1
「そりゃまた面倒なことになったな」
口上に違わず、張維新は心底億劫そうに顔をしかめた。
車上、報告を受けて駕を枉げたのは、飼い鳥に厄介事が降りかかったためだった。
仔細まで把捉はしていないものの、はやい話、金糸雀がここ十余年ほどの記憶を失ってしまったというのだから――あに図らんや、彼のセリフ通り、正しく「面倒」に違いなかった。
十年以上ということは、取りも直さず張維新に拾われてからの記憶が一切ないと、肉体はそのまま、中身だけ張に出会う前、十代の頃のなまえに戻ってしまったのと同義だった。
どうしてまたそんなことにと痛む気のする頭を押さえる真似を披露してやろうかとも思ったが、ともあれ小鳥の身を保護してやらねばなるまい。
なにしろ「三合会の金糸雀」といえば、遺憾ながらこの街である程度の認知度を有していた。
銃把の硬さを知らないことも、その手の白さに比例するかのように、組織の内情を知悉していることも――いまはともかく。
とまれかくまれ、もし仮に街の衆愚が聞きつけようものなら、くだらぬ崖端を歩かないとも限らなかった。
帰路ということもあり、道すがら拾い上げるかと張は診療所へ立ち寄った。
主人がわざわざ労を取ったのだ、金糸雀ならば居た堪れなさそうに、はたまた喜色満面に、迎えに来てくれた飼い主へ真っ先に駆け寄ってきたに違いない。
しかしながら現実にはどちらも起こらなかった。
病室にいたのは喪服じみたお仕着せの黒服が二名と、なまえの姿かたちをした女だった。
それほど狭い病室ではなかったが、ただでさえ堅気には見えない圧迫感のある黒服の男たちが複数名詰めているとなると、狭苦しく感じられるのも仕方ない。
その只中に埋もれるように囲繞されていたのは、白いワンピースドレス姿の女だった。
折も折、簡素なスツールに腰掛けた彼女は、おもむろに鈍い動作で面を上げた。
人形めいた瞳が「飼い主」を視認して、ゆっくりと一度だけまばたきをした。
「……すみません、突然のことで、まだ戸惑ってはいますが……お医者さまや部下の方々から、説明をお聞きしました。わたしには、ここ数年の記憶がないということも――いま、あなたのところにいることも」
「はじめまして」も「こんにちは」も不適当と理解しているのだろう。
ふれれば破裂せんばかりにひりついた空気など我関せず焉、まばたきすら躊躇われるような沈黙を物ともせず、なまえは間ゆるく呟いた。
「なにぶん不慣れなものですから、ご迷惑をおかけすると思います。お邪魔でしたら余所へ……香港へでも、戻していただければ……」
ただでさえ細い声は少々聞き取りづらく、加えて、ひとつひとつ舌の上で感触を確かめてから口にするような喋り方だった。
とはいえ彼女に、別段パニックに陥っている様子はなかった。
己を取り巻く突拍子もない状況についても把握はしているらしく、態度も口調も冷静、かつ慇懃だった。
傍から見れば驚くほど落ち着いているなまえを見下ろし、張は煙草の代わりに、口の端へ薄い苦笑を湛えた。
コートのポケットに両手を突っ込んだまま、内心「思ったよりこれ厄介だな」と呻いていたのは、当人以外が知るべくもない。
男の浮かべる微苦笑は、平生通り言笑自若を絵に描いたようだった。
その立ち姿ひとつすら画になる偉容は、小鳥ならば惚れ惚れと相好を崩していたに違いないほどだった。
張はいささか気疎げに「そこまで言うんなら、」と肩をすくめた。
「戻してやるのは構わんよ。ただ、待遇はここにいるのとそう変わらないと思うがね。すくなくとも呑み込んでてもらいたい、生家へは帰してやれない――ってことだけは。立場上、護衛も付けてやらなきゃならんしな。……不自由とは思わないだろう、聡い“お嬢さん”なら? 部類やら立場やらは変わっても、自分の身にあれこれ付随する面倒ってもんがある。私情とは関係なく、な」
「……かしこまりました。それではこちらでお世話になります」
細声は著しく抑揚に欠けるが、反駁することなくただ宜うばかりなのは幸いというべきか。
さほど馴染みがないことではないのだろう、彼女自身の意思や感情とは離れたところに、自分の値打ちがある境涯に。
