(※IF死ネタ)






もうずっと、夢を見ているような気がする。

「耳聡いな、もうつかんだか。遅かれはやかれとは思ってたが……まったく、油断ならんな、どこから尻が割れた?」
「ふふ、そうですね。あえて挙げるなら、風の噂で」
「は、是非ともお聞きしたいもんだ。その風とやらがどっから吹いてやがるのか」
「さあ、どちらでしょう。小鳥は明日のお天気もわからないもの」

ハレーションを起こすどぎついネオンサインも、下卑た看板の文言も、済度しがたい俗衆たちも、ここ熱河電影公司イツホウディンインゴンシビル最上階からは遠く、有象無象はきらめく夜景として奉ぜられていた。
雑駁ざっぱくな街並みも、鳥瞰ちょうかんすれば粗が目立たなくなるのは、なにも罪業の坩堝たるこの街に限ったことではない。
目もくら大廈高楼たいかこうろう居並ぶ本国の偉観いかんには、その奢侈しゃしさにおいて一歩も二歩も譲るものの、辺境の別天地でこれ以上の美景もないだろう。

「錆びついた金属なんぞ小鳥にくれてやるつもりは毛頭ない。が――まあ、容喙ようかいしたヤツをわざわざ探し出す労を取るよりな、釘の一本でも直接お前に刺しといた方が、よっぽど建設的だろ? そろそろ囀りが耳に障るぜ」

張維新チャンウァイサンは厚い唇を歪め、出迎えたなまえへ脱いだばかりの上着を預けた。
気疎けうとげな様相に反して、しかし偉丈夫の声は眼下の豪奢な景観に負けず劣らず、これ以上ないというほど豊かに響いた。
あたかもいま喫煙しているかのような濃い紫煙の香りと、チャンの熱の移った上着を胸に抱き、なまえは殊更に憂えた面持ちをこしらえてみせた。
頬におっとり手を当てて「まあ、どうしましょう」と囀った。

「あなたのお耳をわずらわせるのは本意ではありません。なまえはお口をつぐんでおくべきでしょうか……素直に白状できなくなってしまいますけれど」

――女をひとり、飼い主が囲っているらしい。
それをなまえが知ったのはつい先日のことだった。
金糸雀カナリアでさえこの塩梅なのだ、街の中心部から離れた邸のひとつに住まわされているという女のことは、いまのところ街の半可通な情報屋に至っては仄聞そくぶんすらしていないだろう。
香港三合会タイ支部ボスの女ともなれば、その素性ひとつが金に繋がりかねないとあっては当然だが、それにしても箝口令かんこうれいじみた念の入れようである。

釈明するなら、なまえは知るつもりなどまったくなかった。
知らなければ存在しないのと同じだからだ。
この悪逆の都で生きるならば、否、どの世界に身を置こうと、何にまれ情報は持たないより持つ方が生き延びやすい・・・・・・・のは道理である。
有する情報如何いかんでは、紙幣より軽い命が僅かに重みを増すものだ。
この店はどこの組織の集金人が回ってくる、あの店の主はどこの組織に恩が、借りがある云々、係争地ロアナプラのルールや不文律を知らずしてクソを踏んだなら、それはただ当人の責に他ならない。
しかしそれ以上のこととなると、籠の中の小鳥がやたらめったら知りたがる必要はない、そうきちんとなまえは分別がついていた。
なんとなれば、バラバラの情報源、要素を総覧そうらんしていた彼女が、結果、期せずして知り得てしまっただけだった。

弁明をさせてくださるかしらとなまえは眉を下げた。
なによりなまえが知っていると張が知ったのは、どこから、なにが原因なのやら――腹の探り合いなんぞ仰々しいものではないが、心許こころもとないやり取りは、藁のなかから針を拾い上げるような徒労を感じさせた。

「それでわざわざ釘を刺してくださいますの?」
「もう刺す釘もさすがにあるめえよ。厄介事で飼い主の手を焼かすっていうんなら、明くる朝には赤𫚭角に到着することになる――さかしらな小鳥なら熟知してるだろうさ」

口ぶりは平生通り軽妙洒脱であり、張は非の打ちどころのない鷹揚な微笑を口の端にたたえてみせた。
死人の脂が燃えて路地裏を赤く照らすようなゲヘナで吐くには、なんともやわらかく温順な「釘」だったが、今生ただひとりと慕う主から離されるなど、なまえにとってはなににも増して鋭利なものだ。
従容しょうようたる居住まいはそのままに、飼い主が示したのは釘というより脅迫だった。

しかし悪辣あくらつな主に臆した素ぶりもなく、なまえは張維新チャンウァイサンの俗気のない微笑にむしろ惚れ惚れと相好を崩した。
小首を傾げて「今更、あなたにそんなお手間をおかけすると?」と嘯き、手入れの行き届いたエクルベージュ色の指先で主のシャツを引っ掻いた。

