「――ッ!」

ざあっと血の気が引く。
咄嗟に叫び声をあげかけ――しかし結局空に消えた。

仕事では、いつ何時なにが起こっても冷静に現状を把握しろ、とずっと指導されてきた。
不測の事態に陥ったとき、なにを出来るか、なにが出来ないか、自分の能力を過信することなく、かつ過小に見積もるでもなく、最良と思われる対策を立て、最善を尽くすこと。
ずっとそう指示されていたし、行動できると信じていた。
そんな叩き込まれた教えすら、想像の埒外の事態には役に立たないのだと己れの未熟さ、了見の狭さに辟易する。

しかしこれほどまでに動転することがかつてあっただろうか。
思わず目の前の「誰か」を突き飛ばしてしまっても仕方のないことだったと、正当化したい気持ちは誰にも責められなかっただろう。

「いたた……酷いですねえ、なまえさん」
「ひっ、」

床に倒れかけた誰か――「沖矢昴」が苦笑しながら立ち上がる。
やはり穏やかな声音で名を呼ばれ、ソファに座り込んだまま無様にびくりと身をすくませる。
狼狽を隠す余裕すらなく、はくはくと空を噛むしかない。

「もう、あなたのせいでなまえさんを驚かせちゃったじゃないですか」
「いや、お前が原因だろう。怪我は?」
「おやおや……心配してくれるんですか? 優しいんですね」

皮肉たっぷりな声色に気を取られている場合ではなかった。
「赤井秀一」と「沖矢昴」が淡々と会話している光景に絶句しつつ、シャツの裾を引き寄せ胸元や腹を慌てて隠す。
当のわたしは、もしここに降谷さんがいたならば発狂してしまうのではないかと、まるで見当外れなことを考えていた。
呆然とする以外に、わたしになにが出来ただろう。

「ねえ、なまえさん?」
「えっ、あ」

ふいに水を向けられ、目を見開いた。
そこで唐突に気付く。
どうして赤井さんは平然と彼と――存在しないはずの「沖矢昴」と、会話しているのだろう。
まるで彼がここにいることをはじめから知っていたかのように。

言葉もなく赤井さんを見つめていると、訝しげな表情のわたしがどんな懐疑に抱いているのか彼は察したらしい。
深く溜め息を吐いた。

「溜め息ではなく説明ですよ。いま必要なのは。なまえさんには特に」
「お前は黙っていろ」
「……あ、赤井さんは……その……彼のことを分かっていたんですか?」
「ああ、そうだ。……こいつは始め、俺のところに現れた」
「赤井さんのところに……?」

鸚鵡返しに首を傾げる。
少々乱れていた服装を正しながら、「彼」もまた首をひねった。

「僕にもよく分からないんですよね。朝起きたら隣にこのひとがいて、僕の方も驚きました」
「そんな……」

得体の知れない男――もうこの際「沖矢さん」と呼ぼう――は、あっけらかんと言い放った。
ズレていた眼鏡のフレームを指先で押し上げる。
手入れの行き届き美しく節くれ立った指先は、赤井さんと同じものだった。

「なんの冗談かと調べたら、俺の指紋と一致した。DNA鑑定はまだだが――結果は見えている」
「つまり、赤井さんと……ど、同一人物ってことですか……?」
「ああ。忌々しいが記憶も共有している。俺以外、誰も知らないはずのことまでな」

薄く嘆息しながら赤井さんが呟いた。
DNA鑑定の結果が出るまでには最短で二日、長くて一週間から二週間ほど時間が必要となる。
わざわざそんな手間暇をかけることはないと彼は判断したのだろう。

なんて非現実な、と笑い飛ばせたならどれほど良かったか。
呆気に取られつつも、薬で小さくなってしまったかの名探偵の姿を思い出し、これもそう不可思議なことではないのだろうか――と揺らぐ常識に照らし合わせてみるも、混乱の極みにある思考では判然としなかった。

「……で、邪魔だったからここにやっていた。三日前に」
「ねえ、酷いと思いません?」

肩をすくめて沖矢さんが合鍵を揺らして見せた。
どうやら以前、赤井さんに渡した合鍵を使って、沖矢さんはわたしのところでここ数日生活していたらしい。
いままでの記憶が共有されているというのならば不思議なことではないが、なぜわたしのところに――、

「――なまえ」
「は、はい」

思案に暮れていたところ、唐突に名を呼ばれて肩が跳ねる。
射抜くような緑色の冷淡な視線に、息を詰める。

「沖矢をここに置いてもらえないか」
「えっ……」
「"沖矢昴"は組織を潰した後、米国へ留学という体(てい)で日本から存在を消した。今更、米花町を中心に奴の関係者に目撃でもされてみろ、後々面倒なことになるのは明白だ」

赤井秀一が生きているということが組織に露呈した結果、沖矢昴の仮面は必要なくなった。
組織の壊滅後はFBIと協力し、沖矢の痕跡を上手く拭い取ったが、確かに彼の言う通り粗を残したくはない。

