――あのひとはまだかしら。
そう考えたところでなまえは、はっと息を呑んだ。

腿の上へ置いた手、ちいさな拳がスカートをぎゅっと握り込んでしまっていたことに気付いたのだ。
ふんわりとしたフレアスカートは淡いレモンイエロー色で、一拍遅れてしわになってしまうと思い至りぱっと手を離した。
まったくの無意識による所業に、他でもないなまえが最も戸惑っていた。

一方ならぬ困惑に襲われ、彼女はなんの理由も目的もなく、腰掛けていたチェスターフィールドソファへもたれかかった。
背もたれもアームレストも高いソファは、行儀悪く上体を預けているとずるずると崩れ落ちてしまいそうだった。
ぼんやりといたずらに、なまえは眼前の硬いびょうへ爪を立てた。
ぎりっと引っ掻くも、ちいさな爪先は重厚なソファにささやかな傷ひとつ付けることすら敵わなかった。
極めて無意味な行為に、彼女は目眩に襲われる寸前の、浮遊するような不快な感覚を抱いたまま、心中「どうして」と呟いた。
なにもかもが無意味な行為だった。
ソファにもたれかかることも、手すさびに傍らの飾りびょうへふれることも、この思考も、ことごとくがだ。

彼女は知っていた――無意味でない行為など、この世にないということを。
呼吸することも、まばたきすることも、眠ることも、目を覚ますことも、食事を摂ることも、見聞きすることも、知ることも、話すことも、喜ぶことも、怒ることも、悲しむことも、楽しむことも、苦しむことも、恨むことも、笑うことも、泣くことも、心を寄せることも、欲しがることも、惜しむことも、なにかを好ましいと、疎ましいと感じることも、なにかを大切に思うことも、すべて――すべて無意味、無価値だった。
遅かれはやかれ、ひとは皆、死ぬ。
そのうち死んで消えるものになんの意味があるだろう。
そのうち死んで失うものになにを思えというのだろう。
まだ死んでいないから、いま生きている。
それがなまえという人間だった。

そして彼女は「無意識の行動」をいままで取ったことがなかった。
なにも飛び抜けて冷静、自制的というわけではない。
ただ注意が散漫になるほど、他のものに気を取られることが滅多にないだけだった。
不随意な行いを見せるほど、なにかに思い煩わされることも、こだわることもなかっただけだ。
アタラクシアの境地とでもいうべき生き方に終始してきた彼女にとって、来し方の有象無象、目の前を通り過ぎていくものは、ただ通り過ぎていくだけだった。
たとえば晴れ渡った青空に暗い雲が立ち込め、激しく雨が降り出したとして、移り気な空を恨むだろうか。
咲く花が枯れたとして、流れゆく時間を責めるだろうか?
彼女にとって一切衆生はそれらと大して相違ないものだった――おそらく自分自身すらもだ。

――それなのに、どうして。
なまえは無様に痙攣するてのひらを握り締めた。
崩れてしまいそうな心身を支えるのに、彼女は必死だった。
静寂しじま満ちる居室には、自分の惨めったらしい呼吸音しか聞こえなかった。
ずっと部屋にひとりきりであり、数えきれないほどの夙夜しゅくやを重ねる間、まみえる人間といえば「彼」以外にいなかったためだろうか。
ふと、彼のことを考えてしまったのは。

なまえは愕然とした。
誰かのことを思い、待つなど、生まれて初めてであることにそのとき気付いたためだった。
なにかを欲しいと思うこと、なにかをしたいと欲すること、誰かに自分を見てほしいと望むこと、誰かに自分へさわってほしいと求めること。
誰かを好ましく感じ、誰かに自分を好ましく感じてほしいと願うこと。
欲望、欲求、思慕、そんなものを生まれて初めて、それも一時いちどきに自覚した彼女は、ただひたすらに惑乱した。
この感覚はなんだろうかと自分のなかに生じた情動に怯えるさまは、泣くのを堪える無防備な幼な子のようだった。

ささやかな憧れめいた感情を少女の頃に抱いたことはあれど、だからこそ・・・・・なまえはいま生じた「欲望」が恐ろしくて堪らなかった。
「好ましく感じてほしい」などと大それたことは望まない、せめて疎まれずに、嫌われずにいたかった。
しかしそのための方法や手段をなまえは知らなかった。

