ガラスの割れる耳障りな音が響き渡ったのは、怒号とほぼ同時だった。
払い除けられテーブルから落下した皿やグラスは、またたく間に用を成さないガラス片として役目を終えた。
店主が「やはりいまからでも使い捨てのプラスチックかペーパーボウルに食器をすべて切り替えようか」と検討している間にも、元凶の男たちは椅子を倒して勢いよく立ち上がるところだった。

干天かんてんに揺らぐロアナプラ、ドブの腐敗した臭気が少々薄れる街隅にある、道路法を気持ち良く無視した 喫茶店 オープンカフェは、立地柄、歓楽や逗留目的の客といった余所の人間がほとんど立ち入らない。
手狭ではあるものの、清潔感のある――この街にしてはという注釈付きでだが――店内は、昼時をいくらか過ぎてはいたが、客の入りは悪くなかった。
例によって例の如く、外気との温度差など微塵も顧みず、吹きつける空調の冷風は容赦がない。
が、店内で飲食していた面々がだらだらと冷や汗をかいているのは、クーラーの強風のせいばかりではなかった。

「テメェがうまい儲け話があるッて言うから、ンなゴミ溜めみてぇな街まで付き合ってやったってのによ。今更手ぶらで帰れってか? 冗談にしてももっとマシなもん垂れやがれ」
「るっせェな、文句ならオレじゃなくて、さっさと先にくたばりやがった依頼主に言え」
「そのくたばりやがった依頼主のせいで、後始末まで負わされそうになってンだよ。タダ働きなんざオレは御免だからな。死体の金払いに期待するほどおめでたかねェぞ」

言い争いをしているのは三名、この街へ流れてきたばかりらしい。
いずれも体格の良さに類似性があるように人相は悪く、往来に掃いて捨てるほどいるゴロツキ共と大差ない風体は、荒事で糊口ここうをしのいでいるだろう不行跡を思わせた。
些細な諍いから端を発し、あっという間にいまにも銃を抜きかねないほどヒートアップした男たちは、あぶく混じりの唾液を飛ばしつつ野太い怒声をほとばしらせた。
不穏当極まりないことに各々片手が懐へ伸びているところを見るに、さして懇意な間柄でもないらしい。

火器や刃物を持ち出しての騒動など、この悪逆の都でいちいち数える方が奇矯というものだ。
とはいえ罵声の坩堝るつぼと成り果てた店内において、客たちが心の底から「そろそろマジでやめてくれ」と祈りはじめる頃合いである。
折も折、到底その場にそぐわない女の細声が、飛び交う下品かつ一髪千鈞いっぱつせんきんな応酬を遮った。

「――ねえ、騒ぎを起こすのはやめてくださる?」

鼓膜を叩いた声は、夢のように清らかだった。
あまりに場違いな声音に、すわ銃声の一発でもあがらん累卵るいらんの危うき事態であることに、一瞬、その場に居た全員が忘れかけた。
彼らが一様に振り返ると、店の隅のカウンターチェアに腰掛けていたのはひとりの女だった。
もしも白百合の花がひとの形を取ったならけだしこのような姿をしていよう。
それはまぎれもなくなまえ――言うまでもなく、店内で厄介事を起こされるのも勘弁願いたいが、周囲の人間たちが冷や汗まじりに焦慮しょうりょしていた最たる理由が、塔の天辺におわすはずの「三合会の金糸雀カナリア」だった。
なんたる不幸か、余所者共は彼女のことを知らなかったとなれば詮方ないこと、とまれおのれの無知を悔いるいとますら与えられなかったのは不運だったと憐れまざるをえない。

嘱目しょくもくされた女――なまえは、手にしていたタンブラーグラスをソーサーへ戻した。
呆気に取られあんぐり口を開けている衆愚へ、まるで自分の靴に歯を立てている蟻を眺めやるような慈悲深い笑顔で、道理を説いてやった。

「言い争いなんて怖いことはやめて、そのまま席に着いてくれると嬉しいわ。――この靴、今日おろしたばかりで汚したくないんだもの。でしょう?」

同意を求めるようになまえは無邪気に小首を傾げた。
視線を落とした先にあるは、繊細なレース模様の施された白いスティレットヒールだった。
ベビーピンクのストッキングに包まれた嬋媛せんえんたる脚、その爪先を彩る靴はさながら白磁、「おろしたばかり」というセリフにたがわず、汚れひとつ、傷ひとつないうつくしいヒールは至りて細く、歩くためのものというより、芸術品と称した方が相応しい。

とまれかくまれ致し方ないことではあった。
この状況でなによりも靴の心配をしている女なんぞ、とんでもなく愚鈍か、さもなくば気がふれているとしか思えないのも。
睨み合っていた男たちは、弾指だんしの間、毒気を抜かれたように口をつぐんでいたが、すぐに下卑た様相で口角を歪めた。
眼前の相手とやりあう・・・・のは、このあまりにも場違いな女を黙らせてからにしくはない。

「どこのどちらさんか知らねぇが、アンタ、男に声をかけるにしちゃアお行儀がなってねェな。どこの店の女だ? 大事なお靴とやらをその口に突っ込んで、利き方から教えてやろうか」

一番手前にいた男が、誰何すいかというにはいかにも不穏な猫撫で声で、未だのんびりと椅子に座している女に一歩近付いた。
胸倉か顔面でもつかもうとしたのか、嘲弄の意図をまったく隠そうともせず、華奢な喉をくびるなど容易だろうと思わせる浅黒い太腕を、彼は誇示するようにゆっくりとなまえへ伸ばした。

