口腔に広がる苦い煙草の味。
這いずる舌の動き、熱。
溢れかかった唾液を舐め取る仕草。

どれを取っても馴染んだ赤井さんとの口付けだというのに、目を開けば唇を重ねている相手は沖矢昴。
睡眠不足と酸素不足が祟ってか、混乱が背徳に拍車をかける。
意識が茫洋と白んでいった。
このまま不実に流されてしまいたいと欲するほどに。

「ぅ、ん……あか、い、さ……ぁ、んっ」
「意地悪なひとですね、別の男の名前を呼ぶなんて」

呼吸の合間、途切れ途切れに名を呼べば、窘めるように笑われた。
言葉を紡げば唇が微かに触れてしまうほど至近距離のまま、彼が言う。
吐息にくすぐられる心地がして、肩がふるえる。

「ん、あぅ……別の、おとこ、って……」
「呼んでください、僕の名前は知っているでしょう?」
「ぇ、あ……でも……」

どうして赤井さんは、自分を「沖矢」と呼ばせたいのだろう。
もしかしてわたしに名前を呼ばれることが嫌なのだろうか、と突飛かつ大層ネガティブな思い付きに襲われる。
しかしただそれだけのことで、手の込んだ変装までするほど酔狂でも暇なひとでもないことは自明だ。

「さあ、なまえさん。呼んで」

彼の真意が分からない。
しかし戸惑いに揺れるわたしとは真逆、「沖矢昴」は期待をたっぷり含んだ顔貌で見下ろしてくる。
他にわたしになにが出来ただろう。
彼の望むこと以外に。
赤井さんの真意が分からないことなど、いまに始まったことではない。
いつだって、分からないままだ。
停滞した関係も、この児戯のような茶番も。

意を決して、喉をふるわせる。

「……お、沖矢、さん……?」

おずおずと見上げれば、彼は満足げに微笑んだ。
赤井さんとはまた違う種類の、端整な美貌が嬉しそうにほころぶさまは、耐性のないわたしの心臓を無様なほど高鳴らせた。

そうして赤井さんに笑ってもらったことなど一度たりともないわたしは、また、「沖矢さん」と呟いた。
そうすれば慈しむように優しい声音で、すぐに「なまえさん」と返ってくる。
甘ったるい口付けと共に。
さながらそれはoperant conditioning――犬の躾に使われる、条件付けのようなものだった。
呼べば褒められる。
触れてもらえる。
口付けてもらえる。
ならば呼びたい、彼の要求に恭順していたい――そう欲することのどこに罪があるだろうか。

なんだって良かった。
赤井さんに触れてもらえるのならば。
もし「沖矢昴」を拒否して、彼が興をそがれてしまったらと思うと、従順に言いなりになっていた方が正しい。
そうだろう?
沖矢さんの触れ方はひどく優しく、堪らなく胸が掻き毟られるようだった。
これほどみょうじなまえという人間は、女々しい性格の女だったのだろうかと、自分自身に失望してしまいそうなほど。

「あのひとはまだ来ませんから、……ね」
「え……あ、あっ」

彼が先程までいたソファへ押し倒される。
「あのひと」というのが赤井さんを指しているのだと気付くのに数秒を要した。
本当に沖矢さんになりきっているらしい。

乾いた大きな手がシャツの隙間から忍びこみ、腹をなぞる。
ひくりと肌が波打ち、身じろぎすると、彼はそれを抵抗と取ったらしい。
またすぐに唇が塞がれた。
ぐちゅ、ぢゅぷ、とあられもない水音が口腔で鳴る。
身体の内から聞こえる粘性を帯びた淫音に、ぐらぐらと思考まで煮立っていくようだった。

時折、沖矢さんがかけている眼鏡のフレームが頬に当たり、常にない感触にいちいち胸がざわめく。
まるで本当に――沖矢さんと浮気をしているようだ。
いいや、そもそも赤井さんと交際している訳でもないのだから、浮気という表現は正しくないかもしれないが。

「ぁ、んっ……は、はあっ、沖矢さんっ」

発情した女の声だ。
酸欠のためだろうか、妙にふわふわとする意識のなか、頭の中のどこか冷静な部分がそう呟いた。

「もっと、ください……ッん、あ、ああっ」
「ふふ、可愛いですね……。ねえ、なまえさん、僕のことは好きですか?」

とろけていた頭のせいで、反応が一瞬遅れた。
いま彼はなんと問うたか。
言うに事欠いて、まさか――「好きですか」と?

