〈07:30〉

ピピピ、と無機質な電子音がした。
起床を急かす聞き慣れたその音に、自然と眉が寄る。
うう、と不明瞭な呻き声が喉の奥から出た。
波間をいたずらに行ったり来たりするように、ゆるゆると意識が浮上するのを他人事のように感じながら、首に纏わりつく髪を払って寝返りをうつ。

……うう……朝だ、朝ですね……。
起きる時間だなんてことは分かっている。
だって目覚ましがうるさい、うん、分かってる、それは分かってはいるんだけれども。

のそのそと腕を伸ばして目覚ましを止めた。
ついでに目を閉じたまま、癖でスヌーズ機能も切ってしまう。
いつも使っていると見もしないで指先だけで簡単にスイッチが切れちゃうんだから、あんまりスヌーズ機能って意味がないんじゃないかな。
いや、一発で起きられたらそもそも必要ないんだろうけど……。

大丈夫、今日はみんな朝から急ぎの用事もなかったはずだし……。
うん、お布団がきもちいい……。
目を覚まさなきゃいけないと分かっているとはいえ、ぱっと起き上がることが出来る人なんて、そんなにいないよね。
そしてわたしもそのなかの一人なんだ、仕方ない……ぐう、と、再び夢へと逃避しようとしたところで、ガバッと勢いよくお布団をはがされた。

「ぎゃー! まぶしい!」
「起きて動いていれば目は慣れるものだよ」
「……うー……んん、起きます、起きますから……」

ゆらゆらと重心の定まらない頭で言葉を紡ぐ。
ちょっとだけ乾燥気味で、上手く目蓋の開かない目元を擦りながら。

手で適当に髪を撫でつけながらのろのろと起き上がると、布団を持った吉良さんが呆れた顔で言った。

「私はもうすぐ出るが……」

見れば、吉良さんはいつもの趣味の良いんだか悪いんだかわたしのような凡人にはいまいち判断できないネクタイをキチッとしめて、傍には鞄も用意してあった。
準備万端、いますぐにでも出社できるスタイルに、そんなに二度寝しちゃったかなと慌てて立ち上がる。
温かな布団に包まれていたわたしの足は、やわらかくその熱を保ったまま。
今日も暑くなりそうだと、視界の端にちらちら映る寝癖を撫でつけながら首を傾げた。

「今日は何時くらいに帰ってきますか?」
「そうだな……夕飯までには帰ってこれると思うよ」
「はーい、それじゃあ夜ご飯、帰って来るまで待ってますね」

玄関で靴を履く吉良さんとそんな会話をしながら、今日の大まかなスケジュールを立てる。
今晩はごはんを多めに炊いておこうかなあ。
冷蔵庫には何が入っていたっけ。
午後にでも買い物に行かなきゃいけないな。

「それじゃあ行ってくる、なまえ」
「はい、いってらっしゃい、吉良さん」

ドアに手をかけた吉良さんの両頬に、いつものように背伸びをして両手を添える。
わたしに頬を差し出した整ったお顔に、はらりと垂れかかった髪がとてもきれいだ。

するりと頬を撫でれば、冷静で落ち着いた色ばかりを浮かべている吉良さんの瞳が、とろりと恍惚に染まる。
いつも冷静なこのひとが、こんなにゆるんだ顔を他人に晒すなんてことはまずない。

……なんとなく、ちょっとだけ優越感のようなものを感じて。
吉良さんのゆるんだ顔を見ていると、ふとなんとなくその表情を少し崩してみたくなって、ほんの悪戯心でふいに頬へ爪を立ててみた。

小さく漏れる声。
ますます目を潤ませて熱い息をこぼした吉良さんに、あっこの選択はダメだと自分の行為を少しだけ後悔した。
わたしが悪かったから、そんな幸せそうな潤んだ目をしないでください。

