恋着

「……いつまでもそうやって拗ねてるつもりならな、なまえ。ご機嫌が直るまで、退散しててやってもいいんだぜ」

いかにも面倒臭そうな声色を隠すことなく、張は口をひん曲げた。
彼の目の前にはシーツの山があった。
正確には、ベッドのど真ん中に陣取ってぐるぐるとシーツに包まっているなまえがいた。

このところずっと山嶺さんれいの鳥籠に仕舞われていた小鳥は、今夜は大層「お怒り」なのだった。
滅多にない惨状・・は、とまれ初めてのことではなかった。
思い起こせば数年前にも似たことがあった気がする。
とはいっても張維新チャンウァイサンの御前でこれほどストレートに不満を表明する金糸雀カナリアという図はやはり珍しく、明日はこの南国にて降雪が拝めるかもしれないと、彼は浅く嘆息した。

「大体、病み上がりの主人をベッドの外に放り出して、自分は寝転がって占領するたあどういう料簡りょうけんだ」
「旦那さまだって、心当たりがおありだから、そうしていらっしゃるんでしょう?」

くぐもった声が可愛くないことを言う。
心当たりもなにも、無理やりシーツを剥ぐでもなく、さっさときびすを返すでもなく、辛抱強く彼が付き合ってやっている理由は「自分が怪我をした」のが原因だと痛いほど・・・・知っているからだった。

銃弾の飛び交う物騒な舞台にて負った怪我そのものは、大した傷創ではなかった。
が、いかんせん失血が多く、数日缶詰めにされていたのだから、残されていたなまえが機嫌を損ねるのも余儀ないことではあった。

ともあれまさかベッドの横で大人しく女のご機嫌伺いに徹する日が来ようとは。
情けない為体ていたらくは到底他人に見せられたものではなかったが、ふたりの寝室に余人などいるはずもない。
物珍しさついでに付き合ってやってはいたものの、そろそろ面倒になってきた――加えて、まともに彼女の顔を拝むことすらお預けにされている――張は、へそを曲げている飼い鳥が絶対に・・・反応せざるをえないカードをさっさと切ることにした。

寝台の縁に腰掛けながら溜め息混じりに嘯いた――「残念だよ、とうとう嫌われてしまったか」。
声音はいかにも軽薄で、心にもないセリフは不遜極まりない抑揚に彩られていた。
しかしながら思惑通り、さすがに看過できなかったものとみえる。
乗せられていることなど重々承知らしい、いっかな崩れぬ恨めしげな表情をなまえはのろのろと覗かせた。
つややかな黒髪が乱れて、一房、二房、かんばせへ流れかかっていた。

「……きらいになれたら、こんなに怒っていません」

透き通るような白肌は目元の赤みを隠せず、みっともなく泣き濡れていたことを雄弁に物語っていた。
なまえも自覚しているのだろう、これ以上情けない顔をさらせないとばかりに、ぱっとまたシーツに埋もれてしまった。

張は太眉を器用に片方だけ上げた。
主以外のものに情動を揺り動かされることのない――ひるがえせば、常人が数多の他者に向ける感情のすべてをただひとりに捧げている女を、胸が潰れんばかりに心配をさせた自覚のある男は、腕を伸ばしてシーツの塊をしっかりと抱き締めた。
負傷した脇腹が痛んだが、否応なしに湧く情動の前では瑣末といえた。

「っ、もう! お怪我に障ってしまいます……じゃなくて、わたし、まだ怒っているんですからね!」
「そのまま目くじら立てていてくれよ」

抱きすくめたまま低く笑えば、シーツ越しの体からおもむろに力が抜けていった。
広い寝台へ諸共にごろりと転がると、ややあってすんっとちいさく鼻をすする音が聞こえ、白布の波間からもぞもぞと幼な子のような面差しが覗いた。
乱れた髪を指先ですいて整えてやると、主人の手にされるがまま、心地よさそうになまえは目を閉じた。

「……不機嫌な女に、そのままでいろだなんて。悪趣味ですね、旦那さま」
「そりゃそうだろ、なまえ。お前を横に置いてる時点で」
「……なまえのご機嫌取りをしてくださる気、本当にありますの?」
「あーあるある」

