綯交ぜ
なまえを眠りの園から追い払ったのは、夜闇を思わせる男の声だった。
名前を呼ばれてぱっと目が開いた。
瞬間、見開かれた双眸に去来した感情がなんだったのか、彼にも、彼女自身にも判然としなかった。
怯え、不安、猜疑、孤独、はたまた恐怖、そのすべてを呑んだような目は無様に揺れていたが、自分を覗き込む主人に焦点を結んだ途端、どうして躊躇する遑があるだろうか、白い目蓋がふっと覆い隠した。
そして再度夜が現れたときにはそのほとんどが溶けて消えていた。
「っ、すみません、だんなさま……。わ、わたし、」
「魘されてたな。無理に起こさん方が良かったか」
「いいえ、ありがとうございます……。もうしわけございません、おやすみになっていたのに、ご迷惑を」
真っ白なシーツに溺れるように横たわっていたなまえは、ふるえる手を恐る恐る隣の男へ伸ばした。
痙攣には気付かないふりをしてやって、張は比べるまでもなく遥かにちいさな手を握り引き、怯えるように萎縮した身を抱きすくめた。
囲い込むように腕のなかに閉じ込めると、腕のなかの肢体から徐々に強張りはとけていった。
深更の褥に尽くす条理などあるまい、なまえは申し訳なさそうな声音で「ごめんなさい、こわいゆめを見ただけです」と呟いた。
「そろそろ夜泣きは卒業してくれよ。子守を雇うぞ」
囁きは宵に相応に密やかだった。
溜め息をつく表情は、聞き分けの悪い子を前にした親そっくりだ。
なまえのただひとりの主は、右手に彼女の黒髪を弄びながら低く笑った。
平生の飄逸なものより多分にやわらかさを増した偉丈夫の低い声音は、ふたりきりの閨ということを踏まえてもあまりにやさしいものだった。
くだらない癇癪でも起こして、すべてなまえがご破算にしてしまいたい衝動に襲われるほどにだ。
どんな恐ろしい夢魔といえども、寝物語を紡ぐように囁くこの男ほど、深くなまえを脅かすことはできなかっただろう。
幸福が過ぎると、恐ろしくなる。
ならば恐怖を薄めたものが幸福だとでもいうのか。
「おねがい、いじわるをおっしゃらないで、旦那さま。あなた以外のとなりで、わたしがねむれると?」
「その俺の横で悪い夢とやらを見て、居丈高にまだそんなことが言えるたあな」
くすぐりめいた主の言葉は、なまえをちいさく笑わせた。
頑強な檻のなかで太い首筋へ顔をうずめた。
夢のなかで、彼女以外を抱いていた腕だった。
夢のなかで、彼女以外がふれていた首だった。
逞しい首へなまえは口付けをひとつ捧げた。
ただ愛玩されるために存する細い指では、たとい絞めようともきっと痕すら残せないだろう。
首筋へ額をくっつけたまま、すんっと鼻を鳴らした。
甘ったるい仕草は、煙草や香水の濃い残り香の隙間から彼自身の香りを探すようだった。
幼な子をあやすように頭のてっぺんへ張の唇が落とされて、なまえの目の奥が熱く痛んだ。
「いいえ、いいゆめでした……だって、旦那さまのゆめだもの」
全美
オーク材の重厚な扉一枚で隔てられたサルーンから途切れ途切れに漏れ聞こえてくるのは、貴顕淑女たちの話し声や笑い声だった。
各々の談論は聞き取れず、薄布を幾重にも織り込んだかのような声音はあたかも寄せては返すさざなみのようだ。
言わずもがな、そんな形容など似付かわしくない美辞と麗句に塗れた包蔵禍心は泡のように弾けてスワル・セ・パルフェもかくや、薄布はさながら一枚一枚が謀略と金員で織られた毒である。
サルーンへ至る瀟洒なエントランスホールの床には濃紅の絨毯が敷かれていた。
やわらかい絨毯どころか、そもそも歩行には到底向かない、しかしこの夜会にはなにより相応しいスティレットヒールで佇立するなまえは、躊躇いがちに小首を傾げた。
「……ほんとうに?」
