(※「ゆるしてなんかやらない」後の短編集)




「……え、わたしたち付き合ってたの?」

ぱちぱち、という音が実際に聞こえそうなほど、大仰になまえがまばたきした。
――私には分かる。
これはなまえが本気で驚いているときの顔だ。
まさか本当に意思疎通が取れていなかったのかと、頭痛に襲われた気がして私は思わず額を押さえた。

「……待ってくれ、齟齬が酷い。大体、あのとき君が言ったんだろう」
「あのときって……ああ、"片思いしてた"って告白はしたけど、別にイエスとかノーとか返事はもらってないし」

普通にフラれたと思ってた、と目を丸くしているなまえに、はあ、と溜め息をつく。

「……馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたけど、まさかここまでとは」
「馬鹿って言う方が馬鹿なんですー。大体、夏油くんがちゃんと返事していないのが悪いんじゃないの」
「はいはい、悪かったよ、なまえ」
「今更謝らなくて結構です。これでも一丁前に傷付いてたんだからね。まあ、もう立ち直って、失恋の傷も癒えて吹っ切れたけど。過去の恋なんて! とっくに!」

ふてくされたように頬を膨らませ、なまえは顔を背けた。
どうやら私は随分と彼女を拗ねさせてしまっていたらしい。
とはいえこちらも、溜め息のひとつくらい吐かざるをえない。
恋人らしいことなんてなにも要求してこない、それどころか唯一の接触といえば、それこそ手と手を繋いだあのとき以来なにもないなまえに、私の方が焦れて水を向けたところ、まさかの「交際していると思っていたのはこちらだけ」という事実が判明しては。

苦笑しながら、「なまえ、こっちを向いてくれないか」と呼びかける。
駄目押しで手を取れば、彼女はしぶしぶ振り向いた。

「じゃあ、なまえにはもう一度、私に惚れてもらわなきゃいけない訳だ」
「うわ、よくそんなこと臆面もなく言えるね」
「勝算はあるつもりさ」
「その涼しい顔、腹立たしい……」

手を握ったまま真っ直ぐ見つめれば、なまえは心底居心地悪げにうろうろと視線をさまよわせている。
ばつが悪そうにぽつりと呟いた。

「……夏油くんも言ってたじゃない、"つけこんでる自覚はあるんだね"って」
「好意を向けられてたこと自体は以前から嬉しかったよ。着いてきてくれて、そばにいて、いつの間にかこっちも好意を抱いたとしても、なんらおかしなことじゃないだろ?」

言いさし、握ったのと反対の手で紅潮した頬を撫でれば、なまえの細い肩がびくっと跳ねた。
あれだけ熱烈に、一心に、私を見つめ続けていてくれた姿はどこに行ったんだか。
いまのなまえは逃げ場を探すかのように俯いている。
どうやら「失恋の傷」とやらは、思いの外、彼女を臆病にさせてしまったらしい。
それでも健気に強がっているらしく、声だけは妙に明るかった――語尾の揺れをまったく隠せていなかったが。

「そんなこと言って。夏油くんともあろうひとが、まさかほだされちゃった?」
「そうとも言うかもね」
「……夏油くんは馬鹿だなあ」

馬鹿って言う方が馬鹿なんだろ、と言葉を返せば、逃げ続けていた視線が観念したようにとうとう私を見上げた。
なまえはくしゃりと顔を歪め、いまにも泣き出してしまいそうな表情で笑っていた。
泣くのを失敗した幼い子のような無防備さは、いままで見たなまえの表情のなかで、一等人間らしい・・・・・顔だった。

こわごわと伸ばされた手を握り引き、私はやっとなまえを、きつく、きつく抱き締めた。
恐らく彼女が想像しているよりも、私はなまえをかけがえのない、いとおしいひとだと思っていた。
それこそ一生、手放してやるつもりなどないくらいに。

