ぶわりと吹き抜けた風が、無遠慮に頬を撫でていく。
刺すような冷たさに顔を顰めた。
降雪には至らないものの、はあっと息を吐けば、白い靄が心細そうに立ち上っていった。
薄れる吐息越しに、久しぶりのわたしの城が見えた。
仕事柄、セキュリティの厳重な、しかし「女性の一人暮らしで不安だから」と言い訳の立つ程度のマンション。
寒さに急かされるように、自然と足早に帰宅の路を行く。
側溝に寄せられていた落ち葉がきりきり転がっていく。

ここ数日、組織に資金提供していたと思しき一般企業の調査にかかりきりで、帰宅できるのは一週間近くぶりだった。
適宜仮眠は取っていたものの、やはりどこかで人の気配する庁舎内の仮眠室で断続的に睡眠を取るよりも、はやく自宅のベッドで泥のように眠りたいと願うのはごく自然なことだろう。
幸い明日は休みで、ありがたいことに上司――降谷さんにも「明日は顔を見せるなよ」とまで言明されている。
あなたはいつ休んでいらっしゃるんですか、などと尋ねてみたい気はするものの、藪蛇になってしまうのは勘弁願いたい。

エントランスを抜け、エレベーターの低い振動に眠りを誘われながらもなんとか自室へ辿りつく。
鍵を開ければ、いつもの風景にほっとした。
やはり自宅は良い。
自分の選んだ場所、自分の選んだもので満たされたテリトリーというものは、それだけで安心する。
シャワーを浴びてすぐに寝てしまおうとパンプスを脱ぎかけたところで、ようやく異物に気が付いた。

「……あれ」

慣れ親しんだ空間に、見慣れぬものがひとつ。
テラコッタの床には男性ものの靴が一揃い、鎮座していた。

心当たりはひとりしかいないものの、キャメルやコルク色よりももっと暗い、バーントアンバー色のそれには見覚えがなかった。
いつも彼は――赤井秀一は黒い靴ばかり履いている。
お目にかかるのは、男性もののブランドにはさして詳しくないわたしが唯一覚えている、ジョージ・クレバリーが最多。
ラインの美しいそれが英国のものと知ったとき、なぜだか妙に納得してしまったのを覚えている。
セミスクエアトゥの形状から同じブランドのものだとは分かったものの、彼はそんな色の靴を所持していただろうか。
いいや、彼が身に着ける服飾品の全てを把握しているはずもない、今日は偶然この靴を履いていたのかもしれなかった。

しかしながら職業上、「いつもと違うなにか」は疑ってかかる癖が付いていた。
玄関と廊下を一瞥するも、荒らされた様子もない。
セキュリティの厳重なこのマンションに、不審者が侵入したとは考えにくい。
そもそも玄関にきちんと靴を並べる侵入者などいるだろうかと逡巡する。

「あ、赤井さん……?」

心当たりはひとりだけ。
しかしスマートフォンに彼からの連絡は入っていない。
以前、合鍵は渡していたものの、それが使われたことなどいままで一度たりとてない。
いつまでも玄関でぐずぐずしている訳にもいかず、仮にもこちらは警察官、ただの不審者ならば対処のしようもあるが、と身構えつつ室内へ足を踏み入れると、

「――おかえりなさい、なまえさん」

「彼」を目にし、びくっと身を強張らせてしまった。
無理もない。
リビングのソファに悠然と腰掛ける彼を――「沖矢昴」を、わたしは愕然と見つめた。

「……ど、どうして……」
「うん? どうして、とは?」

無様に声が引っくり返る。
しかし男は少しも頓着することなく、やはりあのひたひた寄せては逃げる漣のような微笑で小首を傾げてみせた。
赤茶けたやわらかな髪、細められた目元と隠されている瞳、細いフレームの眼鏡、薄く浮かぶ微笑、形良い唇からこぼれるのは柔和な低い声――大学院生という設定だったはずだが、その素性を疑いたくなるのは、彼の地味なスーツのその下、恵まれすぎた立派な体躯をわたしがよくよく知っているからなのだろうか。

