「かしこまりました。残念ですが……ええ、お断りのお電話をご丁寧にありがとうございます。次の機会を楽しみにしていますね。ミス・バラライカ」

「失礼いたします」と慇懃に通話を切るや否や、さも困ったとばかりになまえが眉をひそめた。
ホテル・モスクワの女頭目とおしゃべりするには安穏すぎる声音でちいさく「どうしようかな」と呟いた。

いつものように彼女を横にはべらせてジタンをくゆらしていたチャンは、安閑たる「お断りのお電話」とやらを聞くともなしに聞いていた。
思案顔の飼い鳥を揶揄するように「残念だったな」と厚い肩をすくめてみせた。

火傷顔フライフェイスに振られたのは同情するがね。顔をしかめるほどのもんか? 小鳥の憂い顔ひとつくれてやるつもりはないんだ、なにをそう考え込むことがあるのか、是非ともお聞きしたいね」
「ふふ、もう、旦那さまったら。困り顔ひとつでそんなに甘やかしてくださるなんて、なまえ、悪いことを考えてしまいそうになりましてよ。――ミス・バラライカのことで悩んでいるわけではないんです。……その、空いた時間、なにをしようかと思って……」

毒にも薬にもならない金糸雀カナリアの「お茶会」は不定期に開催されるもので、街の様相ひとつで呆気なくご破算になることもすくなくなかった。
とまれ先月結んだ約束を、外出の機会が限られている彼女がそこそこ楽しみにしていたのを、飼い主は知っていた。
加えて、茶飲み友達バラライカがなんの理由もなく、急遽口約束を反故にするような人物ではないことも。

無論、他愛ない対話くちまじえ如き、延期しようが取り消そうが目くじらを立てるべくもない。
しかしながら言葉ひとつ、弾丸一発が火種になりかねない濁世で、潜在的に相克するあの・・大尉殿が申合せを先送りにする――せざるをえない多事多端に見舞われていると申告するようなものだ。
と、まあ、なまえの飼い主がそこまで及びつくまいというような楽観主義者は、ロアナプラに駐留するロシア人にはいないだろう。
金糸雀カナリアの耳に入るということは、取りも直さず香港三合会トライアドのナンバー四にまでタイムラグなしに伝わるのと同義だ。
恐らく飛耳長目の白紙扇にそう判断されても構わない程度には内々の、かつ喫緊の案件に手一杯とみえる。

とまれ諸国の犯罪組織が竜蟠虎踞りゅうばんこきょする魔都も、本国にまで及ぶ権謀術数も、鳥籠の小鳥には関係がないことだ。
約束がなくなったなまえは、ぽっかり空いてしまった時間になにをしたものか心から困惑しているらしい。
未だ難しい顔をしている彼女に、張はソファの背に深々沈みながら「なんでも好きなことすりゃいいだろ」と紫煙を吐き出した。
心底億劫そうな煙がふたりの間に漂った。

おざなりとはいえ「なんでも好きなこと」をとの、全き主の許可である。
しかしなまえは喜ぶどころか、ますます混迷の色を濃くして「“好きなこと”……」と復唱した。
バラライカとの通話中に見せていた如才なさは影を潜め、途方に暮れる面差しはさながら親とはぐれた幼な子のようだ。

迷子じみた相形そうぎょうの飼い鳥を見やり、 ソファにだらりとかけた居住まいひとつすらになる伊達男は咥えた紙巻きを口の端で揺らした。
名にし負う「金義潘の白紙扇」に囲われている女ともなれば、欲しいものは大抵、それこそリーガル、イリーガル問わず手に入れられるというのに、まさか降って湧いた閑暇かんかになにをすべきか――したいのか、わからないときた。
欠乏欲求や存在欲求といった自己実現論をわざわざ引き合いに出さずとも、自ら欲しようとしない者は理性を持つ人間には存在しえないものだ。
それともあるいは、必要なものはすべて持っているからこそ欲が薄くなるのだろうか。

と、相も変わらず足らぬ知恵をしぼっている小鳥にならってつらつらと益体もないことを考えていた張の意識を、やにわに当のなまえが引き戻した。
彼女は張の隣に、ひと一人分を開けて理性的な距離で座っていた。
そのスペースをおもむろに詰めたかと思えば、煙草をくゆらしている男の胸元へおずおずともたれかかってきたのだ。
主人の逞しい胸板へ擦り寄って控えめに頬擦りした。

サングラスの下で暗々裏、張は目をしばたいた。
どうやら「好きなこと」「したいこと」について熟考した結果、辿り着いた答えがこれ・・のようだった。
なまえははじめこそ身じろいでいたものの、すぐに収まりの良い場所を見付けたらしく、人心地が付いたように安心して体重をかけてきた。
もたれかかってくる女の肢体は、思考をとろかす毒のようなやわらかさと熱とを有していた――とりわけ上着を脱いでシャツ一枚だった男の身には。

ちいさな頭が嬉しそうに首元で揺れている。
張は灰が落ちないように吸いかけのジタンを灰皿へ放った。
それに気付いたなまえが、喫煙を――というより主を妨げるつもりは毛頭なかったのだろう、浅慮を悔いたように「あ、ごめんなさい、旦那さま」と身をすくめた。