彼女が纏っているのは艶麗なアワーグラス・ドレスだった。
「ドレスは有刺鉄線のフェンス如きものであれ、視界を妨げることなく目的を果たす」とは言い得て妙、目の覚めるような鎖骨や上肢を的礫と露わにしている夜会服は華やかではあれど、平素、素肌を露出しないものばかり着ているなまえは、そこはかとなく落ち着かなさそうに眉をひそめた。
主人によって買い与えられたものなら、最前のように「似合っていますか」などと蒙昧な問いを吐くべくもない。
なにしろ今夜のドレスは彼の選んだものではなかった。
心許なさそうに己を見下ろすなまえを許さなかったのは、当の彼女を侍らせた飼い主――張維新だった。
ややうつむいていたなまえの頤を、ついと男の指が掬い上げた。
「――は、見劣りする女を横に置くと?」
いけしゃあしゃあのたまう偉丈夫からサングラス越しに見下ろされ、なまえは「っ、」とちいさく息を呑んだ。
くすぐるような賛辞、たっぷりの揶揄によって、分厚くやわらかな絨毯にすら取られなかった足が、膠礬水を引いたようになめらかなその微笑ひとつで危うく頽れさせられるところだった。
低い囁きは不遜でも気障でもなく、名にし負う「雅兄闊歩」たる洒脱なものだった。
金甌無欠なテーラード・ジャケットの艶は螺鈿めいて平生よりはなはだしく、彩る威容は眩いばかり、闇夜から滴り落ちたかのような形様は、しかしながら同時に、光に溢れた優美高妙なパーティー会場をも容易に支配するだろう。
「……随伴のお相手次第でしょうけれど」
赤らんだ頬を隠すようになまえはつんとそっぽを向いた。
かつて樽俎折衝において「媚を売るのは苦手です」と心細そうに吐露した彼女に対し、「そんなもん、後生大事に取っとくつもりか」と鷹揚にのたまったのは眼前の主だった。
――クソの役にも立たねえおべっかなんざ、さっさと天井値で売り払っちまえ、と。
従容自若なさまで、ただしすべからく己の利と矜持だけは委棄するなと命じたのは、いまと変わらず素知らぬ顔で笑う張維新だった。
「それじゃ、お手をどうぞ、お嬢さん。俺にエスコートされてくれんかね」
なまえの手を取る、張の堂に入った所作はやはり際限なく恭しかった。
相手がなまえだからではなく、女をエスコートする手練手管に恐ろしく長けているだけだと知っている彼女は、しかしまるで大切なものを扱うような男の手指のあまりの繊細さに、胸奥が苦しいほど焦げてしまいそうだった。
なまえはみっともなく潤んでしまいそうな瞳を一度だけ伏せて、そして作為的に整った笑みを拵えてみせた。
血の気や情感をわずかに欠いた微笑は、精巧な造花めいて完璧ではあれど、大方、主人の意には沿うものではないだろう。
しかし権謀術数渦巻く纓絡の招宴においては、金糸雀が纏えるなによりうつくしい鎧である。
「……喜んで、ご主人さま」
児戯
「……」
「……だんなさま?」
どうしたの、となまえは首を傾げた。
張の厚い掌上へてのひらを乗っけたままの姿勢でだ。
本日もロアナプラは快晴、見晴かす眺望を惜しげもなく熱河電影公司ビル最上階へと供していた。
その座り心地の良いソファにかけていつものように読書をしていたなまえは、きょとんと目をしばたかせた。
なんのことはない、突然、飼い主が自分へ向けて手を伸ばしてきたためだった。
手中をさらすように上を向いた張のてのひら、その掌上へなまえはそっと手を重ねた。
さしたる疑問も腹案もなく、ただ張の手があったから乗せただけで、眼前になにか近付いたときに咄嗟に目をつぶるのとほとんど同じ、反射のようなものだった。
比べるまでもなく彼女のものよりずっと大きな手はところどころ固くなり、男性らしく節くれ立っていた。