いわく「お嬢さん」としての身の上、いまならば「張維新の女」としての境遇――その点において、彼女自身の意思も感情もさして重要ではないのは共通の事実である。
目を側めて淡々と「もうすこしお医者さまからお話があるそうです」と言う彼女を置き、多忙な主人は病室を後にした。
無駄口ひとつ叩くことなく佇立していた黒服たちへ目をくれると、彼らは堅い表情で、やはり無言のまま頷いた。
2
しんと静まり返った病室に、躊躇というには当惑の勝る声が落ちた。
「――大姐、」
「……え、ああ……わたしのことでしたね」
数秒のタイムラグを経て、自分が呼びかけられたということに遅れて気付いたなまえが「なんでしょう」と頤を上げた。
ガラスに似た黒い双眸に見上げられ、声をかけた当の黒服たちはしかつめらしい表情は崩さぬまま、しかしわずかにたじろいだように口ごもった。
「……把握してる限り、医者から話なんぞなかったはずですが」
「申し訳ございません。お断りしないと、あのままご一緒しなければならないようでしたから……あの方と。わたし、まだわからないことが多くて、ご迷惑をおかけしてしまいそうで」
釈明は掌を指すようだった。
現状より無礼を働きたくないですし、と殊勝に吐いてみせた彼女に、黒服たちはそれ以上言い募ることもできず「……そうでしたか」と頷くだけに留めた。
「それでは邸のひとつへ案内します。警備は万全なんで、ご安心を」
「はい」
愛想もなくなまえが「お願いします」と頭を下げた。
見慣れぬ光景に、思わず彼らは苦笑してしまった。
自分たちへ頭を垂れる金糸雀の姿など、滅多にお目にかかれるものではない――否、遭遇するのは初めてではないだろうか。
一般人ならば、否、この魔都の表六玉ですら尻込みする強面共が、苦笑とはいえそうして居心地悪げに顔を和らげているさまは、威圧的な見てくれとの差異が際立ちいっそ親しみすら覚えるほどだったが、果たしてなまえがそれを見ていたか。
そもそもたとい視認していたとしても、いまの彼女は――。
「俺らに頭なんて下げないでください、大姐」
「こいつの言う通りです、その、どうにも落ち着かねェもんで」
「……そうですか。気を付けます」
従順に首肯したなまえはゆっくりと立ち上がった。
白いスティレットヒールが頼りなげにぐらついた。
さらりと揺れた黒髪に遮られ、女の相形に滲んだ心情を掬い上げることが、誰にできただろう――飼い主ならば、あるいは。
3
廊下に響く革靴の音は、人を足蹴にするためのものかのように硬かった。
「後始末は?」
「滞りなく」
洒然たる足取りの男が言すくなに問えば、優秀な部下はこれまた簡潔に答えた。
「身柄はまるごと押さえてます。幸い、恩も仇も後ろもねェやつらだったもんで。大姐が巻き込まれた件ッてのが、街のルールってもんを知らねェ、最近ここに流れてきた輩同士の騒動で――偶然居合わせた大姐を狙ったんでも、組織目当てのもんでもないのは確かです。大姐はとばっちりを受けて、医者曰く強いショックでも受けたとかで」
「ったく……外に出しゃあ、なんかしら厄介事を起こしてくるな。ウチの小鳥は」
懐からブルーの箱を取り出しながら、張が慨嘆した。
小鳥の非をなじるかの口ぶりに、彼に追従していた彪如苑は、一応「大姐の責じゃアありませんが」と言い添えた。
「外傷もなく、記憶障害とやらは一日二日程度で治まる公算が大きいそうです。それまでは安静にしてろと。……それと、大哥。元凶のバカ共にどう始末を付けさせます。全員まだ一応生かしちゃいますが――あとは大哥のご裁定を」
いみじくも事程左様にと指示を仰げば、ボスは鷹揚に「さてどうしようかね」と首をひねっている。
上司の思索を遮るつもりは毛頭なかったが、彪は「……それにしても良かったですね」とこぼすのを堪えられなかった。
先程病室で目の当たりにした小鳥の様相は、周章狼狽から程遠かった。
品良い挙措に、平生との落差は見受けられなかった。
反応はひどく鈍いが、置かれた状況を鑑みれば、まあ順当といえるだろう。