幸いなことに、ただ生きるだけならばなに不自由ない出自ではあった。
媚びへつらい他者の顔色を窺わずとも、なんら問題なく生きることができたのは、幸いというべきだと彼女も自認していた。
生きていく上で最低限必要な生理的欲求も、知覚するより既に満たされていた。
しかしながら、なにかを心の底から「欲しい」と感じたことのなかったなまえは、おのれのなかに胚胎はいたいした望み、願い、そういった無意味な・・・・欲望が自分のなかにあることに驚いたし、なおかつまさかそれを他人へ向ける日が来ようとは、夢にも思わなかった。

「っ……」

なまえは強張りの残るてのひらで顔を覆った。
――まさかこれが恋だとでもいうのか。
物語のなか、文字でならいくらでも目にしてきたものが、にわかに真面まおもてへ現れ、彼女は狼狽した。
「つつましい情感、そのやさしい響き、そのめでたさと静もり、恋の初めての感動の、とろけるばかりの悦び」なんて、とんでもない!
これほどまでに自分を揺らがせるものなんぞ、最早、恐怖以外のなにものでもなかった。
てて加えて、万事そんな調子で生きてきたから、彼女は恐怖というものにも馴れていなかった。

生まれて初めての情動に怯えながら、しかしなまえは同時に、それらすべての感覚、感情を排除する、「なかったこと」にするにはどうしたら良いのかと、苦慮し始めていた。
なぜなら、彼がなまえを傍に置いたのは「出会った頃のなまえ」を気に入ったためだ。
わざわざ厄介な身代の娘ひとりを拾い上げる労を取るなど、酔狂にも程がある。
それでも彼はなまえを、打ち捨てられていたらきっとそのまま死んで朽ちていた娘を手元に置いた。
ならば、万が一変質したいまの彼女を知ったなら?

おのずから欲望を抱いたいまの「なまえ」は、彼と出会ったときの「なまえ」とは決定的に・・・・異なった。
昨日までのなまえと、いまのなまえは一様でない。
世界が変わってしまうほどの衝撃云々と形容しようものなら、あまりに陳腐な表現で失笑を免れないが、笑い飛ばすだけの余裕などいまの彼女にはこれっぽっちもなかった。
手を翻せば雲となり、手を覆せば雨となる不可逆的な変化を、諾々と受け入れるわけにはいかなかった。
偶さか彼が拾い上げた「あのときのなまえ」のままでなければ傍にいられないと考えるのは、自然なことではないか。

なまえはフレアスカートに寄ったほんのわずかなしわが、あたかも千々に割れ砕けた鋭利なガラス片でもあるかのように、疎ましげに睨みつけた。
変わるべきでないとも、変わりたくないとも思った。
いまは良いかもしれない。
彼のことだ、いまのなまえを愉快がってあげつらうかもしれない。
けれどそんな益体もない児戯がいつまで続くだろうか。
彼に飽きられ、手を離されれば、追いすがるなどなまえという人間にはできない。
あと幾日経てば、彼はなまえに飽きるだろう――一年も保つだろうか、半年、ひと月、それとも明日?

「――なまえ?」

はっと振り向いた。
部屋の入り口で、いまのいままで煩悶していた原因の彼が――張維新チャンウァイサンが、不可解げに首を傾げてこちらを眺めていた。

「気が滅入るってのは手前こそ指すんだろうよ。またぞろ辛気臭いツラしてるぜ。留守の間になにかあったか?」
「いえ、……なにも」

なにを言えば良かったのだろう。
どんな顔をすれば良かったのだろうか。
どのような表情を形づくるべきか決し損ねたなまえは、ことすくなに目をそばめるだけに反応を留めた。
なにかが溢れ、せきを切り、取り返しの付かない言葉をぶつけるはめになるのを恐れ、怯えが口を塞いだ。

夜をもたらすかのような黒服を翻して、張が歩み寄ってきた。
ソファに座したままのなまえへ手が伸びてきたが、指先が頬にふれそうになった瞬間、思わず娘の肩がびくっと揺れた。
一瞬、彼の手が止まった。

「最近は、すこしは慣れてきたように見えたんだが。飽きもせずにまあ、そうびくついてられるな。そこまで愚蒙だと、呆れるというより感服もんだ。そう思わないか? お嬢さん」