……爽やかな朝には不釣り合いな、熱のこもった視線と吐息に困ってしまって逃げるように手を引けば、がっつりと両手首を握られてしまった。

「ンフウウウ〜……これがあるから今日も頑張れるよ……」
「……お、お役に立てて、何よりです……」

いつでも財政が火の車なうちにおいて、貴重な稼ぎ人である吉良さんの日々の活力になるならば、わたしの手の一つや二つくらい差し出しても、……って、いやいややめてくださいね吉良さん、わたしのこと手だけ残して爆破しないでください言葉のあやですから。
わたしまだ五体満足でいたいです。

わたしの両手首を拘束したまま、しばらくすりすり頬ずりすると、とりあえず満足したらしい。
最後にベロリと指を舐められ、吉良さんは会社へと向かった。
……うわあ、はやく手を洗いたい。




〈08:10〉

微妙に舌の感触の残る指にげんなりしつつ(多分いまレイプ目とかいうやつになっているだろう、間違いない)、吉良さんが出て行った玄関に鍵を掛ける。
と、とすっとわたしの肩に顎を乗せられ、後ろからゆるく抱き締められた。

「あ、カーズさん、おはようございます」
「おはようなのだ。……なんだ、吉良はもう行ったのか」

毎朝吉良さんを見送るわたしにこうして引っ付いてくるカーズさんを引きずりながら、台所へ向かう。
男性に使う言葉じゃないかもしれないけれど、外を歩けば10人中10人間違いなく振り向くだろう美貌の男の人に、後ろから抱き着かれるなんて夢のようかもしれない。
わたしだってここに来たはじめの頃は、まともに会話することすら覚束なかったというのに。
彼に関してはその恐ろしく秀でた容姿だけじゃない、……主に露出的な意味で。

しかし悲しいことに慣れとは恐ろしいもので、今やこれくらいのことでは可愛らしく女の子らしい反応も出来なくなってしまった。
こうして引っ付かれることはいつものことだし、と、遠い目で苦笑する。
きゃっ、なんて飛び上がりでもしたら可愛らしい女の子になれるだろうか。

……考えてみて、なんだこいつと言わんばかりの目を向けられることが容易に想像できた。
わたしだってそんな模範的なヒロインになれるものならなってみたいものだけど。
そんなことを考えている時点でダメなんだろう、ヤレヤレである。

でも、さすがに襲われでもしたら焦るなあ、なんて。
寝起きの上手く働かない頭で、ふわふわととりとめもなく考えた。
天国のお父さんお母さん、どうやらあなたたちの娘はラスボスたちの生活に馴染みすぎて、少々擦れてしまったようです。

純真なわたしカムバック。




〈08:15〉

「あ、プッチさんもディエゴくんもおはよう」
「おはようなまえ。はやく着替えておいで、一緒に食べよう」

台所にはいつもの黒いスータンを既にきっちり着込んだプッチさんと、やはりいつもの格好のディエゴくんが、朝ごはんをテーブルに並べているところだった。

折角吉良さんに起こしてもらったし、わたしが準備するつもりだったのにな。
ごめんなさい、と慌てていると、プッチさんが気にしなくていいよ、と苦笑した。

「おいなまえ、はやく来いよ。オレは腹が減ってるんだ」

偉そうに長し目でこちらを見つつ、ディエゴくんがお味噌汁をお椀に注ぎながら言う。
プッチさんはこんなに優しいのに、と頬を膨らませる。
でもそんな尊大な物言いとは裏腹に、わたしが着替えてくるまでどうやら待っていてくれるつもりらしい。
あたたかそうな朝ご飯は、わたしの分までちゃんと用意されている。

なんだかんだいって優しいお兄ちゃんみたいなディエゴくんに免じて、金髪長身ジョッキースタイルのイケメンイギリス人が、お味噌汁をよそっている姿についてはなにも触れないでおいてあげよう。

正直、なんだかシュールで笑いがこぼれそうになるなんてそんなこと言わないよ、うん。




〈08:20〉

「カーズさーん、わたし着替えてくるんで放してくださーい」

いい加減パジャマから、Tシャツとジャージという可愛げの皆無ないつもの部屋着に着替えたい。
そう思うのだけれども、後ろからわたしを拘束している究極生命体さんは離れるつもりはさらさらないらしい。
わたしの首筋に顔をうめ、すんすんにおいを嗅いでいる。