軽薄な口調でへらりと笑った張に、なまえは頬を膨らませられずにはいられなかった。
理非も曲直も求めるだけ愚かというもの、血と硝煙で泥濘ぬかるむ外道を歩む無頼の男へ、愚直に「怪我しないで」「置いていかないで」なんぞ、たかが囲い者如きが要求すべくもない。
許される立場でもない。
それもすべて呑み込んだ上での、主人の甘やかしだろう。
「A woman moved is like a fountain troubled, Muddy, ill-seeming, thick, bereft of beauty, And while it is so, none so dry or thirsty Will deign to sip or touch one drop of it.」――素直に恨みつらみを吐けない小鳥の機嫌を取るのに、世界で一等長けた男の腕のなか、なまえはちいさく呟いた。

「もう、ほんとうに、悪趣味なひと……」


解語の花

「なんでまた、わざわざ風呂上がりに花なんぞいらうかねえ」

一足はやくベッドに横たわった張が独り言じみて嘆息するのを、なまえは苦笑でもって受け入れた。
サングラスに遮られず拝することの許された裸眼には、非難がましいというほどではないにせよ、どこか呆れの色が滲んでいた。
だらりと寝そべって煙草をくゆらしている主から、そんな眼差しをたまわってしまえば――平生、禁欲的なまでに隠された厚い胸元へ、なりふり構わず飛び込んでしまいたくなるというものだ。

とはいえ手にした花瓶を放り投げてしまうのは避けたかったので、なまえは悪戯っぽく「花に妬いていらっしゃるんですか、旦那さま」と囀った。
花軸に穂がるように、柄のない花が可憐に咲き乱れている。
白い花弁は小ぶりではあるものの、濃い香りは倦怠すら孕み、思わず目をそばめてしまいそうなほど甘い。

「つい嗅ぎたくなってしまったんです。……お風呂上がりの方が、花の香りをはっきり感じられる気がして」

なまえの髪といわず肌といわず深く染みついた黒煙草ジタンの香りは、目に見えない所有の証だ。
それを喜んで享受しこそすれ、疎ましいと感じるはずもなく、とまれ生来の肌のにおいも思い出せないほど濃く馴染んだ香りは、生花を愛でるにはいささか強すぎる。
湯浴み程度で薄れるものでは更々ないが、それでも嗅覚は一日のうちこのときが最もフラットに違いなかった。

なまえは活けられた花のバランスを丁寧に整え、満足げに微笑んだ。
花弁へそっと顔を寄せた。
濃密な甘い香りに頭の芯がゆるくほどけるようだ。
百合をはじめ、夏の花は押しべて香気が強い。

その横顔が、差し伸べられた首が、かすかに伏せられた花瞼かけんが、薄く開いた唇が、ひどくうつくしく見え、まばたきより短い須臾しゅゆ、見惚れた張維新チャンウァイサンは、ややあって寝台へ上がってきた女の白魚めいた手を握り引いて腕のなかへ囲い込んだ。
悲鳴があがるのも構わず、華奢な首筋へ顔をうずめた。
食い破れと誘うかのあえかな肌は、男の唇に歓喜して従順に色付いた。

「――確かに、風呂上がりの方がわかりやすいな」

飼い主の突然の乱行らんぎょうに小鳥が狼狽したのも、ほんの数秒のことだった。
花の芳香も紫煙の薫香も纏わぬ少女をかくたらしめた悪辣あくらつな男の言葉に、かつて少女だった女はとろけんばかりに相好を崩した。
この世に、少女だった頃の、なまえの生来のにおいを知る者はとうになかった――今生、たったひとりを除いて。
寝台に満ちた笑い声は二人分、喋々喃々、夜に相応の密やかさだった。


夙夜夢寐しゅくやむび

主寝室へそろりそろりと足を踏み入れた。
スティレットヒールを脱いだなまえの足を包むのは、ベビーピンク色の薄いストッキングだけだ。
細心の注意も払い損にならず、おかげで足音はごくわずかだった。
なまえはおもむろに寝台横の床へ膝を下ろして、ベッドのふちにそっと肘を着いた。

――物事がいつも劇的な終幕を迎えるとは限らない。
ただでさえこの済度しがたい濁世において、むしろそのポラリティたる結果ばかりが累積するのも致し方ないことだった。
掉尾ちょうびと呼ぶには後味の悪い煩累はんるいを後始末まで終えた張は、ことすくなに「仮眠を取る」とだけ言い捨てて寝室ここへ引っ込んだ。
それとわかるほどではないにせよ、なまえの目から見ても珍しく癇立かんだった様相の主を、彼女が恭しく「おやすみなさいませ」と見送ったのは数十分ほど前のことだ。

こんこんと寝入る男をなまえは静かに眺めた。
倦怠の色濃く残る目元や、強張ったこめかみを見て「撫でてさしあげたい」とこっそり息をついた。
邪魔するつもりもあらばこそ、実際に手を伸ばすことはなかったが。

