「あ」
「あ」

わたしと悟はふたり揃って間抜けな声をあげた。
寮部屋のドアを中途半端に開けたまま、わたしは自分の不運を呪った。
……どうしてこうなった。

そもそもの発端は、借りたマンガを返すため、悟の部屋を訪れたことによる。
異性とはいえ、なにしろ誰かの部屋に集まってゲームをしたりだらだらしたりというのが日常茶飯事なものだから、今更男子の部屋にお邪魔することに抵抗も感慨なんてものもない。
相手が、数少ない同級生ともなれば尚のこと。
悟の所持するマンガを読んでいて、遅い時間になってもまだ没頭していたら、部屋の主に「お前んとこ持ってっていーからはやく出てけ任務明けで眠いんだよ」と追い出されたのが昨日のことである。

さっき一応「いまから部屋に行くね」とメールを送ったけれど、悟から返信はなかった。
もしかしたら不在かもしれない。
とはいえ折角着替えたし(といっても部屋着にパーカーを羽織っただけだけど)、もしいなかったら隣室の傑に預けるか、最悪、部屋の前にでも置いて断りを入れておけばいいか。
――なんてのんきに考えていたのが悪かったのか。

「悟、いるー?」

ノックしてノブをがちゃがちゃさせると、ドアはすんなり開いた。
不用心だなあと思いつつ、念のため「入るよー」と声をかける。
画一的な寮のワンルームなんて、誰の部屋でもだいたいの家具の配置は似通ってくるものだ。
ひょいと薄暗いなかへ入れば、見慣れたベッドに人影が。
なんだ、いるならちゃんと返事してよ。
文句を言うために開けた口は、けれど中途半端な形で歪むことになった。

悟は部屋にいた。
ただし、ベッドに腰掛けて、スウェットパンツを脱ぎかけた状態のまま――自慰をしながら。

「……キャーッて叫んだ方がいい……?」
「バカかこっちのセリフだわ。返事待たずに開けるんなら、ノックの意味ねぇじゃん」
「うわ傑ならともかく、よりにもよって悟に正論で返されるのが、こんなにショックだとは思わなかった」
「ふざけんななまえ、てかドア閉めろよ」

全寮制とはいえそもそもの生徒数が圧倒的に少ない学校である。
可能性は低いけれど、いつ誰が部屋の前を通るか分かったものじゃない。
悟の言葉に、それもそうかとドアを後ろ手に閉めた。
廊下からの明かりが途絶えて、ますます部屋が暗くなる。

「なまえ、おまえ……」
「え、なに?」
「いや、……っ、あ、」

そこでやめると思うでしょ、普通。
ところがどっこい、いろんな意味で普通ではない我らが「最強」サマは、股座のソレをこする手を止めてくれやしなかった。
それどころか「は、あっ」とやけに色っぽい吐息が続くものだから、もうどうしたらいいのか分からない。
可能なら「やめて!」と叫び声をあげたかった。
出来なかったけれど。

――室内にはわたしたちふたりだけ。
身じろぎも出来ないでいると、否応なしに悟の荒い呼吸が響いてしまって、血の気の引いていたはずの頬や耳元が、ひどく熱を持ちはじめていることに気が付いた。

くち、ぬちゅ、と粘ついた水音が小さく鳴る。
生々しい音に耳を塞いでしまいたかったけど、残念ながら手は返却しにきたマンガで塞がっている。
目を逸らすことも出来なかった。
なぜなら、宝石みたいにきれいな目が、真っ直ぐにわたしを射抜いていたから。
薄暗い部屋でもはっきり分かる。
鮮烈な青い目がわたしをじっと見つめていた。
元々色素が薄いからか、悟の目元は妙に赤く色付いていて、それがなぜか言葉にならないほどいやらしく見える。
ただこっちは見ているだけだというのに、ゆっくりと指先で背筋を撫でられているような錯覚にわたしは襲われていた。
足の先から、ぞくぞくと痺れのようなものが這い上がってくる。