……なにが楽しいんだろう……。
お願いだからやめてくれませんか、ついでに離れてくれると尚嬉しいのだけれど。

「おれが着替えさせてやろう、喜べなまえ」
「自分で出来るんで結構です……って、ちょっ、やめ、」

慌てて制止するもののそれは空しく、遠慮なく服の中に手を突っ込まれる。
脇腹をそろりと撫で上げられた。

ついさっき、襲われでもしたらさすがに焦るなあ、なんて暢気に考えていた結果がこのザマだよ!
わたしの体の自由を奪う程度には有無を言わせぬほど力強いくせに、肌をなぞる手指は溶けてしまうんじゃないかというくらいに優しい。
こちらが焦れてしまいそうなほどにやわらかな手付きに、ゾワゾワとした感覚が背筋を駆け上がってくる。
意図せず脚がふるえた。

「カーズさんやめて、っ、……ひっ、あ……」
「随分と愛らしい声をあげるなァ?」

心底楽しいと言わんばかりの声で、耳元に囁かれる。
耳にかかる息すら、噎せるほど濃密ないやらしさに満ちているのが分かった。

そのとろけるほど甘ったるい感覚に、抵抗している指先が微かに揺れた。
そうして肌を撫でられ、なぞられ、大きくがっしりとしていながらキレイな手が、つつ、とゆっくり上がってきて、ブラも着けていない胸に到達しようとしたとき、

「あー……徹夜明けに朝日はきっついな……」

スッとふすまが開き、いつもより目付きの三割増しで悪いディアボロさんがねじろにしている押入れから出てきた。
というかディアボロさん、また徹夜したんですね……。
眠いからと言って、今日もお昼寝に無理やり付き合わされるような気がする。
……たぶん気のせいじゃない。

頭を掻きながら四つん這いで出てきたディアボロさんは、はた、とこっちを見て固まった。
あっ、これ、デジャブ。
前にも同じようなことがあった気がする。

ディアボロさんは、真っ赤な顔をしているだろうわたしと、後ろから覆いかぶさるようにしてかつ服の中に手を突っ込んでいるカーズさんを見て、顔を真っ青にしてガタガタと震えだした。

「チッ、狙ったように邪魔しおって……ああ、そうか、気付かずすまぬなァ、おれの朝メシになりたかったのならば、早くそう言え」
「えっ、ちがっ、キ、キングクリ……ギャアアアァ」

ああ、ディアボロさん、あなたのこと忘れません……。

出来るだけディアボロさんには死んでほしくないと思っているわたしだけど、カーズさんの矛先がそちらに向かったいま、わたしに出来るルート選択といえば。
それは彼を助けるなんて無謀なことではなく、部屋着をつかんで台所に逃げ込むことだけだった。
ちらと振り返ると、カーズさんの見事な腹筋にディアボロさんの頭がズブズブと引きずり込まれていくところで、血の気が引いたわたしは半泣きでプッチさんとディエゴくんに助けを求めたのだった。
ごめんなさい、ディアボロさん。許して。




〈09:10〉

朝っぱらからひと波乱あったものの、なんとか朝食を終えて、教会に行くというプッチさんとお仕事のディエゴくんを見送る。
食器類を洗い片付けて、お洗濯に取りかかった。

同居人がこれだけいると、洗濯も大変……と思いきや、布面積の少ない人が結構いるため、それほど苦ではない。
何なんだ、ラスボス勢は露出しなきゃいけない決まりみたいなものでもあるのだろうか。
まあ、あれだけ見事な身体をしていたら、見せなきゃ勿体ないような気持ちにもなるけれど……っていやいや、ダメだ、確実にあの変態(人外を含む)に毒されている気がする。