十年以上も身過ぎ世過ぎを共にしていれば、こんな機会はいままでにも幾度となくあり、決して珍しい事態ではない。
とまれいずくんぞ飽くことがあらん、就寝中の主のそばにいるのはなまえの秘密の楽しみのひとつだった。
金糸雀カナリア」という立場を築く前より、身性みじょうあまねく把握され、飼い主に隠し事などこれっぽっちも望めないなまえにとって、貴重な自分だけの秘密だった。

なにしろ彼が眠っている・・・・・・・のだ。
元より安穏な眠りなど求めるべくもない悪逆の徒にとって、他者の存在、気配はひどく気に障るものだ。
とりわけ無謬むびゅうの主が他者の気配や視線にいかに鋭敏であるか、なまえは誰より知っていた。
しかし折節たかが小鳥一羽相手とはいえ、張維新チャンウァイサンが不埒な闖入者になんの反応も見せずにいる。
それがどれだけ稀有なことか!

なまえは行儀悪く頬杖をついたまま、とろりと瞳を潤ませた。
起床予定の時刻が迫るまで、そうして密やかな楽しみにふけっていた。

張が目を覚ましたとき、ベッドルームには彼ひとりだけだった。
短時間の仮眠といえど深く寝入っていたこともあり、耐えがたい倦怠感はいくらか払拭していた。
そろそろ歳だな、と嘆息しながら上体を起こした。
ナイトテーブルに放られた青い箱へ手を伸ばした折、そこでようやく気が付いた。
おのが身といわず寝台といわず、あまりに深く馴染んでいたために気付くのが遅れてしまったが、嗅覚が感知していた。
せきとした主寝室に、輪郭のない証拠がかすかに漂っていた。
淑やかな白百合の残り香だ。

「あー……あいつ、また・・寝顔眺めてたな」

夢寐むびのこととはいえ、残り香の犯人の行動が手に取るようにつまびらかにできる飼い主は、情けなく眉をハの字にたわめた。
両の手指では足りぬ年月を共にしている愛玩物ペット相手では、鈍麻とまではいかないが、いくらか感覚が鈍るものだと彼自身認めるのにやぶさかでない。
ともあれ才に溺れるつもりは毛頭ないにせよ、さすがにここまで気付けないものかとなんとなく気に食わないのもまた事実だった。

「……大体、男の寝顔を見て喜ぶような悪趣味にあいつが目覚めたの――さすがに俺の責任外のことだろ」


(※おまけ。同時、別所にて)
「どうしたんです、大姐。随分とご機嫌ですね」
「あら、そう? うふふ、ちょっとね。……もしも悪巧みや気配にとっても聡い白紙扇さまへ害をしたいなら、この金糸雀カナリアに依頼すべきだなあって」
「は?」
「ふふ、ないしょ。つまらない独り言なの。……はあ、旦那さまの寝顔、ほんとうにかわいい……」


等等

層楼の天辺、街を見晴みはるかすソファに座す主人を認め、小鳥がやわらかく相好を崩した。
軽やかな足取りでいつものように隣へ擦り寄ってきた。
張もやはりいつものように華奢な身を抱き寄せていただろう――その瞬間、あたかも見計らったかのように鳴り渡った電子音さえなければ。

傍らの携帯電話が告げる無遠慮な着信音に、愛らしい桃色の唇がむっと大層わかりやすくとがった。
そのさまを苦笑しながら、張維新チャンウァイサンは指だけで「待て」とめいじた。
電話は部下からのもので数分話し込んだ。
通話を終えた携帯電話を掌中でもてあそびながら、さてどう差配してやろうかと彼が考えていたところ、やにわに腕をくっと引かれた。

引かれたといっても、力加減はごく些細なものだ。
意識の埒外らちがいからの刺激に、張はサングラスの下の目をわずかに細めた。
見下ろすと、乱雑に握ろうものなら砕け散るやもと危惧する細指がシャツの袖を控えめにつまんでいた。

「……もう、“待て”はおしまい?」

袖を握ったまま、躊躇いがちになまえが首を傾げていた。
主人の「待て」という指示通り、電話中は従順に待機していたが、どうやら早々に我慢の限界が来てしまったようだった。
叱られるのを覚悟した困り顔は、恋い焦がれる主が眼前にいるのに、指一本ふれられずにいる状況が耐えがたいと雄弁に物語っていた。
しかし同時に、主人の邪魔になりたくないのも本心なのだろう、見上げてくる目がおずおずと気後れしてまたたいた。