なまえの頬がゆるんでしまうのも致し方ないことだった――なんて大きな手かしらと。
一体どうしたのだろうと首をひねるなまえに、翻って張は危うく顔をしかめてしまうところだった。
それも至極、情けない方向にだ。
彼が腕を差し伸べたのは、なにも飼い鳥の手を取るという意図あってのことではなかった。
なんとなれば携帯電話がなまえの傍らに転がっていたためだ。
読書をしているなまえに配慮したつもりも毛頭なく、黒い電子機器を使用するために単純に自分で取り上げようとした動作が、こんな児戯を誘発すると誰が想定しただろうか。
主人の掌上へ繊手を無防備に乗っけたなまえのありさまは、従順な犬が「お手」をするのに大層似ていた。
武器ひとつ満足に扱えないちいさなてのひらを振り落とすなんぞ、そこの携帯電話を拾い上げるより遥かに容易である。
しかしなまえの行動をついうっかり「かわいい」と思った男は、しばらくそのままにしてやっていた。
なまえは不思議そうに、その実、幸せそうにとろけきった表情で首を傾けていた。
(※おまけ。その後)
「……そろそろ時間か……。なあなまえ、取ってくれるか、そこの携帯電話」
「お電話? ああ、こちらの――あっ、そう、そうだったんですね……! すみません、旦那さま、わたし、気付かず……っ、うう……」
「なに泣いてんだお前」
「泣いていません!」
「言い直すか。なに恥ずかしがってんだ、涙目になってまで」
「だ、だって……! 勘違いして申し訳ございません。あなたも、はやくおっしゃってくだされば……」
「そりゃあもう小鳥があまりにも嬉しそうで、気が引けてなあ」
「うう……いじわる……」
「手を繋いだまんまかけられると思うか? 電話」
「……なまえがボタンを押してあげないとお電話もできないんですか、旦那さま」
「そうだな、お前が操作してくれるんならこの手は離さないで済むんだが。なあ、なまえ?」
「………………してさしあげます」
「はっはっは、んな目で睨んでくれるなよ、なまえ。もう時間だって言っただろ。そう煽られちゃあ敵わん」
「……もっとなまえに煽られてくれませんの、旦那さま」
「ふ、ご機嫌取りくらいはしてやるよ。その様子だともう要らねえみたいだが」
「ご安心なさって。必要ですから」
ゆらゆら
かくっとちいさな頭が傾いた。
次いで、弾かれたようにぱっと顎を上げたなまえの顔は、しかし到底隠し果せないほど濃厚に眠りの気配に覆われていた。
「涎垂れてるぞ、なまえ」
「……おあいにくさま、だまされませんよ」
張がサングラス越しに一瞥を投げてやると、隣に座っているなまえはまたも目を閉じていた。
夜も更けに更け、眠らぬ街といえどもさすがに繁華の最たるときをやや過ぎた時分だった。
統べる魔都を眼下に臨む層楼の天辺、玉座めいたソファにだらりとかけた、居住まいひとつすら画になる伊達男――張維新はともかく、その隣に侍るなまえは、端的にいって、おねむの時間をとうに過ぎてしまったようだった。
定時などという胡乱な概念もあらばこそ、仕事中の主へ「まだ終わらない?」などと安直に問いはしないものの、なまえの様子はなにより雄弁に「ものすごく眠たい」と主張していた。
飼い主が寝台に向かうのを待つペットの姿は健気ではある。
とはいえゆらゆらと揺れる華奢な身は、隣にいて気が削がれるのも正直なところだった――そのうちどこかにぶつかりやしないかと。
「……ったく、なまえ、先に寝てて良いって言っただろ」
「んんー……はい」
相も変わらずなまえはむにゃむにゃと不明瞭な声をこぼした。
まともに聞いているのか、いないのか。
大方、後者だ。
平生、牡丹めいて品良く座している金糸雀にしては珍しく、いまにもソファに沈んでしまいそうな塩梅であり、張は力の抜けたやわらかな肢体を引き寄せてやった。
