「おはようございます、ジョー。よく眠れました?」

午前八時。
私の分のティーカップを温めながら、なまえが微笑んだ。
よれよれの寝ぼけ眼で浴びるには、完璧にこしらえられた少女の笑みはちょっと眩しい。

もごもご「おはよう」と返しつつ、私は着慣れてくたくたのナイトウェアにさよならする日がとうとう来てしまったことを知った。
なまえが着ているのは同じ方向性の衣類のはずだったが、どう見てもハイブランドのナイトドレスは、もし私が着ようものなら、値段が気になってちっとも寝付けやしないだろうし、そもそもシワがつくことを恐れて大事にクローゼットの一番上等なハンガーに吊るしっぱなしという憐れな運命を辿るに違いない。

そこで私は、最早見慣れてしまった、カウチに横たわっている白雪姫の姿がないことに気が付いた。

「……あれ、シャーリーは?」
「シャーリーが“起きる”にはもう少しかかるでしょう」

芝居がかったなまえの言い回しにももう慣れた。
歌うように「We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.」と続いた言葉は、さすがに我が英国の誇る文学者のものだと知っている。

「良かった、昨夜はベッドで寝たんだ」
「わたしが希望すると、寝室に連れていってくれるんです。寝室まで辿り着ければ、カウチよりベッドの方が睡眠に適していると、シャーリーも理解はしているようで」

十回に一度くらいの頻度ですが、となまえが苦笑する。
どうやら彼女もシャーリーの睡眠スタイルには、諸手を挙げて賛成という訳ではないらしい。

そういえば同じ屋根の下に住んでいながら、こうしてなまえとふたり一対一で顔を突き合わせるのは初めてだった。
大抵、彼女の横には「飼い主」がいるものだから。
ミスター・ハドソンが運んできてくれた寝起きにぴったり、濃いめのミルクティーを嚥下して一息つくと、俄然、目の前の少女への興味が湧いてきた。
とはいえ、朝っぱらから突然「どういう顛末でいまここに?」なんてストレートな質問をぶつけるのはどうなんだろう。
なまえは大人しくロイヤル・アルバートの花柄を眺めている。
いかにして口火を切ろうかと悩んでいると、配慮はあるものの視線の不躾さまでは気が回せなかったらしく、ふとなまえが顔を上げて微笑んだ。

「……ご質問があるなら、みっつまでお答えします。ジョー」

少女――と呼ぶにはとうが立っているらしいが、やはりそう形容したくなってしまう。
可愛らしいラインを描いたまるい頬で、なまえは押し付けがましくない程度に私を促した。
年下の女の子に気を遣われてしまった。
――いやそんなことより、

「なんでみっつ?」
「秘密をいっぺんに明かしてしまうと、楽しみがなくなってしまうでしょう? またこんな機会があれば、他の質問にも答えます。一緒に生活していれば、機会なんて、いくらでも」

悪戯っぽい表情で、なまえは肯定を求めるように小首を傾げてみせた。
私は「うーん」と唇をひん曲げた。

「言いたいことはなんとなく分かるけど……。一度気になり始めると、他のことに手が付かなくなるんだよね。性格的に」
「でも、他のことに集中しだすと、それもお忘れになるでしょう? ミスター・ハドソンが不在の際、コーヒーを飲もうとお湯を沸かしているときに、モバイルのメッセージの返信に気を取られて煮え立つポットのことを失念してしまったように」
「なんで知ってるの……」
「火を止めたのはわたしです」
「それはごめん」

言われてみればそんなこともあった。
危うく同居開始数日にして、火事でこの221bを失ってしまうところだった。
有能なる電脳家政婦ことミセス・ハドソンがいる限り、大丈夫だろうとは思うが。
なまえの言っていることは一から十まで正しく、完全にこっちの不注意である。

ごほん、とわざとらしく咳払いをし、「じゃあ、ひとつめの質問」とぴっと人指し指を立てた。
なまえも律儀にロイヤル・アルバートのカップを置き、「なんでしょう」と居住まいを正した。
出会ったときから変わらない、穏やかに晴れた日の木漏れ日のような心地の良い声音だ。