「ご存知でしょう。旦那さまの愛着のあるものも、その方のことも、わたしは大切に思っています。だって、“なまえ”と同様に・・・あなたのものだから・・・・・・・・・。憂慮することなんてなにもない、でしょう? あなたがそう躾けたんだもの、旦那さま」

淑やかな笑みは名に負う「金糸雀カナリア」に相応しかった。
ソドムとゴモラも真っ青な現世の三悪趣、亡状ぼうじょう極まるゴミ溜めにおいては、驚くほどストレートな正答である。

「……まあ、やきもちはやいていますけれど」

上着を脱いだばかりの張の背へ、なまえはぎゅうと抱き着いた。
最前、良識めいた語調で正答をひけらかしてみせたのとは裏腹に、弱々しい声だった。
広い背へ顔をうずめ、なまえは甘ったれた仕草で額を擦りつけた。
厚みのある頑強な男の体躯は、彼女の華奢な腕を回すとますます性差が際立った。

囁きは平生の恭謙きょうけんさを欠くことなく、ただし不満げな色がかすかに混ざっていた。
これほど至近距離でなければきっと誰にも届かなかっただろう。
秘めやかな声は、決して主人以外の者には知られたくないかのようだった。

いわく「やきもちをやいている」顔を見られたくないという後ろめたさ、いじらしさも相まって――だからこそその言葉は信憑性を持った。
シャツ越しの張の体温に溺れるようになまえは息をついた。
無謬むびゅうなる主は、愛玩物ペットの嘘なんぞ他愛なく見破ってしまうものだった。
ならば嘘へ真実を一滴ひとしずくほど混ぜてやれば良い。

「……それくらいは、許していただけますか」
「んな可愛げがお前にもあったとはなあ。傲慢な小鳥の“やきもち”とやらは、おっそろしくてじかに目の当たりにはしたかねえが」

彼が低く笑うと、ぴったりくっついているなまえにもその振動が伝わってきた。
不満をアピールするように抱き締めた腕の力を強め、ぐいぐいとまた頭を押しつけた。
拗ねた子のような金糸雀カナリアらしからぬ愚行にさして介意した様子もなく、張は笑いながら「いたた」と嘯いた。

なまえに後ろから抱き着かれたまま、おのがネクタイをほどいた。
彼女の戯れに付き合ってやりつつ、首を戒める布切れを傍らのソファへ放り投げたところで、なまえの細腕を引いた。
女の身を腕のなかへ閉じ込め、額を擦りつけていたせいでほんのすこし乱れた黒髪をやさしくすいて整えてやる。
そうしているうちに、彼女の憂えたかんばせは、春の雪めいてとろけていった。
ただひとりの主がふれてくれるとあっては、いつまでもつむじを曲げているわけにもいくまい。
とはいえやはりり事のひとつは吐きたいとみえ、「良いご趣味で」と口をとがらせた。

「おっしゃっていただければ、彼女のいる邸のお片付けも、前もってしておきましたのに」
「お前にだけは言いつけられないだろ。なにされるかわかったもんじゃねえ」
「まあ、なんてお言葉。やっぱりなまえが狭量な女だとお思いなんですね?」

憎まれ口を軽やかな笑い声でコーティングしながら、なまえはソファに腰掛けた張へ甘えすがった。
その繋辞コピュラが、泥濘に沈むのに似て精彩を欠いていることに、気付く者はいない・・・・・・・・

なまえは知っていた。
幸せなのだから、幸せだと「自覚」しなければならないと。
明日をも知れぬ男のそばにいられることを――いまこの瞬間、横にいることを、ふれられることを、言葉を交わすことを許されている幸福を、なまえは喜んだ。
それ以上の喜びなど今世ないと知っていた。

張が新しく咥えた煙草へ、恭しく火をともした。
途端に立ち上る黒煙草の薫香に、胸奥がふるえるような心地がした。
痛みを振り払うように、冗漫な思考をさえぎるように、主人の身へ抱き着いたままなまえは静かに目を伏せた。

「ねえ、旦那さま。なまえを愚かな女だと笑ってくださいますか」
「ハ、ご希望とあらば尽力するがね。手前の被虐趣味に付き合わされるこっちの身にもなってくれ」
「ふふ、お願いします。御身のおそばにいるのに、胸の塞がるような心地がしてしまって」

――わたしとしたことをその子ともしたの。
幼な子じみた問いを素直に口にするほど、なまえは愚昧ではなかった。
くだらない衒気げんきと感傷とがないまぜになり、勝手に不幸ぶって、勝手に自分を憐れんで、それでも尚、すがりたいなんて愚かにも程がある。
ともすれば頭の奥が熱を帯び、痛んで、徐々に膿んでいくようだった。
そのまま腐り落ちてしまえば、くだらないことでくよくよ思い悩むこともなくなっただろうにとちいさく笑いがこぼれた。






夢を見ていることに気付いて、なまえは腹の底から「ああ!」と溜め息をつきたい心地に襲われた。
何年前のことだったか。
懐かしい夢だ。
夢のなかで夢だと気付くことは滅多にないが、ゆくりなくその稀な事象が起こったらしかった。