もしも素行も態度も悪い軽率な娘だったなら、それこそ扱いづらいことこの上ない――そんな金糸雀なんぞ見たくもないし、諫めるにしても、こちらはなにくれと気を遣わざるをえまい。
たかが女ひとり、されど女ひとり。
なにしろそれが悪名高き「金糸雀」ともなれば、突如湧いた危殆に戦々恐々としていたのは彼だけではなく、他の部下たちも同様だっただろう。
それだけに安堵の感が強かった。
「あんまり変わりないようで、こっちとしても安心しました。女ひとりとはいえ、大姐に泣き喚かれでもしたら手に負えねェ」
「変わりない? あれが? は、冗談きついぜ、彪」
大層楽観的な部下の言に、張は皮肉っぽく唇を歪めた。
取り出した煙草へ自ら火を点けた。
胡乱なラインを描いた口の端、ジタンを燻らしながら、大儀そうなしわを眉間へ刻んだ。
濃い紫煙をぶわりと吐き出した。
「久々の怯え顔はそこそこ楽しめたが……やれやれ、数日とはいえあれが続くと思うと、煩わしいどころの話じゃねえな」
「怯え顔?」
「ん? あれ怯えてただろうよ。珍しいもん見れたな、彪。まあ、なにも知らねえ“いいとこのお嬢さん”がびくつくのも自明だわな。こんな風体の男共に囲まれりゃあ」
ことも無げにさらりと吐いた張に、彪は片頬を引き攣らせた。
さすが飼い主というべきか、今世、なによりも彼女を把握しているボスが言うのだ、蓋しそうなのだろう。
ということは諾々と従うばかりかと思いきや、あれで小鳥は怖がって――敬して遠ざける言動だったというのか。
「……昔ッから、腹の内の読めねェ女だったんですね」
「さあな。俺が拾ったときはもうすこしマシだったような気もするが。――まったく、つまらん愚痴のひとつも吐きたくなるってもんだ。まさかこの歳になってまた“あれ”の躾をやらされるたあな」
診療所の廊下の窓から強い日射しが入り込んできていた。
今日も今日とて陽光は強く、群青は鬱陶しいほど濃い。
蜷局巻く白靄越しに、碧落へ一瞥を投げた男は、うっすらと片目を眇めた。
歩に合わせ、白いマフラーを纏わせたロングコートが、不可逆的な夜を手招くように黒々と翻った。
平生と変わらぬ洒脱な語調とサングラスに眩まされ、元来甘さと愛嬌とを多分に含んだ目元へ、忌々しげなしわが刻まれていたことに、凝った闇夜が如き虹彩がはなはだ陰惨に光っていたことに、気付ける者などこの場にはいかった――小鳥ならば、あるいは。
4
郊外に位置する邸の一角、瀟洒な居間のソファは海に面して配置されていた。
南国に限ったことではないが、強い陽光による家具の傷みを避けるため、住居の採光を南よりも北に求めることがままある。
なだらかな丘陵上に構えられた邸は、しかし海を臨む南側に主だった居室を寄せた表構えだった。
レンガ敷きのポーチへ続く大きなフランス窓からは、宵口の風に揺れるタマリンドや椰子、落陽に射られた海が名残惜しげにきらめくさまが、遮られることなく贅沢に観賞できた。
駘蕩たる海と空、広がる佳景に見惚れていたわけではないのは、指で突こうものならふっと掻き消えてしまいかねない後ろ姿から察せられたが。
窓辺の女の後ろ姿は、一幅の絵のようだった。
電気も点けず、なまえはそうやって窓の外をぼんやりと眺めていたようだった。
もしかしたら日が陰り始める前より、ずっとその状態でいたのかもしれない。
ただ消費するように「在る」だけという夙夜は、張維新の小鳥としての累日となにも変わりはしないが――然もあらばあれ、無聊を託つ身といえど、まぎらすすべを知らぬわけではないだろうに。
薄暗い部屋、繻子のように白々と浮く妙相を眺める男の眼差しは、やはり済度しがたいほどに不祥だった。
座していた女が、ふと振り向いた。
無表情のなまえを見下ろし、張は取り繕うことなくつくづく面倒臭げに顔をしかめた。
いまの彼女は、突然、故郷から遠く離れた異国の地に置かれ、見知らぬ男たちに囲まれ、糅てて加えて「お前は情婦の立場だ」と皆目理解しがたい 事態 に放り込まれた、「年端もゆかぬ少女」である。
せいぜい丁重に扱い、甘言でも並べてやるべきかもしれなかった。
しかしながら、そんな気も起こらない。
なぜならその必要がないことを、彼は理解してしまったからだ。