「ぅあ、ッ、なまえ、なまえっ……!」
「っ、」

わたしの名前を呼びながら、無駄に長い悟の足がびくっと強張る。
イッてしまったんだと、経験のないわたしだって分かった。
勢いよく吐き出された白濁を、慣れた手付きで悟がティッシュで受けとめるのを、呆然と見つめていた。

余裕をなくして上ずっている悟の声なんて、もしかしたら初めて聞いたかもしれない。
呪力禁止の近接戦闘訓練時ですら、悟がこんなに息を荒げたり顔をしかめたりしているさまにお目にかかったことはない。
いままで出会ったなかで一番きれいといっても過言じゃない顔が、快楽で歪んでいる様子は、あまりにも刺激が強すぎた。
こっちまで心臓がどくどくと鳴っている。

なんで、どうして、と疑問がぐるぐる渦巻く。
男子高専生だ、そういう欲だってあるだろう。
でも、わたしの顔を見ながら、わたしの名前を呼びながら、なんて、どうしてそんなことをするのか理解できなかった。
――いや、いや、違う、落ち着け、いま考えるべきはそんなことじゃない。

「………………えーっと、もしかしてわたしで抜いてたの?」

恐る恐る声を出せば、出てきたのは的外れにも程がある質問だった。
ひくりと口の端が引き攣る。
こんなこと尋ねるつもりなかったのに。
ものすごく混乱しているらしい、と頭のどこかで冷静なわたしが呟いた。

「んー? ううん、なまえが目の前に来たから」
「は……?」

しかもあっけらかんと悟から返ってきた答えは、ただでさえ理解不能な状況に輪をかけて混乱を来たすものだった。
なにその理由。
怖い。
紅潮した目元はそのままだったけれど、会話している様子は普段とまったく変わりない五条悟だった。
さっきまでの色っぽい表情との落差に、こちらがくらくらしてしまいそう。
そんなわたしの窮状なんてこれっぽっちも興味なんてないのだろう、悟はこてんと首を傾げた。

「よく言うじゃん? グラビア見て抜いてたら母親に呼ばれて、思わず親の顔思い浮かべながらイッちゃうみたいな。俺はそんな経験ないけど」
「いや知りませんが……」

男子こわ……と心底引きながら、丸めたティッシュをゴミ箱へ放り投げている悟を眺める。
仮にそうだったとして、わたしの顔を見たり名前を呼んだりしながらする必要はないと思う。
……ないよね?

平然と理解の及ばないことをぺらぺら吐く悟に、目眩がする。
このままだとわたしの常識が揺らぎそうだったので、さっさと退散した方がいいなと判断した。
ベッド横のローテーブルへそそくさと歩み寄る。

「今更だけど入ってくんなよお前マジで」
「だ、だって、ここまで来といて、また改めてっていうのも、変じゃない……?」

見てしまったものは仕方ないし、部屋に入っちゃったのも仕方ない。
だったらここでさっさと用事を済ませて、再度悟の部屋に足を運ばなきゃいけない理由をなくしておいた方が良い気がする。
だらだら先伸ばしにしていると、絶対に来づらくなっちゃうだろうし。

ローテーブルに元凶となったマンガを置く。
……どうしよう、まだ連載中の作品なのに!
この先、続きを借りて読むときに今日のことを思い出してしまいそうだ。
どうしてくれる、と心のなかで呻いた。
あまり悟の方を見ないようにしながらドアの方へじりじりと後ずさる。

「……それじゃ、まあ、お邪魔してごめんね」

ごゆっくり、と片手を挙げようとして、その腕をぐっと引っ張られた。
いまわたしの腕を引っ張ることが出来る人物なんて、言わずもがなひとりしかいない。
嫌な予感がして、ゆっくりと見下ろす。

ベッドに腰掛けたまま、悟はにんまりと唇を吊り上げていた。
邪気のない悪戯っ子みたいな笑みに騙されてはいけない。
これはロクでもないことを考えているときの顔だ。
同級生としてそこそこ付き合いの長いわたしは直感して、腰が引けたまま「……なに」と呟いた。
というよりいままで自慰をしていた手で触るのやめてほしいんだけど。