ありもしない未来を夢想するのでなく、実際に起こった過去の反芻ばかりしてしまうおのれに気付き、我知らずなまえは自嘲した。
夢のなかでくらい自分に都合の良いまぼろしを見れば良いものをと歯噛みした。
まったく、癪に障った――よりにもよって不愉快な過去を振り返させられるとは。

夢寐むび、なまえは少女の域をようやく脱したくらいの年頃だった。
つい今し方、鬱陶しげに振り払われた手を中途半端に伸ばしたまま、途方に暮れた幼な子のように目を見開いて立ち尽くしていた。
意図せず「あ、」と細い声が落ちた。
唇が、声が、ふるえるのを自覚し、なまえは自らの無意識・・・の行為に怯えた。
無様に痙攣するてのひらを隠すように、なまえはさっと腕を下ろした。

「――……すみません。気に、しないで……ください」
「……聞いてやりたいのは山々なんだが――悪いな、生憎いまは相手をしてやってる暇がない」
「はい、お引き留めして申し訳ございません」

彼女に比例していまよりいくらか年浅い張維新チャンウァイサンが、躊躇うように口を開閉させた。
最前、少女が引き留めるようにつまんでいた自らの上着の腕の部分を見下ろし、わずかに顔をしかめた。
あるいは図らずも華奢な手指を邪険に扱ったことに、ばつの悪い思いでもしていたのだろうか。

ただ単にタイミングが悪かっただけの、取るに足らないワンカットだった。
強いて挙げるなら、多忙な主人を引き留めてしまったなまえの過ちによる、些細なすれ違いのようなもの・・・・・・だ。
いまの金糸雀カナリアなら、拗ねた表情で「お忙しいところをお邪魔してすみません。だって、寂しくて……。お戻りになったら、旦那さま、なまえを構ってやってくださいませんか?」とでもそらんじて如才なくしなをつくってみせることができる。
いかな男といえど、そのように甘えられて著しく気分を損ねはすまい。

しかしこのとき、張から手を振り払われて、なんと少女は裏切られた、尽き離れたような気分に陥っていたのだ。
生まれて初めて欲望を覚え、生まれて初めて恋心などというものを認識してしばらく後のことだった。
なにかを求めて、なにかに期待して、なにかへ素直に・・・手を伸ばしたのは――少女にとって、やはり生まれて初めてのことだった。
ゆっくりと形成されていく途上にある情動は、しかしそれはなまえの都合であって、他者にはなんら関係がないことである。

「……お気を付けて」
「ああ。戻るときにまた連絡する」

黒い裾が夜のように翻る。
纏う鷹揚さは損ねることなく、ただし聞き慣れたものよりいささか足早に、硬い革靴の音が離れていった。
今度はその背へ手を伸ばしたりなどしなかった。
もしまた振り払われたら? ――そう考えると、少女は肺腑が凍えてしまいそうな恐怖に襲われていたのだ。

なんと滑稽な、馬鹿げた、惨めな猿芝居!
夢のなかとあって表に出てくることはなかったが、しようもないセンチメンタルな娘のありさまに、なまえは苦虫を噛み潰したように顔ばせを歪めた。
羞恥に襲われ、正視に耐えない。
それなのに既済きさいの場面は既知のまま展開していった。

ひとり居室に残された少女はぼんやりと窓の外を眺めていた――いつの間にか、自分が涙をこぼしていることに気付くまで。
居た堪れない夢のなかでなまえはひたすら「はやく目が覚めないかな」と考えていた。






「……こんなに困ってしまうの、久しぶり」

車内にぽつりと落ちた女の声に、運転席に座した黒服は「どうしますか、大姐」と、気後れした眼差しをルームミラー越しに後部座席へ投げかけた。

「その、ご存知ですかね……いま、あの邸は使ってまして。大姐が足を運んで、あー……面倒なことにならなきゃいいんだが」
「ふふ、そんなお顔をしないで。わたしも知っていてよ。旦那さまの囲っていらっしゃる方がお住まいなんでしょう? どうしようかな……あなたにすべてお願いしても良いけれど、私物となると、はばかられてしまうものね」
「遭遇した場合は、」
「あなたならどう思って?」
「……率直に?」
「率直に」
「……大姐の不興を買うんじゃねえかと、胃の腑が縮みますね」
「でしょう。そんなことないのにね。あなたでもそう思うんだもの、先方にご迷惑をかけたくないし……」

晴天のロアナプラは今日も今日とて容赦ない日光に炙られ、陽炎じみて揺らめくようだった。
空調のきいた車内は涼しく、可能なら外気に晒されたくなかったが、彼らはそう駄々をこねていられる状況でもなかった。
なまえはスモークガラス越しに近辺を回視して、浅く嘆息した。
街の中心部から少々離れた瀟洒な邸宅は場所柄あまり頻繁には赴かない。
実際、なまえがおとなうのもふた月ぶりである。

