猫に似ているかもしれない。
と、愛らしく「かまってください」と擦り寄ってくるさまを見て思う。
たとえば部下へ令する際であったり、電話の最中であったり、常にそばに侍るなまえという女は、指先やら声音やらでちょっかいをかけてくるものだった。
たとい注意されようとしらばっくれることのできる程度にささやかに、飼い主以外には気付かれない手練手管でもって、あれこれと纏わりつく手腕はよくもまあやると呆れるほどだ。
程度の差こそあれ、ひとは、相対する人間の言動や情調からの影響を、完全に排斥しえない生き物だ。
殺気立った与太者に怒号を浴びせられたとして、気安くのびのびと和らげるだろうか。
目の前で頑是ない幼な子が蹴つまずいたとして、手を差し伸べるなり声をかけるなりするのに熟慮や躊躇を要するだろうか。
笑顔を浮かべれば相手の警戒をゆるませ、親しみを抱かせたり、はたまた憂い顔を覗かせれば気遣いや哀れみの念を生じさせるのが道理である。
無論、万事はそう単純ではない、包蔵禍心の世界に身を置く者にとっては尚更だ。
しかしながら――双方に利害や思惑、遺恨等々、前提条件がない時宜でという注釈付きとはいえ――並べて朗らかな笑顔に反感を抱きにくいこと、陰気臭いしけた渋面に浮き立つべくもないことは、間然するところがないだろう。
とりわけなまえという女が他者へ与える影響は、相手にとって脅威になりえないその脆弱さのためか、えならぬ見目かたちの清廉っぷりのせいか、そこらの俗輩と比べてはなはだしいものであることを認めるのにやぶさかでなかった。
声音ひとつ、表情ひとつで相手の心証をある程度左右せしめるというといささか大仰ではあるものの、目挑心招の才長けた女の意図的な「ちょっかい」は、性根の悪さも相まって無みするのが難しい塩梅だった。
あれで一応、飼い主の邪魔はすまいと我慢しているつもりらしいが、邪魔という語の定義から再吟味すべきではないかと、通話を終えた電話器を彼女へ手渡しながら張維新は思し召していた。
他者を排した居室で電話のひとつもかけようものなら、あたかもじゃれる猫めいて甘えてくるのがなまえだった。
通話相手には届かないだろうと、擦り寄ってきたり、いとけなく頭をぶつけてきたりと、ごろごろと喉を鳴らさんばかりに目を細めるさまは、飼い主以外には懐かない猫を容易に彷彿とさせた。
あるいは、犬に似ているかもしれない。
と、呼べば満面の笑みで駆け寄ってくるさまを見て思う。
主人が帰投する都度、いかにも嬉しそうに出迎える女の後ろに忙しなくぱたぱた振れる尻尾が見えないのを不思議に感じるのは、なにも彼のみに限ったことではなかっただろう。
飼い主から窘められたり叱られたりすると、ぺたりと耳を伏せた犬よろしく項垂れる佇まいもそうだ。
たとえば主が脱ぎ捨てた衣服を片付けるついでに、香りを濃く残すそれへ顔をうずめて欣々然と相好を崩している所業であったり、仮託する例にこと欠かなかった。
いつやめるよう諌めてやるか張は逡巡しているというのに、どうやらなまえの方は未だバレていないと信じているらしい。
加えてあれはいつだったか、彼女を置いて数日ほどロアナプラを離れていた折、割合とく始末を付け、連絡もせず予定を繰り上げて戻ったことがあった。
とてもかくても休むなら慣れたベッドを選んだだけのことで、さしたる目的や腹積もりもなかった男を、深夜、邸の寝室で迎えたのは熟睡するなまえだった――張のシャツを抱き締めた状態というおまけ付きでだ。
そのまま寝かせてやるか、さっさと叩き起こすか。
男物の服に顔をうずめるなまえを見下ろして、当の主がベッド脇でとつおいつ佇立していたのを、華胥の国に遊ぶ小鳥は知るまい。
以来、苦言を呈するのを先延ばしにしていた。
いたずらに右顧左眄するのも、先延ばしといったドローバックからもさんざっぱら遠い彼がだ。
とまあ、犬を思い起こさせるなまえの挙動は枚挙に遑がなかった。
大廈高楼の天辺で、吸い込んだ紫煙を見晴かす眺望へ吹きつけた。
平生の闊達なものとは似ても似つかぬ情けない笑みを、張維新は形良い厚い唇に浮かべた。
事程左様に間遠く並べてみたところで、とどのつまり惚気の一種には違いなかった――長年そばに置いているなまえについての。
くだらない思案ごと、再び白靄を吐き出した。
その隣では、折節、くだんの女が点けたばかりのライターをしまうところだった。
一目で男物と看取するオイルライターは、大きさといい、デザインといい、扱う繊手には不釣り合いだった。