男の腕に逆らうことなく、なまえは張へもたれかかったが――
「だめ」
「あ?」
細腕が伸びて突っぱねられた。
張にふれる、ふれられることをなにより喜ぶ女によるわかりやすい拒否の姿勢に、彼は形良い太眉をひそめた。
「……是非とも理由を聞かせてほしいな。なにが駄目なのか答えられるかね、お嬢さん」
「だって……ね、だんなさまとくっついていたら……眠くなっちゃう、から……だめです」
「いやもう陥落しかかっちゃいるだろ」
睡魔に、と呟いた張に、しかしやはりなまえは舌足らずに「やらぁ」と首を振った。
抵抗というより正しくはぐずりであり、張は咥えていたジタンを灰皿へ放って無防備ななまえの体を抱き上げた。
「んー……あれ、だんなさま、おしごとは……?」
セリフは窘めるような響きを保ってはいたが、しかし主人に横抱きにされたなまえの花がほころぶような幸せそうな笑みは、いかんせん眠気のためか、まったく隠せていなかった。
ふわふわと微笑んでいるなまえを抱えて歩きつつ、張は「寝てろ、俺ももう上がるところだ」と嘯いた。
ほとんど眠りに意識を明け渡しつつも「はい」と答えた女の声は、世界中の幸福をその身ひとつに集めてしまったように甘やかだった。
ゆるゆる
「……っ」
普段通り「旦那さま、」と声をかけようとしたのだろう、室内へ入ってきたなまえは、張が電話中であることに気付いて慌てて口をつぐんだ。
踵を返して退出すべきか否か逡巡したのも、ほんの一瞬だった。
張の眼差しからその指示を読み取れないことをなまえはきちんと見確かめ、足音を潜めてソファに坐す主人の元に歩み寄った。
彼が受話器を握っているのとは反対側の左隣へ、音を立てないようにそろそろと腰掛けた。
「――ん、そいつはなによりだが、俺の手に委ねようって腹が気に食わねえな。本国に建議するほどの沙汰でもない……が、――まあ、構わんさ。彪がそこら辺、上手く糊塗するのに長けてる。持ってってやれ。はは、面倒臭えことさせやがってって当人のツラが浮かぶがなあ」
いやしくも金糸雀が仕事中の飼い主の邪魔をするはずもない。
ともあれ、彼の様相、語調から緊急性の高いものではないと察したらしく、彼女は張の身へくっつくと、おもむろに逞しい左腕をぐいぐい持ち上げてきた。
飼い鳥の行動に気取られて通話相手から意識を逸らすような愚を、無論、全き主が犯すべくもない。
とはいえこの女は一体なにをするつもりなのやらと、張はやおら片眉を上げた。
よどみなく続く会話の最中にも主人から注視されているとも知らず、なまえは鮮やかな手際でよいしょと持ち上げた主人の腕のなかへ収まってしまった。
その場所は彼女の身にぴったりと合っていた。
まるではじめからなまえのために用意されていたかのようだった。
次いで、男の重い腕を自分の腹へ回させた。
左腕で囲い込まれた状態に自ら至ると、なまえは張の厚い肩口へ頭を預けてきた。
眺め下ろした光景は、一仕事終えたとばかりになまえがふうっと一息つく姿だった。
漏れる吐息はそれはそれは満足げ、やり遂げた感が満載である。
顔はゆるゆるととろけるようだった。
頑是ない笑みは仕事中の飼い主に見られることを想定していないらしく、隙だらけ、というより隙しかない。
「はー……」
平生とらえどころのない飄々とした風体の彼にしては珍しいことに、張維新は大げさに溜め息を吐いた。
右手に受話器、左腕になまえを抱いたままの体勢でだ。
電話の向こうで「大哥?」と訝しげな部下の声がした。
常になくだらりと脱力して天井を仰いでいる張を見上げて、きょとんとなまえは首を傾げた。
(2021.03.24)