独り言じみて嘆息しながら、男の手は今度は一切の躊躇を伴わず細顎をつかんだ。
わずかに苛立ちを孕んだ大きな手に、なまえは無理やり顔を上げさせられた。
黒いサングラス越しに見下ろされるも、面輪おもわは逆光で陰り、表情を窺い知るのは敵わなかった。
なまえよりずっと大柄な男がそうして目の前で立っていると、威圧的な風体と相まって、決まって夜闇に呑み込まれてしまいそうな錯覚に陥るものだった。
我が物顔でおとがいをつかむ驕傲きょうごうな手から逃れられるはずもなく、なまえは処刑の順番待ちをしている罪人にも似た心地で目を伏せた。

胸の奥に、巨大な塊が――靄のように曖昧な輪郭をしているくせに、頑強に――つっかえていて、先程までの比ではないほど呼吸が難しい。
ふれられている肌は勿論、火傷しそうなほど喉頸のどくびが熱かった。
なぜだか目の奥までもが熱くなり、涙の一滴ひとしずくでもこぼれ落ちてしまいそうだった。
どうしたら良いかわからなかった彼女は顔を背け、張の手から逃れた。

「……お気に召さないなら、はやくお捨てになってはいかが」

こんなことをしたいわけではない。
こんなことを言いたいわけではない。
だからといって、なにをすれば良いのかわからなかった。
なにを言えば良いのかわからなかった。

つい先程まで、見てほしいと、ふれてほしいと、好ましく思ってほしいと、欲していたくせにもかかわらずだ。
どうして上手く表情をつくったり当たり障りない発言をしたり、当然のようにしていたことができないのだろうか。
それでも火がついたように引き攣れる喉のわりに、きちんと発声できたことに安堵している自分もいた。
きっと無様に涙声でそんなことを吐こうものなら、もっと惨めな気持ちになっていたに違いなかった。

うつむいた頭へ、男の面倒臭げな溜め息が降ってくる。
嘆息まじりに「そのうちな」と呟かれ、またなまえの指先が無意識に・・・・痙攣した。
どうしてこれほどまでに苦悶を覚えなければならないのか。
矛盾する欲求と言動に、なまえは「自分」というものがなによりも得体の知れない恐ろしい存在のように感じられた。
言葉にできない曖昧な感情と思考がぐちゃぐちゃに入り乱れ、醜く膨れ上がり、このままでは肉体が破裂してしまうかもしれないと馬鹿げた恐怖を抱いた。

ようやく自覚したばかりの感情を御するすべも持たず、肥大する自意識がますますおのれを醜くさせた。
なまえは硬くてのひらを握り締め、いますぐこの場から逃げ出してしまいたいと心の底から思った。
そう欲することも初めてだった。
いっそのこと、彼に――張維新チャンウァイサンにゆくりなく掬い上げられなければ、無為のままであれば、終生、こんな思いもせず、息を吸って吐いて、いずれ鼓動も止まり、深く静かに埋没していられたかもしれないのに。
不随意に行動してしまうおのれへの不快感も、自分が自分ではなくなってしまうような恐怖も知らなかった。
知りたくなどなかった。
誰かひとりを求める気持ちも、誰かひとりを恋うる気持ちも。
――いつまでこうしていられるのかと、いつ手を離されるのかと、怯えるこの瞬間を。

「やれやれ、また泣いてるのか?」
「……いいえ」
「は、相変わらず嘘が下手だな」

張は革靴が傷むのも頓着せず、ソファに腰掛けたなまえの眼下へしゃがみ込んだ。
彼の大きな手では女の顔面など容易につかめてしまうだろう。
しかし再度なまえのおとがいを掬い上げたてのひらは、先程とは打って変わって驚くほどやさしく・・・・、彼女は困惑に目をみはった。
真正面から眼差しがぶつかり、今度は逸らせなくなった。
サングラス越しの双眸に呆れたような光をたたえて、張が厚い唇を開いた――ああ、彼はあのとき・・・・、なんと言って笑ったのだったか。

――懐かしい夢を見ていた。
なまえはうっとりと微笑んだ。
温かなしとねで、眠りと目覚めとの中間を行ったり来たり、ゆらゆらとさまよっている感覚は、そのまま溺れていたいほどに心地好かった。
分厚いカーテンに遮られ、鮮烈な朝日は未だ寝台へは届かない。
幽邃閑雅ゆうすいかんがな邸の閨房けいぼう、やおら目を開いた彼女はひとりではなかった。