しかし貪婪どんらんな男の腕は残念ながら目的を果たすことは敵わなかった。
代わりに鉛玉を頂戴するハメに陥ったものの、男がそれを寒心する必要はなかった。
なにしろすぐに放たれた二発目の銃弾は、彼の頭蓋を損壊するに至ったからだ。
重い銃声に、びしゃりと湿った音が重なった。
血漿と共に壁にへばりついた男の脳髄は、それよりワンテンポ遅れて床に流れた。
潮風を濃い血臭が打ち消した。
銃声、須臾しゅゆの静寂、店内に響き渡ったのは聞くに耐えない醜い叫喚だった。

「ッ!? ンだテメェら!?」
「知るかッ、そいつらも女ごとヤッちまえ!」

床に転がった仲間の、困惑に目を見開いたままの死に顔へ、彼らは思わず視線を吸い寄せられた。
しかしながらその行為はあまりに迂愚うぐだったと言わざるをえない。
我に返り、腰の銃を抜こうとしたが、致命的な後手を挽回する余地はなかった――即座に二人目も同じ末路を辿った。

女の背後に影のように付き従っていた黒服は二名おり、そのうちのひとりの手から細く硝煙がたなびいていた。
背景の喪服じみた黒服に同化してしまいそうな黒い銃口は、あやまたず、分を弁えない愚か者共に向けられていた。
狂乱に目を剥いた残りひとりがなにか喚こうとしたが、残念ながら胸に穴が開く方がはやかった。
破裂した心臓から噴きこぼれた血を口から逆流させつつ、どうと床に崩れ落ちた。

仰々しい怒号ひとつをあげるより、速やかに撃鉄を起こす方を優先させる無駄のなさは、暗渠あんきょの果て、血と硝煙でできたロアナプラにおける踏んだ場数の違いによるものだろう。
浅薄極まりない二束三文の流れ者共との差など、瞭然である。
さながら聾唖ろうあ、間抜けに口を開けて倒れ伏した男たちを前に、なまえは悩ましげに、ふうっとちいさく溜め息をついた。

「この街に不慣れなひとたちだもの。穏便に手を引いてもらいたかったんだけれど……。――それに、もし旦那さまのお耳に入ったら、またお出かけできなくなっちゃうかもしれないし」

血溜まりのなかで短い痙攣を繰り返している死体を見やって、平生寛宏かんこうの君子をもって通っている「穢れなき処女」は、大層悲しげに眉をひそめた。
楚々としたかんばせがそうして曇るさまは、つい手を差し伸べてしまいたくなるほど見る者の庇護欲を否応なく掻き立てた。
憂い顔の理由は後者によるものがなにより大きかっただろうが。
お気に入りのティーカップが割れたときの方がまだ悲嘆に暮れるということを知っている部下たちは、ともあれしかつめらしい表情を崩すことなく、ことすくなに彼女へ身を屈めた。

「大姐、お怪我は」
「ええ、大丈夫よ。ただ……」

どうしようかしら、となまえは呟いた。
おっとりと頬へ手を当てて呟くさまは、まるで繰り広げられた血腥ちなまぐさいスラップスティックが見えていないかのようだ。
否、間違いなく彼女の瞳は見つめてはいた。
傍らの死体を――というか、広がる血潮を。

先程よりもずっと物憂げに、なまえは足元を見下ろした。
真っ赤な水溜まりは未だ熱い湯気をあげ、二度と動かない当人の代わりに刻一刻とその範囲を広げ続けていた。
もしも彼女がそのまま足を踏み出そうものなら、白い靴を汚してしまうのは必至だった。
辛くも血膿から逃れた清潔な床までは、たった二、三歩ほどの些細な距離だ。
しかしながらぴょんと飛ぶことも、椅子を引き摺ることも、その纏足じみたピンヒールでは難しく、それでなくとも小鳥は衆人環視のなかはしたない真似をしたがらない。

と、部下のひとりが喪服じみた黒い上着を脱いだ。
ばさりと広げたかと思えば、片膝を着いてなまえの足元へ敷いた。

「――どうぞ、大姐」
「まあ、あなた、やさしいのね」

ひざまずいて仰いでくる男へよみするようになまえは微笑んだ。
品良いワンピースの白裾がさらりと揺れた。
少女のように無垢な笑みを浮かべ、なまえは「ありがとう」と立ち上がった。

黒い上着が血に浸されじわじわ赤に濡れていった。
パンを踏む娘の驕慢さで、未だ濡れ汚れていないところを金糸雀カナリアはおっとりと躊躇いなく踏み、差し出された白い日傘を手に取った。
つと「ああ、そうそう」ともう片方の部下を見上げた。
女主人の眼差しを受け、彼は委細承知いさいしょうちとばかりにがえんじた。
懐から紙幣を取り出すと、薄くはない厚さの束を傍らのテーブルへ置く。
嵐が通り過ぎるのをひたすら大人しく待つように、脂汗塗れで硬直していた店主を顧みて、なまえは可憐な笑みを添えてやった。

「騒がしくしてしまった迷惑料よ、受け取ってちょうだいね。お掃除が大変でしょうから」

囀りは、春を告げる小鳥もかくやあらん。
「それではご機嫌よう」と白百合の香りと共に去っていった金糸雀カナリアを呆然と見送り、店内にいた面々は、忘れていた呼吸をようやく再開した。
むせ返らんばかりに血臭漂う惨状のなか、すっかり冷めてしまった食事を続行する気には到底なれなかったが。


(2020.12.05)
(2024.02.07 改題)
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