せめて常識と感覚だけは、一般人のままでいようと健気にも決意しつつ、わたしは掃除機のスイッチを入れたのだった。




〈15:05〉

いつもの家事を終え、穏やかな昼下がりを少しだけ過ぎた頃。
のんびりお茶を飲みながらテレビを見ていると、どじゃあぁ〜んとカーテン辺りから合衆国大統領サマが現れた。

「やあなまえ、三日ぶりだ。会いたかったよ」

突然の登場にびっくりしていると、ファニーさんはわたしの頬に軽く挨拶のキスをする。
それを甘んじて受けると、ファニーさんは隣に座って、わたしの飲みかけの紅茶に口をつけた。
ティーバッグにお湯を突っ込んだだけのわたしの飲みかけなんか飲むより、普段比べものにならないくらい良いものを口にしているだろうに。

っていうか今更だけど、この家の住人っておかしいよな……。
ラスボスと呼ばれるひとたちだから、戦闘面でも頭脳面でも能力は他とは到底比べものにならないほど高いし、果てはファニーさんみたいに地位が確立しているひともいるし。
なんでわたしここに住んでるんだろうか。

……まあ、そんなこと考えてもどうかなる訳じゃないし。

某未来道具のどこにでも行けるドアのような不憫な使い方をされているD4Cに、お久しぶり、と笑いかけると、こちらもまた返事をするようにわたしを抱き締めて姿を消した。
もうちょっと触れ合いたかったのだけれど。
スタンドを見ることは出来ても、自分のスタンドを持たないわたしにとって、住人たちの持つその能力と接することはとても好ましい楽しみだった。

あと単純にD4C可愛い。
えげつない能力とステータスとお名前なのは置いておいて。

「もう、ファニーさん。D4Cともっと遊びたいです。それにお仕事は大丈夫ですか?」

スタンドをすぐに消してしまったファニーさんに頬を膨らませると、ご本人はその問いなんにも答えてくれない。
お上品に口元を拭うと、カナリアイエローの髪をふわふわ揺らして私の膝に頭を乗せてきた。
ああ、このまま流してしまう気だな、と察して小さく溜め息をついた。

どうやら少々お疲れのご様子らしい。
これまたいつものことなので、もう一度薄く溜め息をついて、太腿の上に乗せられた頭をぽんぽんと撫でる。
真っ黒な髪と目の純日本人なわたしにとって、羨ましいくらいにきれいにきらきらと輝く金髪だ。

「お疲れさまです、ファニーさん。そういえば今日は夜ごはん、食べていかれますか?」

職業柄、ファニーさんはいつでもこの荒木荘にいる訳ではない。
たまにはこうして息抜きと称して来てくれるのだけれど。

「すまない、君の手料理は家庭的な味でたいへん美味しいし落ち着くんだが、残念なことに今晩は抜けられない会食があってね……。また今度来たときの楽しみに取っておこう」
「そうですか……忙しいでしょうけど、体には気を付けてくださいね」

膝上の髪を梳きながらのんびり言うと、きれいにセットしてある柔らかい髪を気にすることなく、ぐりぐりと頭を太腿にうめられた。
ちょっと、やめてください、女の子の脚になんてことするんですか。
くすぐったいし。
あっ、こら、揉むな。

まあファニーさんのレアなこんなお疲れのご様子を見ることが出来るのはわたしくらいではないかなと思うと、ちょっとした優越感にひたる。
そのままのんびりと時間が過ぎていたけど、タイムリミットが来たんだろう、名残惜しげに頭を上げて、残念そうに微笑まれた。

「また来よう、そのときにはこの礼も兼ね、何か土産でも持って」
「お礼?」

ん? 何かしたっけ?
鸚鵡返しに呟きながら、首を捻る。
わたしの頭の上に浮かぶ疑問符が見えたのだろう。
ファニーさんは面白そうに小さく笑うと、立ち上がり際に顔が近付けられて、ーーって、待って、ちょ、

「っ、んんっ、は、あ……っ、ファニーさんっ!」

挨拶というにはあまりにも濃厚すぎる口付けに、真っ赤な顔をして唇を押さえるしかない。
同居人たちの近過ぎる距離に随分と慣れたと思っていたというのに、わたしにもまだ羞恥を覚える余地があったらしい。
両手で自分の唇に触れると、まだその感触を生々しく思い出すことが容易に出来てしまう。
ますます頬や耳、首に熱が集まるのがはっきりと分かった。