隣で未だ眠っている張維新チャンウァイサンを仰いで、なまえはとろりと瞳を潤ませた。
そっと幸福の溜め息をついた。
隣で眠りに落ちる夜を、隣で目を覚ます朝を、幾度重ねようとどうして慣れることができるだろう?
ただそれだけのことが、どれだけ得難く、幸福か、なまえは知っていた。
毎朝目が覚めるたび恋に落ちているなんて、旦那さまに笑われてしまうかしら――などと寝起きの頭でふわふわ考えながら、ともすれば涙すらこぼれそうになるほどの喜びをゆっくりと嚥下した。

いつまでもこうして彼の寝顔を眺めていたかったが、ちらとナイトテーブルの時計へ視線をやれば、なまえはともかく、主人はそろそろ起床しなければならない時刻である。
今日のスケジュールを脳内でりながら、横で眠っている張へ穏やかに声をかけた。

「だんなさま、おめざめですか、お時間です……ッ、きゃっ」

眉根を寄せた主人は、「んー……」と呻いたかと思えば、うるさい目覚まし時計を黙らせるよう乱雑になまえを抱き込んだ。
度外れて寝聡い彼にしては珍しく、少々寝ぼけているらしい。
普段より高く感じられる夢寐むびの体温が、彼女までも眠りの淵へ引き寄せてしまう。

抱きすくめられたなまえは罪深いほど甘ったるい笑い声を漏らした。
やさしくやつれた朝の顔、前夜の情交で緩慢になり、幸福な物憂さを漂わせた動作で、彼の前髪をそっと撫でた。
鳴禽めいきんが囀るように「はやく起きて、だんなさま」と促した。
とうとう観念したか、張の重たげな目蓋がのろのろと開いた。
寝ぼけまなこおのれの瞳をとらえた瞬間、なまえはとろけるように一層頬をゆるめた。

「おはようございます、旦那さま。……わたしね、懐かしいゆめを見たんです。あなたに恋をしたばかりのころの」

起き抜けに浴びるには、あまりに蒙昧に過ぎるセリフだったに違いない。
ぼんやりした男の面輪おもわが胡乱に眉をひそめるのも、致し方ないことだった。
「朝っぱらからなに吐いてんだこいつ」と言わんばかりに顔をしかめた張を見上げ、堪え切れずなまえはくすくすと笑みをこぼした。

精悍さより困惑と緩慢の色の濃い男の顔貌を、至近距離で覗き込んだ。
甘ったれた語調で「そんなお顔なさらないで」と囁くさまは、こんなことがあったのと、聞いて聞いてと親へせがむ幼な子のようだ。

「何年前かしら……。ふふ、あなたに嫌われたくないって、おびえていた娘のゆめ」

伝える必要のない、無意味な・・・・――なおかつ今生なにより得難く幸福な言葉は、胸の奥、心の一番やわらかなところをそっくりそのまま明け渡すようにあえかだった。

囀りに、張維新チャンウァイサンは、はっと薄く笑った。
だらりと寝そべったまま「そりゃまた随分と昔の夢だな」と嘯いた。
下りた前髪を掻き上げると、横長の特徴的な箱を拾い上げた。

咥えたジタンへ、速やかに、それでいて淑やかな所作で、なまえが火をともした。
起き抜けの一服をつけた飼い主は、けぶる白靄を纏わせ、呆れというには穏やかさの勝る眼差しでなまえを見下ろした。

「……いまは怯えてないように聞こえるぜ、その物言いだと」
「んー……ふふ、手のかかったものほど、男性は惜しくなりがちでしょう? お手間をおかけした自覚はありましてよ、飼い主さま。申し訳ないほどにね。そう簡単になまえのこと、お嫌いになれます?」

歌うように口舌くぜる女はうつくしい朝焼けに似ている。
張維新チャンウァイサンは居丈高に笑いながら、なまえのやわらかな黒髪をすいてやった。

「随分と口が回るようになっちまった原因は、俺の掌中の外にあると思うがねえ。なまえ」
「あら、どうでしょう。あなた以外のものに変節させられたと思いますか……このわたしが?」


(2020.12.08)
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