美しい夜だった。
耳を澄ませば、きっと、星のまたたきも聞こえたに違いない。
眩しい月は凪いだ海面に抱かれ、夢のように輪郭を曖昧にしていた。
穏和な夜だった――が、それもいつまで保ってくれるやら。
既に月の反対側の空には、滾々と湧く泉のように黒雲が垂れ込めはじめていて、わたしは、ああ、時化しけてしまうなあ、とすこしだけそれを悲しく思った。

海が荒れると、船が出せなくなってしまう。
船が出せないと、食堂へ行けない。
食堂へ行けないとなると、その先の西崎さん家の扇屋さん、そのまた先の三条高倉、つまり外界へ辿り着けなくなってしまう。
海に没したこの洋館から久しく出てはいないとはいえ、真正面から「お前は出られないのだ」と突き付けられると、意地でも出てやるぞという気になってくるのが人情というものだ。

しょき、と軽やかな音をお供に、はさみが髪を断つ。
砂糖菓子のように美しい髪が、はらはらと落ちていく。
白藤色の髪が、一房、また一房と床へ散っていくさまは、桜花絢爛たる春四月、弁天さまが下鴨の矢三郎くんをお供に、賀茂川の土手にて桜の花弁をひとつ残らずふるい落としてしまった悪逆非道な遊びを彷彿とさせた。
残念ながらわたしはそのときご相伴にあずかっていなかったけれど、一年分の命を散らす桜は、そして高らかな天狗笑いを響かせる弁天さまは、きっとゆめ幻のように美しかったに違いない。
――それこそ天女のように。

御身だって未だ半人前、治めるべき山も持たず、完全な天狗でもないというのに、ある日突然気まぐれにわたしをかどわかし、遠い京の都へ遥々連れてきた張本人は、悪びれもせず「私の弟子ですの」と洛中洛外を仰天せしめた。
我が熊本の誇る球磨焼酎目当てに遠い遠い九州の地へ舞い降り、碧落へきらくをひらりひらりと飛んでいたお師匠さまこと弁天さまは、間抜けにも地に立ちぽかんと口を開け、呆然と「天女さま?」と呟いたわたしを見下ろして、それはそれは美しく微笑んだかと思えば、――そっと白い手を差し出し、そのまま、つい、と引っ張ってきてしまったのだ。

昔々お師匠さまも、更にお師匠さまである如意ヶ嶽薬師坊さまにそうして神隠し――もとい未成年者誘拐されたのだというのだから始末に負えない。
顛末を狸の矢三郎くんから聞いたときには、あなや天狗とはまともな人間関係ならぬ天狗関係を築けぬものなのか、と驚き呆れたものだ。
生意気にも面と向かって薬師坊さまにそう告げたところ、「たわけ、人間と一緒にするでない!」と一喝されてしまったけれど。
もあらばあれ、かくしてわたしは往年の絢爛豪華さを偲ばせる、海中に没したこの時計台へ引き籠もることになってしまったというわけだ、嗚呼。

しょき、しょき。
断続的にはさみの音が鳴る。
数時間前、弁天さまは、矢三郎くんのお父さんを食ったという悪名高き「金曜倶楽部」の忘年会へ出かけて行った。
わたしの知っている忘年会というものは、仲間たちで盛大に飲み食いしてその年の労苦を忘れる宴だと思っていたけれど、如臨深淵、ここ京都では違うのかもしれない。
予定より早めに、無言のご帰還を果たした弁天さまは、どんな年の忘れ方をしたのやら、無遠慮に問わぬよう耐えているわたしが自分自身を褒めたくなるような有り様だった。
お召しの黒いドレスはぼろぼろ、焼け焦げたざんばら髪は山姥のよう。

極めつけは、煤や泥に汚れた仏頂面。
弁天さまが歩く傍から凍っていく絨毯が、ぱきぱきと鳴る。
吐く息の白さにわたしが驚いていると、弁天さまは化粧台のスツールへ静かに腰かけた。
大きな丸鏡には、子供のような表情をした弁天さまが映っている。
霜の下りた椅子はさながら氷の玉座のようで、わたしは窓辺の小さな机から、小走りではさみを取ってきた。