楽しそうな笑い声を残してどじゃアァァァンと消えてしまった犯人に文句を言いたくても、その張本人はもういない。
……奥さんいるくせに何やっているんだあのひと。

腹立ちまぎれに紅茶を入れていたマグカップを洗おうと立ち上がると、部屋の入り口にカーズさんが立っていた。
……気配がなかったからびっくりした……。
まったく、さっきから驚かされてばっかりだ。

「おいなまえ、次に奴が来たら、捕食してやっても構わんだろう?」

大変ご機嫌ナナメなご様子のカーズさんに、肩をすくめる。

「……偉いひとなんで、ほどほどにしてあげておいてくださいね……」

止めなかったわたしに満足したのか、ニタァと人の悪い(人でもないけど)ドス黒い笑みを浮かべると、カーズさんはファニーさんのにおいを上書きするようにわたしを抱きすくめた。




〈16:00〉

「ごめんね! ドッピオくん、お待たせ!」

いつもこの時間はドッピオくんと夕食の買い出しに行くのが常だ。
部屋着にしているTシャツとジャージから、下だけ長めのスカートに履き替えて首元を隠すストールを巻いただけという、簡単な外着に着替える。

「いえ、それじゃあ行きましょうか」

玄関前でドアを開けて待っていてくれたドッピオくんに駆け寄る。
太陽は真昼に比べれば少しは大人しくなったとはいえ、やっぱりとても蒸し暑い。
荷物になるから諦めたけれど、日傘を持ってくれば良かったかなあ。

元々はわたしひとりで買い物に行っていたのだけれど、なにぶん人数がいるものだから買い物の量が単純に多い。
真夏のある日、重たいレジ袋をなんとか運んで帰宅したわたしがうっかり軽い脱水症状で倒れてしまって以来、誰かが荷物持ちとして着いてきてくれることになった。
たいていはこうしてドッピオくんが来てくれて、このお買い物はわたしの数少ない癒しタイムとなっているのだ。

「んー……ドッピオくん、今晩はなにが食べたい?」

スーパーで野菜の鮮度を見ながら、カートを押してくれているドッピオくんにたずねる。
日本のありふれた普通のスーパーに、紫っぽいピンク髪の男の子は(しかもちょっと気弱そうで母性本能をガンガンくすぐられるタイプの顔の整った外国人だ)、もちろん目立つ。
そりゃあもうさっきからチラチラこそこそ。
おばさま達の視線が痛いこと痛いこと。
ついでに一緒のわたしにまで目を向けるのは、やめていただきたいところなんだけどな。

でもそんな注目の的である彼は気付いていないのか、それとも慣れているのか、全く意に介さず今夜のリクエストやアドバイスをくれる。
ううむ、心強い。

会計を済ませ、いっぱいになったエコバッグを自然な動作で、そりゃあもうスマートにドッピオくんに奪われた。
これもいつものことだけど。

ふたりで家への道を歩く。
素っ気ないアスファルトに仲良く並んだふたつの濃い影を見ていると、ほかほかと暖かい気持ちが胸を占めた。

……両親を亡くしてひとりで暮していたあの頃は、いつでも影はひとつだった。
そしてそれを寂しいと思うことすら忘れていたのに、その横に当たり前のように並ぶもうひとつの影は、わたしにこの暖かさと多幸感を手放すことを恐れさせるには、充分すぎるほど力を持っていた。

「……なまえさん?」

うつむいて陰を見ていたわたしを不審に思ったのか、心配げにドッピオくんに顔を覗き込まれる。
間近に迫った両目はキラキラと輝いて、まるでこの世にひとつしかない宝石みたいだった。