「僕からもお願いします。このひとに追われたんじゃあ、行くところがない」
「で、でも……」

今更ボウヤに頼む訳にもいかないですしねえ、と苦笑する沖矢さんに、正当な反論が思い付かず、言いよどむ。

赤井さんは単に沖矢さんを厄介払いしたいだけなのだろう。
確かに「いないはずの人間」が周囲を闊歩していたら、どんな不具合が生じるか。
そもそも良い気はしないだろう。

しかし、――しかしだ。
赤井さんが現れるまで、わたしは沖矢さんと――この表現が正しいのか否か分からないが――「浮気」していたのだ。
あのときはまだ沖矢さんと赤井さんが別のものとして存在しているなど露知らず、仕方のないことだったとはいえ、赤井さんはなんとも思わないのだろうか。

――なんて、わたしの願望だと理解していた。
あまりにも自分が愚かで、目眩すら覚える。
もしこれを機に、沖矢さんと一緒にわたしも厄介払いしたいだけだったとしたら?
赤井さんにとってこの状況は好都合なのだとしたら?

「……元に戻る方法は分かってるんですか?」

絞るように出てきた言葉は、それだけだった。
確信的な言葉を避けている。
自覚は劣等感と共に胸奥に沈澱していた。

「目下模索中とだけ言っておこう」
「……分かりました。目途が立ち次第、そちらにお任せします」
「ああ」
「では、しばらくよろしくお願いしますね。なまえさん」

嬉しそうにわたしへ笑いかけながら、沖矢さんが手を伸ばしてくる。
その手を取るか躊躇し、思わず救いを求めるように赤井さんを見上げると、彼は煙草を懐から取り出しながら言い捨てた。
こちらに視線をちらとやることすらせずに。

「ああ、さっきも俺が邪魔しなかったら、そのまま楽しんでいただろう? 構わんが面倒事は増やすなよ」
「っ……!」

頭がぐちゃぐちゃに掻き乱されていた。
「面倒事は増やすな」とは。
どんな原理か分からないものの、赤井さんと同一の人間である沖矢さんとの間に、万が一、――よしんば子供でもできてしまったならば、なるほど確かに「面倒」どころの話ではない。
その場合、責任の所在は赤井秀一に向かうだろう。
いまのところ沖矢昴には戸籍はおろか、実相を証明するものは一切ない。
幽霊とでも呼ぶのが最も相応しいが、皮肉にも程がある。
死んだはずの人間を補完するための存在だったはずなのに、まさか生存が明らかになった後に現れてくるとは。

――つまり赤井さんは、わたしと沖矢さんが「そういう関係」に至ると思っているのだ。
「沖矢昴」との間に子供なんて、冗談ではない。
考えただけでぞっとする。

ほんの先程まで沖矢さんとのことを嫉妬してくれるかもしれない、なんて期待して――いなかったと言えば嘘になる。
そんな考えがいかに甘く、愚かだったのかこれほど痛烈に思い知ることになるとは考えてもみなかった。
漂いはじめた濃い煙草の香りは、私を絶望させるにはあまりあった。

いつもの仕草で煙草を吸いはじめた赤井さんと、そして彼の発言にさすがに眉を潜めている沖矢さん。
これ以上彼らと共にここで顔を突き合わせていることに耐えられず、わたしは寝室へ飛び込んだ。

背後でバタン、と大きな音を立ててドアが閉まる。
勢いよく床へ膝を着き、ベッドに顔を埋(うず)める。

「っ、ふ……ぅ、」

ぎりぎりと奥歯を噛み締める。
気を抜くと、泣き出してしまいそうだった。
あのままあの場にいたら、みっともなく取り乱していたに違いない。
きっと赤井さんを責め、詰っていた。
どうして未遂とはいえ彼と行為に及ぼうとしていたわたしを非難してくれないのか、どうしてそんな彼をわたしのところへ留めようとするのか。
そう無様に喚いていた。
もしそんなことをしてみろ、ひどく見苦しくただの重荷でしかないわたしに、彼は二度と触れてくれなくなってしまうだろう。

――この期に及んで、彼に嫌われるのがわたしは怖いのだと気付き、ますます暗澹たる感情に苛まれる。
ああ、なんて惨めな――。

ひとつのことを考え、同じものばかり頭に描き、それだけを熱烈に望んでいると、その欲望の罪深さが見えなくなる。
確かにわたしは彼に苦しみを味わわせたくなかった。
だが、実際には彼を一番苦しめてしまうことを欲していた。

悄然とベッドに突っ伏し、ともすれば浅くなりがちな呼吸を必死に繰り返していると、背後でがちゃりと寝室のドアが開いた。
控え目な足音が近付いてくる。

「っ、すみません、沖矢さん、いまはちょっと、放っておいてください……」

顔も上げずシーツに顔を押し付けたまま、くぐもった声で拒否する。
惨めったらしい鬱屈した声音に、構っている余裕などなかった。

しかし、ぎし、と微かな軋む音と共に顔の横へ落とされたのは、黒いシャツの逞しい腕。
ベッドに突っ伏していたわたしの背後から、「彼」が覆いかぶさるようにして圧し掛かっていた。

「ッ、」

赤井さん、と口にしかけた名前はついぞ音にならなかった。


(2018.12.18)
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