(※死ネタ)




死ね。
何度も何度も唱えた言葉をわたしはまた繰り返した――音にはせずに。
いくら疲れているとはいえ、突然ひとりで「死ね」だなんて口から出す頓狂な真似をやらかすはずもない。
独り言が悪いとは思わないけれど、さすがに良識ある一社会人として、よりにもよって他人の死を望む言葉を吐く訳にもいかない。

――見えないところにある他人のお金を日々動かしていると、だんだんと揺らぎ、麻痺してくるのが分かる。
例えば物の価値が。
あるいはひとの価値が。
生きること、死ぬことの価値が。
資本主義経済のこの国において、お金はひとの命と直結している。
そのお金を瞬間的に、投機的に、流動的に扱っていると、人命すら価値としてはあやふやで不確実なものに感じられてくる。
この世で確固たるものは金銭しかないという感覚。
無意識ってものは恐ろしい。
まさか生きていて、接する「他人」にすら費用対効果や減価償却を無意識に・・・・計ろうとする思考がわたしに根付く日が来るなんて、思いも寄らなかった。
そんな自分に心底失望する。

胸のなかだけで呪詛の言葉を繰り返しつつ、タブレットの画面に反射した自分の顔がにっこりと笑っているのを確認して、わたしは「お疲れさまです。今日はこのまま、お客様のところへ行ってきます」と先輩へ頭を下げた。
健康的に日焼けした手を挙げ、先輩は「飲みすぎないようにね、みょうじちゃん」と送り出してくれた。
体育会系のノリには未だに慣れないけれど、残念ながら職場の大部分はそういった・・・・・ひとたちで占められていた。
学生時代には友人がたくさんいて、インカレ活動やバイトに明け暮れ、授業に出席せずとも人間関係と処世術で明るく乗り切ってきただろう人種とは、根本的に相容れなかった――そうはいっても、それこそ学生ではないのだから、好き嫌い、快不快で関わるひとを峻別できるはずもない。

雑踏のなか、はあ、と溜め息をついた。
たぶん、というか絶対に、わたし、この仕事に向いていない。
内心「死ね」だなんて繰り返しているような、こんな陰気な人間には。
休日には出来るだけ家から出たくないタイプの人間は、友人たちとサークルを組んでフットサルとかスカッシュとかに勤しんでいるようなひとたちと関わっちゃいけなかったんだ……云々、陰々滅々と考え込んでいたところで、パンプスのヒールがぐらついた。
ぼんやりしすぎていたらしい。
とはいえいくら愚痴を並び立てようとも、たった数年足らずで仕事を辞めるような人間に社会は厳しいし、いまから転職活動を始める体力も気力もない。
そんな余裕があるんだったら、一刻もはやく自宅のベッドで眠りたい。
帰宅するのは大抵日付が変わる頃で、それから炊事洗濯といった自宅の雑務を片付けていたら、睡眠時間なんて6時間取ることが出来たら良い方。
そんな日常を送っているものだから、仕方がない。
先輩方の体力がとても信じられなかった。

「お疲れさまです、今日はお時間を割いていただいてありがとうございます」

担当しているお客様からの繋がりで紹介された、新しい潜在・・顧客――まだ・・客ではない相手は皆ウチに投資するため待ってるんだよ、との胡乱な言は先輩がよく口にする――へ頭を下げれば、馴れ馴れしく「みょうじさんってば硬いですよ」と肩を叩かれる。
職場のひとたちを彷彿とさせる距離の詰め方に、これから数時間のことを考えて危うく溜め息をつきかけた。

当然だけど、もしも顧客が一般的な会社員なら、基本的に彼らは日中働いている。
それ以外の職業、もしくは法人担当ならばともかく、まともに時間を確保するなら、就業後の18時、19時以降が商談の本番といっても過言ではない。
食事やお酒といった場に相伴しようものなら、愉快な勘違いを起こした馬鹿が発生しかねないとあっては、あまり取りたくない手段ではあったけれど。
もしも男性だったならこんな面倒や心労も生じなかっただろうにと思うと腹立たしさも湧く。
とはいえ、そんなことを考えたってなんにもならない。
仕事の絡まない食事から遠ざかってから、そして物の味を感じられなくなってから、どのくらい経つだろう。