「なまえに視姦されてイッたのすっごい気持ち良かった……。また勃ってきちゃったから責任取れよ、なまえ」
「視姦なんて言葉、よく知ってたねえ」

えらいえらいと白い頭を撫でると、口をへの字に曲げた悟に「はぐらかし方ヘタクソか」とののしられた。
顔面だけは恐ろしくきれいなのに、口を開けば生意気な男子って感じの言葉しか出てこないのは、神さまが容貌にかかりっきりで、きっと性格にまで手が回らなかったからに違いない。

というか悟に引っ張られているせいで、中腰の姿勢を強制されていて腰が痛い。
ぶん殴ってここから逃亡できるだろうかと無駄なことを考えていると、更に引き寄せられる。
後ずさったり仰け反ったりする余裕なんてなく、気付けば冗談のように整った顔が目の前にあった。

……え、なにしてるのこいつ。
ちゅ、と可愛らしい音を立てて離れた形良い唇を凝視しながら、思わずぽつりと呟いた。

「……ファーストキス」
「マジで!?」

悟はぱっと目を輝かせて身を乗り出してきた。
なんでそんなことでテンションを上げているんだろう。
わたしはといえば、「悟も唇はちゃんとやわらかいんだ」と驚いていた。
馬鹿なことを、とは自分でも思うけれど、浮き世離れした造形の良さになんとなく現実みがなくって、感触ってものが想像できていなかった。
そもそも想像する必要なんていままでなかったし。
実際に触れた唇は戸惑うほどやわかくて、あたたかくて、勝手にまた心臓が跳ね始めていた。

そりゃあ中学の頃は、同級生で誰と誰が付き合っただの、もうキスをした、もうその先まで進んだ、なんて会話で盛り上がることはあったけれど、あくまで会話のネタ、共有する秘密という感覚で、あんまり「自分もすること」としての認識はなかった。
いいな、と思う男子がいたとしても、思うだけ。
それ以上の進展なんてなかった。
高専に入学してからは、日々忙しくてそれどころじゃないし。
それに男女問わず、顔面偏差値がバカ高いひとたち(中身はともかく)に囲まれることになってからというもの、中学の同級生を見ても「ちんちくりんだな」みたいな大変失礼なことばっかり考えるようになって、尚更そういう浮いた話題からは遠ざかっていた。
……あれ? ちょっと待って、わたし、他人の美醜の基準が高くなってない?
こっちは大した容貌でもないのに目だけは肥えるとか、さすがにまずいのでは。
今後のためにも良くない、絶対。

という訳で性的なことはおろか、ファーストキスだってこれが初めてだったわたしと違って、そりゃあとんでもなく悟はモテてきただろう。
もし仮に、同時進行で彼女が何人もいますなんて言われても「まあ悟だし」でスルー出来てしまうくらいには、彼は容姿に優れていた。
性格は硝子曰く「クズ」だけど。

「なーに考えてんの、なまえ」

駄々をこねるように、悟が握った腕を揺らす。
子どもか。
わたしを見上げる目は、見慣れたサングラスという覆いがないせいで、惜しげもなくその青い輝きをさらしている。

「わたしと違って、悟はモテてたんだろうなって思って」
「そりゃまあ当然だろ」
「謙遜……はしないよね。ごめん、悟だもんね」
「謝んなよ照れるだろ」
「どこに照れる要素あった?」

どうでも良いけれど、こちとら必死に視線を明後日の方にさまよわせているというのに、特有の青臭いにおいが漂っているせいで現実逃避すら上手くいかない。
はやくシャワーを浴びに行くなり解放するなりしてほしい。
性行為より先に精液のにおいを知るなんて嫌すぎる。
泣きたい。
にも関わらず、比べ物にならないほどわたしよりずっと大きな手は、依然、がっちりとわたしの腕を握ったまま。

それに懸命に軽口を叩いてはいるけれど、その実、火照ったわたしの頬や首筋からは未だに熱が引いていなかった。
きっと顔が赤くなっている。
……だってキスだって初めてだったのに!
照れるなという方が無理だ。
……悟にはバレていませんようにと祈るしかない。