しかし如才なく操る為様により、「愛用」といっても差し支えないほど彼女の手に馴染んでいた。
張維新の煙草に火を点ける以外に役されないそれは、手ずから下賜したものだ。
なまえが大切に扱うのはもっともかもしれなかったが、さながら繊細なティーカップを扱うかの、どこか恭しさすら感じられる所作にはむず痒い心地を覚えてしまうものだった。
他人にくれてやった私物の後々にまで差し出口をすべくもないとはいえ、然許りバカ丁寧に遇するほどの代物ではないのだ。
過ぎ来し方、軽々に「持っとけ」と放り投げてやったオイルくさいアクセサリーをそう御大層に扱われては、いささか面映ゆいのは否めなかった。
紫煙越しに見下ろすと、なまえの頬が愛らしく染まっていた。
「金義潘の白紙扇」へ向けられる視線は、畏敬もしくは嫌忌にはじまり、腹蔵を勘繰るか、おもねるか、彼自身であったり彼に付随するなにがしかを要求したり、果ては金の轡を食まそうと手ぐすね引いたりと、凡百挙げればキリがなかった――いずれにせよ浅ましい我利の範疇から出ないのは共通している。
しかしながらなまえに限っていえば、ただ見つめることそのものが目的だと張は知っていた。
視線の熱度は燻らす小火より高いだろう。
そのまま凝視されていると火傷を負わされそうだった。
「……なまえ、」
「はい、旦那さま」
名前を呼んだのは、意図してのことではなかった。
熱烈な視線はともかく「なんですか」と応じる声音は穏やかだ。
熱っぽい眼差しが余人のものならいざ知らず、「自分の所有物」から見つめられる居心地の悪さなんぞとっくに慣れていた。
取り立てて俎上に載せることでもない。
だからなんとなく無言のまま、彼女に倣ってじっと凝視を返してやったのは、仕返しや当てこすりといった魂胆はこれっぽっちもなかった。
「……あの、旦那さま……?」
翻って、しどろもどろになってしまったのはなまえである。
咥え煙草へ火を点したまでは普段となんら変わらず、しかし名前を呼ぶなり無言でまじまじと主人が眺めてくるのだから、なまえが戸惑うのも無理はなかった。
なに、どうしたの、なにか不調法でもしてしまったかしら――云々、うろうろ視線をさまよわせ、落ち着かなそうに身じろぎしていた。
赤らんだ頬は初恋を知ったばかりの処女もかくや、「どうなさいましたの」とうろたえているものの、たわむ桃色の唇は戸惑いどころか、気恥ずかしさの混じった欣喜雀躍の心延えをこれっぽっちも隠せていなかった。
――あるいは、小鳥に似ているかもしれない。
と、耳馴染みの良い声が耳朶にふれるたび考える。
かく戸惑い、きょとんとまじろぐ姿も同様にだ。
賢しらな口舌だったり、姦しくあれこれ囀ったりするさまは、ひとによく馴れた愛玩鳥を連想させた。
端境期の揉めごとは致し方ないが、とまれ深窓に仕舞い込まれていたはずの脆弱な女がゆくりなくも巻き込まれるほど、なまえが魔窟、ロアナプラに不慣れだった頃合いだ。
血と硝煙、そしてゴミ溜めの悪臭に慣れていない娘が、怯え、ふるえていた様子は、いま思い返せば感慨深い――なにせ現状がこれなもので。
鉄火場に巻き込まれて悲鳴ひとつあげられないありさまから、常に囀る鳴禽が嘴をつぐんでいる凶事を想起したのは、おかしなことではなかった。
ぴったりの名というには我褒めが過ぎるだろうか――まさか然まで街で定着するとは思ってもみなかったとはいえ。
なにより深夜、高く鳴く声は最たるものだった。
閨に響く、熱せられた糖蜜より甘ったるい声音は、虚栄も音声欲もあらばこそ。
甲高い、しかし大層うつくしい嬌声は、いくら夜を重ねようと倦むことはなく、際限なく男の情欲を煽り立てた。
最中、こちらを求めてくる鳴き声が一等好ましいのだから、やはり鳴鳥に譬うにしくはない。
(※おまけ)
「……ってことを考えてた」
「もう、旦那さまったら! どうなさったのかと思ったら……うふふ、そんなことをお考えになっていたんですね。旦那さまがお望みなら、わたしは猫でも犬でも構いませんけれど」
「なんだその締まりねえにやけヅラ」
「あなたが見つめてくださっているんです。どうして喜ばずにいられるでしょう?」
「……イチャつくんなら余所でやってくれませんかね……。せめて俺が退出するまで待つとか……。あと大姐は、人間の尊厳とやらはないんですか」
「あら、彪は面白いことを言うのね。ご存知? なまえはご主人さまのものなの」
「……ご教示どうも」
(2022.07.07)