死ね、と声に出さずに漏らせば僅かに頬が引き攣る。
目の前で一気にハイボールをした男性は、周囲の喧騒で聞き取れなかったと思ったらしい。

「みょうじさん、なにか言いました?」
「え? いえ、なにも。もしかしてもう酔ってしまいました?」
「なに言ってんの、これから今日はがっつり付き合ってもらいますよ」
「お手柔らかにお願いしますね、明日も早くて」

申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。
もう一度、腹の底で呟いた。
死ね。



「っ、いったぁ……」

後頭部の痛みに、涙がじんわり浮かぶ。
デスクの下へ落としてしまったボールペンを拾おうとして、後頭部をぶつけてしまった。
面倒がって、デスクチェアに座ったまま手を伸ばすんじゃなかった。
上体を折り畳んだまま、うう、と呻いていると、頭上から声が降ってきた。

「……大丈夫ですか」

今度はぶつからないよう気を付けつつ頭を上げた。
コーヒーを手にして、偶然通りがかった同期が――七海さんが、僅かに首を傾げていた。
なにやってるんだこいつなんて思われているんだろうなあ。
不審げな視線に見下ろされ、へらりと笑った。

「大丈夫です、……あの、ボールペン取ろうとしたら、頭ぶつけちゃって」

救出したばかりのペンを掲げて示せば、彼はそんなことかとばかりに肩をすくめた。

同期の七海さんとはたまにこうして会話するだけの間柄だったけれど、わたしは勝手に仲間意識のようなものを抱いていた。
なにせまだ2年目だというのに、なかなかのスピードで同期たちが退職してしまった、というのも一因。

一際目を引く端整な容姿に、硬質な雰囲気。
七海さんに対して、申し訳ないことにはじめはなんとなく苦手意識があったものの、接しているとなんだかこちらの背筋まで伸びるような緊張感、清涼感は、嫌いではなかった。
それどころか、並ぶ言葉は理路整然、冷淡と思いきや言動は誠実かつ紳士的とあっては、いつの感にか単純接触効果によるものだけでない好感を覚えるのに、さして時間はかからなかった。
なにしろ職場のなかで、内心「死ね」と吐かずに接することの出来る稀有なひとだから……というと、わたしがものすごく性格の悪い人間みたいだ。
自己嫌悪に陥る。
わたしだって、以前は腹の底でこんなに呪詛の言葉を唱えるような人間じゃなかったのに。
自分のことが嫌いになってしまいそうで、へらへら笑いながら「わたしもコーヒー買ってこようかな」と独りごちた。

「……顔色が悪いようですが。きちんと休養は取れていますか」
「え? ああ、まあ、なんとか……。七海さんもご自分のこと労わってくださいね」

ちょっとだけ隈ができてますよ、と自分の目の下をなぞる。
化粧で隠せるだけこちらはましかもしれないけれど、男性はそうも言っていられないから大変だろう。
スーツの上からでもはっきりと分かる恵まれた体躯に、わたしが勘付ける程度に疲労を露わにしているなんて、よっぽどお疲れなんだろうなあ、と眉を下げた。
あの・・七海さんがお疲れなんだから、元来それほど体力のないわたしが疲弊しているのも道理かもしれない。
はあ、と溜め息を吐く。

「……そんなに溜め息ついていると、幸せが逃げますよ」

さっさと立ち去ってしまえばいいのに、ひとの良い七海さんは、もう少しわたしに付き合ってくれるらしい。
未だ湯気を立てているコーヒーを持ったまま、ぽつりと呟いた。

雪国出身のひとのように、七海さんは口をあまり開けない話し方をする。
にも関わらず、彼の声はよく通った。
耳馴染みの良い、低くて落ち着いた声音。
更々揺らがない眼差しで見つめられながら、その声で滔々とうとうと言明されると、つい頷いてしまいたくなる力を持っていた。

――とはいえ、「幸せが逃げますよ」だなんて。
我知らずむずむずと口角がゆるんだ。

「……なにか?」
「いえ、七海さんがそんなこと言うなんて、……なんとなく意外で」

かわいいと思った、とはさすがに口にはしなかった。
ほんの少し居心地が悪そうに視線をずらした七海さんを見上げて、思わず「ふふ、」と笑いがこぼれる。

「逃げちゃった幸せはどこに行くんですかねえ」
「知りませんよ、そんなこと。そもそもただの慣用句です」
「身も蓋もないこと言わないでくださいよ。……逃げた先で、誰かの幸せになってるかもしれませんよ? もしかしたらめぐめぐって、七海さんの幸せになるかも」
「……さては余程強くぶつけたらしいですね、頭」
「えっ、ひどくないですか?」