「……そ、そんなに強くされると痛いんだけど、夏油くん」
「私もあのとき痛かったよ。君、結構力が強かったんだなって驚いた」
「わたしだって指が折れるかと思った!」



「菜々子、なにして……」
「しーっ」

菜々子が口元で人差し指を立てる。
悪戯っ子の笑みで「美々子、静かにっ」と囁いた。

同じ顔なのに、表情やしゃべり方でまったく違ったもののように見えるのが小さな頃から不思議だったけど、こういうときには特にそう思う。
生まれる前から一緒の姉妹に手招かれるままに、ひょこ、と顔を覗かせてみる。
菜々子はソファに屈み込んでいた。
背もたれからはみ出た頭で分かってはいたけど、案の定、夏油様となまえがふたり並んで座っていた。
お互いにもたれかかって、揃って眠っているらしい。

「ふたりが寝てるんだから邪魔しないでよ」と文句を言おうとしたところで、菜々子が妙にはしゃいでいる理由はすぐに分かった。
夏油様となまえは寄り添って眠っているから、お互いの髪が重なっていた。
その黒髪がみつあみに――それもご丁寧に、編み込みで結んであった。
どうやら寝てる間に菜々子がやったらしい。
ふたりとも私と同じ黒髪なのに、こうして交互に編み込まれていると、それぞれの艶ややわらかさの違いがよく分かる。

寝ているふたりの髪を、勝手に結ぶなんて。
菜々子の耳元へ口を寄せて、こっそり囁く。

「……夏油様たち、起きたとき驚くんじゃない」
「なまえなら絶対喜ぶよ」

そりゃまあそうだろう。
初めて会ったときからとらえどころがないと思っていたけど、夏油様のことが好きってことだけははっきりしてるひとだ。
私たちより。
まともな「家族」というものを知らない私たちにとって、夏油様と共にずっと面倒を見てくれたなまえは、母親みたいな、姉みたいな、親友みたいな、そんな存在だった。
夏油様と同じ感じで呼ぼうとしたら、本人から「くすぐったいから普通になまえって呼んで」と頼まれて以来、ずっと私たちは「なまえ」って呼んでいる。

そういえばいつぶりだろう、こうしてふたりの寝顔を見るのは。
昔は夜泣きする私たちのために一緒に寝てくれたこともあったけど、自分の部屋をもらってからというものそれもなくなった。
あのときは寝顔なんていくらでも見られたのに。
夜、目が覚めたときに、あの檻のなかじゃなくて、温かくてやわらかい布団に包まっていることを確認し、すぐ隣で菜々子やなまえが小さく寝息をたてているのを見て、涙があふれてしまったのも懐かしい。
すぐに起きて「怖い夢でも見た?」と頭を撫でてくれたなまえに、私は「ちがうの」と泣きじゃくることしか出来なかった。
あのときの安堵感は、たぶん誰にも分かってもらえやしないだろう。
ふたりを見下ろして、滅多にないほど優しい顔をしている菜々子以外には。

「うー……んん、あれ?」
「あ、おはよー」
「おはよ、なまえ」
「おはよう、菜々子ちゃん、美々子ちゃん……。あ、もうこんな時間だ。そろそろ晩ご飯の準備しようね」
「ねえなまえ、ふたりで昼寝してたの?」
「ん? えーとね、最初に夏油くんがひとりで寝てて、お隣お邪魔して……わたしも一緒に寝ちゃってたみたい」

そんなつもりなかったんだけど、と笑っているなまえが立ち上がろうとしたところで、ふと一旦停止した。
髪を引っ張られたとでも思ったのかもしれない。
ソファから立ち上がることも出来ずに、隣の夏油様の方へ顔を向け不思議そうにしている。
菜々子が親指をぐっと立てた。

「ふたり並んで寝てたから、髪、一緒に結んでみた」
「菜々子ちゃん、グッジョブ! 動けないのもちょっと首が痛いのも我慢できるよありがとう」

菜々子と同じように、ぐっと親指を立てたなまえ。
ほらね、と呆れたように笑っている菜々子に、私も笑い返した。


(おまけ)