相変わらず真意の見えない唐突な質問に戸惑っていると、チェシャ猫のようににんまりと弧を描いた唇が、もう一度同じセリフを繰り返した。
言葉を吐く間にも、悪戯な指先が背筋を、腰辺りをくすぐるように撫でさすり、加速度的に思考が煮崩れていく。
熱が上がっていく。
ダメになっていく。

――彼に会うのは三日ぶりだった。
会うと言っても、庁舎内の廊下ですれ違った程度。
こうして触れられるのは二週間近くぶりのことだった。
浅ましい女の欲求が、手に負えないほどわたしのなかで膨れ上がっていく。

「言ってください。あなたの口から聞きたい。――僕は、あなたのことが好きですよ、なまえさん」
「っ、え……」

は、と息を詰めた。
沖矢さんのストレートな言葉に不意を突かれ、ぶわりと全身の熱が上がる。
彼のシャツをつかんでいた手がみっともないほど揺れ、耳元や首筋まで火照って己れの熱が鬱陶しく感じられるほどだった。
そのときのわたしは、随分と間の抜けた顔をしていたに違いない。
沖矢さんはくすりと笑みを深めた。

――「好き」だなんて。
含みや打算、裏表もないこれほどストレートな物言いは、年浅い学生の頃ならばいざ知らず、最後に向けられたのはいつだっただろうかと遠い記憶を手繰りたくなる。
無防備な好意は、いっそ幼い響きすら孕んでいた。
だから虚栄や自尊心で守られた、いつの間にか醜いものには蓋をして見ないふりをするのが上手くなったわたしの胸の奥にまで、深く強く突き刺さるような心地がした。

勿論、赤井さんに言われたことなどいままで一度もない。
直接的な愛の言葉を告げるイメージが彼にはなく、それが一層戸惑いに拍車をかけていた。

しかし恋焦がれているひとに好意を告げられることが、これほど幸福なことだとは思っていなかった。
くらくらと意識が混濁する。
ともすれば、熱い涙がこぼれてしまいそうなほどに。

一時の嘘でも構わない。
いつもと違う顔、いつもと違う声だって構わない。
偽りだとしても厭わなかった。
赤井さんがわたしに「好き」だと言ってくれた、微笑んでくれた、――それだけで途方もなく幸福で、他のもの全てがどうでも良かった。
いま、この状況の奇異さすらも。

「は、ぁ……す、好き、沖矢さん、すき、好きです、……だから、もっと、沖矢さんっ……!」

抑圧されず外に出すことを許された好意は、倒錯すら快感にすり替える。
耳を塞いでしまいたくなるほど浅ましい雌の嬌声に、構っている余裕などない。
手を広げてねだれば、「良く言えましたね」と褒められ、すぐに唇が降ってきた。
歓喜して、広い背に腕を回す。

いつの間にかわたしの着ていたシャツのボタンは全て外されていた。
冷気が肌を撫でるものの、焦がれるほど熱に浮かされていたわたしには、その冷やかさが心地よくすらあった。
首元に顔をうずめられる。
つきりと鋭い痛みが走る。
どうやら首筋を噛まれたらしい。
沖矢さんの頭を抱き込み、は、は、と息を荒げて、痛みが快楽に育っていくのを甘ったるい悦楽と共に感じていた。

「ッ、は……なまえさん、ほら、腰を上げて」
「ん、ぅ……は、はい……」

パンツスーツを性急に脱がされる。
脚を開かされ、指先で太腿を引っ掻かれる。
ぞくぞくっと痺れのような喜悦が爪先から駆け上がってきて、腹奥で熱く渦巻いた。

「なまえさん、好きですよ……ああ、ほら……キスをしましょう」

離れがたいとでも言わんばかりに続く口付けに、目眩がする。
いままでこれほど執拗にキスを繰り返されたことはない。
いつもと違う、しかし、戸惑いよりもずっと、快楽や幸福感の方が比べるまでもなく遥かに大きく、強い。
目を固くつむれば、彼の真っ赤な舌が脳裏にちらつく。

いっそずっとこのままでいたい、溺れてしまいたい。
熱を奪うように、与えるように。
口付けはまるで愛を告げ合うようだ。

「わたしも、あっ、ひぅ……ん、あぁっ! 好き、おきやさんっ、すきぃっ……!」

――そのとき、ガチャリ、と重たい金属音が耳朶を打った。
とろけかけていた脳裏に、その音は突き立てられるが如く鋭く響いた。

「……え……?」

呆然と振り向く。
聴覚が捕らえた音が信じられなかった。
次いで認めたのは、凍てつくほど怜悧な緑。
もし指を伸ばして触れたならば皮膚が裂けてしまいそうなほど、澆薄(ぎょうはく)な光。

唇から唾液をこぼしたままの無様なわたしを、「彼」は不快げな、あるいは蔑んだ表情で睥睨(へいげい)している。
リビングに現れたのは、赤井秀一、そのひと。


(2018.12.11)
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