薄暗い室内にいたせいか、見上げてくる女の瞳孔が開いていた。
洞の如き双眸に見慣れた熱はなく、かといってこちらを凍えさせるほどの気概もない。
次の瞬間、眼前のすべてがぱちんと破れたとしても、なおかつ静かに座しているだろうと思わせる面差しだった。
さながら、悪趣味極まりないことに、なまえと同じ目鼻のパーツを用いてつくった人形のようだった。
そのとき彼は気付いた。
嫌悪も恐怖も向けてこない「なまえ」の姿、それ自体を目の当たりにするのは初めてであることに。
この状況である、思慕など端から望むべくも、求めるはずもない。
しかしながら良くいえば静謐、悪く――正確にいえば死人じみた眼差しには、およそ感情というものがごっそり欠如していた。
本来ならばこんな女だったのだと思うと辟易する。
ぞっとしねえなと、張は衷心より呟いた。
「……なにか、ミスター?」
依然として無言で佇んでいる彼を見上げて、なまえが小首を傾げた。
細い声には、やはり熱も冷たさも、甘さも苦みもなかった。
あれで世故に長けていたんだなといっそ感慨深くすら思いながら、張は厚い唇へ寛裕な弧を強いた。
ようやく電気を点ければ、彼女は眩しげにそっと目を伏せた。
「ここからの眺めが気に入ったんなら邪魔して悪いがね。いつまでも座ってるわけにもいかないだろう、今日はゆっくり休んだらどうだ。明日は時間を取ってやったから、いくらか説明をしてやれると思うよ。――通り一遍のことは部下たちから聞き及んでるだろうが」
「はい、皆さんには良くしていただいています。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
「……それじゃあどうぞ、お嬢さん。寝室に案内しようか」
いささか芝居じみた挙措で促せば、なまえは従順に彼の後に着いてパーラーを出た。
他に行くところも居場所もないと知っている彼女は、三、四歩ほど後ろというひどく他人行儀な距離で、大人しく張に追随してきた。
実や、歩きづらかったとみえて、普段のスティレットヒールではなく踵の低いフラット・シューズを履いているため、消すすべも知らないくせに足音はほとんどなかった。
膿むような沈黙に耐えかねてというわけではないだろうが、やにわになまえが呟いた。
「――わたしは、煙草を吸うようになったんですね。意外でした」
「……どうしてそう思った?」
「体から、煙草のにおいがします」
柳眉のひとつでもひそめれば良いものを、顔色は変えないまま、ただしほんの少々――主以外はその片鱗すら見出せなかっただろう――疎ましげに、なまえは自らの体を見下ろした。
全身に深く染みついた黒煙草の香り――葉巻とまがう鋭い薫香は、清廉な十代の娘の嗅覚には重かろう。
目に見えない所有の証を纏った女は、フラットな声音のまま「ライターも持っていましたし」とこぼした。
韜晦するような女の細声を背に受け、張は夜闇が濃くなりつつある景観へ視線を投じた。
彼女を連れているとわずかに足が遅くなる己を自覚しながら、喉の奥で静かに笑った。
「……吸わないよ、お前は」
ようやく主寝室へ辿り着き、ドアを開けてなまえを通してやれば、広いベッドを見つめた彼女がぽつりと呟いた。
「――……そう、ですよね」
その日初めて、寡言な女の顔に表情らしい表情が浮かんだ。
戸惑いと恐怖だ。
仮令、鼻先へ銃口を突きつけられたとしても、人形めいた面様はここまでわかりやすく動揺を露わにはしなかっただろう。
完璧に整えられた寝台を、口を開けた奈落かなにかとでも思っているのか。
凝然と押し黙っているなまえを見下ろし、張は苦笑した。
「――ああ、お前の部屋もある。今晩はそっちで休め」
「は、はい。わかりました」
いかにもほっとしたとばかりになまえは口元をゆるめた。
彼女にしてみれば、今日初めて会った男――それも到底堅気には見えぬ無頼漢との同衾を免れたのだから、余儀ないことだろう。
ともあれ、そうあからさまに安堵されては、揶揄してしまいたくなるのもまた仕方のないことではないか。
なにしろ表情や雰囲気に差こそあれ、姿かたちは彼の飼い鳥、「なまえ」のままなのだ。