「なあなあ、責任取ってやるからもっかいキスさせて」
「責任取るのはこっちだったんじゃないの?」
「じゃあお互いこれで相殺ってことで」
「だいたい、責任ってなんなの……」

顔をしかめて「呆れていますよ」とアピールしていると、ぐっと一際強く腕を引かれた。
受け身も取れず、天地が引っ繰り返って目を回しかける。
ベッドに押し倒されたのだと自覚したときには、眼前に悟のご尊顔のドアップが迫っていた。
後ろには、わたしの寮部屋と同じような古い木目の天井が広がっている。
白い睫毛に縁取られた彩度の高い碧眼にこんな至近距離で見下ろされるのは、そういえば初めてのことだった。

「気持ちよくしてあげる、せきにん!」

それにしても腹立たしいほど顔がいいな。
なに言ってるんだこいつと真っ当なことを吐く前に、そう思ってしまったわたしが敗北するのは仕方のないことだった。
きゅるん、と擬音語が聞こえてきそうなほどかわいこぶって笑っている悟を見上げ、一層顔をしかめる。
顔面の良さで自分の意見をゴリ押しにして、更にそれが通ってきてしまった経験がないと、こんな芸当は到底できやしないだろう。

溜め息をつきながら「それただ悟がシたいだけでしょ」と毒づくと、一向に意に介さない悟の手が問答無用でパーカーの胸元へ伸びてきた。
じじ、とジップアップの下りる音が妙にリアルで、ぴくっと肩が揺れる。

「……お前、下着は?」
「え、あ、もう寝るつもりだったから……」

はあ、と大袈裟に溜め息をつかれる。
パーカーの下は、部屋着……といってもキャミソール一枚しか着ていない。
白状した通り、お風呂上がりでもう寝るだけだったからブラなんてしていなかった。
下肢には丈の短いハーフパンツ。
まじまじと悟に見下ろされ、居心地の悪さに眉根が寄っていくのを自覚する。

まさかノーブラキャミソール姿を見られて、異性に溜め息をつかれる日が来るとは思わなかった。
いくらなんでも失礼すぎない?
考えていたことが顔に出ていたのか、悟はもう一度溜め息をこぼして「簡単にこんな格好さらしてんじゃねえよ」と低く呟いた。

「こんな格好って? 悟に押し倒されてるこの格好?」
「ちっげーよ。ていうか俺、"ドア閉めて"って言ったじゃん。最初に。あのときそのまま出ていきゃ良かったのに」
「……あ」
「わりと頭足りてねぇよな、なまえ」
「ナチュラルに暴言吐かないでよ、あのときはパニックになってて……っ、ん、あっ!」
「はいおしゃべり終了ー。あんまデカい声出すなよ、隣に傑いるから」

じゃあやめるって選択肢はないの!と叫びたかったけれど、残念ながら人生二度目のキスによって、それは声にはならなかった。




(※おまけ)

「ッ、体力おばけ……もうむり……」
「ヘバッてんじゃねーよ、俺まだ二回しかイッてねぇんだけど」
「そんなセリフ、マンガの俺様系イケメンにしか許されないでしょ……いやそのまんまか……」
「なにごちゃごちゃ言ってんの」
「こっちは初めてだったのに、悟が優しくなくて引いてるの。あと性欲にも」
「十代の性欲ナメんな。それよか、なに、なまえ。俺に優しくしてほしいの?」
「ん? んー……優しい悟とか鳥肌立っちゃうからいいや……」
「あ? 言ったな? 絶対泣かすからなお前」
「やだやだやめてよばか!」
「だいじょーぶだって、泣かすったって、ヨがらせまくってあんあん泣かすって意味だから」
「どんな顔してあんあんとか言えるの」
「こんな顔」
「はあー……本当、顔だけはきれいでむかつく……」
「顔だけじゃないだろよく見ろ」
「あれ……目が悪くなったかもしれない……」
「おいコラ、泣いても許してやんねーからな」
「あ、やだって、……あ、んっ」

結局、全然優しくなかったし、次の日は体の節々が痛くって微熱が出た。
……悟の言う通り、泣くほど気持ち良かったけれど。


(2021.01.28)
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