慌てて離れようとしたなまえは、しかし果たすことは敵わなかった。
なぜなら彼女を伴ったまま主人がずるずると行儀悪く寝そべったためだった。
おのずともたれかかっていたなまえも追従することになり、結果として、ソファの座面に寝転がった張と、その上に覆い被さるようにして乗っかったなまえという体勢に落ち着いてしまった。
張の頭の両横に手を着いて覆いかぶさっているシチュエーションは、一見してまるでなまえが押し倒したかのようだ。
主の愛嬌すら感じられる丸い双眸を見下ろして、彼女はぱちぱちとまばたきした。

「……だんなさま?」
「他にあるだろとかまあ言いたいことはあるが、」

問いかけを無視し、押し倒された体勢のまま、独り言じみて張はぼやいた。
寝転がった際ずれたサングラスをそのまま頭上へ、ソファの座面へ放った。
好きなことをするよう告げた手前、なまえの選択にとやかく注文を付ける料簡りょうけんもあらばこそ、とはいえ熟考の末がこれではあまりにも――。

なまえの主であり、拾い上げてからというもの情操教育までも担った男は、至極甘ったれた行為に嘆息を禁じえなかった。
気随気儘にあれもこれもと度を過ごした人間はわずらわしい。
欲望なんぞございませんとおきれいな顔をした者も、相手や状況に流されるだけの主体性に欠けた者も胡散臭い。
教条主義的な輩など救いようがないが、しかし従前、かくあれかしと強いたかもしれなかった。
ここまで欲がないとなると、どこかで躾を誤っただろうかといたずらに自省の真似事をしてみせた。
自分がなにをしたいのかわからず、主人から離れたところへ思考をやれない女の、ただ消費・・するように「ある」だけという夙夜しゅくやは、 愛玩物ペットとしては及第点だったかもしれないが。

とまれ女ひとり正しく・・・躾けてやる義理も道理も元よりあるまい。
悲しみも苦しみもない代わりに喜びも楽しみもない、極めて感情の起伏の薄かった娘が、ここまで情感豊かに育っただけ僥倖というものだ。
これ以上手を加えてやるのもいくらか躊躇われる。
なにせ主人のそばでただ笑い、囀る容鳥かおどりはそれはそれで大層愛らしいものだから。

下からの眺めは存外悪くなく、ひとひとり、とりわけ頑強な男ひとり閉じ込めるにはあまりにも頼りない細腕に囲われているのも、無理やりつかんでねじ伏せたくなる欲求が刺激されて仕方がなかった。
香りを増したように感じられる白百合が、惑溺わくできを誘うかのように鼻腔をくすぐる。
突然のことで戸惑いつつも、至近距離で主を見下ろすことになった女のかんばせは、面映ゆそうにほころんでいた。

垂れかかるやわらかい檻を、くっと握った。
導かれるままになまえは上体を屈めて唇を落とした。

「ぁ……ん、」
「まったく、欲が深いな・・・・・、お前は。なまえ」

なまえが望んでいるのはただひとつだ。
取り替えが利かない、なにも身代わりになれない、この世にたったひとつしか存在しないもの。

長く共に生きているのだ。
その性根が濁りもよどみもしよう、欲も業も際無く深くなるだろう。
彼女の浅いようで恐ろしく深い欲を、張が笑い飛ばすことはなかった。
なにしろなまえと出会って以来、馬鹿げているとしかいいようのない仕業を、彼もずっと犯しているのだ。
自分を失おうものなら生きながらえることすらできない脆弱な生き物を自ら懐に入れるという所業を、愚行と呼ばずなんとする?
一切衆生、なんにでも例外がある――たとえば張維新チャンウァイサンにとってのなまえであるとか。

彼の性根をわずかといえどねじ曲げてしまった自覚などないのだろう。
体勢のせいで紅潮した頬や潤んだ瞳を隠すこともできず、なまえの心延こころばえはだだ漏れだった。
然許しかばかり濁世も濁世、死人ばかり意気軒昂と闊歩する魔窟に五臓六腑、骨の髄まで浸りきり、それでいて、ただ恋心ひとつだけを持って生きている奇矯な女は、居丈高に微笑んだ。
好き、大好き、そばにいたい――焦がれるひとに顧みてもらいたいと、「好きなひとに好かれたい」と望むのを欲とするなら、自分のようにただひとりを恋い慕ってながらえている者はことごとく欲深いのだと、言い訳するような調子で囁いた。

「おかげさまで、旦那さま。ご存知でしょう・・・・・・・
あなたのせいです・・・・・・・・

知れば彼女は感涙にむせぶに違いない。
それとも信じられず呆然とするだろうか。
互いが互いの欲であり、白璧の微瑕びか、相共に瑕疵かしになりるのだと、彼はつまびらかにしなかった。
そこまで懇切丁寧に説明してやるつもりもない男は、悪辣あくらつに笑うばかりだった。
ことしもあれ、お前がいなければ自分は完璧だったのにと恨み言を垂れるなんぞ、情けない真似を披露をしてやる理合いはない。

上体を支えるのに腕が疲れる前に柳腰を撫でてやれば、息を詰めた女の体がふるえ、あっけなく肘が折れ崩れた。
体が重なり、はっとこぼれた吐息は果たしてどちらの方が熱かっただろうか。
張は心地良い重みを腕のなかに閉じ込めた。
ひとひとり、とりわけあえかな女ひとり閉じ込めるには、十分すぎる檻である。

他者を手に入れたいと望む欲を、恋だの愛だのと呼べるものか。


(2022.03.17)
(2024.02.06 改題)
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