それでなくともいまは真実まったく近寄るべきではなかった。
とはいえ泥縄を悔いたところで詮無いことだった。
頻繁には使わないセーフハウスのひとつ、この邸になまえは大振りのパールを連ねたブローチを仕舞い込んでいた――飼い主以外からのプレゼントだ。
この世に、不要だと突っぱねることも敵わない相手からの贈り物ほど鬱陶しいものはあるまい。
パールのブローチは大層うつくしかったが、明暮あけくれ金糸雀カナリアが飼い主以外からの贈り物を身に着けることはない。
にもかかわらず、今回なまえがわざわざ熱帯の奈落へ下りてまでそれを必要としたのは、慮外の注文を付けられてしまったためだ。

来月、役人数名を交えた表向きの会合パーティーに関し、なまえが前もって出席者の一部へ、挨拶の電話をかけていた折のことだ。
祖父は中央委員会と懇意であり、本人も行政区政府機構における通訊メディア行政を担っている子息が、電話口で「お会いできるのを楽しみにしています――そうだ、以前、私からお贈りしたブローチ、あれがあなたを飾っているところを拝見できれば幸甚こうじんなのですが、ミス」と、礼譲れいじょうをいささかも損ねない口調で注文してきたのだ。

表向き熱河電影公司イツホウディンインゴンシの秘書という、なまえの肩書きをなんだと思っているのだろうか。
張維新チャンウァイサンの女」という立場を解せずにいるのなら歯牙にもかけない鈍物、はたまたわかっていて手を出そうとしているのなら、済度しがたい愚物である。
どこぞの政治家のようにあえて蛇のブローチでもしてやろうかとよぎったものの、正業せいぎょうの付き合い上、無下にもできない相手から名指しでのご要望に対して、たかが小鳥一羽が否やを唱えられるだろうか。
舌打ちのひとつでもくれてやりたいのを堪えつつ、「ええ、喜んで」と応じる以外の答えがあるなら教えてほしかった。

言うまでもなく、有象無象の心象なぞより、飼い主の不興を買うことの方がずっとずっと畏れ多い。
しかし今回の出席は、全き主のめいとあっては、ゆめゆめ手抜かりがあってならないだろう。
いまからでも「やっぱりあれは捨てていました」と電話の一本でも入れたらどうにかならないか云々、儚い妄想をしながら、なまえは窓から邸の警備を見分し、思案顔のまま呟いた。

「警備がこの人数なら、きっといまご本人は不在でしょう。機を逃したら次はいつ来られるかわからないし……。わたしがちょっとだけお邪魔するって、警備の子たちに連絡してちょうだい。不要なご心配をおかけしたくないから、彼女には内緒にするよう念を押してあげてね。――すぐに済ませてしまうから、あなたもお手伝いしてくれる?」
「勿論です」

クローゼット、それもベッドルーム隣のウォークスルークローゼットに仕舞い込んだ物品を、部下に「取ってこい」と指示するのは少々躊躇われた。
たまさかこういった想定外の事態が起こりうるため、プレゼントの類は捨ててはいなかったが、利用しない邸へ放り込んでいたのはミスかもしれなかった。

無論ハウスキーピングに抜かりはない。
しかしふた月も不在であれば、香りのひとつ、変わっていてもおかしくはないだろう。
なまえは奥まった深窓しんそうには目もくれず、金糸雀カナリアらしからぬ迅速さでクローゼットの荷物を片付けた。
目当てのものをすぐに回収し、ついでに置いていた白い衣類やヒールをまとめれば、荷物はトランクケースひとつで事足りた。
ゴヤールのシンプルなトランクを見下ろし、彼女は肩をすくめた。

「お化粧道具や洋服、ジュエリーをパッキングしないで遠出することなんて決してない、なんて言うけれど」
「縁起でもねぇこと言わんでくださいよ。病院に行くでもなし」

運転手を務めていた黒服は、顔をしかめながら女主人のトランクケースを持ち上げた。

「まあ、あなたがそんなことを口にするなんて。意外だったわ」
「……昔の女の影響で」
「ふふ、良い趣味の女性だったのね」
「どこが。趣味の悪い映画に付き合わされただけですよ」
「あら、わたしだって好きなのに。一緒に鑑賞会でもする?」
「勘弁してください、俺の寿命が縮む」

軽口の応酬は、彼らの乗車まで続くかと思われた。
表玄関まであと数メートルというところだった。
彼女のくちばしを閉口せしめたのは、背後で飾り窓を開けるかすかな金属音だった。
実以じつもって巡り合わせ、かんばしくない星回りほどいとわしいものはない。

日射しと熱気のピークをいくらか過ぎた下午かご、ゆっくりと一度だけまばたきするとなまえは微笑んだ。
おもむろに「あら、見付かっちゃった」と呟いて振り向いた。

海に面した居間パーラーには、レンガ敷きのポーチへそのまま出られる大きなフランス窓が設えてあり、燦々と強い日光が降り注いでいた。
そこにあたかも陽光が集まって形を成したかのように立っていたのはひとりの娘だった。
片手にはビーチサンダル、もう片手にはサンハットを持った娘は、さながら「太陽の光のなかで生き、海で泳ぎ、体に風を感じよう」という言葉を体現しているようだった。
水着の上に大きめの白いシャツを羽織っており、足元は素足のままだった。
年の頃はなまえよりいくらかわかやかだろう。
日の下で一際明るく見えるブラウンの瞳は紅柱石アンダリュサイトを彷彿とさせるきらめきを発しており、驚き丸くなるさまは頑是がんぜなく愛らしかった。
濡れた髪がゆるく波打ち跳ねていた。