無言のまま立ち尽くすわたしになにを思ったか、「沖矢昴」がソファから立ち上がり、こちらへ歩み寄る。
どくりと心臓が拍を打ち、思わず肩が跳ねた。
内心の動揺を表面に出してしまうなど、知られてしまったら上司に叱られてしまうかもしれない――などと考えているのは、目の前の現実から逃避している証拠だった。

今更どうしてそんな格好を、だとか、なんのつもりで、だとか。
尋ねようと喉まで出かかった言葉を嚥下する。
彼が浮かべているのは、とてもではないがこちらの問いに大人しく答えてくれるような類の微笑ではなかった。

「……どうかしましたか?」
「い、いえ……」

その言葉はこちらが発して然るべきでは。
久闊(きゅうかつ)を叙するが如く笑う男に、そう軽く詰ることがわたしには出来なかった。

改めてまじまじと見てみても、彼が――「沖矢昴」が、赤井秀一だと理解はしていても、どうしても脳内で結びつかない。
生存を隠すための変装だ、そうそう容易に見破られては困るだろうが。
さすが伝説的女優に手引きを受けた変装術。
我らが上司は執念とも言うべき豪胆さ、緻密さで、殉職したはずの彼の生存を証明してみせたが、凡人では到底成しえなかっただろう。

「なまえさん?」

いつの間にか、手を伸ばせば触れられる距離で彼が笑っている。
ふわりと漂った苦い香りは、やはり赤井さんの愛煙する煙草のもの。
しかし目の前で微笑んでいるのは沖矢昴。
嗅覚に染みついた記憶と、眼前の光景の差異。
どうしても混乱してしまう。

わたしは直接「沖矢昴」に会ったことはなかった。
死を偽装した赤井秀一を追い詰めるため、降谷さんが立案した作戦によって、米花町の工藤邸に張り込んでいたことはあった。
しかしそこに居たのは、沖矢昴の変装をした工藤優作氏で――後々、組織を潰すための主力となった江戸川くん、いいや、いまは工藤くんか。
降谷さんと共に、彼から「騙してすみませんでした」と謝罪を受けたのはつい数カ月前のことだ。

だから「沖矢昴」はこんな声なのか、と驚きをもって彼を見つめていた。
赤井さんとはまた違う、夕闇に隠れるような、なめらかで遅行性の毒のような声色。
たゆたうような穏やかさで、内に渦巻く激情を隠している。

写真では幾度も目にしてきたが、こうして直接顔を合わせるのは初めてで――いや、この考え方はおかしい、赤井秀一とは顔どころか身体も重ねてきたというのに。
「沖矢昴」を別の男性として認識しそうになっているのを自覚する。
混乱している。

彼の細められた目元からは、思考や感情を読み取れない。
端整な美貌に気取られていると、いつの間にか焦点が結べず彼の顔がぼやけるほどに近く迫っていたことにようやく気付く。

「っ、なにを、」
「しい、」

まばたきすると、唇が重なっていた。
いつも赤井さんの吸っている煙草の香りが、嗅覚を刺激する。

はじめは重ねるだけ。
ちゅ、ちゅ、と戯れのようなものが数度。
ティーンのような触れ合いに、こちらが焦れったくなってきたタイミングで、軽く啄(ついば)まれた。
離れたかと思えばまた重なり、は、と吐息ごと飲まれる。
期待に薄く唇を開けば、ぬるりと熱い舌がわたしの唇をなぞった。
ああ、と恍惚の溜め息が漏れ出た。
角度を変え、とうとう口内へ舌が侵入してくる。
途端に、濃い煙草の香りが口腔いっぱいに広がった。

「っ、は……んぅ……」
「……っ、なまえさん、」

口のなかを這いずる熱い舌。
痺れるほど苦い煙草の味。
このまま肺が腐り落ちそうだと思った。

――わたしに煙草の味を教えたのは赤井さんだった。
じくじくと思考が、脳が、溶けていく。


(2018.12.07)
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