仕事を辞めたら海外旅行したいんですよね、と天井を見上げていたみょうじさんの横顔を思い出す。
元の温度と味を到底思い出せない、カップの底に数センチだけ残ったコーヒーを惰性で啜っているときのことだった。
ブルーライトカットの眼鏡をかけたまま、デスクチェアの背もたれに寄りかかったみょうじさんが突然ぼやいたのだ。
仕事を辞めたら、と。

「お休みとかお金とか気にせず、もしどこでも行けるなら、七海さんはどこがいいです?」
「口より手を動かしたらどうですか」
「些細な日常会話じゃないですか……」

フロアには、終電を逃した私たちふたりだけしか残っていなかった。
本来ならば上席の誰かとこなすべき案件を、同期のみょうじさんと組まされ、案の定私たちは残業に見舞われていた。
日々の通常業務をなんとか「通常」とすべく懸命な後輩ではなく、指導が不要な彼女であるだけまだましと喜べる余裕は、残念ながら互いになかったが。

時間外労働など唾棄すべき悪弊あくへいではあるものの、やらねばならないことが済んでいないとあってはやむを得ない。
みょうじさんも口をとがらせつつも、言われた通り真面目にパソコンの画面へまた向き直った。

「……私は、どこか物価が安い国で、本でも読んでゆっくりしたいです」
「……な、七海さんもそういう願望あるんですね」
「ありますよ。ひとをなんだと思っていたんですか」
「うーん……生真面目な仕事中毒ワーカホリック……?」
「冗談でもやめてください」
「えっ、違うんですか」
「違います」

一応締めていたネクタイを乱雑にほどくと、みょうじさんは真面目くさった口調で「それじゃあ以後、七海さんへの認識を改めます」と首肯した。
その口元がほころんでいた原因は、疲労や眠気のせいばかりではないだろう。
弧を描く唇に「なにがそんなに楽しいんですか」と問おうとしたところで、自分が彼女のペースに乗せられていたことに気付く。
なんのためにこんな残業なんぞしているのか思い出せ、と戒飭かいちょくしようとしたところで、しかし出鼻をくじかれた。

「ところで七海さん、海はお好きですか」
「……まあ、おそらく人並みには」

今度はなんだ。
話に脈絡がなさすぎて眉根に皺が寄っていることを自覚する。
言葉より雄弁に、みょうじさんを顧みる。
あからさまに顔をしかめた私を、やはり物珍しげに見やりながら「学生時代に行ったんですが、マレーシアとかオススメですよ。七海さんの条件に合うかも」と笑っていた彼女は――いま、どこでなにをしているのだろう。
望んでいた通り、学生時代のようにこの国を飛び出したのだろうか。

私が辞める数か月前に、みょうじさんも退職していた。
プライベートと仕事用のスマホを別にしていた彼女は、退職後、すぐに後者を解約したらしい。
みょうじさんのプライベートな連絡先を知るはずもない私は、それっきり関わる手段を失った。
その程度の繋がり、その程度の紐帯ちゅうたいだった。

にも関わらず、どうしていま・・・・・・彼女のことを思い出したのか。
自分でも判然としなかった。
あれから何年経つと思っている、と自問するも答えなど見付かるはずもない。
記憶が、意識が、混濁している。

渋谷駅地下2階、道玄坂改札手前の通路には、人間としての造形や意思、定義を放棄した――させられた改造人間たちが、大量にひしめいていた。
はらうべき呪霊、殺すべき人間との境界が、同じところにある。
なんのために、と考えることすら厭わしかった。

腹奥からすべて吐き出すように、「フー……」と嘆息する。
そういえば、いつだったか「そんなに溜め息ついていると、幸せが逃げますよ」とみょうじさんへ忠告したことをふいに思い出した。

この溜め息で逃げた幸福が、いつか「もしかしたらめぐめぐって」と笑っていた彼女の幸せになれば良いが、と思った。



液晶画面の圏外の表示を見て、溜め息をつく。
時刻はあと1時間くらいで今日という日が終わり、暦が11月に変わろうかという頃。
本来ならとっくに自宅に到着しているはずだったのに、と肩を落としていると、おずおずと袖を引かれた。