彼は飼い鳥の媚態や嘘など容易く見破れる。
彼女のそれがポーズや芝居でないことはすぐに見て取れた。
相反する感情のせいで心許こころもとなさそうに揺れる瞳を近距離で見下ろし、サングラスでおのれの表情をうやむやにするすべをよく知る偉丈夫は平生の軽妙な饒舌さはどこへやら――なにしろなまえの憂い顔が愛らしかったものだから――つい「……ああ」となんの面白みもなく首肯してやった。


垣根の上

「あら、お邪魔しちゃったかしら」

鳴禽めいきんの囀りをひとが紡げたなら、このような声をしているのだろう。
澄んだ声が響いた途端、その場にいたすべての目が現れた人影に引き寄せられた。
視線をひとつ残らず集めたことを知ってか知らでか、尼僧服を連想させる白いワンピース姿の女がおっとりと微笑んだ。

「――大姐、どうしてこんなところに」
「ふふ、すぐにお暇するから、そんなお顔をしないで。お仕事を遮ってしまって心苦しいけれど……丁度、ご挨拶できて良かったわ。――なまえです。あなたたち、どうぞよろしくね」

居並ぶのは、新たにタイ支部へ配備された部下たちだった。
お仕着せの黒服は身に馴染んで久しいものの、とまれ悪徳の都においては新顔である彼らが寄り集められているところへ、偶然、金糸雀カナリアが通りがかったのだった。
気まぐれを起こしたのか、やおら足を止めた女は雁首揃えた若い衆へ紹介の労を取った。

清純を体現したような女から惜しげもなく振りまかれる笑みは、目を引かれずにはいられなかった。
ただでさえ相応の緊張と、極々ささやかな不安とに身を焼かれていた新入りたちに、突如として与えられた無垢な微笑は、よどんだ長雨の後にすべて払拭せんと吹く白南風しらはえめいた心地にさせた。
伴っていた黒服に促されて彼女はすぐに立ち去ってしまったが、定位反射というにも余る、誘うように揺れる黒髪が名残惜しげに彼らの視線を絡めていった。
残されたのは淑やかな白百合の香りだけだった。

金糸雀カナリアの傍らで一連の出来事をつぶさに観察していた――今し方、なまえを促したのは彼だった――彪如苑ビウユユンは、肺腑ごと吐かんばかりに「あー……」と溜め息をついた。
内心だけのつもりだったが、もしかしたら実際に声に出ていたかもしれない。

「……大姐、面倒なことせんでくださいよ」

彼は大仰なほど細眉を歪めた。
破滅を誘う妖婦キルケーよろしく微笑を浮かべる女に、こちらの心労を慮ってくれる気はないのだろうかと、はなはだ不毛な感慨に浸っていた。

人心掌握という点において、予期しないタイミングで現れた金糸雀カナリア時宜じぎに適っていたと言わざるをえない。
ある種の「吊り橋理論」のような登場による効果は、傍目にも明らかだった。
精神的緊張と緩和は、その落差が大きければ大きいほど作用する。
後々普通に見かけるより、悪名高きロアナプラへ配されたばかりの凡夫共には、幾倍にも「効果」は跳ね上がっただろう。
なきだに端無くも現れたボスの女に、対応にまごつくのはなにも若い衆ばかりではあるまい。

彼らは自覚すらしていないだろう――小鳥の口舌くぜりの間、度外れて間抜けヅラをさらしていたことに。
呻くようにつけられた部下の物言いに、なまえはきょとんと小首を傾げた。

「面倒なことって? わたしは挨拶してはいけなかった?」
「……後々なんかしら起こったとき、大哥に嫌味言われたら遠慮なく上申させてもらうんで、そのつもりで。あんたの効かせた差し金だって、包み隠さず」
「まあ、彪ったら羨ましい。旦那さまからお言葉をたまわる予定があるなんて。代わってあげたいくらい」
「喜んで。――ま、教育すべき点が早々に明確になって手間が省けるが。女は無論、大姐にもそそのかされねェ程度に仕上げとくんで、せいぜい成長に期待しといてくださいよ」
「ふふ、頑張ってね。なにか困ったときに小鳥のお手伝いをしてくれる余地くらい、残してくれたって良いけれど……」

ともすれば、疑うことなく無条件に手を差し伸べてしまいたくなってしまうほど可憐な笑みを見下ろし、彪は辟易した顔で「ソレが面倒だって言ってンでしょうよ」と唇を曲げた。


(2024.02.05 改題)


