Mentirosa diestro.



深夜、そろりそろりとライブラ事務所へひとり忍び込む男の姿。
見てくれは完全に不法侵入者、控えめに言って不審者だったが、(残念ながら)まともな構成員のひとりだった。

「ちっくしょー、サマンサのやつ、たかがナタリーと鉢合わせたくらいでギャーギャー騒ぎすぎだっての」

ぼやく男の頬には、分かりやすくはっきりくっきり、拳の痕が刻まれていた。
平手などと可愛いものではない。
がっつりしっかり握り拳でブン殴られ、部屋から蹴り出された度し難いクズことザップは、ぼやきながら暗い事務所へ入ってきた。
今日も今日とて修羅場を繰り広げて寝床を失ってしまった彼は、仕方なく事務所の仮眠室を拝借しようとやって来たのである。
いまから別の女のところへ行ったとしても、門前払いをくらう可能性が高い。
いや、そもそも居留守を使われる方がずっとありうる。
なにせ時刻は深夜3時を過ぎたあたり。
往来で別の女性を引っ掛けても良かったが、時間帯とエリア的に「いろんな意味でヤバイ」存在を引かないとも限らない。
というか仮に引っ掛けられたとしても、この時間まで客待ちしている女は――なんというか。
さすがにダメ男のロイヤルストレートフラッシュの名をほしいままにする彼といえど、閉口せざるをえない。
ちなみに似たようなことは過去にも何度かあったため、こうしてそそくさと仮眠室を拝借するのもとうに慣れたものである。

「仕事でもねえのに事務所来んのだりぃなあ、俺チャン真面目すぎんぜ」と、もしも同僚の人狼女性チェインが耳にしようものなら「二度と敷居またがなきゃ良いんじゃないかな。ていうかさっさと三途の川渡れクソ猿」などと吐き捨てただろう独り言をこぼしながら、ザップは扉を開けた。

「……は? なまえ?」

ぱちぱちとまばたきする。
事務所は無人ではなかった。
メンバーたちが団欒する見慣れた部屋、の隅。
これまた見慣れた事務所の立派なデスク、分厚いバインダーたちと自分の両腕を枕にして、うつぶせている小さな人影。
先客であるなまえは、ぐっすりと眠っているようだった。
黒い上着は、背後のコートツリーにかけてある。
デスクに伏せているせいで寝顔は見えないものの、それは正真正銘ライブラの秘書役――なまえ本人だった。

「ええー……」

なんで居んのこいつ、とザップは口をひん曲げた。
よくよく見ずともデスク上には書類が山積みで、彼女が事務作業中にうっかり眠り込んでしまったらしいことはすぐに察した。
見なかったフリをしてさっさと仮眠室に逃げ込んでしまおうか。
ザップが忍び足でとんずらをキメようとしたところで、足を引き留められてしまった。
小さな音だった。
くしゅ、と小さく響いた、くしゃみ。

「っん、ぅー……」

眠ったまま咳をしたなまえは、もぞもぞと身じろぎするとまた動かなくなった。
どうやら思ったより熟睡しているらしい。

あ〜クッソ面倒くせえ〜!
ザップは顔を顰めた。
なまえが寝こけて風邪を引こうが、体を痛めようがどうなろうと知ったこっちゃなかったが、このまま放置してもし体調でも崩されたら、後日、理不尽に自分が責められかねないとあっては、スルーするのも躊躇われる。
主に共通の上司とかに。
具体的にいうと、スティーブン・A・スターフェイズとかいう男に。
仮に能力を知らなかったとしても容易に氷を連想させる笑みで、こんこんと詰められる未来が、すべてを見通すカミサマ眼球などなくともはっきり見える。
――「ザップ? 今更お前の愚昧さに、俺が言うことなんてひとっつもないがな? さすがに仲間の窮状くらい目にかけてやるもんじゃないか? ――放置なんてよく出来たな」云々。
仲間っていうかさァ、自分の女くらいアンタが面倒見てくれよ、と内心ぼやく。