その向こうでは、彼女付きの護衛がこの世の終わりのような表情をさらしており、思わずなまえは笑ってしまいそうになった。
数刻ばかり邸に近寄らせないよう部下たちへ指示しておくべきだったかとよぎったものの、それはそれで妙な勘繰りでもされては敵わない。
金糸雀カナリアの立場では、いずれにせよ差し障りなく為果しおおせるのはもとより無理な話だったのだ。
起こった事態をいくら悔やもうと仕方がない。
もあらばあれ、不安げに視線をさまよわせている娘へ、なまえは「ごめんなさい」と軽く頭を下げた。

「お許しくださいね、留守の間にお邪魔してしまって。お会いできて光栄だわ。はじめまして、なまえです。本当はこんな無礼な真似なんてしたくなかったんだけれど、こちらに忘れ物があって……こっそり引き取りに伺ったの。……結局、鉢合わせちゃったけれど。どうか、お気を悪くなさらないでね」

典雅な、かつ鮮少の疑念も挟み込む余地のない語調だった。
なまえが礼を失した訪問を謝罪すれば、頼りなげにサンダルを握ったまま、なんの脅威にもなりえない脆弱な娘は「そんな、お邪魔なんて……」と口ごもった。
この街に不慣れといえど、「三合会の金糸雀カナリア」のことは既知のようだ。
もしくはあらかじめ護衛の部下からある程度助言されていたのか。

途方に暮れたように立ち尽くしている娘にどぎまぎと上目に見上げられ、なまえは殊更やわらかく微笑んだ。
履いたスティレットヒールのためか、立ち居振る舞いのせいか、なまえの方が上背があるように見えるが、おそらく実際の背丈は同じくらいだろう。

「あら……ふふ、ちょっと失礼」

涼やかな声がしたかと思えば、纏足じみて歩くのに向かないヒールがかつりと音を立てた。
居心地悪げにややうつむいていた娘は、いつの間にか眼前になまえが歩み寄ってきていたことに、そこでようやく気付いたようだった。
物怖じの色を濃くした娘の顔へ、ついと白い手が伸びた。
周囲の黒服共がぎょっと目を剥いたが、彼らの周章狼狽などまったく意に介することなく、エクルベージュ色の指先が娘のやわらかな頬をやさしく撫でた。
彼女の頬に乾いた砂が付着していた。
そっと払い落とす手付きは、羽毛でくすぐるかのようだった。

「お顔に砂が付いていたわ。……海で泳いでいらっしゃったの? 今日は良い日和だものね」
「あ、ありがとうございます……」

気恥ずかしげに目を伏せて白磁の指を受け入れていた娘は、ふとなにかを思い出したように口元をゆるませた。
それは、夏、ランタナの小花が咲きほころぶかの如き愛らしさだった。
照れ隠しにも見える、いかにもこそばゆそうな笑みに、なまえは「どうかしたの?」と首を傾げた。

「いえ、前にも同じようにしてもらったことがあったんです。顔に砂が付いてるって――っ、あ、」

ふくふくと健やかに笑っていた娘が、途中で言葉を呑み込んだ。
いつのことか、誰のことか、どんな状況だったのか、――愚直に吐露することはなかった。
遅ればせながら、なかんずく金糸雀カナリアに言うことではないと気付いたのか、おのれの短慮を悔いるように、彼女は色をなくして「あの、ええと」と口ごもった。
語るに落ちるとはこのことか。
言葉以上に雄弁なありさまだった。
なまえは思わずといった仕草で口元へ手を当て、くすくすと笑い声をこぼした。

「あらあら、もしかしてわたし、“あのひと”と同じことをしてしまった? ペットは飼い主に似るっていうものね。……それより、しょっちゅうお顔に砂を付けているなんて、ふふ、あなた、思ったよりお転婆さんなのね?」
「……そんなにしょっちゅうでは、ないはずだと思います……」

娘は赤面し、消え入りそうな声で呟いた。
彼女を慈しむような眼差しで見つめていたなまえは、ふと「――ああ、そういえば、」と品良く頷いた。

「ごめんなさい、つい立ち話に付き合わせてしまったわ。体が冷えてしまうといけないし、足も拭かなきゃ……タオルをお持ちしましょうか?」
「い、いえ、そんなことまでしてもらうわけには」