その目に映った小さなわたしが、少しだけ泣きそうな顔をしていることを、そこで初めて気付く。

悲しくて涙が出ることを父と母は教えてくれたけれど、幸せでも涙が出ると教えてくれたのは、同居人のみんなだった。

「ううん、なんでもないよ」

口からこぼれた言葉にドッピオくんはなにも答えず、代わりにわたしの左手をするりと奪った。
そのまま手と手とを繋ぎあわせたまま、ゆっくりと歩き出す。

「帰りましょう、なまえさん」

ね、と首を傾げて笑う彼にまた幸せを覚えて、涙を流す代わりに、きゅっと強く手を握り返した。




〈18:35〉

「ごはんができましたよ、DIOさん起ーきーて」

人外その2もとい吸血鬼のDIOさんは、太陽を避けるための棺桶で日中お休みしている。
日も沈んだところで、どんどんとその頑丈な棺を叩くと、ギギ、と緩慢にそれが開いた。
そういえば日光を遮断するためのコレって、中の酸素ってどうなっているんだろう。
海底で百年もずっとこのなかに居続けるなんて、わたしには出来そうにないなあ、なんてぼんやりしていたら、中からヌッと出てきた逞しくも均整のとれた腕に、あっという間に引きずり込まれた。

「えええぇ……」
「もう夜か、なまえ」
「ええ、日は沈みましたよ。ご飯もできたから呼びに来たのに……」

正面から強い力で抱きすくめられ、わたしの胸元に顔をうずめてくるDIOさんに溜め息をついた。
ほんと、みんな距離感がおかしいよなあ。
それに慣れてしまったわたしもアレなんだけど……。

っていうか、DIOさんにとっては取るに足らないことだろうけれど、正直そこで呼吸されるとくすぐったいし、汗はかいてないかななんて、ちょっとそわそわしてしまうのが女の子ってものだ。
放してほしい。
何より単純に恥ずかしい。

「でぃーおーさーん」
「ああ」

いや、ああじゃないです、起きてくださいようとそのがっしりとした肩に手を付いて揺らす。
いつもならペラペラと饒舌に話すその整った口も、いまはなぜだか言葉を発しようとしない。

……ああ、この雰囲気は、まずい。
全力で逃げようと判断したときには、何もかも遅かった。

「なまえ……」

熱のこもった吐息が、緩やかに鎖骨をかすめた。
暗闇のなかで宝石のような目が妖しく光る。
ああ、なんてきれいなんだろうと感動すら覚えるその優しげな微笑に、頭に靄がかかったような状態に陥った。
もしかしたらエサになってしまった数々の女の人たちも、こんな気持ちだったのかな、なんてぼんやり思う。
自我や規律も無視して、目の前にいるこのひとのためなら何をしても、何を捧げても構わないという望み、欲求。
こくり、と喉が鳴った。

「――っ、う、あ、」

鋭い痛みが左胸の辺り、ちょうど心臓の上にはしる。
痛い。
そりゃあそうだ、鋭い歯が皮膚を突き破り、太い血管にまで達しているのだから。
じくじくとその場所が熱を持ったように痛む。
痛い、痛い、痛い、のに、――気持ちいい。

まるで、血の溢れるそこは痛みを発しているのに、感覚神経によってそれが脳に伝えられると、愉悦の判断を下されてしまっているかのようだった。
胸元をかすめるDIOさんの吐息にすら、ぴく、と肩が揺れてしまった。
ゆっくりと、焦らすように血の流れる太い線を唇の先でなぞられる。
ざわざわと背筋を駆け上がってくる感覚、毒のように体内を回る気持ち良さに、じわりと涙が浮かぶのが分かった。

「なまえ、なまえ、なまえ……」

歌うように優しい声色で名前を呼ばれて、のろのろと俯いていた顔を向けると、愛しげに目を細められる。
まるで愛を乞う子供のような瞳に、胸の奥深くが苦しくなった。
その厚く形の良い唇は、濃い赤でぬらぬらと光っている。
それすらも美しいんだから、きれいなひとはずるい。
頭が上手く働かず、思考を放棄してぼんやりと惚けたまま、従順に血の味がするキスを受け入れた。
柔らかな舌に上顎をくすぐられ、肩に置いた手がふるえる。

腕の力が抜け、倒れ込みそうになったところで、グッと抱き上げられた。
突然の浮遊感に目の前が真っ白になった。




〈19:20〉

ぱっと目を覚ますと、目の前に心配そうな顔をした吉良さんとディエゴくんがいた。
あれ? えっと、わたしどうしたんだっけ……とゆるく頭を振ると、僅かにぐにゃりと視界が歪む。
……ついでに少しだけ気分も悪い。