すぐそばの彼女の私室へ案内してやった張は、のんびりとした語調で「やれやれ、久しぶりの独り寝か」と諷した。
知るものよりずっと頼りなげな白腕をやおら攫う。
ぬばたまの黒髪をさらりと撫で、殊更に宵に相応しく潜めた声で問うた。
「一緒に寝るか、なまえ? いつも通り」
夜凪が如き男の声による誘いは、甘い低音のなかに茶目っけもたっぷり含んだとびきりやさしいものではあったが、応えたのは痙攣じみたふるえと硬直だった。
見下ろせば、ちいさなてのひらが拳を握っていた。
「……ご所望でしたら」
細い声が揺れている。
憐れなほどだった。
いくら世情に疎いとはいえ、おそらく黒社会の女として庇護を受けているなら、その身を大人しく差し出すのを必要なことだと理解はしているのだろう。
萎縮するくらいならば、始めから虚勢など張らなければ良いものを。
素直じゃねえのは昔からだったなと、張は苦笑を滲ませた。
華奢な肩をぽんと叩いて「冗談だよ、お嬢さん」と嘯いた。
びくっと跳ねた肩には気付かないふりをしてやって、彼は踵を返した。
振り向きざま、「ここと隣のバスルームは自由に使っていい。なにかあったらその電話で連絡しろ。要らん気は起こしてくれるなよ……外には繋がってねえからな。使い方はわかるか?」と室内を指さした。
ひっそりとなまえは首肯した。
「……あの、」
「うん?」
「ありがとうございます。……親切にしてくださって」
「は、」
見上げてくるなまえの平坦な眼差しに、張は思わず口をつぐんだ。
サングラスをかけたままではあったが、さすがにこれでは瞠目しているのが伝わっていたかもしれない。
そもそもなまえがこのような状況に陥ったのは張の元にいるからで――香港に置いておく選択肢もあった小鳥を蠢々たる陋巷にまで連れて来たこと、明日をも知れない身代たる彼がなまえを拾い上げてしまったことこそが、すべての元凶に他ならない。
それが言うに事欠いて「親切」とは!
決して彼女が口にする――彼が向けられて良い言葉ではない。
懇切丁寧に「お前を攫ってきたのは俺だよ」と明かすのは容易いが、いまここで教えてやる必要もないだろう。
一拍置き、大口を開けて笑い始めた男を前に、彼女はしばらく目を丸くしていた。
5
寝台がかすかに軋んだ。
たおやかな声音が、彼を眠りの淵から掬い上げた。
「おはようございます、旦那さま」
甘く軽やかな囀りが、主人の目覚めを促した。
張維新がやおら目を開けば、広いベッドの傍らに侍っていたのは、彼の飼い鳥だった。
黒い目をしばたたかせたなまえが、張を覗き込んでいた。
不思議そうに「どうしてわたし、ひとりで寝ていましたの?」と首を傾げている彼女はたった一晩で記憶が戻り、どうやら昨日のことはきれいさっぱり覚えていないらしかった。
まったく人騒がせなと心中ぼやきながら、張はベッドに横たわったまま腕を伸ばした。
輪郭を確かめるように、女のやわらかな頬へ手を沿わせた。
飼い主のてのひらを甘受して、なまえは初恋を知ったばかりの処女のように無垢に頬を染めた。
「――なまえ、」
「はい、旦那さま」
とろりと滴る蜜を音にした声色で「なあに」となまえが微笑んだ。
胸奥をぎゅうと引き絞られるような、えならぬ笑みだった。
視一視していると、ともすれば眼窩の奥が熱を帯びて痛むような。
彼女を抱き上げて囲い込み、張はごろりとベッドに転がった。
肉体は容易に腕のなかに納まってしまった。
安心しきって全身を預けてくるさまは、いとけない幼な子が親に抱かれているかのようだ。
怯えも抵抗もない女の身はただひたすらにやわらかかった。
しっかりとなまえを抱きすくめたまま、張は「いつも通りだな、お前は」と嘯いた。
飼い主の脈絡のない言動に、なまえは驚いて目を見開いた。
が、すぐに嬉しそうに頬をゆるめた。
今生ただひとりの主の腕のなかにいて、これ以上の幸福があるだろうか。
鈴を転がすような笑い声が黎明を臨む窓に反響した。
「まるでなまえに慣れて飽きてしまったみたい。その言い方ですと」
「は、慣れるもんなら慣れてみてえよ」
「まあ、ほんとうに? ふふ、良かった」
(2020.11.25)