寒い。
本当に寒い、けれど、いまの弁天さまに口に出して訴えることが出来るのなら、誰かやってみろというものだ。
わたしは無理です。
鏡台の前、かじかむ手をなんとか動かし、わたしは弁天さまの焼け焦げた髪を切り始めた――そしていまに至る。

悪鬼畜生共と遊ぶため奈落へ行った際ですら、いくら地獄の残り火を纏わせようともえも言われぬ芳香を漂わせていた弁天さまが、いまや髪の焦げた臭気に染まっている。
わたしは髪が焼けるとこんな不快な臭いがするものなのか、と驚いた。
その白藤色へ火をともしたなら、甘い藤か伽羅きゃらの香りが立ち上りそうなのに。

しょき、しょき。
口数の少ない、というか全くないお師匠さまに付き合って、黙って髪を切り落としていたわたしは、ふと思い至った。
手を止め、鏡越しに「弁天さま?」と首を傾げる。

「髪を切って差し上げるのは良いんですが、代わりにひとつ、お願いがあります」

交換条件を出すには、ちょっぴり遅すぎるタイミングだと理解はしていた。
足元にはとうに白藤が降り積もっている。
けれど幸か不幸か、柳眉をひそめて「なまえったら。そういうことは先に言っておくべきじゃないかしらね」という憎まれ口は、弁天さまからは返ってこなかった。
陶器の人形のような佇まいの弁天さまは、未だうんともすんとも言わない。

――人間である弁天さまよりも、もっともっと人間らしい人間であるわたしは、そろそろその沈黙がつらくなってきた。
いまなら夷川の阿呆兄弟のちゃらんぽらんな徒口あだぐちすら、歓迎できるかもしれない。
わたしが肥後国の出身と知ると、「あ、あの悪名高い船場山の……!」と恐れおののいていたから、狸界における我が故郷はそこそこな忌み地なのだと彼らのせいで初めて知ったのだ。
全国区の知名度を誇る、かの童歌のせいか。
はたまた、わたしが仇敵の下鴨家と懇意にしているためか。
こと金閣と銀閣は、まれに顔を合わせたと思えば、ただの人間でしかないわたしへ声を揃えて「やーいやーい、田舎っぺ!」と舌を出してくること、数知れず。
しかしながら、兄弟からけしからぬ暴言を投げ付けられたときには、静かに「あんたがたどこさ」と呪詛のごとく口遊くちずさんでやれば、借りてきた猫――失敬、狸のように大人しくなってしまうという塩梅だったから、そう芯から憎むということもまた難しかった。

くしゅん、とくしゃみをひとつする。
――ああ、弁天さまが美しい唇を開いてくださらないから、ひとりでつまらないことを考えてしまう。
狸のことを思いながら髪を切っているとバレてしまえば、たぶん、というより十中八九、弁天さまと出会って以来最低を更新せんばかりのこのご機嫌斜めっぷりへ、かかる歯止めも破砕してしまうもの、と分かっていたので、わたしは勝手に続きをしゃべることにした。
そのお願いというのはね、と、また手を動かしながら囁く。

「あの、お手間ですが、わたしの髪も切ってほしいなあって」

重たげな白い目蓋が上がる。
人形の瞳がようやくわたしを捉えた。
思えば、帰宅してからというもの、声どころか視線すら一度たりとも向けられていなかったことにわたしは気が付いた。
鏡越しに見つめ合う。
たったそれだけのことで嬉しくなってしまうのだから、わたしのお師匠さまは、魅了の魔法をまず第一に覚えてしまったに違いない。

「だって、わたし、お師匠さまとおそろいの髪型にするために伸ばしていたんです。だから」

それはもう怠惰を絵に描いたような面倒臭がりなわたしが、日夜懸命にお手入れしていた我が黒髪は、ひとえにお師匠さまとお揃いにしたい、という馬鹿馬鹿しくもいじらしい乙女心によるものである。
これだけ彼女が短髪になってしまったいま、わたしが髪を伸ばす必要があるだろうか。