「うぇ……吉良さん、ディエゴくん、お帰りなさい」

とりあえずわたしが意識を失っている間に帰宅したらしい二人におかえりを言うと、二人に揃って溜め息をつかれた。
え、なんでそんな反応なの。そこはただいまじゃないの。

時計を見やると、それほど時間は経っていなかった。
良かった、夜ご飯はみんなで食べられるなあと思いながら上体を起こすと、狭い部屋の端っこで正座させられているDIOさんがいた。
横には応援係のプッチさんもいる。
えっ、何あれものすごくシュール。

「大丈夫かい? あのごくつぶしには反省させておくから、夕飯を食べようか」

吉良さんがわたしの手を取って立ち上がらせてくれながら、教えてくれる。
なんでもわたしの意識が飛びそうだったところを、ナイスタイミングで帰宅した吉良さんが爆破して助けてくれたらしい。
ありがとう、キラークイーン。
今日も猫みたいな目がキュートです。

まだ少々フラッとするけど、このくらいの貧血ならご飯を食べたら大丈夫だろう。
わたし、ここに来てから体が頑丈になった気がする……もちろん、精神面は言わずもがな。

ディエゴくんに支えられながら台所に向かおうとしたところで、くるっと振り返った。
正座に慣れていないDIOさんはうっすら涙目である。
2メートル近い外国人の正座は、なんだかちょっと可愛い。

「DIOさん、はやく来てください。ごはん食べましょうよ」

苦笑して言うと、ぱっと顔を上げたDIOさんがWRYYYYYYと叫びながら抱き着いてこようとした。
両隣の吉良さんとディエゴくんはやれやれと首を振り、「甘すぎる……」なんて苦々しげにこぼしていたけれど、……まあ、その、みんなでご飯が食べたかったんですよ。

ちなみにDIOさんは足が痺れていたせいで転び、転倒する際に巻き込まれたディアボロさんがまた生死の淵をさまようことになってしまったのは、別の話である。



〈22:50〉

お風呂から上がると、吉良さんはもう眠りに就く準備を終えたところだった。
明日も平日だし、サラリーマンは大変だなあ。

ちなみにわたしはといえば、最近は専業主婦状態である。
こちらにトリップしてしまってからは、間違いなく家事全般のスキルが上がっていて、いつでもお嫁さんになれるなと自負しているところだ。
問題は、無事に(人間の)お嫁さんになれるかどうか怪しいものだという点なのだけれども。
……無理っぽいなあ……。
いや諦めるな、わたし。

吉良さんの寝る前の、わたしの手を保湿したりネイルチェックしたりするいつもの日課。
マッサージしてもらいつつそんなことを考えていると、うつらうつらしてきた。

お風呂上がりでぽかぽかと体温の高いときにしてもらういつものハンドマッサージは本当に気持ちが良い。
ここに来てから吉良さんに手入れをしてもらっているおかげで、今やわたしの手はハンドモデルをしても遜色ないほどきれいになった。
カワイイは作れるっていうけど、きちんと手入れしてあげればこんなに変わるものなのか、と驚くばかりである。

「よし、終わりだ」
「ありがとう、吉良さん!」

お礼に頬を撫でて差し上げると、また気持ちの悪い喘ぎ声を発して眠りに就いた。
さすがですね吉良さん。
いつもの就寝時間ぴったりです。

ふわああ、とあくびが出た。
わたしももうねむたいなあ。
だけど困った。問題がひとつ。

わたしが安らかに眠るには、壁がいくつか立ちはだかっている。
ドッピオくんはすやすや押入れに収まって夢のなか、ディエゴくんはお風呂に入っていて、プッチさんは聖書かな? 分厚い本を読んでいる。
うん、ここまでは良い。いつも通りの風景。

問題は残りの変態たちである。
いや、まあ、いつも通りといえばいつも通りなのだけど。

端的にいうと、ディアボロさんがカーズさんとDIOさんに食べられそうだ。
一度プッチさんに助けを求めたことがあったけれど、「食費が浮いて良かったじゃないか。そもそもDIOの食糧になれるんだ、光栄に思うんだな、ディアボロ」と慈愛に満ち溢れた顔で言われて以来、この人は当てにならないと学習している。

