退屈な問わず語りだ。

わたしの醜さを糾弾してくれと望んだことはない。
しかしわたしを罵る誰かを、わたしは制止しようとは思わなかった。
一時的に味わう優越感や正義感は、凍てつくほどに酷薄で、しかし極上の甘露だということを理解していた。
そして感情と肉体が必ずしも伴うものではないということも、同時に。

目に見えないものを人間はどうして信じるのだろう。
あるいは「初恋」というものに関して、初めて抱くその感情をどうしてひとは恋だと認識できるのだろう。
「初恋」、――なんて恥知らずな言葉だ。
目眩がしそうになる。
センチメンタルかつ青臭いその響きに、知らず知らず口の端が引き攣れるように歪んだ。
嫌な笑い方だ。

ギリシャ神話のカッサンドラもかくやとばかりに沈んだ面持ちで、わたしは窓ガラスに反射した白い顔を眺めていた。
なにかが頬をかすめた。
外はしとしとと静かに雨が降っていて、愚にも付かないわたしの思考など水滴よりも些細だと知らん顔で落ちていった。

「――はい、もしもし」
「なまえか?」

赤井秀一の、あの低くも妙に艶のある、深い夜闇を思わせる声で名前を呼ばれると、いつもそれだけで手指がふるえる心地がする。
赤井さん、と呟いたわたしの声が揺れていないことを、ただ祈る。

もう間もなく日付も変わるという時刻、三日ぶり――いいや四日ぶりと言って良いのだろうか、ようやく帰宅した。
そろそろ職場の警察庁に、住所を移してしまいたいなどと血迷った思考がよぎる程度には疲れていた。

一日ごとに寒さの増していく季節、どうしても衣類は多くなりがちだ。
溜まった洗濯物を、下着以外はクリーニングに出してしまおうと怠惰なことを考えていると、着信を告げるスマートフォンに気が付いた。
表示されていた名前は、恋人――などと甘いものではなかった。
限りなく他人に近い、なにか。
――そもそも恋人を「甘いもの」と認識している時点で、吐き気がするほど自分が夢見がちな愚かしいものに思われて、通話に出るのがほんのわずかに遅れた。

「どうかしましたか、赤井さん」

どうかしましたか、なんて。
お笑い草だ、そんなの分かりきっているくせに。

「いま、そっちに向かっている。構わないか」

やっぱり。
そう口にしないだけの分別は持ち合わせていた。
電話の向こう側では、ざあざあと雨粒が激しく地を打っていた。
どうやらわたしの自宅周辺よりも、あちらはずっと雨の勢いは苛烈らしい。
ぐっと冬の気配の増した時節頃、これほどの雨は芯から体の熱を奪うだろう。
それで避難がてら来るつもりになったのか、と理解してまた笑う。
窓ガラスに反射した自分の顔がひどく醜く、遮るようにカーテンを閉めた。
胸の奥がじくじくと膿んでいく。

長年追ってきた世界的犯罪組織が壊滅して、はや二月が経とうとしていた。
他国の諜報機関や警察組織、さる「名探偵」をも巻き込んでの逮捕劇は、前代未聞の結末を迎えた。
失ったものは多く、しかし警察官として歩んでまだ数年の若輩者の身でも、比類なき誇りと昂揚を得られた仕事だった。
しかしどれだけ世間を賑わそうと、月がふたつも変わる頃には、さすがに「過去のニュース」として口の端に上ることも減るものだ。
とはいえ主要な幹部を全て拘束したわけでもなく、ある日突然、犯罪がなくなるわけでもない。
身を潜めて再起を図る残党や、その後釜にと画策する犯罪組織。
事後処理や残務は山のように積み上がり、組織が壊滅する前よりも事務仕事に限っていえば、増大したのも事実だ。
数を減らしたとはいえ、他国の捜査員は未だ警察庁に出入りし、良好な協力関係を築けているといって良いだろう。

組織が主にこの国で活動していたこと、逮捕劇の主戦場がこことあって、日本警察の多忙さは熾烈を極めた。
前述の通り、いっそのこと住所を移してしまおうか、などと世迷いごとを考える程度には。
余程見るに堪えない顔をしていたのか、わたしよりもずっと応接に暇(いとま)のない上司が、「みょうじ、今日は帰れ」と命令してくれたおかげで、今夜、自分のベッドで就寝できるのだ。
ありがたかった。

上司――警備企画課の降谷零といえば、存在だけはうっすらと聞き及んではいた。
わたしのような一兵卒にとっては、件(くだん)の組織のことがなければ、きっと一生お目にかかれなかっただろう、雲の上のようなひとだ。
日本警察だけではない、他国の諜報機関、司法機関の面々をも含めた合同捜査会議で、初めて顔を拝むことが出来たのだ。
その際、本当に存在していたのか、と驚いたほどだった。