レオナルド辺りに「理不尽とかいう言葉、知ってたんすね」と驚嘆されそうなことを考えながら、ザップはチッと舌打ちをひとつこぼした。
脳内を埋め尽くす「めんどくせえ」に窒息させられそうになったところで、嫌々ながら、少々乱雑になまえの肩を揺する。

「オイ起きろ、バカ」
「……ぅ、んん、……あれ、ザップ……?」

ぼんやりとなまえが目を開く。
寝ぼけているらしい。
舌足らずに名前を呼ばれ、彼は深々と溜め息をついた。

「ンなとこで寝てんじゃねえ。さっさとおうちに帰んな……つってもこんな時間じゃあ、テメェみたいなの、即厄介事に巻き込まれんのがオチだな」

送ってくのクソだりぃし、せめて仮眠室行けよ、と耳に指を突っ込みながら呟く。
彼にしては恐ろしく親切かつまともな忠告ではあったが、相変わらず彼女は「んー……」と呻くばかり。

と、ぐらりとなまえの頭が傾いた。
ザップはつい反射的に腕を伸ばしてしまった。
顔面からデスクへ激突してしまいそうになったなまえの頭を支える。
不可抗力で触れてしまった頬は驚くほどやわらかく、狼狽しかねないほど。

間一髪、硬いデスクとキスしそうだったところを救出されたなまえは、しかし未だに不明瞭な呻き声を漏らし続けている。
彼の知る非力代表、非戦闘員代表のなまえは、男の手を支えにしてそのまままた眠ってしまいそうだ。
こいつマジで危機感ねーのな、とザップは眉根を寄せた。
遅れて「助けなきゃばっちり目が覚めたかもしんねぇのに」と気付く。
なんならいまからでも手を離してしまおうか。
顔面ぶつけりゃこのアホでもさすがに目ェ覚ますだろ、と不埒なことを考えていると、彼の手に身を委ねたまま、なまえが「あのね、」と呟いた。

「んー……うち、かえるの……やなの」
「やなの、じゃねーよ! ガキかテメェ! つーかいつまで俺サマの腕を枕にしてるつもりだ」

ぐずる幼児のような――というよりそのもののなまえに、「寝言は寝て言え、いや寝んな起きろ」と呻く。

「ボンッキュッボンのサイコー美女ならともかく、おめぇみたいなちんちくりんが俺サマの腕で寝ようなんざ十億年早いわ。やっぱめんどくせーな、ほんとにここに置いてくぞ、コラ」
「……うちね、スティーブンさんのにおいがするの」
「あァ?」

なまえは目を閉じたまま。
むにゃむにゃと口をたわめている。
会話する気あんのかこいつ、と平和的にデコピンのひとつでも喰らわしてやろうかとザップが逡巡していると、依然ゆらゆらと頼りなく揺れるなまえが呟いた。

「においがね、するの。スティーブンさんの」
「いやまあそりゃいま聞いた」
「……スティーブンさんは、ほかの女のひとのところにいるのに……スティーブンさんのにおいがする部屋で……ひとりで、寝れない」

途切れ途切れに間延びした声で吐かれたセリフはひどく聞き取りにくかったものの、そう告げていた。
かく、と首を傾け、再び静かになったなまえ。
また眠り込んでしまったらしい。
本人はこんなことを吐くつもりなどなかっただろう、明日にはザップと会ったこと自体覚えていないかもしれない。

しかしながら不明瞭に漏れ出た言葉は思いの外重たく、強制的にそれを受け留めざるをえなかった彼は、本日一番の、表情筋すべてを動員した全力の顰め顔で呻いた。
――やっぱりそのまんまほっときゃ良かった、と。
眠るなまえの体を支える腕を、引き抜くタイミングを失したことに気付くまで。


(2021.10.25)
- ナノ -