Todo está bien.



……なんだ、このひとたち。
扉を開けようと伸ばした手を空中に浮かせて固まったまま、レオナルドは心の底からそう思った。

HLの時刻はそろそろ、旧トライベッカ地区の生存率が30%を切る頃合い。
人間界の時計に照らし合わせ端的に言えば、19時手前のことだった。

中途半端に浮いた手を大人しく下ろすか、愚直に本来の意図に使うか。
間抜けなポーズのまま悩みあぐねている彼の姿は存外滑稽だったが、しかしそのことをあげつらう者はその場に存在しなかった。
いやむしろそのままくるりと180度ターンをキメて、エレベーターに逆戻りすれれば良かったのだ――と、そのときレオナルド少年に提言する者も、残念ながら同じくいなかった。

微妙な姿勢のまま一時停止ボタンを押された彼を余所に、分厚いドアの向こうからは上司と同僚が坦々と会話する声が続いている。

「――僕は今日遅くなるから、その書類を仕上げたら君も帰っていい」
「わかりました。ちなみにディナーはどなたと?」
「この間、チャイニーズマフィア崩れの……"新生梦想モンシアン同盟"だとかいう、ふざけた奴らの誘拐事件があっただろ? あのとき助けたお嬢さんが、今度はふたりでって声をかけてくれてね」
「というと……ああ、ミス・アニストン?」
「そうそう、彼女。なんと父親は、ミスタ・デフォー」
「デフォー……ああ、長ったらしい名前の。国家安全保障会議人界評議会、外務評議委員、でしたよね?」
「よく君、噛まないな……」
「口蓋の発達上、人間には発音できない系HL単語よりマシですよ」
「……なにはともあれ、パイプは持っておいて損はない」
「なるほど。うーん……あの、スティーブンさん、着替えるためにこれから一度帰宅しますよね?」
「昼のドタバタで少し汚れたからなあ。そのつもりだけど」
「だったら、自宅のウォークインクローゼットの……奥の鏡台に、未開封の濃紺のネクタイがあったと思います」
「そうだっけ?」
「ええ、たぶんまだ箱に入ったままじゃないかと……。前に彼女から頂いたものです。着けて行ったらきっと喜ばれますよ」
「ああ、そういえばそんなこともあったな……忘れてた。君の言う通りにしよう、助かった」
「いえ。……ああそれと、明日の朝食は?」
「要らないからミセス・ヴェデッドに」
「はい、連絡しておきます。明朝10時にミセス・ワードローと電話でのお約束があることをお忘れなく」
「ああ、勿論。それじゃなまえ、気を付けて帰るように」
「はい、スティーブンさんもお気を付けて」

ガチャリと音を立てて開かれたドアに、うお、と呟いてレオナルドが一、二歩後ずさる。
そこからひょっこり現れた顔は、いままで聞こえてきていた男性の声の主。
当然分かっていたはずなのに、レオナルドはぎくしゃくと頭を下げた。

「おっと、どうした少年」
「アー、イエ……いまからバイトに行くんすけど、忘れ物しまして……」

頬を掻きながら、レオナルドはへらりと笑みを浮かべた。
それ以外に彼になにが出来たというのか。

ぎこちない挙動の少年に気付いているのかいないのか――十中八九勘付いてはいるだろう――、「精が出るねえ」と苦笑したスティーブンは、そのまま彼の脇をするりと抜けて去って行った。
後ろ手にひらひら手を振る仕草は、至って見慣れたいつもの光景。
――残されたのは、うっすら冷や汗をかいたレオナルドだけだった。


・・・



「……あれ? どうしたの、レオ」

手帳になにか書き付けていたらしいなまえが、きょとんと首を傾げた。
レオナルドが執務室へ入れば、案の定、いたのは彼女ひとりだった。
先程スティーブンにしたばかりの説明をまた繰り返す。