そうだ、そこで初めて彼にも――赤井秀一という男にも対面した。
煙草を吸う姿が嫌味ったらしいほどに似合う、黒ずくめの偉丈夫。
英国生まれのアメリカ国籍、クォーターで日本人の血も流れていると聞いたときには、帰属意識はどこにあるのだろうか、と漫然と考えたのを覚えている。

「おい、なまえ? ……それともまだ"チヨダ"か」
「いいえ、帰宅してます……けど、いまからですか?」

雨まじりの彼の声によって、疲れのためだろうか、散逸しがちな意識が戻された。
気を抜くと、つい明るくなってしまいそうになる己れの声音が恨めしい。
まるで彼がいまからわたしのところへ来てくれるのが、嬉しそうじゃあないか。
わざと困ったような口調で反発してみせるも、すぐにそれを後悔した。

つまらない意地だと明白に理解しているというのに、わたしばかりが恋焦がれているのだと思うと、なぜだか素直に甘えて見せるのが妙に癪に感じられ、結果、こうして可愛げのない反応をしてしまう。
愚かだ。
分かっていてもそんな愚行をやめられないわたしのなけなしのプライドは、大抵いつもあっけなく砕け散る。

「迷惑なら、無理にとは言わんが」
「……いいえ、大丈夫です。なにしろ久しぶりに帰ったので、少し埃っぽいかもしれませんけど……」

言葉を重ねれば重ねるほどに、自分のことが愚かしく感じられる。
嫌いになってしまう。
自己否定も過剰な卑下も無駄だと知っていて、それでも考えるのをやめられない。

赤井さんはそんなわたしのつまらない意地などとうにお見通しなのか、あるいはそんなことなどどうでも良いのか、はあ、と深く息を吐いた。
雨空に溶けていく紫煙の行方が見えるような気がした。
肺の奥底から煙を吐くその仕草が、彼ほど様になるひとを見たことがない。
随分と長生き出来ない吸い方をする、といつだったか思ったものだ。
行為が終わった後、眠りに落ちる直前のわたしの横で、窓の外を眺めながら喫煙するその背に、縋ったことは一度もない。
確かあのときも雨が降っていた。

「あと二十分ほどで着く」
「二十分ですね。……食事は用意しますか?」
「いや、同僚と食ってきた」
「分かりました」

彼に聞いたことがある。
「わたしのことが好きですか」と。
いま思えばなんとも迂拙(うせつ)な問いだった。
初めて情交を結んだ夜のことだった。
浮かれていたそのときのわたしに、出来ることなら平手でも食らわせてやりたい。
恋をすればひとは皆愚かになるというが、それにしても、なんて――。

そのときのことを思い出すたびに苦々しい羞恥を感じ、顔を顰めるのを堪えられなくなるのが常だった。
そのとき、月を欲しがる子供を宥めるような面持ちで――つまり億劫そうな表情を隠そうともせずに――たっぷりの沈黙の後、彼は「ああ」と一言吐いただけだった。
煙より軽い、と直感した。
吐く仕草も、空気に消える言葉の瑣末さも。

――赤井さんが恋人とはそういう付き合い方をするというだけの話かもしれない。
しかし彼のいままでの恋人たちは、こんな冷淡な声にずっと接してきたのだろうか、とひんやりと鬱屈していく胸奥を隠し込みながら、わたしは口をつぐんだ。
そもそも彼の元恋人たちに張り合おうなどとは思っていなかった。
烏滸がましい。
わたしは彼の恋人ですらないかもしれないのに。
ならば何なんだろうか。
わたしは。
わたしと彼の、この停滞した関係は。

彼がどうやって口付けるのか知っている。
彼がどのように突き上げ、呻き、触れ、快楽を与えてくれるのか知っている。
しかし彼とわたしの関係が何なのかは、知らなかった。
――面倒な女そのもののようなことを考えている自分自身に気が滅入る。

「……じゃあ、お気を付けて」

口を開きかけて、なにを言おうとしたのか自分でも分からず、そのまま閉じた。
電話はざあざあと雨音ばかりわたしに寄越し、そしてすぐにぶつりと途切れた。

過ぎた寒さは痛みと区別が付かない。
冷えた室内に暖房を付けながら、二十分もあれば暖かくなるだろう、とどこか浮かれている自分を疎ましく思う。
身を清めるため、いそいそと浴室に向かうわたしを、誰か糾弾してくれ、笑ってくれ。
あまりに浅ましく、愚かだと。

なんの気なしにちらと外へ目をやる。
静かに降り続ける雨のせいで、カーテンの隙間からは月も星も見えない。


(2018.12.04)
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