「あ、夏油くんやっと起きた」
「……どういうなってるんだい、これ」
「ええとね、菜々子ちゃんが髪を結んでくれまして……わたしの髪と一緒に、編みこみに」
「あの子は手先が器用だからね」
「あ、ちょっと嬉しそう」
「それはそうと、どうやって解けばいいのかな」
「わたしも見えなくってどうなってるのか分かんないな! 仕方ないからもうちょっとここのままでいる?」
「ちょっとどころじゃなく嬉しそうだね、なまえは」
「ふふ、バレた? ていうかこれだけされて起きなかったって夏油くんすごいね。そんなに疲れてる?」
「どうせ君も寝てたんだろ。なんならいまからもっと疲れることするかい、なまえ」
「残念でした、美々子ちゃんたちと一緒に晩ご飯つくるって言ったからダメです」
「なまえ、ご飯できたよー、夏油様もう起きた?」
「ああもう、ほらあ、全部あの子たちに任せちゃったじゃない。片付けはわたしたちでやろうね……って、なに、どうしたの、目頭押さえて。本当に大丈夫?」
「いや、……結婚でもしようか、なまえ」
「まってまってまって」
「なになにプロポーズ!?」
「菜々子、うるさい」
「美々子だって覗き見してんじゃん!」
「えっ、あ、」
「うわなまえ、顔真っ赤ー」
「だ、だって、」
「それで? なまえ、私と違って君ならイエスかノーか、きちんと答えてくれるんだろ」
「えっ、根に持ってるこのひと……!」



わたしは頭を抱えた。
前門の虎後門の狼ならぬ、眼前の夏油くん、背後の菜々子ちゃん美々子ちゃんという逃げ場のない布陣に、火照りそうになる顔を押さえながら「そんなにこだわらなくても」と呻く。
ずっとわたしたちは押し問答をしていた――夏油くんの名前を呼ぶか否かと。

「なんでこんなことで詰まるんだ、君」
「だって、何年、夏油くんって呼んできたと思ってるの……。今更になってわざわざ変えるの、なんか落ち着かない」
「苗字を私のにするんだろ、名前で呼ぶのは当然だと思うが」

爽やかな笑顔のまま「さあ呼べ」とプレッシャーをかけてくる夏油くんは、逃がしてくれる気は更々ないらしい。
懸命に退路を探していると、背後で美々子ちゃんが「なまえ、往生際が悪い」と呟いた。

「そうだよなまえ! はやく呼んでって」
「菜々子ちゃんたち、なんでわたしの味方してくれないの!?」
「だって私ら夏油様と同意見だし」
「くっ」

万事休す、ここにわたしの味方はいない。
――名前くらいさっさと呼べば良いと、わたしも思う。
こうして悪足掻きを続けているせいで、ますます余計に呼びづらくなっていくのだと自覚もしている。

「……す、っ……うう……」
「ほらあと二文字じゃん! いけるってなまえ!」
「こらこら菜々子、そう急かしてやるものじゃないよ。なまえも頑張ってるんだから」
「この状況セッティングして、圧かけてきてる本人が言うことでもないよね」

とはいえ高専生の頃からずっと「夏油くん」と呼んできた身では妙に気恥ずかしくて、抵抗してしまうのも道理というものでは。
加えて、わたしばかりが彼のことを好きだと思っていたにも関わらず、どうやら彼もわたしのことを憎からず――それどころかしっかり好意を抱いてくれているらしいとここ数年でようやく理解したために、余計に面映ゆい心地がする。
「理解した」というより、「理解させられた」という方が正しいけれど。
名前を呼ぶよう要求してくるこの現状、改めてそのことを強く感じてしまって、ただ名前を呼ぶという行為のせいだけではない羞恥が否応なしに増してしまう。

頬だけではなく耳元や首まで熱い。
それどころかうっすら涙まで滲んできた。
とうとう腹をくくったわたしは、てのひらで顔を覆ったまま、指の隙間からちらりと彼を見上げた。

「……す、すぐる、さん……?」
「――っ」
「なに! なにその反応! 文句でもあんの!?」
「……いや、可愛いなと思って」
「なっ」
「正直、さん付けも要らないけど……これはこれで」
「なにがこれはこれでなんですかね」
「ねえ、なまえ。もう一度呼んでくれないか」
「無理」