日の下で未だ素足をさらした娘は、慌てて首を振った。
その顔は先程までの濃い不安や萎縮の色を払拭し、なまえに対して慕わしげなものすらたゆたわせ始めていた。
一方ならぬ緊張に襲われていたのが嘘のように、なまえの申し出へ「ありがとうございます」と朗らかに笑ってさえいる。
日の光と健やかな幸福とを宿した笑みは、ついこちらまで頬がゆるんでしまうようだった。
このソドムとゴモラの街にあって、まさかこれほど健やかな笑顔を拝めようとはと、なまえはほんの少々困り顔で首を傾げた。

「……余計なお節介でしょうけれど、あなた、そう簡単にひとを信用するものではないわ。悪いひとが多い世界だもの。この街は、特にね。元々ここにいたわけではないのでしょう? 怖い目には遭っていない?」
「はい……。あんまり気軽に出歩かないように言われてて」
「わたしもそうおすすめするわ。窮屈かもしれないけれど、あなたになにかあったらいけないもの」

憂容うれいがおのまま道理を教える教師めいた声音で囀るなまえに、彼女は素直に「はい」と頷いた。
日焼けして火照った頬が愛らしい弧を帯びていた。
冴え冴えしい日向ひなたの香りを愛でるように、なまえは穏やかに目蓋を伏せた。
白い日傘を手にし、辞去を告げた。

「――お会いできて良かった。いつまでもお邪魔しているわけにもいかないし、お暇しましょう」
「そうですか? すみません、引き留めてしまって」
「いいえ、わたしも忘れ物を取りに来ただけで、元々長居するつもりはなかったの。わたしがお邪魔したことは、できるだけ“あのひと”には内緒にしていただけると助かるわ。もしあなたのことをいじめていたって思われたら……ふふ、困ってしまうもの。ね?」
「あっ、はい、わかりました。大丈夫です」

乞うように小首を傾げるなまえへ、娘は神妙な顔で首肯した。
相も変わらず卒倒せんばかりの顔色をしている黒服たちへ、「あなたたちもよ」と淑やかに念押しした金糸雀カナリアは、きびすを返した。
トランクケースを持った部下もすぐさま追従した。

空には依然として太陽がくるめき、濃い新緑の陰影は時折水晶のように光るかと思われた。
華奢な背が退去した後もうっすらと白百合の香りが漂っていたが、それもすぐに潮風に吹き消された。






目蓋を開くより先に、頬に感じる冷たさを意識した。
翠帳紅閨すいちょうこうけい、ぬるいしとねにひとり、静かに、雪が降るように目が覚めた。
不快な夢の名残りを排するようにまばたきをしてなまえは「は、」と笑った。
いやな笑い方だと一拍遅れて自覚するも、幸い見咎める者はいなかった。

自室のベッドに横たわったまま、なまえは体をくの字に折りたたんだ。
喉元にぐっと熱い塊がせり上がってくる感覚に襲われ、喉頸のどくびを強く押さえた。
嘔吐に似た不快な嫌悪感を懸命に胃の方へ落とし込み、ぎゅっと丸まったまま静かに息を吸い、吐いた。
細心の注意を払っていなければ、呼吸を失敗してしまいそうだった。

なまえの眼裏まなうらに浮かぶのはとこしえただひとり、今生なにより恋い慕う主のはずだったが、今夜ばかりは違ったらしい――思い起こせば昨夜も、もしかしたら一昨夜も。

終夜輾転てんてんすれば否応なしに、光をたたえた笑顔がよぎった。
「彼女」を想起するとき胸の内に宿るのは健やかな光だった。
深更しんこうの月明かりより、晴天の太陽が相応の。

どこで拾い上げて――否、引き摺り落としてきたのだろうか。
あれほど爛漫な、瑕疵かしひとつない娘、なにもできない可哀想・・・な娘を。
なまえだってなにもできなかったが、あれはより利も価値もない、脆弱な立場の娘だった。
しかしだからこそ・・・・・、もしかしたら、今世で一等、他でもないなまえこそが、彼女がどれだけ得がたく尊い存在であるのか、理解できたのかもしれない。

ただ飼い主が望むから、なまえがいま「ある」のと等しく、彼女は日向ひなたから暗がりへ足を踏み入れたのだ。
加うるに主人にすがることで生きながらえている小鳥とは違い、彼を必要としない強ささえ持ち合わせた清適な性根は、類稀なる掌中の珠だ。
なにより活力にあふれた壮健な娘は、自分を憐れだとは露ほども思っていないだろう。

なにしろ誉れ高き「金糸雀カナリア」である、飼い主のそばに十年もはべっていれば、一時の戯れの女と、そうでない・・・・・ものの区分くらい容易についた。
瀬のはやい渓川たにがわのところどころによどんだ淵ができるように、雑踏のあわいに挟まりながら、曇りなく、朗らかな娘は、さぞ稀有に映っただろう。
たったひとりの飼い主の下で培われた、白妙の鳴鳥の作為的な清純さなんぞ霞んでしまうくらいにだ。
青空の下で輝く太陽に負けないほど健やかに笑う娘は、あまりにまばゆかった。
彼も、同じことを思ったのだろうか。