弁天さまには口が裂けても言えないけれど、あのひと――如意ヶ嶽薬師坊の二代目さまがいなかったなら、丁寧にくしけずることはあっても、わたしがこうして御髪を切り落としてしまうことなんて、きっと一生なかっただろう。
その点においては、わたしは二代目に対して感謝の念・・・・を抱いていた。
賀茂川の桜たちを散らし、「なまえ、寝床を整えておきなさい」とだけ言い残して、ふらっと弁天さまが世界一周へ旅立ってしまった春。
恋焦がれる気持ちは薬師坊さまには負けてしまうかもしれないけれど、わたしも健気に指折り数えてお帰りを待っていた。
もしかしたら、今日にもふらりと帰ってくるかもしれないと思うと、お天気が良い日は必ず洗濯をして寝具を干すという、ものすごく殊勝な日々を送っていたのだ。
そんなわたしの健気っぷりを憐れんでくれたか、たまに狸の矢三郎くんが船を漕いで訪れては、なんの毒にも薬にもならなぬ四方山話よもやまばなしに興じてくれていた。

――わたしも連れていってくれたら良かったのに。
ひとりそう溜め息をついた夜は、両の手どころか足の指を勘定に入れても足りやしない。
釣った魚にはちゃんと餌を与えてやるもんだ、とわたしが憤慨している間、まさか旅先で「二代目」と邂逅していたなんて、どんな天の配剤か。

わたしの足元で、ぱき、と凍った絨毯が不満を訴えた。
もう少しの辛抱よ、と絨毯と自分自身へ言い聞かせ、寒さにふるえる指先ではさみを置いた。
大ぶりの化粧ブラシで、ぽふぽふと頬や首筋をはたいて細かい毛を落とす。
ほんの少し俯いた弁天さまは、傾国のうなじを惜しげもなくさらしていた。
白磁の肌は、もしも爪弾いたら、ヒビが入って粉々に砕け散ってしまうだろう。

そっと、白藤の頭を撫でる。
――前述したこと以外のすべて、一切合切――わたしは、二代目を心の底から恨んでいた。
憎んでいた。
感謝と憎悪の気持ちとが、空と海の果てのように混じり合っていた。
無論、ただの人間であるわたしは、学童たちの集う学び舎で地学やら天文学やら最低限は学んでいたので、どこまで船を漕いだとしても海は空とは混じらないし、海の色が空の反射によるもの云々ということは知っていた。
それでもガラス窓越しの凪いだ海は、空との境い目をなくして静かに微睡んでいる。

「お願いします、弁天さま」

凍えながら、鏡越しに嘆願する。
わたしは、美しいものを損ねる喜びについて考えていた。
美しい白藤色の髪へ火をともしたとき、二代目は喜んでいただろうか。
楽しんでいただろうか。
そうだといいな、と思った。

――来し方、「なまえ、あなたは狸みたいに考えが浅くて、天狗みたいに傲慢ね」とは、お師匠さまの言葉だ。
ただの人間を遥か彼方の地からかっ攫っておいてのこの言は、甚だ遺憾だし反論したいところは大いにあるけれど、髪が短くなろうと、天狗になろうと、やはりこのひとは大層美しかった。
いくらわたしが修業しようと、このひとのような超然的なものには到底なれそうもない。
いずれ菖蒲か杜若――薬師坊さまのご慧眼はまさに天女を見出した。

「……まったく。手のかかる」
「ほんとに。ごめんなさい」

さらさらと灰が落ちるような弁天さまの囁き声は、今夜の月に大層相応しく、悲しくなるほど美しかった。
そのまま月夜へ溶解していくよう。
いま、わたしもこの夜の一部なのだ、という自覚は、ともすれば涙がこぼれてしまいそうなほどの喜びをもたらした。
――鏡に映る自分の顔が、ずうっとにんまりと笑んでいたことに、この段に至ってわたしはようやく気付いたのである。

果ての方で、雷さまの音がした。
ああ、嵐が来てしまう。


(※タイトルはオペラ・ブッファ『フィガロの結婚』のアリア、モーツァルト『恋とはどんなものか』より)
(2020.05.15)
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