残念ながらわたしは、単純にスタンドが見えるというだけでなんの能力もないただの一般人なので、おやすみ前にスプラッタを見ていられるほど図太い神経を持ち合わせてはいない。
それに何度でも生き返るといわれても、ひとの死というものを目にするのはわたしにとって恐ろしいことであることに変わりはない。

しかもディアボロさんがいるの、わたしのお布団だし。
寝るに寝られない。
……意を決して恐る恐る声をかけた。

「……あ、あの……そこらへんでやめてもらえません……? ディアボロさん、今日11時から2chで集合って言ってたし、わたしももう寝たいんですけど……」

三人に声をかけると、ディアボロさんがぱっと顔を上げて救いを求める目で見つめてきた。
ああ、良かった、まだ五体満足だ。
でもやめてくださいディアボロさん、ご存知の通りわたしはあなたを助けられるような力量はありません。

「なまえよ、構ってほしかったのならばそう言えと教えただろう」
「違います、カーズさん。わたしは寝たいんですこっち来ないでくださいあああぁやめてください」

つかんでいたディアボロさんの頭から手を放し(ゴッというものすごく痛そうな音を立ててディアボロさんは床へ崩れ落ちた)、こちらににじり寄ってくるカーズさんから後ずさってなんとか距離を取る。
かたや腰を抜かしたようにへっぴり腰で逃げる平均的身長の女の子と、それに手を伸ばしてゆっくりと歩み寄る2m近い男性(しかも限りなく全裸に近い)の図は、なかなかに事件じゃないですかね。

どう切り抜けるか必死に考えていたら、なんと次の瞬間、窓辺に居たはずのDIOさんの腕の中に収まっていた。
びっくりしたけれど、ザ・ワールドの力だろうとすぐに理解して体の力を抜く。
……ふう、眠るだけだっていうのに、どうしてこんなに身の危険を覚えなくちゃならないんだ。

カーズさんは腹立たしげに舌打ちをひとつすると、DIOさんを睨んだ。
正面からDIOさんに抱き締められている状態では、なんとなく雰囲気や空気を感じることしか出来ないけれど、間違いなくいまこの部屋の体感温度が下がっている気がする。
……なにこの状況こわい。

「なまえ、今宵はこのDIOの相手だろう?」

そう言いながら頬に手を添えられ、ゆっくりと撫でられる。
何言っているんだこの吸血鬼。
当たり前のように言っているけど、そんなこと約束もしてませんし、言ったことすらありませんからね。

カーズさんはといえばヤレヤレと言わんばかりに溜め息をひとつ落とすと、DIOさんの前に座った。
つまりDIOさんに抱きすくめられたわたしの真後ろ。
……おおっと、これはどういう状況だ……?

「図に乗るなよ吸血鬼」
「まあそう言うな。なあ、なまえ?」

DIOさんがそのきれいな顔に楽しそうな笑みを浮かべて低く囁く。
なにがですかと当たり前の疑問を口にしようとした瞬間、目の前にはそれはもうお美しいDIOさんのお顔のどアップがあった。

「DIOさ、……っ、ぅ、んんっ……!」

有無を言わさず塞がれた口に、容赦なく舌が入ってくる。
それに意識を奪われていると、カーズさんの手でパジャマのボタンが全て外されていた。
以前、遠慮なく引き裂かれてただの布きれと化していたパジャマの数々に、お金がいくらあっても足りないと吉良さんに怒られてからというもの少しは学習したらしい。

いやちょっと待て、いつの間に、と焦っていると、顎を掴まれ後ろからまた唇を重ねられる。
DIOさんの手に首筋と脚を撫で上げられ、どうしようもなく熱い息がこぼれた。

「なあ、夜は長いぞ? なまえ」

耳に吹き込まれた囁きは、いったいどちらのものだったのだろう。

こんな日常

(2014.06.10)
- ナノ -