顔を上げられない。
これほどの羞恥に襲われるのはいつ以来だろう。

「ねー美々子、これ私らお邪魔じゃね?」
「わかる」

ごゆっくりー、と立ち去っていった双子に「待って!」と呼びかけた気がするけれど、案の定スルーされた。
結果、揃って顔を赤らめたわたしたちふたりが取り残される。
ふたりで赤面しているこの状況、非常に居た堪れない。
自分で呼ばせたというのに、どうして夏油くんが――傑さん、が、照れているのか理解できない。

「……なまえ」
「なに」
「ずっと隣にいてくれ」
「……言われなくても」



「え、なまえもそっち・・・に行くの?」
「んー……役に立てるかどうかはともかく、一応、戦力にはなるからね。あとは、精神的動揺を誘えそうって打算かなあ」

なまえの言を受け、美々子が首を傾げた。

「精神的動揺?」
「そう。たぶん10年ぶりに同期と会えると思うんだ。とーっても強い同期に。そのひとの動揺を誘えたら、御の字だなあって。新宿か京都かどっちか選ぶくらいなら、高専で傑さんの露払いでもしてくるよ。この前の宣戦布告のときは、みんなと一緒に行けなかったし」

高専に行くのも久しぶり、と笑うなまえは、百鬼夜行――東京新宿と京都での同時襲撃において、どちらにも参加せず、夏油と同じく呪術高専東京校へ向かうという。
「傑さんひとりで充分だろうから、手の開いたわたしが新宿と京都、両方の状況を把握しておきたいしね」と良識めいた口調で並べる彼女に、心得顔でラルゥはにんまりと口角をゆるめた。

「んもう、そんな建前ばっかり。なまえちゃんってば傑ちゃんと離れたくないだけでしょ。分かっているのよ、私たち」
「ふふ、ラルゥは鋭いんだから。一応、どれも嘘じゃないんだよ。……それに、単身だと、学校の後輩と遊んでテンション上げてそうなんだもん、傑さん」

ストッパーにひとりくらい着いてても良いんじゃないかな、と言い訳するように肩をすくめたなまえは、並ぶ仲間たちの――家族の顔を見回し、微笑んだ。

「気を付けてね、みんな。帰ってきたらご飯なに食べるか考えておいてね」

彼らの脳裏に、いつだったか「みんないっぱい食べるから作り甲斐があるよ」と笑っていた彼女の笑顔がよぎった。
なまえはそのときと同じ顔をしていた。

「いってきます」とひらひらと振る彼女の左手の薬指で、細身の指輪がきらりと光る。
駆け寄り、夏油の隣へ並んだなまえたちの背を、彼らはいつまでも眺めていた。



「――アイツに協力する? それは夏油様の肉体を取り戻すために……って意味っしょ?」

吐き気がすると言わんばかりに菜々子が顔を歪めた。
その隣で、美々子も到底許容できないと鋭い視線でめ付けている。

12月の百鬼夜行にて夏油と共に死亡したなまえの遺体は、高専側によって専占され、解剖でもされたか――回収することは出来ず、彼らの元へ戻ってくることはなかった。
髪の一本たりとも、骨の一片たりとも――薬指で光っていた、指輪のひとつすらも。

来し方行く末、死んだ人間を思い出すことに、懐かしむことに、悔いることに、謬錯びゅうさくなどあるまい。
しかしながら、夏油傑という男の姿をした「なにか」が彼らの前に姿を見せてからというもの、彼女たちはこの濁世が至極地獄であるということを再認識した。
こんな――こんなこと・・・・・は、断じて受容すべくもない。

「あのひとと……なまえと、夏油様を一緒に眠らせてあげたいって思って、なにが悪いってんだよ」
「きっとなまえは、ひとりで寂しがってる」

憤怒、あるいは憎悪を圧搾して絞り出したかの如き声音は、未だ滲む血の色が可視できぬのが不可思議なほど。
暗く瞳をたぎらせた少女たちの視線を真正面から受け、眉をひそめた女性は「なまえのことは一旦置いておきなさい」とたしなめた。

「なまえの望みは、夏油様の望みよ。夏油様の遺志を継ぐの」
「うるさい、なまえの望みは、私たちと……夏油様と一緒にいることだったよ」


(2021.01.07)
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