「……すみません、あの、スマホ、繋がります?」

振り返れば、女性がわたしの上着を躊躇いがちに握っていた。
暗い屋内でもそれと分かるパステルカラーの花冠を頭に乗せ、季節外れの薄着のワンピースから出た肩はかすかにふるえているようだった。
自分よりずっと怯えている――それも大学生くらいだろうか、年下の子を見ていると、わたしだけでもしっかりしなきゃ、という心地がする。

「いえ……たぶん、皆さん駄目みたいで。あんまり使っていても、充電がなくなったら困りますし……。やっぱり、いまはじっとしてるしかないみたいですね」
「ですよね……。あの、友達と来てたんですけど、あたしたちはぐれちゃって、連絡もできないし……無事かどうかも分からなくて……」

言葉を並べているにつれ感情が昂ってしまったらしい。
徐々に涙声になっていく彼女の背を、とんとんと撫でた。

時節柄、ただでさえ渋谷駅周辺はハロウィンのイベントでひとがごった返していた。
仕事でなければわたしも近寄りもしなかっただろう。
原因も対処法もまったく分からないけれど、どうやら壁のようなものに阻まれて、わたしたちは渋谷駅周辺から出られなく・・・・・なっているらしかった。
「らしい」というのは、へりの方へ向かってはみたものの、人混みでそれどころではなかったから。
情報を得ようにもスマホはずっと圏外で、停電により街頭ビジョンも真っ暗とあっては、どうすることも出来ない。
挙げ句、映画でしかお目にかかったことのないような異形の化け物が往来をうろうろと闊歩しているとあっては、なんの冗談かとわたしだって泣き出してしまいたくなる。
化け物たちが最も多い駅前からなんとか逃げ、オルガン坂沿いのファッションビル内に避難してきたひとたちと一緒に、暗闇のなか、心細く寄り添う。

時折、ズズ、と地鳴りのような不気味な音と揺れが断続的に続いていた。
そのたびに不安げに顔を上げる彼女と「はやく助けが来るといいですね」と励まし合う。
なにが起こっているのか、わたしたちがなにに巻き込まれているのかすら分からない現状、ひとりではないのはせめてもの慰めだった。

はあ、と溜め息をつく。
――そういえば、いつだったか、前職の元同僚である七海さんから「そんなに溜め息ついていると、幸せが逃げますよ」と忠告されたことを、こんなときにふと思い出した。
溜め息をつくたびに彼との会話を思い出してしまうなんて、一種の条件付けみたいだと苦笑する。
あれからもう数年経つというのに、職種だって変わったのに。
七海さんに知られたらまた呆れられてしまうだろうか。

こんな非常事態時に彼のことを考えてしまうなんて、わたしは自覚しているよりもずっと、――もしかしたら七海さんのことを、思っていたんだろうか。
彼と最後に会ったのは退職の挨拶のとき。
いつも通り淡々と「みょうじさんにはこの仕事、向いてないと思ってましたよ」なんて言われて、腹を立てたらいいのか、喜んだ方がいいのか、微妙に悩んでしまったのも懐かしい。
以来、一度たりとも連絡を取っていなかった。
仕事のために使っていたスマホはとうに解約してしまったけれど、一応、連絡先は保存しているのだ。
無事に帰ったら、七海さんへ久しぶりに電話でもかけてみようか。
あれきり音沙汰もなかったのに、突然連絡しては迷惑かもしれないけれど、きっとあの低くて耳馴染みの良い声で「お久しぶりです」と生真面目に返してくれるに違いないと、なんとなく確信があった。

勿論、明日、陽が昇って、常識的な時間になってから。
そう思うと、折れてしまいそうな気持ちが勇気づけられる心地がした。
ちゃんと帰らなきゃ。
そして言うんだ――明日、「あなたに励まされていたんです、わたしがこうしていられるのも七海さんのおかげです」って。

ふう、とまた溜め息をつく。
この溜め息で逃げた幸福が、いつか「そんなに溜め息ついていると、幸せが逃げますよ」と言っていた彼の幸せになったら良いなあ、と思った。


(2021.01.15)
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