「そっかあ……。バイト大変じゃない? お給料、もっと上げようか?」
「いや、自分だけ特別扱いしてもらうってワケにも……」
「特別扱いじゃないよ。妹さんへの仕送りもしてるんでしょう? 扶養手当とか、"区画クジ"該当住宅手当とか、……外界通信手当とか、"血界の眷属"旧字対応手当……まあ、最後らへんは存在自体、知ってるひとの方が少ないと思うけど。一応ちゃんとあることはあるんだから、適用できるよ」

そこら辺はわたしに任せて、と自信ありげになまえは笑んだ。
経理も担当している彼女のことだ、きっと言葉通りどうにかしてしまうのだろう。
それこそ「特別扱い」にならない範囲で。
甘えてしまっても良いのだろうか、いやしかし、と葛藤しつつあったレオナルドは、「いやそうじゃなくて!」と心中ツッコんだ。

いつもと全く変わりないなまえの姿。
彼女のどこにも、悲壮感はおろか、不満げな様子すら見受けられなかった。
いつの間にか気を張っていたレオナルドが、拍子抜けしてしまうほどに。

「……あの、なまえさん」
「なあに?」

名前を呼べば、振り向いてなまえが小首を傾げる。
やはりその表情からは、ネガティブな感情を読み取ることは出来ない。
まるで気を揉んでいるこちらの方がおかしいのかと錯覚してしまうほどになまえはごく自然な様相で、知らず知らずのうちにレオナルドは拳を握り締めていた。

言葉にしがたい、もやもやとした感情が腹で渦巻くのを不快に感じながら歯噛みする。
なまえが「なんでもありません」と涼しい顔をしていたのが、また理由のひとつだったかもしれない。
……いやいや、だって、おかしいでしょ。

「なまえさんは、あの……いいんですか? アー、その、……スティーブンさんのこと」

他の女性と食事って……、と、消え入りそうに続ける。
風船が萎むようにだんだん力を無くしていく言葉の末尾に釣られ、どんどん俯いていってしまう。
そういえば僕が口を出すことじゃなかった、と遅く自覚がやってきて、少年は項垂れた。

――でも、ネクタイを送るような女性と、ふたりっきりで食事って!
レオナルドは理解できない、と口を尖らせた。

スティーブン・A・スターフェイズという男が、どれだけ恋人であるみょうじなまえを「自分のもの」として扱っているか知っている。
例えば、この事務所で初めてなまえに出会った日のこととか。
例えば、なにも知らない愚かな通行人A(不幸なモブともいう)が、見るからに下心を含んでなまえに声をかけた直後、季節外れな氷のオブジェとなりかけたこととか。
例えば、先日の事件で、落下する瓦礫から能力使用のみならず身を挺して彼女を庇ったこととか――。

例を挙げればキリがないほど、彼らがどれだけ強い結びつきで繋がっているのか、ライブラに所属して日も浅いレオナルドでも、特別な「眼」なんてなくとも、理解できた。
――その「自分のもの」という感情のなかには、恋なんて言葉ひとつでは到底片付けられないものも含まれているだろうことも。

だから不満なのだ。
不満――そう、不満だ。
自分は全く口を出せる立場ではない、軽々しく踏み入るような領域でもない、彼らふたりのこともよくは知らない、――きっと、男女関係爛れまくりの度し難いクズことSS先輩ならば、「俺の知ったこっちゃねー、つーか、ジメジメネチョネチョしすぎてカビが生えるわ」と鼻に指を突っ込みながらのたまうだろう。
容易に想像できる。
――しかし。

「レオ」

レオナルドの「ハイソウデスカと大人しく納得するのは難しいです」とでも言いたげな顔に、なにを思ったのだろうか。
なまえの穏やかな、やわらかな声が降ってきた。

顔を上げれば、なまえが苦笑していた。
表情は柔和ですらある。
彼をやわらかく見つめたまま、なまえはそっと息をついた。
愛らしい桃色の唇は、面映ゆそうにたわんでいる。

