教が終わったらしい。
五条悟と夏油傑が連れ立って教員室から外へ出てくるところだった。
互いに罵りあいながらも、しかし相も変わらず仲の良い様子で笑っている。

「呪霊出すにしても教室ぶっ壊しちゃダメじゃん、傑」
「まるで全責任がこっちにあるような口ぶりだな。出させたのは誰だ」
「ハァ? ぶっ壊したのは傑なのに、なんで俺まで叱られなきゃなんねーっつう」
「全然反省してないだろ、悟」
「だって必要ねぇもん」

いまにも第二ラウンドが開始されかねない有り様を、窓からぼんやりと見下ろしていると、俎上そじょうに載せられていた彼がなまえたちに気付いた。
涼やかな目元を更に細めて同級生女子を仰ぎ見、夏油は苦笑しながら片腕を挙げた。
白いシャツを雑にまくり上げ、逞しい腕を惜しげもなく晒して。
その隣で五条が「俺たちがどやされてる間に、あいつらなにサボってんだ」と己れのことを気持ち良く棚に上げて、口をとがらせているのがうっすら聞こえた。

気怠げにひらひらと手を振り返してやる家入の隣、なまえはなんの反応も寄越さず、ただ静かに彼らを見下ろしていた。
独り言めいてぽつりと呟く。
意識しなければ気付かぬ程度、虫の羽音の如きささやかな声音で。

「……硝子」
「んー?」
「どうしよう、やっぱりわたし、変態かもしれない……」
「はは、なに考えてんのか分からないけど、せいぜいバレねーよう頑張れ」

バレたらバレたで面白そうだけど、と形良い唇が弧を描く。
彼女の笑みからは、己れに被害が及ばぬ限りは楽しませてもらおうという従容しょうようたる意図がはっきり透けて見えた。
なまえは内心忸怩じくじたる思いで、同輩たちから顔を背けた。
家入のように手を振り返すどころか夏油たちを無視してしまったことに遅れて思い当たり、気を悪くしなかっただろうか、と悔やむもどうすることも出来ない。
隣で未だ家入が、しょうがない奴だと言わんばかりに笑っている。

――逞しいあの腕で抱きすくめられ、息絶え、圧搾され、あの夏の日のように嚥下してもらえたなら。
さながら蠱毒こどくじみた、煮詰めた一滴ひとしずくの欲望。
なまえは熱っぽい目蓋を伏せた。
腹の底で渦を巻く欲望を、まさか馬鹿正直に吐露できるはずもあるまい?


(2021.01.25)
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