いっそのこと飼い主から「もう要らない」と手を離されれば楽になれるだろうかと考え、すぐさまなまえは自嘲の笑みを漏らした。
たといそんな憂き目に遭ったとしても、大方「それでも良いからそばにいたい」と無様にすがったに違いなかった。
おのれのあまりの愚昧さに目眩すら覚えたが、なまえは唇を薄く引き結んで堪えた。
嫌なときに嫌そうな表情をするなんぞ誰にだってできる。
文目あやめも分かぬ幼な子でもあるまいし、泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うことが許されると盲目的に信じられるほど、金糸雀カナリア初心うぶではなかった。

なまえが広いベッドの果てを探すかのように視線をさまよわせると、夜半の晦冥かいめいを臨む大きなガラス窓が目に入った。
すぐさま目を逸らした。
鏡と化したそれをわざわざ見なくともわかっていた。
耿々こうこうたる残燈ざんとうは壁に背ける影、蕭々しょうしょうたるよるの雨は窓を打つ声――玻璃はりに映った醜い顔を目の当たりにする必要はなかった。

――ほんと、馬鹿みたい。
努めて呼吸を繰り返す行為のひとつひとつ、憂き身をやつす思考のひとかけらに至るまで、悲劇のヒロインぶった自分の所業がひどく鬱陶しかった。
考えることをやめたいのに、止められない内観ないかんのせいで、なまえは他でもないなまえ自身を嫌いになってしまいそうだった。

金糸雀カナリア淪落りんらくしたわけではないのだ。
なまえは自分の身がどれほどうつくしく、尊く、誇り高いものなのか、知っていた。
なぜならば「金糸雀カナリア」は張維新チャンウァイサンの所有物だからだ。
そのことに彼女は傲慢なほどの自負心を持っていたし、自分の身をなにより優先すべきという不文律を金科玉条きんかぎょくじょうと定めていた。
未だこの身は至上のものだった。
手を離されたわけではなく、遠ざけられたわけでも、疎ましげに扱われたわけでもなかった。
そばにいられる、そばにいることを許されていた。

もしも不要と断じられば、廃棄されれば、追いすがることの出来ない身の上である。
つまり自分はまだここにいていいのだ。
立場も待遇もなんら変わっておらず、幸福なのだから幸福だと自覚しなければならなかった。
これ以上、望むことなどあるまい?

にもかかわらずどうしてだろうか、痛みを覚えるほど目の奥が熱かった。
なまえはふるえる唇を強く噛んだ。
底無しの泥濘へゆっくり沈んでいくような錯覚に覆われてなまえはベッドで丸まったまま、ただ「いやだな」と思った。
わたしだけがいいと思った。
一番目、二番目、三番目ではなく、唯一になりたいと思ってしまった。
わたしだけを見てほしい、他のひとにはふれないでほしいなんぞ、くだらない望みを抱いてしまった。

しかし、だからといって、素直に・・・「いやだ」と吐いてどうなるだろうか。
泣き喚いて事態が好転するなるならとっくにやっていた。
どうにもならない。
なんにもならない。
状況は悪化こそすれ、ならば馬鹿正直に伝えるような愚行を犯せるはずもなかった。
これまでにも余所の女の影はあったが、そのたびに可愛らしく拗ねてみせて、必要なら排除の真似事までして――だって、でも、本当は、ずっと。

「っ……」

ねやにひとりといえど、喉は嗚咽を漏らすのを許さなかった。
金糸雀カナリアのなけなしの矜持がなまえの口を塞いだ。

いやだと泣き喚いてしまいたい、でも、見限られたくない。
不実を責めなじってしまいたい、でも、離されたくない。
束縛してしまいたい、でも、疎ましく思われたくない。
こんなしようもない自家撞着どうちゃくを、一体どれだけ、いつまで続ければ良いのだろうかと、細い指が頭を掻きむしろうとするかのように険しく曲がっていた。

笑わせる――「好きなひとの特別になりたい」なんざ!
さっさとハンドガンで頭蓋をぶち抜いた方が余程、建設的だった。
身の程知らずの願望は、心服する彼よりも、自分のことを優先しているから生まれてしまったのだろうか。
もしも真実まったく自分よりも張を優先するのならば、彼の行為、振る舞い、心慮に異を唱えるはずがない。
飼い主たる張維新チャンウァイサン以外、なまえはなにも必要ないからだ。
なにも要らない、あのひと以外は。
なにも望まない、そばにいられるなら。
――ならばこの感情は、この願望はなんなのか。
自分は、彼よりも、この身を、我欲を優先しようというのか?
愚かだ、本当に愚かだった。
金糸雀カナリア」ではない、ただの「なまえ」がこれほどまでに救いようがないとは思わなかった。
なまえは自分自身に失望した。

夜を連想させる黒髪がのたうつようにシーツを這っており、冷たい白布へ爪を立てると指の形に白布が歪んだ。
それだけのことがなぜだかひどく不愉快だった。

もうずっと、夢を見ているような気がする。






既知の光景に、ロックは目を細めた。
既視感の正体は白い後ろ姿だった。
背景の雲ひとつない群青の空は、じっと見上げているとまるでめしいになったかの如き錯覚を与え、目もあやな女の姿と相まって一幅の絵のようだった。
どこか現実離れした佳景のなか、下りた雲めいて白く浮く背へ、彼は火を点けたばかりの煙草をくゆらしながら歩み寄った。