「……レオは優しいね。レオがそんな顔をする必要はないのに」

このセリフ、前にも言ったような気がするな、と、首をひねりなまえがひとり呟く。
そのときもスティーブン絡みだったことを思い出し、やはりなまえは苦笑を漏らした。

自分以外の命なんてそうそう大切にしていられないこの世界で、これほどまでに他者へ心を砕くことが出来るだろうか。
外見や能力にはなんら相似点などないというのに、我らがリーダーにも似たその「お人好し」具合に、なまえは苦笑を深めた。
自分には勿体ないほど、優しいひとたちに囲まれているんだな、と改めて胸の暖かくなるような心地がする。

――しかしながらその優しさが、目を逸らそうとしているところを的確に刺すのもまた同じで。
なまえは表情を変えぬよう意識しながら、不必要なことを考えそうになる意識から逸らすため、ぎゅ、と手を握り締めた。
気取られないよう静かに深く息を吸い、吐く。

それでも彼の優れた目を誤魔化すことは難しかったらしく、気遣わしげな案じ顔は崩れなかった。
なまえは苦笑以外の表情を形づくることが出来ない。
胡乱うろんにさまよう視線を足下へ落とした。

「……ねえ、レオ。事件が起こったら、現場に急行するよね? 危険なのに」
「ま、まあ、そうっすね」
「それはどうして?」
「そりゃ、みんなが戦ってるのに、僕だけなんにもしないのは……」
「……すごいね、レオは。わたし、レオのこと尊敬してる」

なまえさん、とレオナルドが言いよどむ。
彼女はなにを言っているのだろう。
しかし不審げな様子の少年のことなどお構いなしに、なまえは空を見つめて静かに続けた。

「みんなのこともそう。前線に出て、傷付いても、戦って……。自分が出来ることを必死にやるみんなが、本当にすごいと思っているの。でも、」

黒い双眸が、レオナルドのものとぶつかる。

「――わたしは、なんにも特別な力なんて持ってない」

彼がはっとするくらいに、なまえの目は冷静だった。
彼女の言う通り、なまえ自身はなんの能力も持ち合わせていないというのに――「氷」を連想させるほど、冷たく。

「だから、せめて前線で戦うこと以外、なんでもしたいの。ただの人間のわたしに出来ることは、ぜんぶ」

それと、恋人が他の女と共にいるのを受け入れることと、どんな関係があるのか。
そう素直に詰ることが出来るほど、レオナルドは愚直でも、子供でもなかった。

理解できてしまったからだ。
先程レオナルドが立ち聞きしてしまった内容から鑑みるに、スティーブンの行動はライブラのためなのだろう。
ひいては世界の安定のため。
異界と現世を繋ぐHL内外での活動を円滑に進めるため、政財界関係への根回しやスポンサーの獲得はいつも必要だし、そのためにレオナルドだって駆り出されることもある。
そのために望まぬおべっかや愛想だって、振りまいてみせるだろう。

「でも、そんなのって……」

眉を顰めて押し黙ったレオナルドを前に、やはりなまえはやわらかい苦笑を崩さない。
ただ、「優しいね」と再度小さく呟いた。

「……ごめんね、暗い話して」
「いえ、自分こそ、関係ないのにスイマセン」
「ううん、ありがとう」

――考えたくない、考えるべきじゃない、考えちゃいけない。
いつも頭のなかで蠢いている言葉を、またなまえは繰り返す。
意識してにっこり笑んだ。

「……でも、考えてみたらずるいよね? わたしのことは束縛するくせに、自分はきれいなお姉さんとお高いレストランでディナーだよ?」
「は、はあ……」
「なんだかレオと話してたら腹が立ってきちゃった。わたしもレオと浮気しちゃおっかなぁ。ねえ、今晩バイトの後、空いてる?」
「なっ、こ、今晩って……それ後々、僕がスティーブンさんに氷漬けにされるやつですよね!?」
「たぶんね」
「分かってんなら聞かないでください! ていうかバイト! 忘れてた!」
「行ってらっしゃい、気を付けてね」

顔を赤くしつつ、慌ててヘルメットを抱えたレオナルドを見送る。
行ってらっしゃい、と目尻を下げて笑うなまえは、やはり静かに手を握り締めた。


(2019.01.28)
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