「いろいろ聞きたいことはあるけど……えっと、まずは、なんで君はシャーリーのところに?」
「“なんで”、という言葉には、広い意味が含まれますが……。ドクター・ワトソン、“Animal Assisted Activity”、通称AAAにおける効果についてはご存知でしょうか」
「え? ああ、アニマルセラピーってやつでしょ? PTSDの治療としても利用されてる。こう言っちゃなんだけど、帰還兵にはありふれた話ではあるよね。そういう紹介とか案内とか、私のところにも来るもん。私はセラピーには通っていないけど……。専門じゃないから詳しくはないけど、小児科でも利用されるって聞いたことがある。動物とふれあうことで、情緒を安定させたりQoLを向上させる……ってやつだよね」
「そういうことです」

どういうことだ、とツッコミたかった。
とはいえこれでも一朝一夕どころか数日ほど生活を共にしているニートの居候――もとい同居人であるところの私は、なんとなくニュアンスは掴めた。
要はシャーリーの情緒やら生活能力を安定、向上させるために、なまえはいるらしい。
私はミルクティーで唇を湿らせながら、うろうろと視線をさまよわせた。

「ってことはだよ。発案者はシャーリーじゃないでしょ。彼女は自分からそういうものを求めようとするタイプじゃない」
「ええ、おっしゃる通り。わたしはシャーリーの姉の、ミス・ミシェール・ホームズによってプレゼントされました。セント・パトリックス・デーの贈り物に」
「……ホームズ家では、記念日に人間をプレゼントしあうしきたりでもあるの?」
「いいえ、そんなことは。人身の売買や貸与は、およそプレゼントには不向きだと思います。一般的に非合法なことが多いのでは?」

わざわざこっちの常識度を計りかねるような怪訝な顔をしなくても、「そんなこと知ってる!」と私は叫びたかった。

「じゃあ、次の質問ね、」
「いいえ、ジョー。質問はこれでおしまいです」
「えっ! だって君、みっつって言った!」

非難の声をあげると、なまえは駄々っ子を見るような困った顔でゆっくりと首を振った。

「シャーリーとわたしの関係、ペットを飼うことになったきっかけ、ホームズ家における慣習について。みっつ、あなたの質問には答えましたよ」

う、と私は唇をつぐんだ。
確かになまえの言うことは正しいかもしれないけれど、それは詭弁ってやつではないのか。
話の流れ的にさあ、ともごもご言いよどんでいると、とうとうなまえの飼い主が現れた。

「おはよ、シャーリー。今日はいつもより早いんだね」
「……おはよう、ジョー」

シャーリー・ホームズ。
雪のように白く、血のように赤い麗しの白雪姫は、今朝は少しご機嫌斜めらしい。
なまえはやわらかく微笑んだ。

「おはよう、シャーリー」
「なまえ、どうして僕が起きたとき、ベッドにいなかったんだ」
「ごめんなさい、あなたが起きるまでまだ時間がかかると思って」
「シーツが冷たかった」
「あらあら。いつもカウチで眠るときはそんなこと気にしないのに?」

まるで「昨夜は熱い夜をお過ごしでしたね」とでもヤジを飛ばしてやりたくなる会話である。
ちなみに私は同居二日目にこのセリフを吐いた。
しかしながらシャーリーのこの抗議は、お気に入りの毛布がなかったからぐずる子どものようなものなのだ。
なまえもなまえで、至極真っ当に「ひとりで寝てろ、アラサー」なんて口汚いことをぶちまけるでもなく、従順なペットに相応しく「シャーリーもミルクティーがいい? ミスター・ハドソンにコーヒーをお願いする?」とお伺いを立てる始末だ。

――まだ見ぬシャーリーの姉、「マイキー」とやらに私は詰問してみたかった。
お宅の情操教育、失敗してませんかね、と。

「ピンク色の四つの死体」という不可解な事件を引っ提げ、なまえとミセス・ハドソンに子守を押し付けにきたグロリア・レストレード警部が221bを訪れたのは、この数十分後、五段積まれたハニーケーキをシャーリーがぺろりと平らげた直後のことだった。


(2021.05.10)
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