「――また・・“家出”でもしたのか、あんた」

背後から投げられた無遠慮な台辞に動じた様子もなく、白いワンピース姿の女がおっとりと振り向いた。
海へ向けて脚を投げ出すようにして波止場の縁に座ったなまえは、白い日傘を差したまま「こんにちは、ロック」と微笑んだ。

「その言い方だと、まるでわたしが頻繁に出奔しているみたい。ただのお散歩よ。おりもちゃんと、ほら」

ひらりと繊手せんしゅの示した方面には、なるほど見慣れた黒い高級車の傍らで、お仕着せの黒服がひとりで煙草を吸いながら佇立していた。

「今日は良いお天気なものだから。窓越しに眺めるだけなのは勿体ないでしょう?」

おしゃべりに付き合ってくださる? と座ったまま小首を傾げる金糸雀カナリアに、ロックは「この煙草を吸い終わるまでなら」と肩をすくめた。

「最近見かけないと思ってたけど、お元気そうでなにより。飼い主は?」
「さあ、どちらかしら。ふふ、あのひとの行動すべてを把握しているわけではないのよ」

軽やかな舌端ぜったんに違和感を覚えたロックは僅かに眉をひそめた。
ひとひとり分の距離を空けてなまえの隣に立ったまま、なにに対する違和だったのかと顧みるも、答えはすぐさま提示された。

空言そらごとは、組織の外へボスの情報を漏らさないための挺身というわけでもないようだった。
その証拠に続けたなまえの声は耳慣れないほど空虚に響いた。

「これは仮定のお話だけれど。鳥籠の外のことなんて、小鳥は知らないものよ。小鳥は鳥籠で囀っているからこそ愛らしいんだもの。――ほんとうに大事なものは、きちんと仕舞い込んでおかなきゃだめよね。……こんな街では、特に」

常になく長ったらしい独り言だった。
口の端の歪んだそれは、笑みと呼ばれるものだったのだろうか?
清らけき桃色の唇が自嘲めいた形にたわんでいるのを、ロックは視界の隅で認めて瞠目どうもくした。
さして濃い付き合いではないが、この明日をも知れない悪逆の都において、いつの間にか「長い」と形容して相違ないほどかかずらってきた彼の記憶が正しければ、なまえのこんな相形そうぎょうを目の当たりにするのはまるきり初めてだった。

どうやら折悪しく自分は関わってしまったらしい――それも馬に蹴られかねない訳合いのやつだとロックは呑み込んだ。
生憎話しかけてしまったのはこちらであり、口の端の煙草はまだ長い。

「はー……俺はまた厄介事に首を突っ込んだのか……」
「まあ、ロックったら随分とやさしいのね・・・・・・・・・? 傷心気味なんだから、もっと慰めてくれて良いのよ」

脱力して彼が天を仰げば、なまえは拗ねるように頬を膨らませた。
少女めいた媚態に惑わされない局外者のひとりは、天を仰いだ姿勢から物憂げにちらりと視線を落とした。
悪戯っぽく「When love has lost it's glow, so take this down in black and white,」と口遊くちずさんでいる声音はつい惹かれてしまうほどに可憐だが、とかく逍遥しょうようには向かぬ死人たちの街において、緜蛮めんばんたる黄鳥こうちょうが傷心とはどうしたことか。

「……飼い主となにか?」
「あらあら、ロック、いま自分で“厄介事”って言ったのに。結局突っ込んじゃうのね? わたしが言うことではないけれど、首は大事にしてちょうだい。ふふ……あなた、レヴィに忠告されたことはない? 馬に蹴られないよう注意するようにって。それに、以前、旦那さまとの馴れ初めのおはなしをしようとしたら付き合ってくれなかったじゃない。どんな風の吹き回し?」
「別にあのときもいまも、俺は聞きたいなんて謳った覚えはないよ。強いて言うならただの趣味ってところさ」

歪める面輪おもわまさしく図星と言わんばかりだった。
交わす戯言たわごとに相応の胡乱な面差しに、なまえは「あなたを楽しませてさしあげられるようなことはなにもなくてよ」と微笑んだ。

「ちょっとね。愚痴がてら、無益な独り言なの。すべて闇の世の錦……ああ、ロック、あなたとのあの夜・・・を思い出してしまいそう」
「語弊しかない口前はやめてくれませんかね、なまえさん」
「まあ、語弊だなんて。――街が引っ繰り返るかもしれないって夜を経たのに、変わらずここはいつも通りね……あなたも」

この街ロアナプラ稠密ちゅうみつする悪鬼羅刹は入れ代わり立ち代わり、頸木くびきを争う面々は無頼の徒ばかり――しかし悪徳の都の罪業だけは不変である。


(2021.03.17)
- ナノ -