ゆるし

初めてそれを経た折を覚えている――主のために生きている女が「驚きました。旦那さまのお役に立てることが、わたしにもあったんですね」と青白い顔で微笑んだことを。

幾年いくとせぶりか、ふと昔の出来事が脳裏を巡ったのは、折節、彼女が同じ顔をして笑っていたせいだろうか。
ぼんやりと目が開いておのれに視覚というものがそなわっており、視覚情報が脳へ伝えられるのを自覚する短い瞬間に、過去と現在が混ざった曖昧な思考も、現状を把握する怜悧なものへ急速に移行した。

細い声に「お目覚めですか、旦那さま」と誘われ、張はそのまま眼球を横へスライドさせた。
ベッド脇の簡素なスツールにはべるなまえの顔は著しく白かった。

臓器や細胞組織といったものに比べ「やり取り」が容易な血液は、専門の業者がいるほどに手っ取りばやい・・・・・・・商売である。
そのため売血の流通ルートによっては安全性にいささか難のあるものが蔓延はびこっているのは章々たる事実だった。
しかしその点、なまえはたまさか主人と同じ血液型であり、薬物を摂取せず病患も有さないとあって申し分ない提供者だった。
なまえから輸血を受けるのは初めてのことではない。
目が覚めてほんの数瞬、過ぎ来し方の記憶がよぎったのは眼前の笑みばかりが理由ではないだろう。
大仰な傷創により必要となった血液を、久しぶりになまえのものによってまかなったらしいと彼は把握した。

「お加減はいかがでしょう、旦那さま。意識がお戻りになって安心いたしました。お医者さまをお呼びしますね」

恭しい物言いは非の打ちどころがなかった。
しかし文字通り血の気の引いたなまえの顔に浮かんでいるのは、断罪に処されるのを待つ罪人じみた苦しみと憂いの情だった。

彼女がそんな顔をする由はあるまい。
意識を回復した主人に相対するにはあまりにも悲しみが濃いさまに、どうしたと張が問うより先に、冷たい繊手せんしゅが大きな手を握り締めた。
項垂れたなまえは握る主の手へ額を寄せた。
さながら罪を告白する受難者のようだった。

「お許しくださいますか……? だんなさまがお目覚めになるのを待つあいだ、なまえ、とても傲慢なことを考えていました」

垂れたこうべがようよう上がれば、覗くなまえの瞳は潤んでいた。

「――ご存知でしょうか。一度でも輸血を受ければ……二度と供給する側にはなれないそうです。もちろん、あなたがそんなことをする機会も、必要も、ないでしょうが……。――ふふ、だんなさまから血をわけていただくひとは、わたしのせいで・・・・・・・、永劫もういないのだと思うと……なまえ、うれしく・・・・感じてしまいました」

唇は笑みの範疇に収まる弧を描いていた。
しかし黒い双眸からはいまにも雫が滴り落ちそうだ。
なまえは一語一語を区切るようにゆっくりと囁いた――「ほんとうに愚かでしょう? 意識のないあなたの横で、まさか喜んでいたなんて」。

張は「は、」とかすれた笑い声を漏らし、重怠い体を更に脱力させた。
あに図らんや、泣きそうな顔で笑っている女は愚かであることには相違ない。
消極的高慢と自尊心、強い自己卑下のバランスで不安定に揺れるさまは、今生そばに置く自分の愛玩物ペットなれば、それもまたいとおしんでなんの責があるだろうか。
かける言葉のひとつ如何いかんでやわらかい心をガラス細工より容易く破砕しうる男は、麻酔薬と鎮痛剤とで鈍る身体をげた。

「今更、変わりゃしない。だろ? 血の数ミリ貰い受けようが……俺がお前に割いてやったもの――時間やら手間やら、なあ、なまえ、お前のせいで・・・・・・失せたものと、さして違いがあるとは思えんが」

こちらも顔色の優れない男は、しかし恬然てんぜんと嘯いた。
低い声音の示すところはたなごころを指すほどに明瞭であり、出来の悪い生徒をたしなめるというには、眼差しは多分に色を含んでいた。
女の戯言ざれごとを一笑に付すに相応の、洒脱な口ぶりはいささかも損なわれず、いまにも落涙してしまいそうななまえのちいさな手を張は逆につかみなおした。

慈しむような溜め息と共に吐かれたセリフは――痛みを覚えるほど強く握られた手は、なまえの涙腺をとうとう駄目にしてしまうのに十分らしかった。
大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら、主と共に生きている女が「あまり、なまえを……甘やかさないでください。身のほどしらずの女にはなってしまいたくないのに」と笑った。


(2024.02.05 改題)

(2021.06.15)
- ナノ -